野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2009年09月

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新宿ゴールデン街に「ひしょう」という店がある。
「全共闘白書」の呼掛け人の1人でもあった長谷百合子さんの店である。
長谷さんは、元お茶の水女子大全共闘であり、1990年、日本社会党から衆議院選挙に立候補して当選した経歴を持つ。

9月上旬、日大全共闘文理学部闘争委員会のK氏(通称「ごりさん」)とN氏とともに、この店を訪れた。
急な階段を上って店に入ると、まだ時間が早い所為か客はいない。
店の隅の席に座って「いいちこ」のお湯割りを注文する。
飲み始めると、藤圭子の歌「夢は夜ひらく」が流れてきた。
やはり新宿にはこの歌だな。
N氏が日大全共闘写真集を見たことがないというので、この日、カバンに入れて持ってきた。
重たい写真集をカバンから取り出してN氏に渡す。
N氏がパラパラと見ていると、K氏が「芸闘委の写真が多いけど、後半の戦闘シーンには知っている人が写っているかもしれない」と言う。
この様子を見ていた店の人が「日大全共闘の写真がありますよ」と言って、写真パネル(筆者撮影)を見せてくれた。
日大全共闘文理学部闘争委員会のタイトルの白黒写真である。
K氏とN氏は写真を見て、「メットを被り始めた闘争初期の頃のものだろう」と言う。
叛バリにも載っていない写真、「この店になんであるんだろう?」と思いながら写真をパチリ。

N氏
「日大闘争は他大学と違って1回負ければそれで終わり。行くところもない、帰るところもない、全員血祭りにあげられる。だから皆、必死に闘った。」
K氏
「闘争をやっていなければ世界は狭かった。世界は文理学部の同学年の範囲だっただろう。闘争によって学年、学部、大学の壁を越えたつながりできた。
 我々が闘争をやったことによって、当時とは違う今日の日大があると思う。」
日大闘争についての話が続く。

K氏もN氏も亡命政権があった明大和泉の新学生会館の地下にいたとのこと。1969年4月からは、新学生会館1階の運営委員会室の受付に私がいたので、当時、和泉校舎内のどこかで顔を合わせていたのではないかと思う。
3年前、明大和泉校舎を訪れ、新学生会館が健在であることを発見し、旧友に逢った時のように懐かしく、また、うれしくなったことを思い出した。

K氏はノンセクトだったので、その意味を聞いてみた。
K氏
「ノンセクトは個別にこだわることだ。それが日大闘争の原点。」
日大だけでなく私が居た明大でもそれは同じ。政治闘争に関わっても、それに流されることなく、今いる場所で闘争を続けること、それがノンセクトの信条だろう。

この日の会合はN氏の呼掛けによるものだが、N氏はこんなことを言っていた。「日大闘争の総括というような格好いいものではなく、生き様を語る。」
「あの時代」を語るのには、新宿ゴールデン街の店があっているのかもしれない。「いいちこ」2杯目には、すでに3人とも酩酊状態(その前に他の店で生ビール2杯飲んでいる)。
私の記憶もこの辺でおしまい。

最後に、この店の長谷さんが「全共闘白書」の中で呼掛け人になった理由についてこんなことを書いている。
【全共闘白書】(引用)
『”子供のころに戦争があった”ではありませんが、私たちの学生時代には全共闘運動がありました。
積極的に参加した人も、なんとなく巻き込まれた人も、けっきょくはその渦の中で、能天気に行動し、深刻ぶって考え、こっけいな失敗のエピソードを繰り返しながら、最後には随分つらい思いもしました。
あの運動のお陰で、所定の人生とはかなり違った生き方をしてきた人も多いでしょう。
学業、就職と多くの苦労をされた方もいると思います。(中略)
反省しているわけではないが、肯定する気もない。それが素直な気持ちです。
さりとて「目的はよかったが、手段がまちがっていた」というような総括に与するわけにはいきません。
とにもかくにも、20数年の月日が経ち、いつの間にか40歳も半ばを過ぎ、それぞれの場所で責任をもたざるを得ない立場に立ってしまっています。
だからこそ、いま、何を考え、何をしようとしているのか、何を好ましいと感じ、何を拒絶するのかをみんなから聞きたいと思いました。
私たち世代が未来に何を残せるのか、今の社会にどう貢献できるのかをアンケートの中から探してみたい。それが呼掛け人になった理由です。』

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前回に引き続き、東洋大学の闘争の様子を紹介する。(写真は東洋大新聞から転載)

東洋大新聞によると、東洋大には全学闘と全共闘という2つの組織があったが、全学闘(第四インター系)結成の様子が新聞に掲載されている。
【全学闘結成す 反帝闘争の実力部隊】東洋大学新聞1969.9.24(引用)
『全学闘(準)は、22日10時から約100人の実力部隊を結集させ、正式に全学闘を結成した。
全学闘は、ロックアウトの本質を国家権力が個別大学資本を組込む一過程であるととらえ、ロックアウト粉砕を戦略方針としつつ、佐藤11月訪米阻止、70年安保粉砕の闘いを押し進める方針である。
これと同時に20日、脅辧↓儀个それぞれスト権を確立し、2号館封鎖闘争に突入した。また、擬劼皀好噺△虜導稜Г20日の総会で確立し、試験実力阻止、脅匯抉腓諒?砲魍稜Г靴討い襦
だが、全学闘は、これらの動きに対して昨年の4項目闘争の個別性を止揚していないと批判している。
なお、全学闘は、22日午後1時から全学バリケードに突入した。
全学闘(準)は、22日、10時から2号館前で、結成大会を開き、1.18-19東大闘争が切り開いた反帝実力闘争を担う部隊として全学的な統一戦線として全学闘の結成が必要であることを述べ、大衆的に登場することを確認した。
集会では8月以降のロックアウト攻勢と、東外大、教育大にみる機動隊常駐が、現在的な大学をとりまく状況であるとし、私学個別資本の背景には、明確に総資本がひかえ、本学における13日の中現闘、哲行委の鉄柵撤去の機動隊導入、外語大における試験中の機動隊導入は、それを明確にしていることを確認した。
更に、ロックアウトを粉砕していく戦いは、明確に国家権力と対峙する対権力闘争として発展させていかなければならないことが語られ、本学を中心とした北部地区(東外大、教育大、日大芸術、立教大、お茶大)全共闘連合の実体化が、対権力闘争の実力闘争の部隊として登場することが確認された。(後略)』

1969年9月30日、日大法経奪還の実力闘争が神田駿河台で展開されたが、東洋大でも、それに呼応した闘いが行なわれた。
【白山通りに街頭バリ 日大奪還と呼応して】東洋大学新聞1969.10.26(引用)
『全学闘は、9月30日午後1時2号館前で、9.30日大奪還闘争全学総決起集会を開き、日大奪還闘争をスケジュール的にカンパニア闘争として位置づけるのではなく、全学闘を全国全共闘・北部全共闘の一翼をになう部隊として登場させ、対権力に向けた実力闘争を展開していかなければならないことを確認した。(中略)
午後6時15分から角材、ヘルメットで武装した全学闘、早大文学部闘争委員会、東京外国語大全共闘の約250人が武装行動を開始し、白山通りに街頭バリケードを構築した。』

69年9月から10月にかけて、バリケード・スト中の大学に相次いで機動隊が導入された。
大学立法施行後の状況の中で、10.21国際反戦デー、そして11月の佐藤訪米阻止闘争を控え、警察と大学当局が一体となったロックアウト攻勢が続くことになる。

【機動隊を導入 ロックアウト続く】東洋大学新聞1969.10.26(引用)
『全学闘、全共闘、二部社自、経営は1.7号館を除く全校舎を封鎖していたが、3日未明、大学は授業再開と学内正常化を理由に機動隊を導入し封鎖を解除し、11月3日までロックアウトを行うことを発表した。
また、大学は白山校舎のロックアウトの理由を9月30日の全学闘の日大奪還闘争支援のカルチェラタン構築のさい、白山校舎を拠点として闘ったこと、10.21国際反戦デーの北部地区全共闘の拠点校になるのを回避するのと、機動隊導入での学内整備を行なう目的とした。
また、18日には大学当局からロックアウト明けの学内「平常維持」のため各学生に誓約書が配布された。これは日大、駒大、教育大に次ぐ自主規制、学内整備化の一環であり、これにより学長の大学法反対声明は有名無実となった。
なお、全学闘は7日、午後6時から立教大学で全学闘書記局主催による全学闘政治集会を行ない、11月佐藤訪米阻止闘争を行なうなかから、70年安保に向けて権力奪取の闘いを勝ち取っていき、北部全共闘の一翼として、革命的な闘争機関を創出し、70年安保・沖縄を闘いうる戦線として組織化を図っていくことを確認した。(中略)
さらに9.30白山カルチェラタン闘争で全国全共闘に正式加盟した全学闘は、東洋大唯一の闘争機関として、北部全共闘の確立をはかり、今後の闘争を担っていかなくてはならないと確認した。
この後、各闘争委員会からの組織総括がなされ、集会は終わった。』

東洋大では70年以降も闘争が続くが、今回のシリーズは1968-69年の時期に限った連載なので、その後の闘争は別の機会に紹介したい。
大学新聞縮刷版という貴重な資料を提供していただいた方に感謝するとともに、今後とも時の堆積の中に埋もれていってしまう資料に光をあてて、このブログで公表していきたいと考えている。
(終)

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前回に引き続き東洋大学の闘争の様子を紹介する。(写真は筆者撮影:白山神社から見た東洋大)

1969年6月、政府自民党は、全国に広がる学園闘争の収拾を図るための法律である「大学の運営に関する臨時措置法案」、いわゆる「大学立法」を国会に提出した。
これに対し、各大学では個別大学の課題と併せて、70年安保粉砕、大学立法粉砕のスローガンを掲げて、次々とバリケード・ストに突入した。
東洋大でもストが行なわれた。

【全学的に実力阻止の動き 大学立法粉砕闘争】東洋大学新聞1969.6.25(引用)
『法学部、社会学部、経済学部各自治会は現在政府支配階級が成立を急いでいる「大学の運営に関する臨時措置法案」と中教審答申の粉砕に向けて、23日、1週間の期限ストに突入し、法学部は2号館を封鎖した。
また、経済学部も23日、スト権を確立、25日からストに突入する。
これと共に文学部では、学科別にスト権を集約しており、中哲、史学、英米の各学科は25日にスト突入の予定でいる。
各学部自治会は中教審答申以降現在までの政府政策の意図を「昨年末、続発する学園闘争の本質的問題を一切みることなく、治安立法として登場しており、それは“暴力学生処分法案”(仮称)の出現にみられるように、支配階級自らの野望を貫徹させるため、闘争の圧殺をはかってきた」とし、実力阻止の闘いを展開することを確認している。
しかし、この間の運動は、昨年の4項目闘争の総括が曖昧であり、全学スト体制が確立しつつも全学的な指導部の未登場による運動の分散化など、現在、闘争の発展を阻害する要因を孕んでおり、この点をいかに止揚していくかが、スト期間中に問われているといえよう。(後略)』

大学立法は8月3日参議院で強行採決され成立し、8月17日から施行された。
「紛争校」と指定され自主収拾ができない場合は、国による大学の職権閉校、そして廃校となるため、法施行後、「紛争」中の大学当局は「自主的」に機動隊導入、ロックアウトという道を選択することになる。

【ロックアウト攻勢つづく 学内に機動隊導入】東洋大学新聞1969.9.10(引用)
『2部全学闘準備委員会と学生インターは、8月25日未明から大学治安立法の実質化粉砕、安保粉砕などのスローガンを中心に2号館をバリケード封鎖していたが、8月30日午後2時すぎ、学長の要請による機動隊の導入で、封鎖を解除され、徹底抗戦した5人と、街頭闘争を闘っていた学生4人が公務執行妨害などで不当逮捕された。
30日1時には学内整備を理由に、学内退去の要請が学長、理事長の連名で出され、当局の完全なロックアウト攻勢が敷かれたが、これに抗議する2部全学闘を中心とする学生30人と、社会学部を中心とする全共闘準備委員会の学生50人は、各々に集会を持った。
(中略)
2時すぎ、京北高校と、1号館から学内に乱入した機動隊は、学内にいた学生を強制退去させて、徹底抗戦部隊を孤立させる攻勢に出たが、機動隊導入に抗議する学生約500人が、1号館付近に集まり、機動隊の不当介入に、街頭デモや投石で応戦した。
これに対し、機動隊は催涙弾の直接狙撃などを続け、学生を分散させ、白山一帯を戒厳状態に陥れ、4時すぎから完全なロックアウト体制を敷いた。
現在、大学側は3メートルの鉄柵を作り、教授、職員以外は一切学内への立ち入り禁止というロックアウト攻勢を続けている。
本学周辺は私服警官と制服警官がパトロールを続け、一切の学生部隊を大学周辺から締め出す攻勢に出ている。
これに対し、全学闘準備委員会は明大で、全共闘準備委員会は東大、立大などで、今後の運動方針の検討と、組織の明確化を急いでいる。』

大学新聞によると、東洋大には全学闘準備委員会(2部文学部行動戦線、哲行委、史闘委主体)と、全共闘準備委員会(社スト実、文スト実、経営スト実、全寮闘)という2つの闘争組織があったようだ。
連載No61「学園ハガキ通信 その4」に寄せられたコメントによると、東洋大には第4インター、中核派、ML派、反帝学評などの党派がいたようだが、全学闘と全共闘の関係がよくわからない。

【北部全共闘総決起集会開く 本学全学闘(準)参加】東洋大学新聞1969.9.24(引用)
『本学全学闘(準)、教育大全学闘、立教大全共闘を中心とした各大学全共闘、全学闘は18日午後2時から立教大で約200人の学生を集めて北部地区全共闘結成へ向けた総決起集会を行なった。
集会は5日に日比谷公園において確認された全国全共闘連合の意義を再確認することから開始され、大学立法粉砕を全国的に闘ったなかから11月、佐藤訪米実力阻止へと70年代階級闘争の高揚をかち取ることを、各決議表明の内容としつつ、地区全共闘の意義が確認された。(中略)
また現在施行されている大学立法のもとに、大学を機動隊の戒厳令下にいて試験を行っている東京外大で、試験実力阻止闘争を行なうことが確認され、大会は終わった。』
(つづく)

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先日、ある方から「東洋大学新聞縮刷版(69年~75年)」を預かった。
大学新聞は、当時の大学内の様子のみならず、文化的な状況などを知るための大変貴重な資料である。
そこで、今回は東洋大学(東京・文京区)(写真は筆者撮影)の闘争について紹介していきたい。

大学新聞によると、東洋大の闘争は、当初、昭和39年の確約である43年春までに図書館を竣工し、△修慮紊燭世舛乏慇顕餞曚侶暙澆砲箸蠅かる、の履行を要求した闘いであった。
1968年6月28日、この昭和39年の確約の履行を要求して理事長室前でのすわりこみを行なっていた学生に対し、大学側は機動隊を導入。172人が逮捕され、2人が起訴された。

この機動隊導入を契機として、〕??颪狼‘安眛各?鮗己批判し、総退陣せよ。学生会館を即時建設し、管理運営権を学生の手に。図書館の建設を白紙撤回せよ。こ慇鍵儖?饑度撤廃の4項目をスローガンに50日間の全学バリケード・ストが行なわれたが、10月28日、右翼によりバリケードが破壊された。

その後の様子を大学新聞の記事から見てみよう。
【5号館の封鎖解除さる 全学ストに止揚できず】東洋大学新聞1969.4.9(引用)
『社会学部自治会は、去る1月25日から2月14日まで、図書館、学館闘争勝利、8項目要求獲得のため、5号館封鎖を行なった。
その間、社自、文スト実、経自、営自、法自の各代表は、大学当局と4回にわたり、問題解決の場と位置づける公開予備折衝に向けた会議を持った。
しかし、大学当局は常に、折衝日程を引き伸ばし、3回目の2月5日には、2月17日という試験も終わり帰省など学生の減少で大衆的な折衝の不可能な日を提起し、4回目8日には会議の席上、学生側の代表権問題で、折衝の具体的内容には一切触れずに交渉は決裂。結局、公開予備折衝は開かれなかった。
そして後期試験が社会学部の専門科目の試験がレポートに変更されただけで終わり、16日に地区別の入学試験を控えて、14日午後4時過ぎ、教職員の手で封鎖が解除された。(後略)』

大学新聞によると、この封鎖解除後のロックアウトの中で、入学試験、3月25日の卒業式、4月9日の入学式が行われた。社自は入学式に対し、会場周辺などでデモを行い、新入生に闘争に加わるよう呼びかけた。

【沖縄人民と連帯を確認】東洋大学新聞1969.5.16(引用)
『4.28沖縄闘争に向けた、全学総決起集会が、社学同、学生インター、学生解放戦線などの呼びかけで、4月28日、正午から2号館前で、社学同系、学生インター系、学生解放戦線系、ノンセクトなど約200人を集めて行なわれ、佐藤内閣の「核抜き、本土なみ」構想は、沖縄を日本のアジアへの侵略基地の要めと、とらえているとして首相官邸、霞ヶ関一体を占拠することを確認した。(中略)
しかし、霞ヶ関一帯は、機動隊の厳重な警備体制下にあり、学生戦線の隊列では機動隊の阻止戦を突破することは不可能であるとし、急きょ、銀座・新橋方面で沖縄解放のデモンストレーションを行うことを確認した。
午後6時頃、銀座方面に向けて本学を出発した隊列は、7時頃、銀座4丁目に到着し、デモンストレーションを行なった。
なお、本学に結集した学生は、本学のほかに中大、芝工大、一橋大の学生インター系、約40人も含まれていた。』
4.28では、東洋大が第四インター系の出撃拠点となっていたようだ。

【自治会室破壊さる 右翼の暴力活動が表面化】東洋大学新聞1969.5.30(引用)
『26日、午後10時頃、バスに乗ってきた「新学生協議会」を名のる学生らしき男12~3人が突然、中庭などにあった立て看板を破壊し、経営、社会、法学部の各自治会室、文連本部、放送研究会室などへ次々と侵入し、机・機械などを壊す破壊活動を行い、重要な資料・書類・機械などを多数持ち去った。
同10時40分頃、再度、先の男たちが二部自治会室に乱入しロッカーなどをこじ開け、中にあったビラなどの書類を同様に持ち去った。
今回の右翼による暴力的破壊活動は23日夜にもあり、立て看板を壊し、数人の学生が重軽傷を負ったが、これらの活動は1.2部自治会室・文連などに向けて計画的に行なわれたものである。(後略)』

【右翼粉砕集会開く】東洋大学新聞1969.6.12(引用)
『愛知訪米阻止をひかえた5月29日に、右翼が学内で集会を開くとの情報が入ったため、急きょ、法自を中心として5.30実行行動委員会を結成し、右翼の反革命暴力粉砕集会を5月30日に開いた。
これに対して、大学当局は白山下に機動隊を待機させ、学内の集会を威圧し、午後9時にはロックアウトを行い、国家権力=大学当局=右翼という関係を自ら暴露した。
その上、ロックアウト中の学内で、5月26日に続き、再び文連サークル部室が右翼暴徒によって破壊された。
文連はこの暴挙に対して、5月31日、抗議集会を開き、右翼と理事会との関係を大衆的に明らかにしていくと述べている。(後略)』
(つづく)

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