野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2010年05月

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前回に引き続き立命館大学の闘争の様子を紹介する。

69年1月22日の日共系による封鎖中の中川会館攻撃関係の記事が朝日ジャーナルに載っているので見てみよう。
【関西にみる東大紛争の衝撃】1969.2.9朝日ジャーナル(引用)
『(前略)
代々木系の誤算は立命館大学でもっとも鮮明にあらわれてくる。
立命館大学でも京大と同じく、22日夜、大学当局から黄色ヘルメット500個が配給され、京大学生部に武装部隊が突入したほぼ同時刻に、ゲベ棒部隊約200人が封鎖された中川会館に突撃した。
すじ向いから中川会館を見下す存心館屋上には、援護射撃のため数百人の投石部隊が配置され、京大と同様、放水もおこなわれた。しかし、中川会館は陥落しなかった。
というのは代々木ぎらいの体育部を中心とする一般学生が毎日つめかけており、その日は千人以上にもふくれ上がって、武装突撃隊の前に立ちふさがり、素手のうずまきデモで武器を奪って、校門から放り出してしまったからである。

実は代々木系は、これに先立って“暴力学生”実力排除に関して、全学同意をとりつけようと着々と手を打っていた。
18日には代々木系が牛耳る五者共闘(一、二部学友会、生協理事会、同労組、教職員組合)と大学当局との間で「封鎖解除、中川会館内に軟禁されている学寮委員の身柄釈放を20日正午までにおこなえ」という「寮連合」(封鎖派)に対する最後通告を決定。
20日には大学当局と五者との共催で五千人を集める全学集会を開き、即時解除を決議する。(中略)
そしてこの日は、代々木系学友会一派が封鎖解除に押し寄せたが、体育会などの学生が間にはいって収拾してしまう。

ここで代々木系は戦術をきりかえ各学部五者会談と拡大学園振興懇談会を開いて、実力解除の大義名分をとりつけようとする。(中略)
学友会は代々木系が牛耳っているが、学部長も半数が代々木系だといわれ、実力解除、武器供与は簡単に決まった。
ところが、話合い路線を主張する林屋辰三郎文学部長は、実力解除、学部長の自己批判を叫ぶ代々木系学生に一晩抵抗したあげく、22日の理事会に辞表を提出、これに文学部三役の山本幹雄教授と佐々木高明助教授がならった。
さらにノンポリの名和献三・経営学部長と橋本次郎、理工学部長が辞表を出し、理事会の崩壊によって拡大学振懇は宙に浮いてしまったのである。

こうして立命館では京大のように全学一致による武力解決がとれなかったため、理事会は急遽平和解決に方針を改める。
が、この方針変更が武装突撃隊に伝達されないうちに、戦端が開かれてしまった。
ということは、京大と同時期に、大学の“正規軍”として攻撃を開始するという代々木系上部のスケジュールが、簡単に変更できなかったからであろう。(後略)』

翌2月20日、2月18日のゲバルトを口実に機動隊が学内に入り、中川会館の封鎖は解除される。(写真は18日の様子。朝日新聞報道写真集より転載)
【立命館大にも警官隊】1969.2.20毎日新聞(引用)
『乱闘事件 要請なしの“独自捜索”
京都府警本部は20日午前7時40分、大阪府警からの応援500人と府下28署からの約100人を含む制私服警官千八百人を動員、大阪府警のヘリコプター、警備車2、放水車、無線車各1台を装備、京都市上京区河原町広小路の立命館大学広小路学舎を捜索した。

学生の抵抗はほとんどなく、凶器準備集合罪、公務執行妨害、傷害、暴力行為容疑で先月16日いらい反代々木系学生が封鎖する本部、中川館をはじめ、18日夜から19日朝にかけて大乱闘のあった存心館および周辺広場など4ヶ所を検証した。
この間、学生約500人が西門にまた約400人が中川会館前広場にすわり込んだが、小ぜり合い程度で大きな混乱はなく、検証は急速度で進められ、同9時すぎ学生1人(黙秘権行使)を市公安条例違反現行犯で逮捕、警官2人が2日間のケガをしたほか学生数人も軽いケガをした。

同大学では去る18日夜、法学部の反代々木系学生が存心館を占拠したのをきっかけに、同館にたてこもる反代々木系と、その奪還を目ざす学友会の代々木系学生が18時間にわたって投石、放水、角材による乱闘を重ね、19日午後零時半、反代々木系の退去で存心館は封鎖解除されたが、学生約100人が重軽傷を負った。(うち1人重体、2人重症)
府警は19日最高幹部会議で強制立ち入り捜査の線を決めて末川博総長に協力を要請、学内立ち入りを反対してきた同総長も「自主解決は目ざすが、法による捜査ははばめない」との態度を示したもの。

学園紛争の対立をめぐる乱闘事件で大学側の要請なしで立ち入り捜査するのは関西ではこんどがはじめて。
また、立命館大に警官隊が入るのは戦前戦後を通じて最初で、封鎖中の中川会館は1月16日から35日ぶりに解除された。』

(つづく)

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全国学園闘争シリーズ第7回目は京都の立命館大学。

立命館大は、1981年、広小路から衣笠に全学部が移転してしまっており、写真を撮る意味もないので、今回は現地調査をしなかった(京都まで行けない)。(写真は毎日グラフから転載)

この立命館大学の闘争の様子が毎日新聞に掲載されているので見てみよう。
【「日共王国」に反乱の火】1969.2.13毎日新聞(引用)
『全国の大学が学園紛争にゆらぎ、消え去っても最後まで“生き残る”だろうといわれた京都の立命館大学にいま大きな騒ぎが持上がり、その存廃を問われている。
全国の大学関係者の称賛のまとだった「立命館民主主義」そのものが学生たちから「これでいいのか」ときびしく“告発”されているのだ。
12日午後開かれた全共闘主催の大衆団交でも、末川総長は約二千五百人の学生を前に「立命館民主主義の形がい化と私の怠慢に対するそしりは甘んじて受ける」と学生の前に首をうなだれた。“形がい化”の中身とはどんなことだろうか。

<「理想の学園」が・・・>
立命館大学といえばいまから20年も前から総長選挙への学生の参加を実現させたほか、理事者、教授、職員、学生の参加する全学協議会、学園振興懇談会、問題があるたびに各学部で開く“五者会談”(大学側3人、学生側2人が出席)を設けるなど、学生参加の“教祖的存在”。
学園には対話の花が咲き、授業料は格安で、なんら文句のつけようがない「理想の学園」というイメージがあった。
東京大学が11日に批准した“15項目確認書”などはすでに20年も前から実践してきた大学。その立命館大学が大きくゆらいだのだ。

<学園新聞を押さえろ>
騒ぎが持上がったのは、昨年12月12日午後1時過ぎのこと。
「立命館学園新聞社」に日共系の学園振興懇談会委員長ら十人の学生が押しかけ「学園新聞を“民主化”するために入社させろ」と迫ったことから始まった。
「学園新聞は大学全学の意見反映の場でなければならない」「立命館全学友の利益になる新聞づくりを」と口々に呼号する十人の学生とその応援グループはそのまま編集室に乱入「入社時期(4-5月)をとっくに過ぎたいま、大量入社は認められない」とはねつける編集部員とにらみあい、乱闘さわぎにまでなった。
学園新聞の奪いあい。いま全国各地の大学で、日共系、反日共系の間に激しくくりひろげられている闘いのひとつだ。
日共系は「学園新聞の民主化」を唱え、逆に反日共系は「日共=民青のいう“民主化”とは実際は“民青化”でしかない。新聞のセクト的乗っとり反対、報道の自由を守れ」と反論する。
そして立命館学園新聞は、反日共系の中でももっとも先鋭的なグループなのだ。
立命館大は理事会、教授会、学友会、教職員組合、生協、生協労組と日共系がつぎつぎに勢力化におさめていった。知る人ぞ知る“日共王国”。
それだけに“日共の一元支配”にたてつく学園新聞は日共系にとって目の上のタンコブ的存在だった。こうして“集団入社強要事件”が起こった。
しかし、日共系のこの強行戦術が、結果的には裏目に出た。寝た子を起こす結果となった。
それでなくとも「立命館は日共の一元支配・赤い巨塔」「末川総長は日共にあやつられるロボットでしかない」とふだんから息のつまる思いがしていた“一般学生”が一斉に立ち上がり、日共攻撃を始めたのである。
とくにこの事件に対してとった大学当局、教職員組合などの態度があいまいだったため、学生の憤激は高まり「立命館民主主義とは立命館民青主義でしかなかったのか」という思いを強くさせることになった。
平和な学園は大きくゆれ、反日共系の学生は「大学の権力を握った学友会=日共勢力が自分の思いどおりにならない新聞社を乗っ取るために、あらゆる手続きを無視し、ソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍がチェコ侵入を行なったとまったく同じ行動をとった」と一斉に反撃を開始した。
そして1月16日には寮生が中心となって“民主立命の徹底した告発”をかかげて、大学本部のある中川会館を封鎖、占拠、東大安田講堂のあとを追った。

<一般学生と乱闘>
日共系もただちに反日共系締出しに転じ、22日深夜“外人部隊”を含めた五百余人が中川会館に攻撃をしかけた。
放水、投石、乱闘とあとはおきまりのコースだが、このあとただ立命館ではよその大学には見られない“珍現象”が起こった。
体育会の呼びかけで六百人近い“一般学生”が間に割ってはいり、日共系学生に「攻撃はやめよ」と迫ったのだ。
日共系は「こいついらは一般学生じゃない。“かくれ三派だ”」となおも襲いかかり、あろうことか日共系と一般学生との乱闘にまで発展した。
よその大学では“一般学生”をあれほど大切にする日共系が、と目を疑うばかりの状況。しかも大学当局がなかば公認しての日共系の攻撃だけに一般学生たちはますます大学攻撃の火の手を強めた。(後
略)』

(つづく)

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No130の続きです。
9月に入ると故郷に帰っていた学生も戻り、キャンパスに活気が出始めた。
明大でも全国全共闘結成の動きを受け、吃全共闘と局全共闘を統合し、9月3日に「全明全共闘」を結成することになった。
8月30日、全明全共闘結成準備委員会が開催されたが、全共闘の組織をめぐり吃全共闘を主導する社学同はセクト連合の中央書記局体制を打出し、局全共闘を主導するML派は学部別書記局体制を打出し、双方が真っ向から対立したため、3日の全明全共闘結成大会は社学同を除く3派(ML派、反帝学評、中核派)が運動、組織論で反発し参加せず流会となった。

同日の9月3日、全国全共闘結成大会の会場に予定されていた早大に機動隊が導入され、大隈講堂(革マル派)と第二学生会館(全共闘)に立てこもっていた学生は砦戦の末に全員逮捕された。
【戦線立直しに先制 力で押え込めるか?】1969.9.3毎日新聞(引用)
『(前略)
東大安田講堂の攻防戦から4.28沖縄デー、6月初めのアスパック(アジア太平洋協議会)反対闘争で大打撃を受けた反日共系各派学生団体は、その後ゲバ棒を捨て、この秋の佐藤訪米目ざして戦線の立て直しと戦闘部隊の量的拡大をねらっていた。
9月5日の早大で開く全国全共闘結成大会はその旗上げをねらったもので、大学法粉砕を目ざして“同時多発的”に全国の学園封鎖闘争を拡大していく段取りだった。(中略)
具体的には全国各地の拠点大学でバリケードを強化し、機動隊との徹底抗戦を続発させる。早大はその中でも最重点の大学だ。
全共闘と対立している革マル派の拠点、早大で「全国全共闘連合」の旗上げを行い、そのあと日共系の本拠となった東大教養学部に攻め上ろうというのが全共闘各派の戦略(後略)』

明大では全明全共闘の流会を受け、社学同とML派はそれぞれ学内で大規模な集会を開き、明大全共闘のヘゲモニーを巡る対立は続いていく。
【“鉄の軍団”の建設を 全国SFL大会開く】1969.9.18明大新聞(引用)
『4日、午後7時より、全国学生解放戦線(SFL)結成大会が開かれた。会場の本学和泉校舎六番教室には全国60余の大学から約1000名が参集し、モヒカンのヘルメットでうずまった。本学からは約60名が参加し、大会の議長を本学二部共闘会議議長本間晟豪君がつとめた。
また、河野君が特別報告として「明大においてはSFLは全共闘のヘゲモニーを握り、今や主流派として登場した」と報告した。
激しい闘いとML同盟の指導の下に、伸び最高のSFLはこの大会で「鉄の軍団」建設を打出し、全国SFLの結成については学生の統一戦線である全国全共闘連合を領導する核心部隊「鉄の軍団」建設にあるとし、全共闘運動に党的指導を貫徹するなかで、権力闘争の戦士と鍛えることを任務とするとしている。(後略)』

【国際反帝集会開く 3日 本学記念館で】1969.9.11明大新聞(引用)
『共産主義者同盟・社会主義学生同盟主催による第二回国際反帝集会が3日午後5時から約1000名を集めて本学記念館講堂で開催された。
集会はまずフランスの5月革命とアメリカの非合法組織“ブラック・パンサー”の実態をとらえた映画が上映された。
その後、共産同から「11月をマッセン・ストライキで闘い抜き、70年代闘争を意識的に切り開こう」との基調報告、さらに社学同、共青同からは「11月には赤ヘルメットが学生戦線の先頭に立って戦う」という連帯の挨拶がなされた。(中略)
9時過ぎ、両川敏雄本学学生会中央執行委員長の指導によるシュプレヒコールとインター斉唱で幕を閉じた。
約200名の学生は閉会後、本学前通りで激しいジグザグデモをくり返した。(後略)』

9月5日、日比谷野外音楽堂で全国全共闘連合結成大会が開かれた。
この集会の様子は連載No46に書いたが、この日の大会には、全国78大学、26,000人(主催者側発表)が参加した。
当日、明大の吃全共闘200人は駿河台記念館の中庭で、局共闘100人は学館前で別々に集会をもった。
11時過ぎには日比谷公園に到着したが、公園の入り口で全員ヘルメットを脱がされ、機動隊の列の中を通させる検問に会い、吃全共闘の隊列にまぎれ混んで会場に入ろうとした東大全共闘代表山本義隆氏が警備の私服警官に検挙されてしまった。
この時の検問の様子は「怒りをうたえ」第2部で見ることができる。
集会では赤軍派と社学同関東派の内ゲバがあったが、各大学全共闘からの決意表明の二番手に局共闘会議の本間議長(写真右)、三番手に吃全共闘福田代表(写真左)が挨拶し、「明大全共闘は全国全共闘連合の先頭に立って闘う」と決意表明を行った。(写真は明大新聞から転載)

福田氏のアジテーションを聞いたのはこれが最後だと思う。その後、姿を見かけなくなった。彼のアジは、最初は低音から始まりだんだんトーンを上げ、しだいに体全体も使って前後にリズムを取りながら盛り上げていく。とてもかっこよかった。

(つづく)

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No109で1969年11月13日号の「週刊読売」臨時増刊号について紹介したが、その中の各党派代表者へのインタビューを、党派ごとに抜粋して紹介するシリーズ。
第3回目は赤軍派。

インタビューに応じている上野勝輝氏(京都大学医学部)は、69年11月5日、大菩薩峠の軍事訓練で逮捕されているので、このインタビューはその直前のものと思われる。
前回のブログで、赤軍派の故田中義三氏が痛烈に批判しているU氏とは彼のことか?

【火を吹けシカゴー東京戦争】週刊読売 1969.11.13臨時増刊号(引用)
『共産主義者同盟(ブント)赤軍派 上野勝輝
<赤軍派とはどういう組織なのか>
マスコミは、われわれが社学同を割って出たとか、社学同統一派ないし関東派に対して社学同赤軍派と呼んでいるがこうした区別のしかたがまるでデタラメであることを、まず指摘しておきたい。
正しくは「共産主義者同盟(ブント)赤軍派」と呼ぶべきである。
社学同は事実上消滅しちゃっているのだ。
つまり、社学同とは、いわば産業別の組織であって、大学というブルジョア経営体に所属する一産業的レベルの人間を集めたものにすぎず、こんなショボい組織では、革命は導けない。(中略)
いまひとつ、赤軍派が全く新しい組織として生まれたものなかという誤解に対していえば、60年安保闘争の中心となったブント、これがその直後に分裂、いま中核にいっている北小路敏などもその1人だが、黒田寛一にイカれたグループが、どんどん革共同に流れていったなかで、関西ブントというのがずっと残って、60年以降の日本の新左翼運動を統一していったという歴史があり、いまの赤軍派がそういった部分によってになわれているということだ。(中略)

<帝国主義について、他のセクトの対応のしかた、また赤軍派の路線は>
(中略)現実の帝国主義の流れへの無自覚が、他党派共通の姿勢である。
過去の獲得物に、バリケードに、古い戦闘形態に固執する。
これに対して、われわれ赤軍派は、前段階武装蜂起と、世界革命戦争、そして、その勝利という路線を打ち立てた。
戦場を大学に限る必要はない。すべてを戦場として、あらゆる戦闘を闘い得る軍の建設だ。
これこそが、現代帝国主義に対し、これを打ち破り得る唯一の正しい闘いであり、いま、方針を見失い、分解している全世界のプロレタリア人民を、もう一度統合し、新しく高めていく、そういうものだと考えているが、これが、今秋、決定的なものとして問われているのだ。

<それが“大阪戦争から東京戦争へ”のアピールか>
そうだ。
世界的には、日米の武装蜂起=シカゴー東京戦争。
アメリカでは、左翼が提起する「ブリング・ザ・ウオー・ホーム」(祖国に戦争を)というスローガンね。
要するに、アメリカ人民が初めて反戦闘争から革命戦争を宣言するものであり、日本では、われわれが武装して立ち上がる。(中略)

<今秋の闘争ではどうか>
むろん、いろいろ考えてはいるが、いまここで、武器を一挙にエスカレートしようとしても、彼我の攻防関係=階級闘争の自然的な発展を越えるようなことは、実際にはできないわけだ。(中略)
日本では、ずっと武器イコール悪という俗物的人道主義によって教育されてきたが、それを、われわれはいま打ち破りつつあるといえる。
(中略)

<いま赤軍派の組織、動員力はどのくらいあるのか>
そういうのはあんまり・・・。意味ないというより、それはいまいわないってことだ。
ただ赤軍派が微々たる存在であっても、一党派でも世界党だ。何も日本の運動だけじゃねえと。
アメリカの運動にも、ヨーロッパの運動にもかかわり合って、全世界を指導する。そういう存在としてわれわれはある。
たとえば、ベトナムの民族解放戦線も、最初の軍隊建設は10人くらいから始まったと思う。ロシア革命のSL戦闘団でも14人の軍隊からスタートしているし、ブラック・パンサーの場合なんかは、たったのふたり。
その意味では、革命戦争の発火点として、現代過渡期世界の性格をはっきり見抜け、それを戦い抜けるという主体さえできていれば、それはもう、われわれ、組織がなんぼ小さかろうが、軍事がショボかろうが、あんまり気にしない。(中略)

<全国全共闘連合との統一戦線などは考えていないのか>
あれは、分解の対象である。とまり、わが赤軍は、全世界の分派闘争を普遍的につらぬく質を持っているのだから、ほかのあらゆる党派を根底から分解させ、われわれと同質の問題意識に接近させていくということだ。
現段階では、八派連合とまったく敵対するわけでもないが、向こうは分解される対象であり、こちらは彼らを再編する主体という関係である以上、彼らが保守的になれば、どうしても内ゲバ、敵対ということになる(後略)』

(つづく)

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