野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2009年08月

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連載No92の続きです。
明大では4.12駿河台学生会館への機動隊乱入事件をきっかけに、学内の情勢は緊迫し、4月から5月にかけて大学側と学生会(吃堯法学苑会(局堯砲箸涼銚鬚相次いで行なわれた。
団交の中で、学生側は「学校権力の粉砕と学生の手による学園の再編」「実力闘争による中教審答申、大学立法粉砕」などを掲げ、全共闘運動による実力闘争を宣言。
6月9日、「大学立法粉砕と六項目要求」というビラを明大全共闘連絡会議の名で発行した。
このビラの中で、5月15日に出された学長の大学立法反対声明を批判し、
『大学は「社会」を変革し「未来社会建設」のためにこそ「奉仕」しなければならず、あくまで「現状変革」の拠点でなければならない。
そのため、あらゆる抑圧され、差別され、搾取され、苦しんでいる大衆のための「開かれた大学」でなければならず、学問はそうした大衆の解放のためでなければならない。
帝国主義者の政治=経済政策が個別資本明大において実現されており、その執行者が他ならぬ大学自治の担い手=教授会であることを明らかにした。
学長を先頭とする中教審批判が、単なる「法制化」に対する反対にすぎず、「開かれた大学」は政府当局のいうそれと同じであることが明らかになった。
教授会の「自治=自主規制路線を粉砕し、教授会の自治に基づく中教審大学=明治大学を告発する闘いとして、六項目要求の闘いがある。』として
四大スローガンと六項目要求を掲載した。

<四大スローガン>
1 70年安保粉砕、11月佐藤訪米実力阻止!
2 大学の帝国主義的再編=大学立法、中教審答申粉砕!
3 全国学園闘争勝利!
4 学館寮農学部闘争勝利!
<六項目要求>
1 学生部廃止
2 処分撤回
3 農学部の帝国主義的再編粉砕
4 寮の完全自治権獲得
5 学館の管理運営権獲得
6 健保の赤字全学学校負担

この四大スローガンと六項目要求を掲げて、全共闘結成から全学バリケード・ストに向けた動きが加速していく。

一方、政治課題として「大学の運営に関する臨時措置法案」、いわゆる「大学立法」をめぐる闘いが全国で広がり、国会提出を前にした5月23日、全国で「大学立法粉砕統一行動」が行なわれ、集会は38都道府県、110ヶ所で開かれ、49,100人が参加した。(警視庁調べ)
東京では駿河台の明大記念館を拠点に反代々木系各派による街頭闘争が行われた。
(写真は毎日新聞から転載:明大記念館屋上から投石する学生)

【大学立法 全国的に荒れ模様 駿河台で警官と衝突】朝日新聞1969.5.24(引用)
『大学立法反対を叫ぶ反代々木系学生約3千人は、23日午後2時すぎから東京・神田の駿河台―御茶の水駅にかけての明大前通りを中心に、路上にバリケードを築いて夕方まで機動隊と激しい衝突をくりかえした。
学生の投石と機動隊のガス弾の応酬で、この一帯の交通は完全にマヒしたが、午後7時ごろ平静にもどった。この騒ぎで学生ら37人が公務執行妨害、凶器準備集合などで逮捕された。
この日、学生は明大記念館を拠点にし、各派が午後2時ごろから同館近くに集まり、それぞれ集会やデモを行なったあと、館内からイスやつい立てを持ち出して道路にバリケードを築き、路上いっぱいにデモをくりかえした。
警視庁は庁内に総合警備本部を設け、約4千人の機動隊を出動させ規制にあたったが、学生はバリケードに放火したり、投石して激しく抵抗した。
5時間近い学生と機動隊の衝突で、明大前通りはヤジ馬と一般学生でびっしり。衝突のたびにヤジ馬も大きく揺れた。学生たちは最後に拠点の明大記念館にもどり、集会のあと機動隊の包囲網をくぐるようにして、ばらばらに逃げた。(後略)』

明大記念館屋上に鈴なりになった一般学生とヘルメット学生の上を催涙弾が白煙を上げて飛ぶ様子や、明大前通りを激しくジグザグデモをする隊列など、この時の写真が「大学闘争70年安保へ」浜口タカシ写真報道(1969年)の中で見ることが出来る。

この日、私は和泉校舎から学館運営委員の社学同K氏と一緒に御茶の水へ向かった。御茶の水駅を降りると、すでに衝突は始まっており、強烈な催涙ガスの臭いで目がショボショボに。路上にはヤジ馬がぎっしり、石がゴロゴロ。
あたりを見渡しているうちにK氏は警察の通行規制のロープをくぐり、催涙ガスで煙る駿河台方面へスタスタと行ってしまった。私もあわててK氏の後を追って駿河台方面へ・・。

(つづく)

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前回に引き続き「反戦のための万国博」、いわゆる「ハンパク」の様子を朝日ジャーナルの記事から紹介する。(写真は朝日ジャーナルから転載)

【予言的な小さな大実験 ハンパクの5日間】朝日ジャーナル1969.8.24(引用)
『<デモをめぐって>
ゆっくりとした大衆的思考の発展にそって、第2のハプニングが起り、徹夜の討論をへて、ふたたび緊急集会が開かれた。
ことはふたたび「事務局」の一方的に発表した最終日11日夜の「10万人御堂筋デモ」のスケジュールをめぐって論じられた。
第1艇団は学生、労働者のいわゆる「強いさん」部隊、第2艇団は「フツウの人部隊」、第3艇団は市民、機動隊を一視同仁、花を配る「フラワー部隊」、第4艇団はフォークを中心として道ゆく人の参加を誘う「後に続くを信ず部隊」。
批判者たちも、この艇団の組み方そのものに異存があったわけではなく、むしろそれが大衆的討論をへずに一方的に流されたことを問題とした。(中略)
そしてせっかくの羽仁五郎老を招いての講演会も中止してふたたび緊急集会。
くりかえし執拗な批判者となったのは、ベ平連そのものを生み出した
「声なき声の会」および日大全共闘など一部の人びとであったが、その声はかならずしも会場の、ごく少数だけを代表しているとは思われなかった。
批判者の主張はこうだった。
「いませっかく5日間の活動をへて、ようやく盛り上がりを見せつつあるときに、あらためて“ハンパクとは何か、われわれはなぜデモをするのか”についての議論を深めることなく、予定があるからといってデモに流されていくのは、一種の欺瞞ではないのか」
そこにはまた「何よりも量を」というベ平連の暗黙の方針に対する疑問もあった。
ベ平連の大衆主義が、低きにつく大衆追随主義でないことは、この運動の軌跡を知る者の目には明らかだった。
だから吉川勇一氏は、「ヘルメットをかぶりゲバ棒をもつデモを最高形態とし、何もしないデモを最低形態として、ベ平連は、より多くの人を集めるために何もしないデモを計画するといったことはしていない」と反論したし、関西べ平連の山本健治氏は、「私たち自身、まず量をと考えて行動してきた。
しかし、7月20日、梅田駅地下街にすわり込み、固くスクラムを組んで、“警官帰れ”とシュプレヒコールをあげる以外には何もしないという非暴力直接行動による抵抗に、その集まった量がどの程度耐えられるかの自己実験をした。全員が4・5回のゴボー抜きに耐えた」とその実験を説明した。
だが他方、鶴見俊輔氏は「ベ平連は一種の“手づくりの運動”として出発した。そして今では、大きな花火をうちあげて大衆を集める実力をもつようになった。
いまでは、ベ平連は、全国でおそらく100万の動員力をもっているだろう。こうした大衆主義は、一種の自己欺瞞、悪をふくんでいる。
べ平連といえども、その悪をまぬがれることはできない。
そのとき、ベ平連の原点に残されている手づくり運動部隊は、大衆主義の悪の解毒剤として作用するだろう」とも論じた。
こうして「デモのスケジュールに流されるな。ハンパクの意義、デモの意義について論じようという声がくりかえしあがった。』

ベ平連は当時、ここに書かれているように、おそらく全国で数十万近い動員力を持っていただろう。
政治的にはいかに「量」を増やすか、という方向に流れていきやすいのだが、「量」を増やすことが孕む問題をどう自覚し、闘争の「質」をどう高めていくのか、「ハンパク」でのデモをめぐる問題提起は、それを問う作業だったのだろう。

『<自己への闘い>
千人を超える人びとが大テントのなかで熱っぽい議論をつづけるうちにも、デモ出発の時は刻々と迫った。シュプレヒコールの声が騒々しくいりかい、「友よ、夜明け前の闇の中で・・・」とフォークがきれぎれに聞こえた。結局、デモに行きたい人は出発し、議論をつづけようという人が残った。
テントの人数は、200人ほどに減り、日ざしもかげって、熱っぽさはうすれ、人びとは、ゆっくりと自分の経験や心情を語り始めた。
他方、デモのほうも「最低3万人」という主催者の予想どおりの人数を集めて、御堂筋まで6キロの道を歩き通した。
たしかにここには、大衆への量の拡大と、少数の質の維持との矛盾が露呈されていた。(後略)』

前回書いたように、私は日大全共闘のヘルメットを被って最終日の御堂筋デモに参加した。
8月のデモは暑くて大変、解散地点の公園では水のみ場に参加者が群がり長蛇の列。私もようやく順番が来て、最初に頭に水をかけ、ヘルメットに水道水を入れてそのままゴクゴクと飲む。
近所の自動販売機も品切れになり、牛乳店のおじさんが閉まっていた店を開けて牛乳やジュースを売っている。さすが大阪、商売根性が違うと感心。
当然のことながら、日本万国博覧会(EXPO‘70)には行っていない。
(終)

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前回に引き続き「反戦のための万国博」、いわゆる「ハンパク」の様子を朝日ジャーナルの記事から紹介する。(写真は朝日ジャーナルから転載)

【予言的な小さな大実験 ハンパクの5日間】朝日ジャーナル1969.8.24(引用)
『(前略)たとえば会場の模様を大阪版「朝日新聞」(8月9日)はつぎのように描写した。

【高校生が赤いタコをあげていた。「高くあがるほど、革命の日が近づく」。
ヘルメットの学生が佐藤さんの首つき人形をけとばした。1回10円。ボール箱のなかに10円玉が7枚。
ハンパク座で白雪姫のエッチなせりふに観客が笑いころげた。
フーテンがボロぎれをからだにまきつけて歩いている。
少女がタイコをたたいて踊っている。
ゴムぞうりの男が花火を鳴らして、叫んでいる。
公害を告発するパネルには「わたしたちの体内には、毎日60種類から100種類もの毒が入りこんでいる」と書いてあった。バイ煙、ガス、有毒色素などだ。
基地反対闘争のパネルには、催涙ガスの傷害写真が・・・。】

あふれ出るエネルギーを描写しつくすにはこれだけではじゅうぶんではない。
おりしも開かれている甲子園の全国高校野球選手権大会もまた、若者のエネルギーにあふれていたのだ。
甲子園とハンパクのちがいは、前者がすべてゲームのルールに秩序づけられていたのにたいして、後者では、あらゆる反戦、反権力、現状告発のエネルギーが無秩序にぶつかりあっていたことだ。
ハンパク市民大学で「科学と戦争」「現代の構造」「反戦と変革」「思想と行動」「文学と情念」「歴史と現実」などが連日論じられるテントの会場には、ほとんどたえずフォークやどこかしらのスピーカーの音が流れこんでいた。
「週刊アンポ」が売られ、反戦占いがひかれ、反戦手相が見られた。
東京声なき声の会が60年安保以来のその活動を、スライドとテープで解説しているかたわらには、パチンコ反戦、ホステス反戦ののぼりが立っていた。(中略)』

ホステス反戦は記憶にある。ホステス風のドレスを着た女性が1人で「ホステス反戦」と書かれた旗を持って会場内を歩いていた。
ホステスさんのグループではなく、個人の意思表示という意味合で旗を掲げていたのだろう。
そのようなグループが会場内には大勢いた。

連載93の「万博破壊共闘派」も、会場内で「儀式」を行なっていたようだ。
写真集「ゼロ次元 加藤好弘と60年代」(平田実・2006年河出書房新社)には、その時の写真が掲載されている。
「万博粉砕万博破壊共闘派」という横断幕を背に、万博破壊という文字を書いた羽付のヘルメットを被り、サングラスにマスク、裸で「わいせつ物」と書いたふんどしを付けて右手を掲げている様子が写っている。

この「ハンパク」会場には日大全共闘のテントもあった。
会場には日陰もないので、このテントの中で休ませてもらった。農獣医のSさんの紹介もあり、すんなりとテントに入れてくれた。
また、最終日の御堂筋デモの時には、農獣医のヘルメット(黒のツヤ消しに白文字で全共闘、後ろはN)も貸してくれた。

引き続き朝日ジャーナルの記事を紹介する。
『<ホットドック事件>
組織よりも運動を強調するベ平連らしく、ハンパクの会場は、いくつかのハプニングに彩られた。
ホットドック事件。4日間で合計6万人の参加者を集めた(ハンパク協会発表)会場の食料調達は、主として参加者自身が経営した協会協力店によってまかなわれたが、そこには何軒かの移動ホットドック店も見られた。
8日夕方、このホットドック屋を排除するために、7人の制服警官が会場に入り、発端となった。
その警官を導入したのは、ハンパク関係者の西川と名のる人物であったらしい。
ただちに事務局にたいする追及がはじめられ、以後3日間にわたるその論議は、いかなる催し物にもまして、人びとの参加を集めた。
9日のハンパク市民大学は、講師をそっちのけにして、追及集会に切替えられたが、こうした転換の自由さがいかにもベ平連らしく、講師もまたその討論に加わっていた。(中略)
討論は紛糾した。ホットドック屋排除の第1日の決議は、第2日には、同じ参加者の手によってくつがえされ、同じ働く仲間として会場内における営業が認められた。
もちろん事務局は、その手続き上のミスを自己批判した。(中略)』

移動ホットドック店も見かけたが、客も殆どなく、手持ち無沙汰にしていた。
会場内でどんな食事をしたのか、さすがに記憶にないが、ホットドック食べたかな?

(つづく)


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ホームページのエピソード1969の中でも書いたが、40年前の1969年8月7日から11日まで、大阪城公園で「反戦のための万国博」、いわゆる「ハンパク」が開催された。
「ハンパク」とは?(写真はシンボルマーク)

【万国博の向こう張って】毎日新聞1969.5.5(引用)
『「反戦広場や市民大学 ベ平連など8月「平和と解放」の催し」
ANPO70 ―来年3月に開幕する日本万国博(EXPO70)に対抗して「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)が中心となって開こうという「反戦のための万国博」である。
安保の年、70年に「ゲバ棒でなくユーモアと創造精神でニセ文化の万国博を打倒しよう」というねらい。
“本物”に先立って、こちらは今年8月、3万3千平方メートルの大阪城公園を舞台に多彩な催しを繰広げるが、すでに万博協会をもじった反博協会(代表・山田宗睦桃山学院大学教授)も結成され、30日には大阪・中之島の中央公会堂に2千人を集めて反戦のシンポジウムを始めるなど、準備は“本物”並に急ピッチで進んでいる。(後略) 』

私が参加していたノンセクト闘争委員会、414B統一戦線のN君が大阪出身で、8月に大阪に帰るので、「ハンパク」に一緒に参加することになった。
ただ、5日間参加したわけではなく、最後の数日間だけだったと思う。
初日の様子が新聞に掲載されているので紹介する。

【反戦のための万国博 われらはハンパク】毎日新聞1969.8.8(引用)
『“反戦”“反安保”をモットーに万国博の向こうをはったハンパク(反戦のための万国博)が7日午前11時から大阪市東区の大阪城公園で5日間の日程で幕を開いた。
北海道から沖縄まで、全国各地から集まったベ平連、反日共系各派全学連、フォーク・グループなどの若ものたちは男女約2千人。
催し物の会場となる3つの大テントをはじめ「人民裁判法廷」「夜間中学」などのパビリオン、それに宿泊用のテント村、売店などが、炎天下にところ狭しと並ぶ中で、午前11時から入場行進。
行進の若者たちは、ヘルメット、麦わらぼうし、上半身はだかなど思い思いだったが、万国博マークの旗に火をつけて焼くなど、ハプニング続き。
開会式には作家の小田実、反博協会代表の山田宗睦さんらも姿をみせ、「国家からお仕着せのバンパクをはねのけて、われわれ自身のハンパクを成功させよう」とあいさつした。
式の最中に、九州大学構内に墜落したファントムジェット戦闘機の残がいの一部が運び込まれ、盛んな拍手を浴びた。(後略)』

大阪に行ったのはこの時が始めて。
大阪に着いて大阪城公園の近くの喫茶店に入り、暑いので「アイスコーヒー」を注文しようとしたが、メニューに「アイスコーヒー」がない。
迷っていると、N君が大阪では「アイスコーヒー」を「コールコーヒー」と呼ぶことを教えてくれた。
そこで注文、「コールコーヒー1つ」。

この「ハンパク」の様子は朝日ジャーナルに詳しく載っているので、3回に分けて紹介したい。
【予言的な小さな大実験 ハンパクの5日間】朝日ジャーナル1969.8.24(引用)
『『<まるで異郷>
「反戦のための万国博」略して「ハンパク」炎天下の大阪城公園で、8月7日から11日まで開かれた。
これを主催したのは、関西ベ平連が中心となって結成したハンパク協会。参加したのは、全国の200を越えるベ平連系の運動、そのなかには、各地域ベ平連、大学べ平連以外に、家永教科書闘争を支援する会、任錫金氏を支持する会、ハンセン氏病患者のアフタケア組織を自発的に推進する「むすびの家」など特定の問題と取組む運動もふくまれている。
この戦後日本でもっともユニークで自由な反戦運動については、かねてから相応の予備知識もあったし、その活動家たちの文章も読んできた。
しかし聞くと見るとでは大違い。それはまさに“小さな大実験”であったのだ。
大阪城公園のほとんど砂漠に等しい広場に設置されたハンパク会場は、奇妙な熱っぽさに包まれていて、それはとうに「アンチ万博」の概念をはみ出していた。
ヒッピー、BG,高校生、青年労働者、ヘルメットにゲバ棒の全共闘系大学生、そこにはあらゆる種類の若者の姿があった。
もちろんなかには、70歳の日雇労働者や婦人民主クラブあたりのオバサンの姿もあったのだが、若者たちの見せる“狂気と乱雑さ”の前では、いささか影をうすくしていた。
「まるで異郷へきたみたい。わしの息子には、あんな汚いまねはさせられん。しかし、なんとなく考えさせられる。PTAの役員さんに、一度見物してこいとすすめたい。」とある年配の“見学者”は語っていたが、たしかに世の年長者は、一度ここを見てしかるべきだった。(後略)』

(つづく)

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