野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2010年02月

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「明大2月6日に集う会」の報告も今回で最後となる。
局瑤裡忙瓩らの報告の中で、重信房子さんからのメッセージを娘のメイさんが読み上げた。(写真)

『「明大2月6日に集う会」によせて 
      重信房子  代読メイ
「オール明治の集い」に今回はまだ行けません。
でもここにおあつまりのみなさんに、参加の想いをこめて感謝と連帯のあいさつを送ります。
何十年の断絶があっても、共に闘った日韓闘争やベトナム反戦闘争、明大学費値上げ反対闘争の仲間たち、学生会館ですごした日々を忘れることはありません。
初めて変革の志を抱き、共に育み合った明治の活動の日々は、私の出発点だからです。
前回「オール明治の集い」は、2000年11月17日だったので、丁度、私が11月8日に逮捕されたすぐあとでした。
私の逮捕からもう10年目になりました。
私の公判は、9.11事件を経て、ブッシュのかたよった戦争政策と、反テロキャンペーンの異常な世界と、その異常に無批判につき従う小泉政権下ですすみました。
「反テロ」の名で、日本赤軍リーダーだったということによって、「やったにちがいない」と重刑攻撃をうけてきました。
こうした中で、米田さん、岡村さん、蔵本さん、本間さんをはじめ多くの旧友たちの支援と励ましの中で公判を闘うことができました。
又、私の逮捕後に国籍を得て日本に帰国したメイにも、日本語学校の世話から、米田さんらの支えの中で、日本社会に生き、社会参加することが出来ました。
改めてみなさんに感謝します。
今、日本も新しい政権に変わり「情報公開」を要に、国のしくみの変化がはじまっています。
曲折はあっても、この変化はあともどりできないでしょう。
この変化を、まっとうな仕組みに変革しうるかどうかは、これからの国民の側にかかっています。
オール明治の仲間たちも、昔とった杵柄もあり、又、変わらぬ変革の志をもっておられることも知っています。みなさんの健闘を期待するものです。
私の方は、最高裁に上告してもう2年をすぎており、判決は今すぐ来てもおかしくないといわれています。
それでも、世界と日本のこれからの変化変革の中で、日本も人権において国際水準に近づき、死刑廃止や獄中の処遇改善もなされると期待しています。
そうすれば、「第四回オール明治の集い」には参加できます!ね!
そんなことを楽しく描きつつ、新しい旅を覚悟しています。
みんなと共にうたった、インターナショナル、ワルシャワ労働歌、それに“おお~明治♪”の校歌や“ブント物語”のうたや“真田風雲録”を歌いながら、今日の日、辺境から連帯の心をとどけます。
再会と乾杯を! 共に!  房子』

このメッセージは重信さんの手書き原稿を書き写したものだが、原稿にはメイさんが読めるよう、漢字に「ひらがな」がふってあり、母親としての心づかいが読み取れる。
手書きの文字からは重信さんの想いがひしひしと伝わってくるようで、目頭が熱くなった。
メイさんは現在、ジャーナリストとして活躍中。
CS朝日ニュースターの「ニュースの深層」で週3回、サブキャスターを務めている。
また、同志社大学博士課程で「メディア論」を学んでいるとのこと。
2002年には「秘密 パレスチナから桜の国へ 母と私の28年」という本を出している。

懇親会は中村幸安氏の乾杯で始まった。
私は乾杯のビールを飲み干すや、生田のI氏のところへ直行、資料を見せていただいた。
69年4月の臨時学生大会議案書、9月の全明全共闘結成大会議案書、明大生田助手共闘会議資料、明大全共闘生田地区共闘、明大全学評の各種ビラなど。
その場で資料を預かり、短い会話を交わした。
「当時の資料を保存し公開していくことは、明大闘争を闘った者の責務である」との認識で一致。
I氏から残りの資料を送ってもらうことになった。(2月11日に宅急便で届きました。ありがとう。)

懇親会では他の方からもホームページへの資料提供の申し出があり、とても感謝している。
提供していただいた資料は、時間はかかるが全て公開していく予定である。
私のホームページが明大闘争の資料を保存・公開する「電子図書館」となればと思っている。

懇親会ではネットワークM66のメンバーでもある落語家の二代目柳家三壽さん(66年法学部入学)の司会で参加者の紹介があり、皆さんそれぞれに近況などを語った。
最後は現役バリバリである両川敏夫氏(66年政経学部入学)【共産主義者同盟 (統一委員会) 】の音頭でインターナショナルと明大の校歌を歌い散会した。

1950年代から81年入学まで、幅広い参加者が会場に顔を揃え、「和解とネットワーク」という言葉がぴったりの会合だった。
今回の「集い」を企画、運営した米田氏を始め、関係者の皆さんには深く感謝すると共に、第四回は重信房子さんが参加した「集い」になればと心から願っている。

「集い」の報告の補足編を次回書きます。

(つづく)


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前回に引き続き「明大2月6日に集う会」の報告を書くことにする。

土屋氏の講演の後、休憩をはさんで、米田氏の司会(写真)で生田、局堯∨楾察ο太瑤了臆端圓ら現況報告があった。
最初は生田地区。三里塚現闘40年!現役のI氏(68年農学部入学)から報告があった。
I氏は三里塚芝山連合空港反対同盟大地共有委員会で活動を行なっている。
『三里塚では北原派が数名がんばっているが、熱田派は私1人である。空港反対運動を40年続けている。成田では現在も横風滑走路は完成していない。空港会社から一坪共有地に対する裁判が起こされている状況である。
先ほどの講演で「ウンコ爆弾」の話があったが、こちらでもビニール袋にフン尿を入れてゴムひもでしばったものを使用している。
砂川闘争から三里塚まで人民の闘いは続いており、70~80年代より闘争は縮小しているが、成田空港は完成しないと思う。

2~3年前までは、このような会合に出ることに拒否感があった。
しかし、亡くなる人も出てきて、この先会えなくなるかもしれない、ということと、カンパを集めてくれるということで参加するようになった。
生田の会合に出て、大学時代の経験が今に生きていると思った。』

ここまで話して、手元の資料を広げながら

『ここに全明全共闘結成大会の議案書がある。生田では本校の様子がわからないので、当時、緑ヘルを被っていたが、この大会に参加した。しかし、後で聞くとMLと中核の大会で全明大の大会ではなかった。生田には情報がまったく伝わらなかった。
ところで、私が持っている資料としては生田関係の資料が殆どであるが、こういった資料をどこかできちんと保存していく必要があると思う。』

このI氏の発言に心の中で「異議なし!」と叫んだ。
その時、肩をトントンと叩かれて振り向くと、米田氏から「関連があるから次に喋ってくれ」と言われ、思わず緊張する。
緑ヘルについては、懇親会でI氏に聞いたところ、構改三派であるフロント、共学同、プロ学同ではなく、第四の党派(統一共産同盟)とのこと。
そういえば、昔、生田に構改派がいるということを聞いた記憶がある。

I氏の発言が終わり、「明大全共闘のホームページをやっているY君です」と紹介された。
私(69年商学部入学)からはホームページ作成の経緯などを簡単に報告した後
『私のホームページはマイナーなサイトであるが、インターネットは全世界に開かれている。当時の資料を持っている方がいれば是非貸していただき、時の流れの中に埋もれようとしてる資料を保存・公開していきたい』
とお願いした。

続いて、生田のS氏(67年工学部入学)から報告があった。
『長野県で障害者社会福祉活動を行っている。株式会社水輪ナチュラルファームというところで、自然農法による麦、ソバ、マメの生産を行なっている。
我々の世代は人のことで一生懸命悩んでいた世代であるが、今の世代は自分のことしか考えない。自分のことでなく人のことで悩んでいればウツにはならない。
こんなウツの青年たちを20人くらい預かって青年たちと農業をやっている。
この活動を支えるにはお金がいるので、企業から資金援助を受け、(財)いのちの森文化財団を運営している。
学生時代やっていた想いを今も持ち続けることが大事だと思う。』

当時の志を忘れないこと、同感です。
(財)いのちの森文化財団は、ホームページによると以下のような事業活動を行っている。
1.教育、文化、学習事業
2.環境保全と健康創造事業
 信州の自然を活用した体験学習の実施
3.社会復帰支援事業
 心の悩みや引きこもりなど社会復帰が困難な青年達に対する社会復帰支援
4.啓蒙、広報、研究事業
 新聞「いのちの森」通信の発行など

生田地区の報告に続き、局瑤裡忙瓠66年曲呼?悄砲ら重信さんの救対活動を行っている「土曜会」の報告があった。

『サークル(「教研」)活動家として、1年生の時、学費闘争を闘う。その後、社学同に入り重信さんと一緒に活動。
現代思想研究会に所属し研究部連合会で活動していた。
ブントの分裂後、局瑤亮匈愼韻論峽廓匹犯栖杦匹吠かれ、田中義三氏は赤軍派に行き「よど号」をハイジャック。そして連合赤軍事件があった。
連合赤軍事件で亡くなった遠山美枝子さんの弔いや、タイで逮捕された田中義三氏の救援活動などを仲介に集まるようになった。
重信さんの救対活動については、困っている人が助けを求めてくれば助けるというスタンスで、昔の明治の仲間で月1回集まって、重信さんとの面会や裁判の支援活動を行なっている。土曜日に集まるので「土曜会」。
重信さんからこの集いへのメッセージがあるので、娘のメイさんに代読してもらう。』

メイさんは、メッセージを代読する役目で来ていたのだ。
重信房子さんからのメッセージは、次週全文を掲載します。 

(つづく)

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2月6日、「明大2月6日に集う会」が開催された。
この「集い」に参加できなかった多くの仲間のために、当日の報告を3回に分けて書くことにする。

北風が強く吹く中を多少早めに家を出て、電車に乗りながら「誰に会えるだろうか」と考えているうちに、JR「御茶ノ水」駅に着いた。
改札を抜けると駅前で動労千葉がビラくばりをしている。駅前のビラ配りの光景は昔と変わらない。
駅から歩いて会場の明大大学会館に向かう。旧4号館跡地である。昔の木造2階建ての古ぼけた建物が目に浮かぶ。
大学会館の入口横に立っている警備の職員を横目で見ながら中に入り、会議室まで行くと、まだ準備の最中。気合を入れすぎて、ちと早く来てしまったか。
ソファーに座っていると米田氏が私を見つけて声をかけてくれた。
「5時からの報告の中で、明大全共闘ホームページの件を報告してくれ」とのこと。もしかしてとは思っていたが、発言を求められた。

会議室は70名程の参加者で一杯となり、土屋源太郎氏(砂川事件・元被告)の講演が始まった。(写真)
講演の冒頭、「砂川の暑い日―砂川闘争47年目の証言」(砂川を記録する会・2002年)の一部が15分程上映された。

土屋氏は昭和28年明大入学、学生会中央執行委員長となり、日本共産党明大細胞に入党。
全学連書記長、都学連委員長として砂川闘争を闘った。
土屋氏は、当時の学生運動の流れや共産党からの除名の話などを交えながら、砂川の現場での闘争の様子、逮捕の状況、裁判で伊達判決を聞いた時の驚きなど語った。
そして2008年、機密指定を解除された米公文書の調査から、当時の駐日大使が、伊達判決の破棄を狙って外務大臣に最高裁への跳躍上告を促す外交圧力をかけたり、最高裁長官と密談したりするなどの介入をおこなっていたことが判明したことをきっかけに、日本側における関連情報の開示を求めて「伊達判決を生かす会」を結成し、情報開示を要求する活動を開始、その状況なども報告された。
『伊達判決を覆した最高裁判決に至る過程で、日米政府間でどのような交渉が行なわれたのかは、決して50年前の「昔の話」ではなく、普天間基地問題をはじめ沖縄や全国の米軍基地の存在の根幹に関わる現在の問題である』との認識で活動を続けられており、1月30日の日比谷野音の沖縄集会にも参加されたとのこと。
日比谷野音では沖縄の大学の自治会の旗を見つけ、参加している若い学生に「本土では大学に自治会がなくなってしまった」と話すと、驚いていたという。
土屋氏は今年で76歳になるが、講演は年齢を感じさせないほど熱気に溢れ、予定を30分オーバーして終了した。

しばし休憩ということで、会議室から出るとN氏がいた。明大文学部72年入学の黒ヘルである。「ひさしぶり」と握手すると、会場がわからなくて迷っていたとのこと。
N氏とはホームページを介しての付き合いなので、お互い住所も電話も知らない。
話しているうちにN氏はソファーに座っている重信メイさんを見つけた。重信房子さんの娘である。
N氏は携帯で写真を撮ろうとしているが、なかなか写らないようだ。
しばらく携帯をいじっているうちに、押すボタンを間違えていたことを発見。無事、撮影は終了し、その時の写真はN氏のブログに掲載されている。

休憩の後は、生田、局堯∨楾察ο太瑤了臆端圓ら現況報告があった。
報告の前に、今回の集いの呼掛け人である米田氏から、以下のような開催にあたっての趣旨説明が行われた。

『オール明治の集まりは1990年から10年ごとに開催している。
今回は大きく分けて3つのグループが参加している。1つ目は生田関係で毎年H氏を中心に新年会を開催している。
2つ目は「ネットワークM66」で、怪しい団体と思われるかもしれないが、明大に1966年に入学した者の集まりである。メンバーは約20名、名簿には60名程載っている。2006年には学費闘争の資料集を出した。
3つ目は重信さん関係の「土曜会」。
私が生田の新年会に参加した折、H氏からの提起で、ネットワークM66の呼びかけにより、今回の広く参加を呼びかける集会を実施することになった。』
とのことであった。

報告の最初は、先程講演を行なった土屋源太郎氏。
『現在、生田の中村幸安氏(明大助手共闘)を含めたOB会をやっている。4~5年前からやっているのだが、皆さん歳なので亡くなる方が多い。そこで毎年やることになった。』
と、年齢を踏まえたOB会の実施状況を報告。
土屋氏が『明大で開催するには、校友会に入っていないと会議室が借りられないのでは』と米田氏に聞くと、米田氏が『私も校友会に入っていませんが、大丈夫です』と応じ、会場爆笑という場面も。

この後、生田、局堯∨楾察ο太瑤了臆端圓ら報告が行なわれたが、ブログの字数制限の関係で、続きは次週紹介する。
(つづく)

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 No113の続きです。
7月10日、早稲田大学で大学立法粉砕の全都全共闘総決起集会が開催された。(写真は明大新聞から転載)
【選挙カーに“ナンセンス” 都内の全共闘派が集会、デモ】
1969.7.11毎日新聞(引用)
『「大学立法粉砕7.10全都全共闘総決起集会」は10日午後、全学ストに入ったばかりの早稲田大学キャンパスに、都内約30大学の全共闘派(反日共系)学生約五千人が集まって開かれた。
同7時近くデモに移ったが、ゲバ棒なしで新宿、四谷、虎ノ門を経て日比谷公園まで2時間半にわたり、デモをした。
学生たちのヘルメットの色はとりどりで、各派入乱れての集結ぶりを示していた。
途中で都議選の各政党の宣伝カーに出会うと「ナンセンス」とヤジる風景も見られた。』

7月に入ると夏休みが近いこともあり、集会やデモの動員力も落ち始めた。この集会には、明大から約200名が参加したが、6月に比べるとかなり少ない。
私はこの日の集会に参加したが、明大の部隊が早大の会場に到着する頃には集会はすでに始まっており、「明大到着」のアナウンスがあると、他大学の全共闘部隊から盛んな拍手で迎えられた。

翌11日、駿河台の記念館で大学当局との団交が開かれたが、こちらも参加したのは二千人程度で、バリケード・スト突入時の盛り上がりに比べると寂しい状況であった。
団交では再び全共闘承認問題が取上げられたが、大学側は「個人加盟の全共闘は交渉相手としては認めるが、最終的な調印の相手は全学加盟の学生会とする」との見解を変えず平行線のまま終始した。
さらに学生部問題が取上げられ、全共闘は「学生部を廃止せよ」と迫ったが、学生部長は「私個人には学生部を廃止する権限はないし、学生部は学生諸君のいうような弾圧機関ではない」として結論は出ず、この日の団交は決裂した。
また、同日、約200名が参加して全二部共闘会議が結成され、議長に本間晟豪氏(ML派)が選出された。

この7月上旬の各校舎の様子が明大新聞に載っているので見てみよう。
【和泉 さながら不夜城 徹夜でバリケードの警備】1969.7.17明大新聞(引用)
『(前略)平穏にスト態勢が続いていたやさきの6日に起こった社学同統一派の突然の“内ゲバ”騒動に、機動隊学内立ち入りの噂も乱れ飛び、戦々恐々としはじめた和泉地区のこのごろ。
スト突入以来、登校する学生の数は少ないが、和泉地区にたてこもる全共闘の志気は一向に落ちていないようだ。
昼は各クラス・サークルの自主講座が盛んに行なわれ、夜になって毎晩7~80人は泊まりこむ。特に全共闘和泉地区本部のある1号館は夜になると総ての部屋という部屋に明かりがともって、さながら“不夜城”の感を呈している。(後略)』

私が所属していた414B統一戦線の部屋も1号館にあった。泊まり込みはN君が殆ど行なっており、私はバイトの傍ら校舎に顔を出すという生活をしていた。
N君には1人だけ苦労を強いたようで申し訳ない。

【生田 三里塚へ農業実習】1969.7.17明大新聞(引用)
『(前略)第1班の農経2の1、2の7人は7月5日に出発、1週間農業実習を身体で体験して帰ってきた。「開かれた大学」とはブルジョアのためのものではなく、全存在をかけて権力と闘っている底辺にこそ開かれるべきである、というのが彼等の考えであり、それを実践したものが今度の三里塚実習である。
期間は1週間であるが、9月まで入れ代わり立ち代り、続々と遠征隊を送り込む予定である。交通費は駅前で集めたカンパで間に合うが、食事代は1日基本的には250円だという。
向こうに着いたら、2、3人ずつ各農家に振り分けられ、泊まり込む。働いてやるのだから食事代はタダでも、と思うかもしれないが、「農民は生活をしながら闘っている。決して裕福ではない。食費ナシということは、彼らの闘争に対する経済的破壊へつながる。」として、自費出費しているという。(後略)』

【本校 深夜のハプニング】1969.7.17明大新聞(引用)
『(前略)7号館の学生約30人がデモをかけて、バリ内に入ろうとしたところ、「民青か右翼らしきグループが10号館付近にいる」との情報が入った。各校舎に泊まり込んでいた学生にも伝わり、本校地区は一時騒然とした。
真っ先に馳せ参じたのは二文闘委。20人の武装学生が10号館下の坂道をかけおりて行った。すると、約100メートル向こうにヘルメット、角材、鉄パイプの1団約30人が身構えていた。(中略)
闇を通して、しばらく対峙した後、突然アキビンが目の前で砕けた。と同時に「ワー」と“敵”が攻勢に出た。“味方”はしばし後退。
「逃げるな」の声、そうする内、約30人の応援部隊が駆けつけ、勢力を盛り返した。
いっきに本学学生が反撃に転ずると、向こうは雲の子を散らすように、夜の闇に消えてしまった。
“敵”の一団は、学生の話によると日大の右翼集団らしい。(後略)』
(つづく)

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