野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2009年10月

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前回に引き続き東工大の闘争の様子を紹介する。
どこの大学でもあったことだが、反スト派が学生大会の開催・バリケード撤去の動きを進めていく。(写真は毎日新聞から転載)

【執行部(学友会)を解任】毎日新聞1969.5.9(引用)
『衝突のなか 反スト派が学生大会
スト突入から100日目の8日、午後、東工大はバリケードを自主撤去し、封鎖を解いたが、スト派の全闘委(反日共系)とこれに対抗する革推会(ノンセクト)、工真会(同)らの学生の対立が一挙に表面化し、追いつめられた形の全闘委は、他大学並みにゲバ棒を登場させた。
事態はなお流動的だが、同大は都内に残っていた唯一のバリケード封鎖校。
機動隊の導入なしで曲がりなりにも自主解決路線への第一歩を踏出したわけだが、大学関係者は「大学人の最後のトリデとして、独力で守り抜けるかどうか」注目している。

8日の大岡山キャンパスは全闘委学生約200人、革推会を中心とし一般学生も含めた学生大会実行委系(ノンセクト)の学生約1,000人、ネトライキ組の傍観学生約1,000人でふくれ上がった。午後1時半正門前バリケード撤去に成功した実行準備委系は、150人の行動隊を3つにわけて陽動作戦に出た。
2時20分すぎ、学生大会の会場に予定している講堂の入口に築かれたバリケードの1つを実力で撤去、どっと講堂内へ。
バリケード撤去を決議した2.14学生大会を無視し、封鎖を続ける全闘委に対し、革推会、工真会、日共系の3者は学生大会実行準備委をつくり、千百余人の署名を集め、学生大会開催、現学友会不信任の工作を進めてきた。
定員をわずかに50人上回る千二百余人の学生を講堂に結集させて大会成立を宣言した実行準備委は、午後5時半ヽ慷Р饉更塢瑤硫鯒き∋団蟷位鬚料出10日以内に学生大会を開催する、旨の議案書を示し、拍手で賛同を求めた。
これに対し、この学生大会を“デッチ上げ”として、全闘委は自ら築いた残る2つの入口のバリケードをこわして会場に突入しようとしたが、容易に撤去できず、大会議案が拍手で認められたあと約千人の学生がさっと会場を出た直後になだれ込み、学生1人をゲバ棒で袋だたきにした。』

この記事の中に出てくる革推会(ノンセクト)のリーダーは、民主党の菅直人議員だった。今年、朝日新聞に連載された「反逆の時を生きて」というシリーズの中で、当時のことを語っている。

【反逆の時を生きて】朝日新聞2009.7(引用)
『卒業まであと2ヶ月、東京工業大4年だった菅直人は就職も決まっていた。泊まり込みで卒業研究の実験をしようと大学にやってきた。
どうも様子がおかしい。学生がたくさん集まり、騒然としている。69年1月、東大の安田講堂攻防戦のころだ。東工大でもスト、バリケード封鎖へ。
「それこそガソリンをまいたような雰囲気ですよ。ワーッとなっている。ヤジ馬根性であれこれいっているうちに、逃げ出せなくなって」
菅は、全共闘でも、共産党系の民青でもない「全学改革推進会議」をつくった。
「社会や大学のあり方を問うところは全共闘に共感した、だが、彼らに任せておくと闘争がセクトの手段に使われる。われわれに団交をやらせよ、と学生大会に提案、それが通った。」
だが全共闘はバリケードを解かない。菅は取り囲まれ、自己批判を迫られた。「あのときの緊張感は忘れられないね。」(後略)』

菅氏には、「あのときの緊張感」を忘れずに政治をやってもらいたいものだが、この反スト派「野合三派連合」による学生大会も効果なくバリストは続き、ついに機動隊が導入される。

【東工大に初の機動隊】毎日新聞1969.7.10(引用)
『大学側の要請で バリケード撤去、逆封鎖
寮の管理問題から紛争が続いている東京工大(東京目黒区大岡山)は、加藤六美学長代行が警視庁に機動隊の出動を要請、10日朝、約300人の機動隊が出動、正門、校舎などのバリケードを撤去した。
同大に機動隊が出動したのは初めて。大学側ではただちにロックアウトを行い、学生の立ち入りを禁止した。
この措置は当分の間続け、この間、機動隊が常駐するという。

同大では大学側が話し合いによる自主解決路線を提唱、教官の自己規制などを含む思い切った改革案を出して全闘委側の学生と折衝してきたが、加藤代行は「新入生の授業のタイムリミット、研究室などが破壊される恐れが出たため、この措置に踏み切った」と述べた。
ハト派からタカ派に突然変わった大学執行部のやり方に、一部教官の間からの批判の声が出ており、紛争はさらにエスカレートするとみられる。(後略)】

(つづく)
※ 1968-69全国学園闘争「図書館」をホームページに開設しました。

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全国学園闘争シリーズの4回目は、東京・目黒区の東京工業大学の闘争を紹介する。

この学園闘争シリーズに登場する大学には、なるべく現地に出向き、当時の状況をイメージするとともに、写真を撮ってくることにしている。
東急線の「大岡山」駅を出ると、すぐそばに東工大の正門が見える。
前回の東洋大ほどガードマンの視線が厳しくなかったので、東工大の中に入って写真を撮ろうと思ったが、気後れして正門の付近を撮影するに留めた(写真は筆者撮影)。
東工大の闘争の発端は新寮の建設をめぐる管理運営問題だった。

【東工大が全学スト】毎日新聞1969.1.30(引用)
『新寮建設をめぐって紛争中の東京工大(斯波忠夫学長)で29日正午から約2千人の学生が参加して、学生大会が開かれ、無期限スト突入を決めた。
国立1期校の同大学は2月1日から入学願書の受付けを始めるが、このスト決定により、入試実施にも微妙な影響を与えると心配されている。
28日に続いて開かれた学生大会で五寮委員会を中心とする学友会(山森茂夫委員長)から「学寮の管理、運営規則の白紙撤回」など5項目を要求する無期限スト提案が出され、賛成716、反対680、保留128でかろうじて可決、即刻、無期限スト態勢に入った。
この提案にもとづき学生側は「当面バリケード封鎖などの強硬手段はとらず、2月5日に学生大会を開き、スト体制をふたたび全学生に問う。入試問題には態度を保留する。」との柔軟な態度をとっている。
しかし、30日からはすべての講義、会議をストップさせるため教室のカギを学生に渡すよう要求し、それが拒否された場合は実力封鎖の辞さないとしている。(後略)』

結局、全学バリケード封鎖に突入したが、その時の新聞記事の見出しが刺激的だった。
工業系大学ということで、危険物があることは何となく分かるが、「核」まであったとは・・・。

【“核つき”で全額封鎖 東工大の反日共系】毎日新聞1969.2.13(引用)
『多量のウラン、プルトニウム 米から政府が借用 管理に不安
全学無期限スト中の東京工大では13日に予定していた大衆団交を大学側が拒否したことに対し、全学闘争委(反日共系)は一挙に態度を硬化、12日から全学バリケード封鎖に突入した。
このため全教官が構内にはいれず、危険物が山と積まれている原子炉工学研究所や理学部実験室などは管理責任者不在のまま機能マヒ寸前に追い込まれた。
同研究室には政府が米国から借受け委託している濃縮ウランも多量に使われており、政府も「危険な上、国際信義にもかかわる」と重視、早急に事態の打開策を迫られている。
東工大では、3、4日にかけての本庄教務部長つるし上げ事件以来、大学側は「公開、平等の原則が認められない限り団交に応じられない」と13日の団交も拒否回答、全学闘争委との話し合いの道は断たれた。
これに反発する全闘委は約200人が12日から正門、南門、緑ヶ丘門にバリケードを築き、全教授に「なぜ団交に応じないか」と自己批判を迫り、「団交に同意する」との文書にサインした5,6人だけ構内に入った。
原子炉工学研究所や理、工学部は大学院生や助手の自主管理にまかさざるを得ない情勢で、学生同士のトラブルや不慣れな学生による危険物取扱いで何が起るかわからない事態となった。
原子炉研究所には20パーセント濃縮ウラン12.5キログラム、天然ウラン2.5キログラム、プルトニウム80グラム、そのほかアイソトープなどがあり、このうち濃縮ウランは「日米原子力双務協定」に基づいて日本政府が借用したものを同大に委託した形で使われている。
これら核燃料やアイソトープは、核分裂実験装置室や放射能実験に使われている。(中略)
このほか同大には水素ボンベやエチレン、塩素、酸素ボンベなどが本館、各むねの廊下に千本以上も並べられている。
「風通しがよいため廊下に置いている」と大学側ではいっているが、水素ボンベ(高さ約1.5メートル)が倒れ元センがゆるめられると爆発し、ロケット弾のように200メートルも飛ぶ危険なもの。
1年に2,3度は水素ボンベによる小さな火災事故が発生しているという。
このため、うかつに機動隊導入もできず、この辺も大学当局の泣きどころ。
全闘委は本館教務部長室を本部とし、山森茂夫学友会執行委員長、西多喜男五寮委員長を中心にスト体制を固めている。
「東大、日大紛争を第一次学園闘争とするなら、東工大を第二次学園紛争の拠点として長期的に闘争を続ける。原子炉などは院生らの判断にまかせられるのではないか」と山森委員長はいっている。』

東工大は全学部を中核派が握っていたようだ。集会でも東工大の白ヘルをよく見かけた。
「全闘委」がどんな組織だったのか、また、中核派との関係がよくわからない。

(つづく)

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このブログを書くために当時の新聞や雑誌の記事を読んでいるが、その中で「あの時代」を伝えるのにふさわしいと思える記事がいくつかある。
今回はそんな中から、「菊屋橋101号」についての記事を紹介する。
(写真は毎日新聞から転載)

【菊屋橋101号は語らず】毎日新聞1969.4.14(引用)
『東大事件 女子学生で、ただ1人 独房の青春三ヶ月
「菊屋橋101号」―東大安田講堂事件で逮捕され、いまなお黙秘を続けている学生9人のうち、ただ1人の女性である。
当初留置された警視庁菊屋橋分室の留置場番号をとって名付けられた。
いまは東京拘置所に移されているが、四百人を越える留置学生の法廷闘争の“シンボル”として最後まで黙秘をとおすという(弁護団の話)。
すでに逮捕後三ヶ月。“反省”して“分離公判”を受け出所していく学生もいる中で、いったい何が彼女の口を閉ざさせているのか。
独房で“統一公判”を叫ぶ彼女と、彼女を取りまく拘置学生たちの心情と論理は・・・。

黙秘の9人は「尾久5号」「中央20号」「八王子22号」「東京水上26号」「大森36号」・・いずれも留置場のナンバーを呼称として起訴されている。
ほかにも黙秘学生はいたが、逮捕歴があったり、友人の供述などから名前が割れており、いまも氏名不詳というのは、これまで逮捕されたことがなく、特定のセクトにも属さず、少なくとも“東大事件以前”はとりたてて激しい活動家ではなかったということになる。
「菊屋橋101号」―3月末の拘置理由開示の法廷に現れた彼女は明るいグリーンのアノラックに黒のスラックス姿だった。小柄だが色白の美人である。
女子看守に付き添われて入廷した彼女は、拍手の傍聴席に軽く片手をあげ、落ちついた口調で裁判官に問いかけた。
「憲法は黙秘権を認めている。なのに氏名がわからないからといって釈放しないのは憲法の精神に反するのではないか」「罪障隠滅の恐れがあると裁判官はいうが、具体的に罪障とはなにをさすのか」「私の氏名がわからないのは捜査当局の怠慢で、私の黙秘とかかわりはない」。

男子学生の中にさえ、長い拘置に耐えかね「1日も早く釈放されたかった」と分離公判を受けたものがあるというのに・・・。
拘置所でも午前7時起床、夜9時就寝まで、彼女は看守とも言葉を交わさず、おし黙ったまま。
「救援本部から差入れられた本を読むか、独房でメイ想にふけっている様子」と東京拘置所の保安課はいう。
“東大闘争のシンボル”あてに差入れも届けられるというが、暗い独房の生活は決して快適なものではない。麦飯に1汁1菜。化粧さえ許されない。
“近県の大学生らしい”というウワサはあるが、他の学生たちも、彼女に関しては「見たこともない」とかばい、身元が割れることは当分なさそうだ。(中略)
「菊屋橋101号」の主任弁護人、角南俊輔弁護士は語る。「死ぬつもりで彼女は闘争に加わったのだから絶対に口を割るようなことはないだろう。むろん私は彼女がだれだか知っているが・・。」』

だが、“東大闘争のシンボル”といわれた「菊屋橋101号」の黙秘の闘いは、一部マスコミの不法ともいえる報道により圧殺されてしまう。東大全共闘機関紙「進撃」にその状況が掲載されている。

【報道の自由で黙秘権圧殺】進撃1969.5.14(引用)
『3月12日、サンケイ新聞社発行の「夕刊フジ」は、第1面に、さる1月19日の解放講堂闘争で不当に逮捕されて以来、完全黙秘を貫徹して、闘い抜いている我々の女性同志「菊屋橋101号」(留置場番号)の偽装写真(警察から不当に入手し、意識的にモンタージュした疑いがある)を本人に無断でデカデカと掲載した。
そして、週刊誌「ヤングレディ」4月21日号に、この「夕刊フジ」の記事が複写転載された。
これに気づいた彼女の弁護士、彼女の友人らが4月29日、夕刊フジに「肖像権」「黙秘権」の侵害である、と厳重に抗議した。
しかし夕刊フジは「編集権の問題であるので回答できない」と一切の対応を拒否した。
そのうえ、まるでこの抗議に対する報復ででもあるかのように、5月1日付紙面に、再び彼女の氏名、経歴、家族関係など一切を暴露したのだ。
これにより獄中の彼女が唯一の武器としてきた黙秘権はふみにじられ、何も分からずお手上げの態だった官憲は狂喜した。(後略)』

5月6日、東大全共闘はサンケイ新聞社に対する大衆的抗議行動を行なった。また、5月13日には、東大闘争弁護団が「夕刊フジ」の人権侵害を東京法務局に告発した。
(「進撃」5.22号、6/10号にも関連記事があります。ホームページの全共闘機関紙コーナーを参照)

東大全共闘に関わったある女性のブログの中にこんな文書を見つけた。
「私の心の中で “ 菊屋橋101号 ” という名前は夜空の北極星の様に輝いていた。」 
氏名がどうであれ、その闘いが示す方角を多くの人が見つめていたのだ。

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連載No97の続きです。
6月に入ると「大学運営に関する臨時措置法案」いわゆる大学立法粉砕を掲げて、多くの大学が続々とストライキに入る中、明大でも四大スローガンと六項目要求を掲げて、全共闘結成から全学バリケード・ストに向けた動きが加速していく。

6月6日、六項目要求についての和泉地区総団交が開催され、二千人を超える学生が参加、6月7日も生田地区で一千人の学生の参加により理事会・農学部教授会団交が開催されたが、いずれも進展なく物別れに終わった。
六項目要求に対する大学側の見解は以下のとおりであった。
1 学生部廃止
 学生部は学生の意思を受けとめ、大学当局にそれを伝える窓口として現在必要な部署であり、直ちに廃止する考えはない。
2 処分撤回
 学費紛争にともなう処分は、各教授会の固有の権限にもとづいたものであり、学校教育法に定められている。
3 農学部の帝国主義的再編粉砕(農学部の充実)
 農学部校舎を増築する計画はない。
4 寮の完全自治権獲得
 入退寮選考権は寮が学生一般の負担により設けられているという事情にもとづき、他の学生に対する公平の原則及び社会に対する教育上の責任という観点から、四条件を学生側が認めない限り、容認できない。
(注)四条件 〃从囘理由のみによって選考すること3時間以内の通学者は除くことA考結果について大学側に報告することぢ膤悗領正程ならびに同細則は話し合って改訂すること
5 学館の管理運営権獲得
 学生会館の設計・施工・予算権については大学が制度上責任を負った行為であり、学生側の要求は認めようがない。学館の管理・運営については、生命・身体の危険などがない限り学館特別委員会にまかせている。
6 健保の赤字全学学校負担
 学生健保は学生により組織された互助組織であり、財政の赤字は組合の相互扶助精神から見て組合費で運営されるべきであり、要求には応じられない。
また、中教審答申・大学立法に関する大学側の見解は学長声明のとおりであり、具体的には国会、文部省、都議会に出向き抗議の意思を表明しているというものであった。

一方、4月12日の駿河台学生会館への機動隊乱入に続いて、6月11日、駿河台の明大図書館に再び機動隊が乱入し、学生の怒りは頂点に達した。

【日大“スト1周年”荒れる 学生デモ警官と衝突】朝日新聞1969.6.12(引用)
『11日午後、東京・神田駿河台の明治大学で「バリケード・スト1周年記念」の集会を開いた日大全共闘の学生約千五百人が、集会後のデモで機動隊と衝突、機動隊は投石する学生を追って明大構内に入り、46人を公務執行妨害などで逮捕した。
学生たちは日大の各校舎が大学側によって閉じられ、機動隊がぐるりと警戒していたため、明大9号館内に集まり、集会を開いたもの。
明大校舎内にはいった機動隊員は、便所にいた女学生まで引きずり出して足げにしたり、倒れこんだ学生を踏みつけたり。
本館2階の図書館実習室に「ヘルメットの学生3人が逃げ込んだ」とおしかけ「学生たちが勉強しているので、責任者が来るまで待ってほしい」という大学職員の制止を聞かず、中にはいった。
このため、中にいた約二百人の学生が「機動隊帰れ」と抗議したが、1人1人身分証明書の提示を求められ、約1時間にわたって取り調べられた。(後略)』

機動隊は、4月12日の学生会館乱入で多くの誤認逮捕者を出したことで、6月11日は着色液を使用、着色液が付いた学生を逮捕した。(写真は朝日新聞から転載)

学内では6月17日の臨時学生大会に向けて、クラス討論や代議員選出が始まった。私のクラスでも授業をクラス討論に振り替えてストの是非の討論と代議員選出を行なった。
スト支持の1声を挙げたのは、その後414B統一戦線のリーダーとなるN君、浪共闘で鍛え上げられた経験を活かしスト支持を訴える。しかし民青系のH君がバリスト反対で対立する。
すかさず私とK君(414B統一戦線)がスト支持の応援演説。体育会系の学生は黙って聞いていた。
流れを決定づけたのは、ある心情三派学生の一言。「私はデモなどの行動を起こすことは出来ないが、ストを支持する。」
私のクラスはスト支持を決議し、私とN君、K君でクラス闘争委員会を立ち上げた。

6月11日、全共闘結成準備会が開かれ、その後、約300名が和泉校舎1号館をバリケード封鎖した。
このバリ封鎖には私も参加した。バリケードつくりは初めてだったが、社学同学生の指示でロッカーを階段から降ろしたり、入口に並べたり。

6月15日には、日比谷公園で開催された「6.15反安保集会」に明大から約500名の部隊が参加。私の属していた414B統一戦線も、黒ヘルで初参加した。
(つづく)

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