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No102の続きです。
1969年6月17日、吃学生会臨時学生大会が3.000名の学生の参加により駿河台の明大記念館で開かれた。私も代議員として出席。
スト賛成派、スト反対派、それぞれの発言の後、討論が続き、学生会中執の提案した「中教審・大学立法粉砕、六項目要求貫徹に向けての全学ストライキ(方法、期限は各地区全共闘に一任)」が賛成377、反対208により可決。
翌日未明「学生科学者集団」により大学院がバリケード封鎖された。
そして19日には短期大学、20日には生田地区工学部校舎がバリケードで封鎖された。

6月21日、明大全共闘結成大会が、同じく駿河台の明大記念館で開かれた。
参加したのは130団体、1.500名。
当時の学生会中央執行委員長であった米田隆介氏(社学同)が東大安田講堂での闘いで拘留中であったため、明大全共闘代表に副委員長の福田直人氏(社学同)が選出された。
大会終了後、駿河台の各校舎をバリケード封鎖した。
明大新聞によると、明大6号館(山の上ホテル裏)の封鎖には、日大全共闘の皆さんに協力していただき、強固なバリケードが構築できたとのこと。
また、和泉地区でも各門がバリケードで封鎖された。

6月25日、明大全共闘単独での大学立法・中教審答申粉砕の街頭デモが行われた。(写真は明大新聞から転載)
和泉地区全共闘を先頭に、駿河台本校―八重洲―数寄屋橋―日比谷公園までのデモだった。
私はデモの先頭で旗持ち。
414B統一戦線の旗か、明大全共闘の旗か、何の旗を持っていたか思い出せない。
この日は大人しいデモで、ジグザグ・デモの時に旗で車を止める程度。あとは旗を持って歩いていただけ。
この写真の先頭の白ジーンズは私かもしれない。
解散地点の日比谷公園でデモの隊列を数えたら、ノンヘル部隊も含めて約1.000名。
6月27日にも、大学立法粉砕全都全共闘集会が明治公園で開催され、明大全共闘から1.000名が参加している。
一方、バリストに反対する動きもあり、6月26日、民青系の「全明クラス連合準備会」主催の「大学立法反対・全学バリケード・スト反対」集会が錦華公園で体育会も参加して開かれた。

吃全共闘は学生会中執(社学同)主導で結成されたが、学生会中執(社学同)は全共闘を四項目のスローガン(70年安保粉砕中教審答申・大学立法粉砕A換餝惘狷争勝利の澄農学部、学館闘争勝利)を掲げ70年安保を闘い抜く全学安保闘争委連合の一ステップとして位置づけ、全共闘組織はコミューン方式を取り、リコール権を持つ各クラス・サークル闘争委を頂上とする逆ピラミッド型とする方針であった。
しかし、局学苑会(ML派)は「要求項目は全学的な運動実態が規定していくものであるから、六項目のために全共闘を組織するのはおかしいし、全共闘運動を限定された安保闘争への一ステップとして位置づけるのもおかしい。
そして大学立法粉砕を運動の要にすえるのなら、六項目要求などという改良主義的運動を主目的にすりかえてしまうのではなく、現在の教育政策総体の階級的暴露を行なうことに主眼をおくべきだ。」として別に五項目のスローガンを掲げた。
∥膤惻0体法粉砕学長室専門委員会の学生参加についての討論資料案粉砕N澄学館の完全自主管理権獲得ち瓦討離ラス・サークルに闘争委をゥラス闘争委の充実をもって全共闘運動を創出せよ
このように社学同とML派の間には、党派の違いによる闘争方針の違いがあり、党派主導の全共闘が抱える問題が全共闘発足直後から表面化していた。

バリスト後の和泉地区では、1号館に各闘争委員会が陣取り、正門のバリケードでは検問が行なわれた。
昼間は学館2階の学生会中執会議室で全共闘代表者会議が開かれ、各クラス・サークル闘争委の代表(ノンセクト・反帝学評)や学生会中執(社学同)、学館運営委員会(社学同)、法学部闘争委員会(社学同)、政経学部闘争委員会(社学同)、文学部闘争委員会(ML派)、商学部闘争委員会(中核派)などが闘争方針について議論した。
ここでも社学同とML派が激しくやりあっていた記憶がある。
夜になると学館と1号館に煌々と明かりが点り、右翼の襲撃に備えて各闘争委員会が交代で構内の夜間巡回を行った。
ヘルメットにゲバ棒、投石用の石を持った完全武装の数人のグループで巡回していたが、大人数のグループによる襲撃があった場合は、笛を吹いて襲撃を知らせ、投石で時間を稼ぐというようなことまで打ち合わせをしていた。
幸い襲撃はなかった。

(つづく)