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全国学園闘争シリーズ第7回目は京都の立命館大学。

立命館大は、1981年、広小路から衣笠に全学部が移転してしまっており、写真を撮る意味もないので、今回は現地調査をしなかった(京都まで行けない)。(写真は毎日グラフから転載)

この立命館大学の闘争の様子が毎日新聞に掲載されているので見てみよう。
【「日共王国」に反乱の火】1969.2.13毎日新聞(引用)
『全国の大学が学園紛争にゆらぎ、消え去っても最後まで“生き残る”だろうといわれた京都の立命館大学にいま大きな騒ぎが持上がり、その存廃を問われている。
全国の大学関係者の称賛のまとだった「立命館民主主義」そのものが学生たちから「これでいいのか」ときびしく“告発”されているのだ。
12日午後開かれた全共闘主催の大衆団交でも、末川総長は約二千五百人の学生を前に「立命館民主主義の形がい化と私の怠慢に対するそしりは甘んじて受ける」と学生の前に首をうなだれた。“形がい化”の中身とはどんなことだろうか。

<「理想の学園」が・・・>
立命館大学といえばいまから20年も前から総長選挙への学生の参加を実現させたほか、理事者、教授、職員、学生の参加する全学協議会、学園振興懇談会、問題があるたびに各学部で開く“五者会談”(大学側3人、学生側2人が出席)を設けるなど、学生参加の“教祖的存在”。
学園には対話の花が咲き、授業料は格安で、なんら文句のつけようがない「理想の学園」というイメージがあった。
東京大学が11日に批准した“15項目確認書”などはすでに20年も前から実践してきた大学。その立命館大学が大きくゆらいだのだ。

<学園新聞を押さえろ>
騒ぎが持上がったのは、昨年12月12日午後1時過ぎのこと。
「立命館学園新聞社」に日共系の学園振興懇談会委員長ら十人の学生が押しかけ「学園新聞を“民主化”するために入社させろ」と迫ったことから始まった。
「学園新聞は大学全学の意見反映の場でなければならない」「立命館全学友の利益になる新聞づくりを」と口々に呼号する十人の学生とその応援グループはそのまま編集室に乱入「入社時期(4-5月)をとっくに過ぎたいま、大量入社は認められない」とはねつける編集部員とにらみあい、乱闘さわぎにまでなった。
学園新聞の奪いあい。いま全国各地の大学で、日共系、反日共系の間に激しくくりひろげられている闘いのひとつだ。
日共系は「学園新聞の民主化」を唱え、逆に反日共系は「日共=民青のいう“民主化”とは実際は“民青化”でしかない。新聞のセクト的乗っとり反対、報道の自由を守れ」と反論する。
そして立命館学園新聞は、反日共系の中でももっとも先鋭的なグループなのだ。
立命館大は理事会、教授会、学友会、教職員組合、生協、生協労組と日共系がつぎつぎに勢力化におさめていった。知る人ぞ知る“日共王国”。
それだけに“日共の一元支配”にたてつく学園新聞は日共系にとって目の上のタンコブ的存在だった。こうして“集団入社強要事件”が起こった。
しかし、日共系のこの強行戦術が、結果的には裏目に出た。寝た子を起こす結果となった。
それでなくとも「立命館は日共の一元支配・赤い巨塔」「末川総長は日共にあやつられるロボットでしかない」とふだんから息のつまる思いがしていた“一般学生”が一斉に立ち上がり、日共攻撃を始めたのである。
とくにこの事件に対してとった大学当局、教職員組合などの態度があいまいだったため、学生の憤激は高まり「立命館民主主義とは立命館民青主義でしかなかったのか」という思いを強くさせることになった。
平和な学園は大きくゆれ、反日共系の学生は「大学の権力を握った学友会=日共勢力が自分の思いどおりにならない新聞社を乗っ取るために、あらゆる手続きを無視し、ソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍がチェコ侵入を行なったとまったく同じ行動をとった」と一斉に反撃を開始した。
そして1月16日には寮生が中心となって“民主立命の徹底した告発”をかかげて、大学本部のある中川会館を封鎖、占拠、東大安田講堂のあとを追った。

<一般学生と乱闘>
日共系もただちに反日共系締出しに転じ、22日深夜“外人部隊”を含めた五百余人が中川会館に攻撃をしかけた。
放水、投石、乱闘とあとはおきまりのコースだが、このあとただ立命館ではよその大学には見られない“珍現象”が起こった。
体育会の呼びかけで六百人近い“一般学生”が間に割ってはいり、日共系学生に「攻撃はやめよ」と迫ったのだ。
日共系は「こいついらは一般学生じゃない。“かくれ三派だ”」となおも襲いかかり、あろうことか日共系と一般学生との乱闘にまで発展した。
よその大学では“一般学生”をあれほど大切にする日共系が、と目を疑うばかりの状況。しかも大学当局がなかば公認しての日共系の攻撃だけに一般学生たちはますます大学攻撃の火の手を強めた。(後
略)』

(つづく)