野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2010年03月

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全国学園闘争シリーズ第6回目は東京・紀尾井町の上智大学。
1913年開校のキリスト教系大学である。

今回も大学の写真を撮りに行った。
地下鉄「赤坂見附」の駅を降り、地上に出ると赤坂プリンス・ホテルが見える。
ホテルを右に見ながら「清水谷公園」方面に向かう。
清水谷公園は、当時、高校生の集会やべ平連の定例デモの集合場所ともなっていた。
今では公園の広場も池になり、集会ができるような公園ではなくなってしまった、などと思いながら四谷駅に続く急な坂道を登り始めると、左手の壁に十字架のマーク。
上智大学である。
坂を上りきると南門があるが、ここでは写真を撮らず四谷駅の方に回りこむ。
駅に近い北門で写真をパチリ。(写真)

上智大学闘争の発端は以下のような事件であった。

【大学側が異例の“学園封鎖”】サンデー毎日1969.2.20号(引用)
『紛争の発端は、学内に盗聴事件があったことを理由に、昨年6月5日、大学側が警官を学内に入れたこと。しかも、そのとき、警官の車が一学生をひいて、二週間の傷を負わせたために、学生側の不満がいっぺんに爆発した。
「”堙?菠反対⊂鞠Ю・顧問制・政治活動禁止の“三悪追放”「官憲導入を自己批判せよ」という要求をかかげて6月6日に発足した共闘会議(渡辺将郎議長=文四年)は、交渉のラチがあかないとみるや、夏休み直前の7月2日、1号館をバリケード封鎖した。
(後略)』

この時の様子が新聞記事に載っているので見てみよう。

【一部校舎を占拠 上智大学共闘会議】1968.7.2毎日新聞(引用)
『学生の政治活動を禁止している学生要覧(学則)の改正問題で紛争が持ち上がっていた上智大学(東京千代田区紀尾井町)で、2日午前4時すぎ、全学共闘会議の学生約80人がヘルメットに手ぬぐい、覆面スタイルで同大1号館の窓ガラスを角材で破って突入して占拠し、バリケードを築いた。
同大では過激派の全学共闘が約600人で集会を開きスト宣言をした。
これに反対する穏健派の学生会や体育会の学生、約千人は徹夜でキャンパスなどに待機、スト阻止の構えを見せ、全学共闘の学生たちが1号館に突入するさい、小ぜり合いとなり、双方の十数人が軽いけが。
学生会は2日朝、正門前で登校する一般学生に“暴力主義”の批判を訴える一方、学部やクラスごとに集会を開き、バリケードの是非について話合いをしている。(後略)』

しかし、このバリケード封鎖もわずか1日で解除となる。

【一般学生が押し切る 上智大では本部占拠解く】1968.7.3毎日新聞(引用)
『上智大学(東京千代田区紀尾井町、大泉孝学長)で校舎を占拠、バリケードをきずいていた共闘会議の学生が、2日午後11時すぎ、自発的にろう城を解いた。
バリケードはこの日早朝、実力で共闘会議の学生がきずいたが、この“暴力”は一般学生に“話合い”の機運をまきおこした。
「校舎を返せ」とバリケードにとびかかる学生もいたが「暴力に暴力をもって向かっては問題の解決にならない」とキリスト教系大学らしくたしなめあい「すぐにバリケードをはずせ」という声が大勢を占めた。
こうして前夜まで雨の中のキャンパスや教室で一般学生の話合いが続けられ、ついに共闘会議もこの“良識”に押され、20時間でバリケードの机やイスを教室にもどし、ろう城を解いた。(後略)』

8月23日、大学側は校舎占拠に関係した学生13人を退・停学処分とした。
その直後、講師への暴行事件で全共闘幹部が逮捕される。

【講師へ暴行の学生逮捕 上智大 大量退学処分の直後】
1968.9.1毎日新聞(引用)
『学生の政治活動禁止の撤廃問題をめぐって紛争が起きていた上智大学の全学共闘会議の幹部2人が講師に乱暴したという傷害暴力行為の疑いで31日、麹町署につかまった。
(中略)
容疑は、午前4時半ごろ、共闘会議が構内に無届けで出した立看板を片づけようとした同大学学生生活部係長の文学部講師を取り囲んで同大5号館2階の文化団体連合会本部室に連れ込み、講師の頭を壁にぶつけてこづいたり腰をけったりして約3時間部屋にとじこめたというもの。(中略)
大学側は紛争解決のために学生要覧改訂委員会(委員長、青柳文雄法学部長)を7月に発足させ、改革案を検討し、このほどその要綱をまとめた。
これは9月上旬、中間報告として一般学生に示す。
改革案の骨子はヽ慇犬粒愼發寮治活動は従来どおり禁止するが、学外での個人参加の政治活動は自由教授・学生同数で構成する全学協議機関をつくり大学生活の向上に学生の声を反映させるなど。
一般学生の不満はこれで消えるものと大学側は期待しているが、処分を受けた学生は処分の白紙撤回などで一般学生への働きかけを強める構えをみせている。』
(つづく)

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No120の続きです。
和泉地区では夏休みに入ると全共闘の動員力も極端に落ち、バリケードの検問所にもヘルメット姿が見られなくなった。
誰でもフリーパスのような状態で、キャンパスには学生の姿も少なく、静かな夏の日差しの中で、体育館から体育会の練習の声だけが元気良く聞こえる程度であった。
この7月下旬の各校舎の様子が明大新聞に載っているので見てみよう。

【和泉 機動隊に起こされて】1969.8.7明大新聞(引用)
『内実はともかく、最も元気のよかった和泉地区ではあるが、最近は全く精彩を欠いている。
和泉地区全共闘の組織的活動はほとんど行なわれておらず、代表者会議、警備、レポなどは皆無である。
泊り込みの学生も、当初100名近くいたが、このところ約30名と激減した。
本部の多くて7~8人、少ない時は2~3人、わずかに電話の交換が細々と行なわれている。(中略)
去る16日、和泉校舎1号館、学館、部室センターが捜査されたが、正門バリケードが撤去されそうになっても、全然気付かなかった。しかも朝の7時。
この時、1号館には32人が泊り込んでいた。
内ゲバに関係のあるブント系の学生は一目散に逃げたが、クラス闘争委員会のノンセクト学生は右往左往、ケッサクなのは機動隊に起こされた学生・・・。(後略)』

この記事にある機動隊に起こされた学生は、私の所属していた414B統一戦線のN君かもしれない。確かN君から機動隊に起こされた話を聞いたことがある。

【生田 手づくりのガリ新聞】1969.8.7明大新聞(引用)
『(前略)
ここにガリ版ですった、手作りの新聞がある。
1つはその名も「二枚舌」。誰かを皮肉ったらしい。
7月15日(火)付で創刊号である。4ページ建て。
1面のトップには「情況を切開く者へ!農再編再考の一視点」という見出し、「天下堂ビル占拠(11日)」のニュースあり、これまでの闘争経過あり、さらには「朝日ジャーナル」から転載した「秋田議長の獄中日記」まで掲載している。
もう一つは「黒潮」新聞。これも創刊号で、日付は7月16日。
トップは「7.11団交、逃げの明治本性暴露」と何やらスポーツ新聞めく、そして、これも同じように闘争経過を載せている。
いずれも週刊だそうで、出来上がった新聞は田舎へ帰っているクラス員に郵送しているという。
散りぢりになったクラス員のコミュニケーションにはいい方法である。』

写真は生田の農学部解放放送局(明大新聞から転載)

【本校 5年生卒試を阻止】1969.8.7明大新聞(引用)
『駿河台一帯にまだ人影もまばらな午前8時半、本学全共闘200人のデモ隊の笛が路上にこだまする。
法学部5年生卒業試験阻止のためにデモ隊は“男坂”から試験予定会場の明治高校で急行した。
しかし、そこには「試験中止」の貼り紙と2,3の職員を残すのみ。
法学部事務長をつかまえて聞く「何で試験を中止したんだ」いわく「“卒試粉砕”のタテカンが出てたから。」
(中略)
全共闘は22日から生田合宿のため出かけたが、その間本館はガラガラ。留守部隊がわずかに残っていた。
また、21日、突然旧学生会館(8号館)2階の駿台祭実行委員会室があっという間にとりこわされた。
生協の書籍部が移転してくるという。
これに対し学苑会は“抗議”の警告文を出し、工事の中止を要請している。ほか、諸団体からも抗議の声が上がっている。』

7月末、全国全共闘連合結成に向けた会議が、和泉で行なわれた。
【戦略、実はバラバラ 全共闘連が初会合】1979.7.31毎日新聞(引用)
『9月上旬に結成をめざしている「全国全共闘連合」の初の全国代表者会議が30日、東京杉並区の明大和泉校舎で開かれ、関東・関西地区を中心に紛争中の約80校の代表300余人が集まった。
個別学園闘争から全国の全共闘がスクラムを組んでの総反乱へ。
キャンパスから再び“市街地闘争”へというわけで、革マル派を除く反日共系諸党派とノンセクト・ラジカルが大連合したものである。
議長には潜伏中の山本義隆東大全共闘代表、副議長には拘留中の秋田明大日大全共闘議長が予定されている。
このほか各党派の代表による全共闘事務局または書記局が置かれ、事実上の指導部となる。(中略)
しかし、各派の大連合とはいうものの学園闘争を教育改革闘争として位置づけるか、政治闘争とするかをはじめ11月の佐藤訪米闘争をどの程度の展開にするか、70年安保闘争をどう進めるか、その中で全国全共闘連合がどういう役割を果たすべきかなどの点では各派の主張もバラバラ。
全国全共闘連合をともかく発足させようという1点だけでは各派一致しているが、あとは同床異夢といったところ。
30日の代表者会議でも各セクトの基調演説がヤジで聞きとれないほど騒然とした。』

(つづく)

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「明大2月6日に集う会」の報告を3週にわたり書いてきたが、この「集い」に参加できなかった(しなかった)方々も大勢いる。
今回はそんな仲間の想いなどを中心に書くことにする。(写真は「集う会」の最後、インターの合唱の様子)

昨年の暮、米田氏からホームページでの「集い」の情宣を依頼され、当時の関係者で連絡が取れる者にはメールや手紙で案内状を送った。
「都合で行けないが、知り合いに声をかける」と返事をくれた者もいたが、「この集会に大変興味はあるが、酒を飲みながら当時を語ることができない」、「案内をもらったが、行くのは重たくて行けない」との返事もあった。
都合で参加できない者もいたが、参加を躊躇する者もいたということだ。
彼らに参加を躊躇させたものとは、一体何だったのだろうか。

私は、ある出来事がきっかけでホームページをつくり、「あの時代」を今に伝える作業を始めたこともあり、今回の会合に出ることに躊躇いはなかった。また、当時活動していた方たちにも素直に会いたいと思った。
しかし、あれから40年、私が連絡を取った仲間の多くは当時を語らず、それぞれの場所でひっそりと暮らしている。
当時、一緒に活動した仲間でも、それぞれの生活があり、生き様があり、「あの時代」に対する想いも1人1人違う。
また、それぞれ闘争に関わった時期や場所により、闘争への距離感もそれぞれ異なると思う。

私の仲間の多くは69年入学の世代であるが、東大安田講堂攻防戦の後で、学園闘争はすでに「後退戦」に入っていた時期である。
明大では69年6月に全共闘が結成されるが、党派主導による全共闘だったことから、各党派間・党派内の内ゲバにより全共闘は崩壊し、全共闘に結集していた多くの仲間もバラバラになっていった。
そして、70年安保闘争以降の停滞した運動を地道に再編していったが、72年、ノンセクトの中心的組織であったマップ共闘と戦旗(荒派)と武装衝突が起こり、多くの犠牲者が出た。我々の活動時期はそんな「辛く苦しく重い時期」だった。
そんな時期の体験が、「あの時代」の関係者が集まる「集い」への参加を躊躇わせたのかもしれない。
彼らが漏らした「参加できない」、「重い」という言葉は、「あの時代」を誠実に自らの内に抱えてしまった者の痛みから発した言葉ではなかろうか。

一方、2月6日の「集い」で報告を行った生田のS氏は、「集い」の事務局にこんな想いをメールで送っている。(文中の名前は公開している方以外は仮名にしました。)

『事務局お疲れさまでした。三里塚で頑張っているIさんには敬服しました。
またそれぞれの方達の自分史もあり両川さんやSさんにあえるとは思っていなかったので感慨深い会でした。
一方でS(別のSさん)さんからマップ共闘の友人が戦旗に仕掛けられたゲバのキズが残っていて、そんな連中も集まる会には出たくないと言っていたとの話には身につまされる思いがしました。
 私自身においても生協での党派の内紛とそれに振り回された回りの人たちに対する不信感が拭いさられたわけではありません。
そんな心のキズを抱えている人たちも多いのではないかと思います。いずれにしてもこれからの人生において全共闘として関わった人生を消し去ることは出来ませんし、その中で自分がどのように成長し、これからの人生に何を残し伝えていくのかが問われていると思います。重信さんの事にしても同じ明治の中でも明暗を分けていることを思うと言葉を失ってしまいます。
それぞれが60才を過ぎてこうして苦さを感じながらも、心の闇が少しずつでも融けていけばいいと思っています。
ありがとうございました。
 あえてこの間の文に追加するとすれば、やった方もやられた方も同じように心の闇を抱えて生きているのだと思います。
 Hさんにしても随分と嫌な思いをされたでしように、愚痴を聞きません。偉いと思います。
所詮は自分が決めて関わったことですから自分自身の人生として責任をとるしかないのだと思います。
その意味ではポチの死は深い悲しみを誘います。けれども「遠くまで行くんだ」という気持ちで歩み続けていく覚悟です。
 疲れたときにはまたふらっと出かけてきて下さい。』

ここに出てくる「マップ共闘の友人」は、多分Y氏だろう。
Y氏は72年6月、明大前駅前で戦旗(荒派)による武装襲撃により全身打撲の上、両足を鉄パイプでメッタ突きにされ、1ヶ月の重傷を負った。
確かに体の傷とともに心の傷も深く残っていると思う。それについては何も言えない。
S氏が書いているように「やった方もやられた方も同じように心の闇を抱えて生きている」のだろう。

「あの時代」から40年、それが「和解」に向けた小さな一歩であっても、今回のような会合が開かれたという意義は大きいと思う。
会い、語り合うことによって、「心の闇」が少しずつ融けていくことを私も願っている。

(終)


 

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