野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2009年11月

イメージ 1
全国学園闘争シリーズ5回目は、京都の龍谷大学。
龍谷大学は、1639年に西本願寺に設けられた「学寮」にはじまる、370年もの歴史がある西本願寺の宗門大学である。
宗門大学ということで「浄土真宗の精神」が、龍谷大学の建学の精神ということになる。
龍谷大闘争の様子が朝日ジャーナルに掲載されているので見てみよう。

【学園ハガキ通信】朝日ジャーナル1969.10.26(引用)
『僧に非ず俗に非ず(竜谷大)
青年とともに学び問題を解決していた親鸞、国家権力と対決し抵抗していた親鸞、しかしながら、今ある親鸞精神とはなんであろうか。
仏教そのものが門徒から寄付金を搾取するものでしかありえないし、西本願寺そのものが、そのための機構でしかありえない。
仏教そのものが「死体埋葬業」と言われるまでになり、ただ形式どおりの念仏をとなえるものとなってしまった。このような状態においても、何ら対応策を考えない。
西本願寺があるというだけで仏教があるというような幻想を作り上げてしまった。
本願寺はまた、ハレンチにも竜大にまで介入してきた。竜大は本願寺のためにあるのではなく、全人民のためにあるのだ。
われわれはこのような介入を許すことはできない。
本願寺宗教権力下にある竜大に全学無期限バリケードを築くことによって、僧侶大量養成所=竜大の機能をマヒさせ、本願寺との関係を断ち切り、日大闘争で表現された破壊の思想をもって、西本願寺宗教権力を徹底破壊してゆかねばならない。
破壊こそが、あの「教行信証」にある「主上臣下法に背き義に違し」「すでに僧に非ず俗に非ず」の精神である。
(竜大仏教闘争委員会のパンフレット「非僧非俗」No4から。なお竜大は9.12より全学無期限バリケードを築いている。)
(文学部・白須浄真)』

このバリケードは約50日続くが、バリケードを築いた当日、同じ仏教系の京都女子大とともに西本願寺突入闘争が闘われた。(写真は毎日新聞から転載)

【西本願寺に1000人乱入】毎日新聞1969.9.13(引用)
『“学生一揆”に法灯大ゆれ 重文もメチャメチャ 「大学への介入やめよ」
京都・西本願寺へ12日午後、同宗門立竜谷大全共闘、京都女子大全闘委などの学生約千人が「本山の大学への不当介入粉砕」「本山解体」などを叫んで押しかけ、警官のピケを破って境内になだれ込んだ。
学生たちは土足のまま西本願寺で最も神聖とされる御影堂と阿弥陀堂に“一向一揆”のむしろ旗を先頭に突入。重文御影堂の障子2枚をこわし、投石で柱に無数の傷がつくなど大荒れ。
防戦に出た本願寺職員と衝突して双方に約40人の負傷者が出た。

この日正午過ぎから、竜大深草学舎(京都市伏見区)で、竜大全共闘、同ベ平連、同ノンポリ・ノンセクト連合、京都女子大全闘委など主催の「大学立法粉砕、本願寺不当介入粉砕集会が開かれた。
この後約1,200人が市中デモをし、午後3時過ぎ、下京区の西本願寺総門前に着いた。
届出のコースは、ここから南下して西本願寺隣の大宮学舎に向かうことになっていたが、先頭のヘルメット学生約100人は、警官約20人と警察のトラックでつくっていた総門前の阻止線を一気に突破して構内になだれ込み、続いて他の学生も全員構内に突入した。
正面の重要文化財御影堂(大師堂)前の広場を埋めた学生たちは「本山の不当介入抗議集会」を始め、御影堂の階段に土足ですわり込み、さい銭箱の上に乗って次々と本山批判の演説をした。
同3時40分、リーダーが「責任者の太田淳昭総長が現れぬなら土足で本堂に踏み込む」と演説。
ヘルメット学生約100人が土足のまま御影堂階段から回廊で駆け上がった。
本山側は若手職員、信者、学生ら約50人が廊下に待機していたが、学生はこの列に突っ込み、旗ザオを振ったり、なぐりあいの乱闘となった。
階段下の学生からの砂利やこぶし大の石が投げられ、正面の障子や柱に傷がついた。
本山側はあわてて同堂の板戸を降ろしたが、学生の体当たりで障子2枚がこわれた。
いったん突入をあきらめ集会を再開した学生たちは、同4時10分、今後は御影堂の回廊を土足でデモしたあと、約70メートルの廊下(重文)を駆け抜け、北隣の阿弥陀堂(本堂・重文)回廊へも乱入、ここでも職員と衝突、投石を繰り返した。
同4時半、学生たちは境内から大宮学舎構内に移り集会「今後も本山との対決を強める」と気勢をあげて散会した。(中略)
対立のきっかけは竜谷大が8月末に発表した「竜谷大学改革試案」。この中で大学側が「学長には僧籍は必要でない」としていることに、同本願寺が「僧籍が絶対に必要だ」とクレームをつけた。
学生たちは「不当介入だ」と本山を批判していた。(後略)』

“一向一揆”のむしろ旗を掲げて1,000名の部隊が西本願寺に突入、宗教系大学はラディカルですね。

イメージ 1
写真は「週刊読売」1969年11月13日臨時増刊号である。
丁度40年前に発行された。
表紙は反戦青年委員会の集会での写真だろうか。
読売新聞といえば、大学闘争や反戦闘争に批判的で保守的な新聞であるが、その系列の週刊誌上で11月佐藤訪米阻止闘争から70年安保闘争の動向まで、特集号として発行された。

目次を見てみると
○学生は発言する 11月決戦、70年安保の戦術と戦略
○本誌独占「獄中記」真実という重荷を背負って 秋田明大
○カラーグラビア 11月決戦 結集した“新左翼”たち
○グラビア 首都ゲリラ戦 10.21反戦デー
○70年安保、首相訪米 “ゲバルト戦争”はどうなる
○守りから攻撃へ 転換する警視庁機動隊
○暴徒制圧! 自衛隊は出動する
○激化する高校生全学連
○べ平連活動に拠点はない
○風雲・花の全学連用語辞典
など

大学闘争に関する週刊誌の特集号としては、このブログでも紹介している「サンデー毎日」1969年2月20日増刊号があるが、この「週刊読売」の臨時増刊号も、それに匹敵する内容である。
発行が11月佐藤訪米阻止闘争の直前ということもあり、この臨時増刊号の目玉記事は、「学生は発言する 11月決戦、70年安保の戦術と戦略」である。
この記事を載せた意図を編集部が語っているので、その部分を引用する。
【各派代表者が語る「日本改造案」】(引用)
『10.21国際反戦デー。火炎ビンとガス銃、炎と煙の中で学生と警官は、東京をはじめ各地で激しく衝突した。11月決戦(佐藤首相訪米阻止)、70年安保闘争への、この日は、いわば前哨戦・・・。
大学闘争から政治闘争へと、学生闘争はエスカレート、激化するばかり。
彼らは、その過激な行動によって、国民に何を訴え、日本を、どう変革しようというのか。
多くの人びとは、行動と理論の前に、迷い、当惑し、考えあぐねているのが現状だ。
この複雑な学生問題を真剣に考えていただきたく、当編集部では、つぎの点を、全国全共闘連合八派と民青系全学連、革マル派全学連の代表者に聞いてみた。
1 70年安保、佐藤首相訪米阻止闘争
2 沖縄問題
3 全国全共闘などの学生統一戦線
4 革命の方法、理想とする国家社会像
5 運動資金
6 逮捕学生への救援対策
7 近く行なわれるであろう総選挙について』

この記事は基本的にインタビュー形式で、記者の質問に各派代表者が答えている。
全学連中核派副委員長  林 信次(横浜国立大)
社会主義学生同盟(社学同)全国委員会  中島 弘(中央大)
共産主義者同盟(ブント)赤軍派  上野 勝輝
全日本学生解放戦線統一戦線部長(ML派)  春日 研三(東大中退)
学生インター中央執行委員会委員長  村井 其冶(中央大)
全国反帝学生評議会連合中央執行委員(反帝学評)  山本 利樹(上智大)
社会主義学生戦線(フロント)都委員長  鵜崎 史郎(東京教育大)
プロレタリア学生同盟東京都委員会  永井 亨(中央大)
共産主義学生同盟教育大支部(共学同)  水上 重三(東京教育大)
全学連委員長(民青)  田熊 和喜(東経大)
全学連委員長(革マル派)  大貫 健夫(早大)(拘留中)
  
記事にはそれぞれ各派の紹介文とヘルメットのイラストがついており、なかなかマニアックな雰囲気。
記事の中の各派の発言は、当時の時代状況をよく表しているので、今後、紹介していきたいと思う。
また、日大全共闘秋田議長の獄中手記が独占掲載されているが、この手記は「獄中記―異常の日常化の中で」という題で、その後、全共社から刊行されたようだ。
一方、読売系らしく、10月3日、東富士演習場で行なわれた自衛隊による治安訓練の様子が写真と記事で紹介されている。
ゲバ棒を持ちモヒカンのヘルメットを被った「暴徒」がバリケードを築き、ビルを占拠したという想定で、M41型戦車や自動小銃を背負った自衛隊の部隊がそれを鎮圧するという訓練。

1969年後半、こんな週刊誌が駅の売店に並んでいた。

イメージ 1
No102の続きです。
1969年6月17日、吃学生会臨時学生大会が3.000名の学生の参加により駿河台の明大記念館で開かれた。私も代議員として出席。
スト賛成派、スト反対派、それぞれの発言の後、討論が続き、学生会中執の提案した「中教審・大学立法粉砕、六項目要求貫徹に向けての全学ストライキ(方法、期限は各地区全共闘に一任)」が賛成377、反対208により可決。
翌日未明「学生科学者集団」により大学院がバリケード封鎖された。
そして19日には短期大学、20日には生田地区工学部校舎がバリケードで封鎖された。

6月21日、明大全共闘結成大会が、同じく駿河台の明大記念館で開かれた。
参加したのは130団体、1.500名。
当時の学生会中央執行委員長であった米田隆介氏(社学同)が東大安田講堂での闘いで拘留中であったため、明大全共闘代表に副委員長の福田直人氏(社学同)が選出された。
大会終了後、駿河台の各校舎をバリケード封鎖した。
明大新聞によると、明大6号館(山の上ホテル裏)の封鎖には、日大全共闘の皆さんに協力していただき、強固なバリケードが構築できたとのこと。
また、和泉地区でも各門がバリケードで封鎖された。

6月25日、明大全共闘単独での大学立法・中教審答申粉砕の街頭デモが行われた。(写真は明大新聞から転載)
和泉地区全共闘を先頭に、駿河台本校―八重洲―数寄屋橋―日比谷公園までのデモだった。
私はデモの先頭で旗持ち。
414B統一戦線の旗か、明大全共闘の旗か、何の旗を持っていたか思い出せない。
この日は大人しいデモで、ジグザグ・デモの時に旗で車を止める程度。あとは旗を持って歩いていただけ。
この写真の先頭の白ジーンズは私かもしれない。
解散地点の日比谷公園でデモの隊列を数えたら、ノンヘル部隊も含めて約1.000名。
6月27日にも、大学立法粉砕全都全共闘集会が明治公園で開催され、明大全共闘から1.000名が参加している。
一方、バリストに反対する動きもあり、6月26日、民青系の「全明クラス連合準備会」主催の「大学立法反対・全学バリケード・スト反対」集会が錦華公園で体育会も参加して開かれた。

吃全共闘は学生会中執(社学同)主導で結成されたが、学生会中執(社学同)は全共闘を四項目のスローガン(70年安保粉砕中教審答申・大学立法粉砕A換餝惘狷争勝利の澄農学部、学館闘争勝利)を掲げ70年安保を闘い抜く全学安保闘争委連合の一ステップとして位置づけ、全共闘組織はコミューン方式を取り、リコール権を持つ各クラス・サークル闘争委を頂上とする逆ピラミッド型とする方針であった。
しかし、局学苑会(ML派)は「要求項目は全学的な運動実態が規定していくものであるから、六項目のために全共闘を組織するのはおかしいし、全共闘運動を限定された安保闘争への一ステップとして位置づけるのもおかしい。
そして大学立法粉砕を運動の要にすえるのなら、六項目要求などという改良主義的運動を主目的にすりかえてしまうのではなく、現在の教育政策総体の階級的暴露を行なうことに主眼をおくべきだ。」として別に五項目のスローガンを掲げた。
∥膤惻0体法粉砕学長室専門委員会の学生参加についての討論資料案粉砕N澄学館の完全自主管理権獲得ち瓦討離ラス・サークルに闘争委をゥラス闘争委の充実をもって全共闘運動を創出せよ
このように社学同とML派の間には、党派の違いによる闘争方針の違いがあり、党派主導の全共闘が抱える問題が全共闘発足直後から表面化していた。

バリスト後の和泉地区では、1号館に各闘争委員会が陣取り、正門のバリケードでは検問が行なわれた。
昼間は学館2階の学生会中執会議室で全共闘代表者会議が開かれ、各クラス・サークル闘争委の代表(ノンセクト・反帝学評)や学生会中執(社学同)、学館運営委員会(社学同)、法学部闘争委員会(社学同)、政経学部闘争委員会(社学同)、文学部闘争委員会(ML派)、商学部闘争委員会(中核派)などが闘争方針について議論した。
ここでも社学同とML派が激しくやりあっていた記憶がある。
夜になると学館と1号館に煌々と明かりが点り、右翼の襲撃に備えて各闘争委員会が交代で構内の夜間巡回を行った。
ヘルメットにゲバ棒、投石用の石を持った完全武装の数人のグループで巡回していたが、大人数のグループによる襲撃があった場合は、笛を吹いて襲撃を知らせ、投石で時間を稼ぐというようなことまで打ち合わせをしていた。
幸い襲撃はなかった。

(つづく)

イメージ 1
東工大の闘争の紹介も3回目となる。
前回に引き続き機動隊導入の様子から見てみよう。(写真は毎日新聞から転載)

【東工大に初の機動隊】毎日新聞1969.7.10(引用)
『(前略)同日午前6時50分ごろ、同大正門前に機動隊が現れた。正門は机、イスで厚いバリケード。
門の前には、学内にたてこもっていた学生と教職員組合員百数十人がスクラムを組んで「機動隊帰れ」「闘争勝利」とシュプレヒコール。
同7時5分、加藤学長代行が機動隊員に守られて姿を見せ、退去命令を読み上げた。
つづいて警視庁が退去を警告したあと、同10分、機動隊が学内にはいり、正門のバリケード撤去にとりかかった。
学生らは「加藤帰れ」と叫んだが、機動隊の規制にたちまち正門付近から追われた。
闘争本部のおかれていた本館2階の教務部長室には洗たくものがかけられ、食事のサラなどが雑然とし、機動隊がはいる寸前まで学生が“生活”していたことをうかがわせた。
同8時すぎにはバリケード撤去と本館内の検証も終わり、正門前には「当分の間、立ち入りを禁止する」との告示が出され、構内にある各寮の周囲にも学内に入れないようバリケードが張られ、ロックアウト体制が築かれた。(中略)
同大では紛争いらい話合いによる自主解決路線を支持してきたが、今月4日に行われた全学教授会で「これ以上放置することは教育上の問題がある。機動隊を導入してでも授業を再開しなければならない」とのタカ派教官の意見が通り、7日から田町の校舎で新入生の授業が行なわれていた。
しかし、この授業にも、一般教養、語学の教官から“力による授業強行は正常な解決には結びつかない。この強行路線を撤回し話合いによる自主解決の基本路線にもどせ”の批判が起り、教官の一部授業ボイコットも起っている。(後略)』

この田町校舎での新入生授業の様子が、朝日ジャーナルの「学園ハガキ通信」に投稿されているので、見てみよう。

【学園ハガキ通信】朝日ジャーナル1969.8.3(引用)
『東京拘置所大学<東工大>
我々「東拘大」(東京拘置所大学別名東京工大)の新入生が待ちに待った正規授業を大学当局は7月7に始めてくれたけど、場所は大岡山キャンパスからまるで離れた田町の元付属工業教員養成所跡。
毎日、電車賃がかかってしょうがないと思って田町駅まで行ったなら、駅前に堂々五機の勢ぞろい。コワゴワ校舎に行ったら教官様の検問で「大学当局の許可した者以外が立入ると、法律により処罰されます」とこわい高札ありました。
中に入れば悲しや、でっかい名札を渡されて、「つけていないと逮捕されることがあります。」
それでも授業反対の学生200人、検問破って校庭で集会開いて言うことにゃ、「新入生諸君、檻の中に学問はありません。授業をボイコットしよう。我々が田町駅の改札口を出たとたん機動隊が理由なく全く無防備の我々におそいかかった。これは、ひとえに当局の責任である・・・・」と叫んだが、すぐさま退去命令で機動隊におん出され、教室内で「新入生の討論集会をもとう」と言ったら「ここでは授業だけを行なうのであるから、授業を受けたくないやつは出ていけ」と先生にこわい顔でおこられた。
「学生たちの言ったことはみんなうそだ」と先生は言ったけど、授業は英語のはずが物理の講義。その日の授業の帰り道、電車のむかいの席に教授が2人。「やはり私立大からでも講師を借りますか」と話してた。
次の日、田町に行ったら「花の四機」の登場で門には大学当局バリケード。
ビクビク二重のピケライン越えて教室に入ったら、またもあったよピケライン。
「お前は昨日、討論会にしようと言ったからだめだ」と教室からおん出された。
私は、どうしたらよいでしょう(理学部・新入生)』

東工大の新入生の皆さんには本当に「東京拘置所大学」だったんですね。

【「措置法」先取りの東工大キャンパス】朝日ジャーナル1969.8.24(引用)
『村田浩(東工大物理学教室助手)
(前略)東工大における機動隊導入は、前述のように、一切の粉飾を加えずに、「大学の機能の阻害」というそのものずばりの理由で行なわれた。
このことからも、自閉症的「自然科学者」あがりの現執行部の徹底した合理主義を見ることができる。
現在、学内は執行部独裁体制化にあり、教授会は、その構成員さえ公然と認めるごとく、単なる苦情申し立て機関となり下がり、機動隊導入の追認すら行なわれないうちに、ロックアウト体制維持に全面的に協力している。
「やむをえない」といいながら、多数の顔見知りの教授が検問を行なっている。
われわれは学内での抗議行動を行なうためにそこを通るのだが、「なぜ身分証明書を見せる必要があるのか」と詰問すると、彼らには「やむをえない」という以外に「名答」はうかんでこない。(中略)
われわれは9月からの闘争によって、この死臭に満ちたキャンパスを新たな論理の場にしてゆかねばならない。』 
(終)

↑このページのトップヘ