野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2010年04月

イメージ 1
No126の続きです。

衆議院で可決された大学立法は8月3日夜、参議院本会議で強行採決され、8月17日に施行された。
新聞によると、この時点で「紛争中」の大学は国立41、公立7、私立23の計71大学となっている。もちろん明大もその中の1校であった。

大学立法施行時に、ストや校舎占拠などから6ヶ月以上たった「重症校」は東京教育大学、東京外語大、東京水産大、横浜国大、富山大、京大、阪大、神戸大、和歌山大、岡山大、広島大、熊本大の12校。
「紛争大学」と認定されると、自主収拾期間を経て文部大臣による職権閉校、そして大学廃校となる。
大学立法の施行を待たず、神戸大では機動隊が導入され、バリケード封鎖が解除された。また、大学立法施行日には、広島大と中央大に機動隊が導入され、徹底抗戦した学生が逮捕され、その後も次々と機動隊が導入されていく。
一方、明大の学内ではまだ大きな動きはなく、夏休み明けが焦点とされていたため、私と414B統一戦線のN君は大阪城公園で開催された「反戦のための万国博」に参加するため、大阪に向かった。(ハンパクの様子は、No94~96を参照)

8月はバリケード封鎖も1ヶ月以上経過し、夏休みということもあり、闘争も休戦状態となったが、明治大学新聞に明大闘争の経過と展望について、全共闘幹部による座談会が掲載されているので、見てみよう。
出席者は全共闘代表の福田直人氏の代理で生田の八木文明氏(工学部建築科4年)(社学同)、全二部共闘会議議長の本間晟豪氏(二部文学部4年)(ML派)、学生会中央執行委員長の両川敏雄氏(政経学部4年)(社学同)の三氏である。

【新たな全共闘運動の創出を】1969.8.21明治大学新聞(引用)
『司会:では、まずこれまでのバリケードストの思想的背景を踏まえた上での経過を具体的に述べていただきたいと思います。

八木:一時的には学生の昂揚すなわち大学立法粉砕の闘いがなされてきたのだが、大学側の夏休みという巧妙な対策の中で、闘いの結集の基盤がなくなってきているし、現在的にはこの全共闘運動が大学立法に対して結合しているのか、あるいは9.10.11月の佐藤訪米へ向けての結成の管であるのか、そこまで問われていると見ています。

本間:バリ・ストについてはいろんな総括ができると思う。
ひとつには大学立法という闘いそのものに対する総括と、も一つはとりわけ二部において強調されてきた全共闘運動についての総括です。
極端にいうと明治大学で創り出すものは何よりも全共闘運動だと思う。
バリ・ストの総括をする時、この全共闘運動をいかに現出せしめたかを重要な問題にしなければならない。
これについてはそれほどの成果があったとはいえない。
というのは大学立法そのものが明確な政治的焦点を持ちにくい性格をもっていたから、逆に学生の意識の分解が定着したまま運動が進行せざるを得なかったということがある。
しかしながら、大学立法の闘い、総括としての日本における大学闘争がこのまま平行線を辿っていくとは考えない。
個別明治大学だけをとってみても、夏休み明けが一つの焦点となりながら、授業再開か否かで一つの大きな流動化があらわれると思う。
問題はその流動化に、今の組織がどれだけ耐えうる組織的力量・運動実践としての力量を保ちえるのかということを検証していかなければならない。

両川:総括を行なう場合、はっきり全共闘運動は学生会中執ではないということを重要な問題として総括しなければならない。
全共闘が結成されたのは、大学立法反対、明治大学におけるいろいろな諸矛盾という二つの社会的問題を、層としての政治的問題のスローガンとしてかかげてきた。
だから、これらは即時的に学生諸君が理解できたと思う。
そういう意味では、夏休みを控えて苦しいのは当然のことであるし、それほど悲観的なことだとは思わない。
あとは全共闘運動が単なる共闘会議という性格に終わった場合、一つの社会革命の問題としてしか把えきれないという限界性を、全共闘内部で討論する必要があると思う。
その場合、全共闘がポツダム自治会を乗り越える形であるとするのではなくて、むしろ現在の既存の政治体制というものに向かって攻撃できるかということを提起する必要がある。
と同時に、この間政治闘争を闘ってきた全学連・全共闘という二重的な組織がどうしても必要だ。(後略)』

この座談会では、ノンセクトの台頭と、それをいかに全共闘運動に包含していくのか、そして今後の政治闘争を含めた展望、全学連と全共闘の関係などについて語られ、「全共闘自身が武装して、学内における武装から権力に向けての武装という運動形成にならざるを得ない。」「全共闘は70年安保を闘えない限り、これからの運動は一切ない。」「全共闘という統一戦線機構の中において指導的な党派というものが、どれだけ指導力量を発揮できるか問われている。」などの発言が続いた。

(つづく)

イメージ 1
上智大学闘争の紹介も3回目となる。
前回の続きで、機動隊導入の状況を読売新聞の記事で見てみよう。

【上智大 六ヶ月の“閉鎖”発表 警官隊が出動 占拠排除 52人逮捕】1968.12.21読売新聞(引用)
『(前略)この朝、警官隊立ち入りに対し、占拠している反帝学評派を中心とする全学共闘会議派80人は、1号館から激しい投石を浴びせて抵抗、機動隊も催涙ガス弾100発を撃ち込むなど、約30分間にわたって“攻防戦”が続けられたが、結局同7時20分、抵抗した52人全員が建造物侵入、公務執行妨害現行犯で逮捕された。
このさい機動隊員3人と学生1人がケガをした。
同大学では、事後対策として、当日は休講、あす22日から冬季休暇にはいるほか、向こう六ヶ月間大学を閉鎖することを決めた。
同大学が、大学閉鎖という思い切った措置をとったのは、警官隊を導入して紛争が解決した大学はこれまで、国際基督教大学と佐賀大学の2例しかなく、事後対策を誤れば、たとえ授業を再開しても、再びスト派によって校舎が占拠され、東大のような事態を招き、入試などに影響が出るものと判断したためとみられている。(中略)
上智大学が全国でも例のない6ヶ月間閉鎖という強硬策をきめたのは、校舎が封鎖され、ヘルメット姿の学生が白昼でも学内で角材を持ち歩くなどの異常事態が続いているのに、一般学生が不自然を感じなくなったのを恐れたため。(後略)』

【突入の機動隊に“声援”上智大 一般学生、寮の窓から】
1968.12.21読売新聞(引用)
『「諸君、ただちに学外に退去したまえ」守屋学長が語気鋭く携帯メガホンで叫ぶ。
「うるせー」と学生の怒号。21日の夜明け、東京・紀尾井町の上智大学への警官隊立ち入りの幕開けは、こうして始まった。
そこには教授と学生という師弟の関係は全くなく、この朝の寒気のように寒々としたキャンパスだった。
事態を見守る寮生の間にも「機動隊がんばれ」「機動隊帰れ」の声が入り乱れ、複雑な大学紛争の1面をまざまざと見せつけていた。
外人神父の多い同大学では、学生の校舎占拠と学内デモで、神父さんたちはスト突入以来五十数日間というもの安眠を妨害され、安らぎの日はなかったという。
それだけに、警官隊導入のさいの、神父さんたちの表情は「これでようやく静かになる」とばかり、ローマンカラーにヘルメット姿で警官隊の先導をかって出る一幕もあり印象的だった。
夜が白々と明けたばかりの午前6時半、守屋学長を先頭に教授陣がまず裏門から学内にはいり「諸君、やむを得ず警官隊を導入します。直ちに退去してください」とメガホンで、校舎占拠中の学生に呼びかけた。
ところが、校舎から飛び出してきた約20人の学生たちにたちまち取り囲まれ、有無をいう間もなく学外へ追いやられてしまった。
学生たちはそのまま裏門にすわり込んでピケを張った。
同学長は憤然としたおももちで、「そこをどきたまえ、退去したまえ」と声を張り上げる。「うるせー、引っこめ」という学生のば声。
続いて機動隊がどっと学生を取り囲み、たちまち学外へ引きずり出した。
裏門わきの学生寮は、眠りを破られた一般学生が、寮から顔を出し、成り行きを見守っていたが、機動隊が学内に突入するとどっと拍手が起きた。
こんな現象はこれまでのあらゆる大学紛争ではみられない光景だった。
「機動隊がんばれ」「スト派をやっちまえ」という一般学生の“声援”を背に受けて、機動隊はスト派が占拠している1,3,4号館へ殺到。
スト派学生は窓を破って投石の準備。たちまち石の雨。それに混じって硫酸らしい薬品のはいった茶色のビンも飛ぶ。
表門からも機動隊と警備車が突入、校舎は包囲された。
学生の投石が激しいため、午前7時半、各隊に催涙ガス弾発射が指令され、学生がたてこもる部屋はみる間に白煙に包まれて、投石も散発的になった。
警官死亡事故にこりた警視庁の“宝刀”のガス攻めが、ここでも抜かれた。
この間げきを縫って、機動隊が校舎に突入、学生を1号館の1室に追いつめ、つぎつぎ逮捕、約30分にわたる攻防戦が終わった。
8時ごろになると、登校してきた学生が次第にふえはじめた。スト派シンパや民青系の学生約100人は「機動隊帰れ」のシュプレヒコールを繰り返したが、すぐ学外へ押し出された。
大学当局が雇った作業員たちが、門を閉鎖したため、裏門付近はたちまち学生たちで埋まってしまった。(中略)
機動隊の導入による占拠学生排除の報に、午前中からぞくぞくと学生が登校、グラウンドのあちらこちらで輪をつくった。
機動隊導入反対のジグザグデモを続ける“活動家”たちを横目で見ながら、話題はどこも機動隊=閉鎖という解決方法の是非。
「あらゆる手段をつくした上で、機動隊導入はやむを得ない」といい切る賛成論、「もう少しほかに手段はなかったか」と反対論。
グラウンドの意見は二つにわかれて、真剣な討論が続いた。(後略)』
(写真は毎日ムックから転載)

(終)

イメージ 1
前回の続きで、上智大学闘争について紹介する。

全共闘は大学側による大量の退・停学処分や幹部の逮捕にもめげず、再び闘争を開始する。

【大学側が異例の“学園封鎖”】サンデー毎日1969.2.20号(引用)
『(前略)これで完全につぶれるかと思われた学生側は、10月になってから、ふたたび共闘会議を結成。こんどは次の5項目をかかげて、運動の建直しをはかった。
13人の大量処分白紙撤回官憲と大学当局の一体化を自己批判せよ承認制・顧問制・政治活動禁止の“三悪追放ぜ治会設立ズ2鵑瞭争に関し処分を出すな。
そして、「10.21デモ」に上智大学としては初めて、約500人の学生が自校の旗をかかげて参加。
こうして、力をたくわえた共闘会議は、先の失敗にもこりず、今度は1.3.4号館を占拠、バリケードの中に閉じこもった。(後略)』

【上智大学で三校舎占拠】1968.11.8毎日新聞(引用)
『上智大学では7日夜から全学共闘会議の学生約150人が同大1号館、3号館、4号館の三校舎を占拠、バリケードを築いた。
学生要覧(学則)にある政治活動禁止条項の撤廃を要求して7月におこなった闘争に対し、大学側が8月23日、学生13人を退・停学処分したことに抗議、大衆団交を要求していたが、7日午後、大学がこれを拒否したため学生側が封鎖に出た。
学生会系の学生は8日午後、同大構内のメーンストリートでバリケード反対の集会を開いた。』

【全学協議会つくる 学生参加の要求を承認】1968.11.22毎日新聞(引用)
『紛争の続く上智大学の守屋美賀雄学長、ビタワ理事長ほか各学部長は21日午後、約二千人の学生と全学集会を開き、学生側の作成した学生要覧(学則)の改正案を承認した。
これにより大学側は全学協議機関の設立による学生の部分的運営参加、学生による課外活動の自主管理など解決の具体策を始めてはっきり打出し、紛争解決への意欲を見せた。
この日、開会と同時に全学共闘会議の学生が「学生会不承認、ギマン的改正案反対」を叫んでつめかけ、反スト派の学生ともみあったため話合いは一時中断したが、守屋学長は再び演壇に登り「学生要覧は学生側の要求どおり改正を認める。全学協議機関の具体的内容は学生との話合いで決める。処分の白紙撤回はできないが、再調査のための機関をつくる」など大学側の立場を説明、全学共闘会議にも全学集会への参加を呼びかけた。
しかし占拠を続ける全学共闘会議、この改正案を拒否、全学集会もボイコットしており、解決までにはまだ時間がかかりそうだ。(後略)』

学生会と大学当局との全学集会、そして大学側による学生会の学生要覧(学則)改正案の承認とバリケード解除に向けた動きが続くが、全共闘はバリケード封鎖を続ける。

【上智大 六百人衝突 バリケード排除めぐり】1968.12.14 読売新聞(引用)
『(前略)上智大学で、14日正午すぎ、バリケードを実力で排除しようとする一般学生と全共闘の学生が構内広場で衝突、一般学生の1人が角材で頭を割られるなどケガ人数人が出た。
この日、午前11時から同広場で一般学生約三千人が集会を開き、「正午までに封鎖を解除しなければ実力で排除する」と決議。
全共闘へ通告したが応じなかったため、午後零時15分、ヘルメットを被った五十人の学生を先頭に一般学生四、五百人が、角材で武装する全共闘約百人のピケへ突っ込み、こぜりあいを続けている。(写真は読売新聞から転載)』

【大学側が異例の“学園封鎖”】サンデー毎日1969.2.20号(引用)
『(前略)このような動きを見て、大学側も「五項目要求」への回答を出さざるをえなくなり、11月26日の公開討論会を経て、こう答えた。
13人の処分については審査委員会を作り、これに学生を参加させる⊇菠の白紙撤回はしない7抓影各?篭杁泙つ任命の危険があればしかたがないこ慇戸徑?魏?気掘⊂鞠Юから届け出制とするゼ治会は学生に自由意志にまかせる。
これでも解決がつかず紛争が長びくとみた大学側は、冬休み直前の12月21日、ついに機動隊を導入して、ロウ城学生を排除、6ヶ月間の“ロックアウト”を宣言した。(後略)』

【上智大 六ヶ月の“閉鎖”発表 警官隊が出動 占拠排除 52人逮捕】1968.12.21読売新聞(引用)
『(前略)上智大学では、21日午前6時半すぎ、大学当局の要請によって警視庁の機動隊800人、私服警官100人が学内にはいり、占拠を続ける全学共闘会議派を排除した。
大学当局の要請で警官隊が学内にはいったのは、東大、東洋大についで、ことし三度目だが、大学当局では事後対策として向こう6ヶ月、四谷キャンパスの閉鎖と三年生以下の講義を休講することをきめた。
警官隊導入後の“大学閉鎖”という思い切った措置は、全国大学で始めての試みであり、これによって紛争が解決につながるかどうか、一般学生の反応が注目されるが、とにかく大学紛争解決への大きな試金石となるものとみられている。(後略)』

(つづく)

↑このページのトップヘ