
全国学園闘争シリーズ第6回目は東京・紀尾井町の上智大学。
1913年開校のキリスト教系大学である。
今回も大学の写真を撮りに行った。
地下鉄「赤坂見附」の駅を降り、地上に出ると赤坂プリンス・ホテルが見える。
ホテルを右に見ながら「清水谷公園」方面に向かう。
清水谷公園は、当時、高校生の集会やべ平連の定例デモの集合場所ともなっていた。
今では公園の広場も池になり、集会ができるような公園ではなくなってしまった、などと思いながら四谷駅に続く急な坂道を登り始めると、左手の壁に十字架のマーク。
上智大学である。
坂を上りきると南門があるが、ここでは写真を撮らず四谷駅の方に回りこむ。
駅に近い北門で写真をパチリ。(写真)
上智大学闘争の発端は以下のような事件であった。
【大学側が異例の“学園封鎖”】サンデー毎日1969.2.20号(引用)
『紛争の発端は、学内に盗聴事件があったことを理由に、昨年6月5日、大学側が警官を学内に入れたこと。しかも、そのとき、警官の車が一学生をひいて、二週間の傷を負わせたために、学生側の不満がいっぺんに爆発した。
「”堙?菠反対⊂鞠Ю・顧問制・政治活動禁止の“三悪追放”「官憲導入を自己批判せよ」という要求をかかげて6月6日に発足した共闘会議(渡辺将郎議長=文四年)は、交渉のラチがあかないとみるや、夏休み直前の7月2日、1号館をバリケード封鎖した。
(後略)』
この時の様子が新聞記事に載っているので見てみよう。
【一部校舎を占拠 上智大学共闘会議】1968.7.2毎日新聞(引用)
『学生の政治活動を禁止している学生要覧(学則)の改正問題で紛争が持ち上がっていた上智大学(東京千代田区紀尾井町)で、2日午前4時すぎ、全学共闘会議の学生約80人がヘルメットに手ぬぐい、覆面スタイルで同大1号館の窓ガラスを角材で破って突入して占拠し、バリケードを築いた。
同大では過激派の全学共闘が約600人で集会を開きスト宣言をした。
これに反対する穏健派の学生会や体育会の学生、約千人は徹夜でキャンパスなどに待機、スト阻止の構えを見せ、全学共闘の学生たちが1号館に突入するさい、小ぜり合いとなり、双方の十数人が軽いけが。
学生会は2日朝、正門前で登校する一般学生に“暴力主義”の批判を訴える一方、学部やクラスごとに集会を開き、バリケードの是非について話合いをしている。(後略)』
しかし、このバリケード封鎖もわずか1日で解除となる。
【一般学生が押し切る 上智大では本部占拠解く】1968.7.3毎日新聞(引用)
『上智大学(東京千代田区紀尾井町、大泉孝学長)で校舎を占拠、バリケードをきずいていた共闘会議の学生が、2日午後11時すぎ、自発的にろう城を解いた。
バリケードはこの日早朝、実力で共闘会議の学生がきずいたが、この“暴力”は一般学生に“話合い”の機運をまきおこした。
「校舎を返せ」とバリケードにとびかかる学生もいたが「暴力に暴力をもって向かっては問題の解決にならない」とキリスト教系大学らしくたしなめあい「すぐにバリケードをはずせ」という声が大勢を占めた。
こうして前夜まで雨の中のキャンパスや教室で一般学生の話合いが続けられ、ついに共闘会議もこの“良識”に押され、20時間でバリケードの机やイスを教室にもどし、ろう城を解いた。(後略)』
8月23日、大学側は校舎占拠に関係した学生13人を退・停学処分とした。
その直後、講師への暴行事件で全共闘幹部が逮捕される。
【講師へ暴行の学生逮捕 上智大 大量退学処分の直後】
1968.9.1毎日新聞(引用)
『学生の政治活動禁止の撤廃問題をめぐって紛争が起きていた上智大学の全学共闘会議の幹部2人が講師に乱暴したという傷害暴力行為の疑いで31日、麹町署につかまった。
(中略)
容疑は、午前4時半ごろ、共闘会議が構内に無届けで出した立看板を片づけようとした同大学学生生活部係長の文学部講師を取り囲んで同大5号館2階の文化団体連合会本部室に連れ込み、講師の頭を壁にぶつけてこづいたり腰をけったりして約3時間部屋にとじこめたというもの。(中略)
大学側は紛争解決のために学生要覧改訂委員会(委員長、青柳文雄法学部長)を7月に発足させ、改革案を検討し、このほどその要綱をまとめた。
これは9月上旬、中間報告として一般学生に示す。
改革案の骨子はヽ慇犬粒愼發寮治活動は従来どおり禁止するが、学外での個人参加の政治活動は自由教授・学生同数で構成する全学協議機関をつくり大学生活の向上に学生の声を反映させるなど。
一般学生の不満はこれで消えるものと大学側は期待しているが、処分を受けた学生は処分の白紙撤回などで一般学生への働きかけを強める構えをみせている。』
(つづく)