野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2010年06月

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No134の続きです。

体育会も9月に入り、活動を活発化させていく。
9月2日、体育会渡辺委員長から、学生部長あてに質問状が出された。
内容はヽ慇顕馮馭枴停止および学割サービス業務が停止に至った事情およびその理由
∩干愽?晋紊癲学生を始め大学教職員、学外者の出入りも通常と変わらなく可能な状態にも拘らず、大学事務所の学外疎開を始めとして一連の管理放棄の理由
8什漾∨楷曚砲話羆礼膤愾潅翔、青山学院大学全学闘がその本部を置き、これら両大学のロックアウトに対し虎視眈々と学園奪還を狙っており常時60~100名の“ヘルメット学生”が宿泊している。
すなわち本館構内には本学の学生(たとえ占拠学生にせよ一応建物管理を遂行しうる者)は一人もいないのである。他大学の闘争の拠点として明大を提供する必要があるのか。
な響菽罎砲發かわらず学校のスケジュールどおり夏休みを8.9月としたのはどういう訳か。
というものであった。

9月10日、「他大学生」の問題で両川敏雄学生会中執委員長の立会いのもと話合いがもたれ、体育会委員長と中大全中闘代表高槻修氏、青学大全共闘代表川上泰朗氏との確約書が締結され、9月17日をもって本館より場所を移動することが確認された。(学生会館に移動)
また、本館の管理については、全共闘のスト権行使を確認し、明大全共闘と体育会の共同管理を行なうことを確認した。

9月3日に予定されていた全明全共闘結成大会は流会となったが、ML派は同派が提唱する全明全共闘結成大会を9月13日に開くことにより、全共闘のヘゲモニー獲得に向け動き出す。

【ストの背景と展望】1969.9.18明大新聞(引用)
『(前略)ML派はこの日の結成大会に先だち11日、全局共闘会議の呼びかけによる全明全共闘結成準備会代表者会議と全明活動者会議を開催した。
この日代表者会議は午後5時より、学館3階学生会中執の部屋で開か
れ、ブント系の全面的参加拒否のほか、各学部闘争委員会ならびに機Ν局全共闘からの代表総員25名中16名が参加した。

この代表者会議では全明全共闘を断固克ち取るという方向で次の4項目を代表者間で意志一致した。
~缶請感ζ結成大会は9月13日午後5時より記念館において行なう。
結成大会のすすめ方については各学部代表のあいさつの後、局共闘議長の本間晟豪君が行なう。
大会議長は中島君(局商共闘)と互井賢二(吃商闘委)の両君が勤める。
A缶請感ζの組織は書記局体制をとり、三役は今月3日の代表者会議で決定した通り議長に関口成一君(吃商闘委)、副議長に井花清君(吃商闘委)、書記長・空席とする。
書記局は各大衆組織(各団体・寮・学館・サークル)から1名ずつ選出して構成する。
し訐大会は圧倒的大衆を結集して準備委員会の名において責任をもって克ち取る。
である。(中略)

また、ML派は大会前日の12日には全明大・中大SFL総決起集会を開き、全明全共闘結成に並々ならぬ決意を示していた。
さらに大会当日は、ML派が「下からの組織化をし、独自の運動をしている闘争委の頂点にある」としていた機Ν局文闘委で総決起集会を開いてノンセクトの包括を図ったが、同調したのはML色の強い文学科各闘争委だけで、ノンセクトの強い史地理学科各闘争委は批判的態度をとった。(後略)』

9月13日、ML派が提唱する全明全共闘結成大会が、社学同と反帝学評が不参加のまま開催された。
【全明全共闘が結成 13日社学同、反帝は参加せず】1969.9.18明治大学新聞
『全明全共闘結成大会は13日、午後5時より駿河台本校記念館で開かれ、議長に関口成一君(吃商共闘3年)を、副議長には井花清君(吃商闘委2年)を選出した。
参加者は約200名で、反ブントが大同団結すると予想されていたが、ML、中核とそのシンパが参加するにとどまり、注目されていたノンセクトは文闘委(史地クラスは除く)が参加しただけであった。
この全明全共闘の運動方針としては、^楕檗Σ縄の政治課題を全学的課題とし、反帝権力闘争を担う革命的全共闘を創出する
安保決戦を闘うためにバリケード・ストライキを死守し、具体的な大学措置法の適用に関しては徹底抗戦する
F發らの闘争圧殺を図る東大加藤執行部の明大版ともいえる大学改革準備委員会を解体し、紛争収拾策動を粉砕するの三点がすでに決定しており、組織形態としては中央書記局体制をとり、各学部闘争委より1名、機Ν局凜機璽ル連合から1名づつ、寮・学館から1名で書記局を構成することが確認されている。』

この全明全共闘結成大会は、ML派と中核派の野合という印象であり、私の属していた414B統一戦線は参加していない。
党派に所属しないノンセクトは、それぞれの立場で参加の可否を決めたと思うが、明大全共闘を巡る各党派の思惑とは裏腹に、ノンセクトは自らの道を歩んでいく。

(つづく)
※ 次週(7月2日)は入院のため、HPの更新とブログはお休みします。

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 前回まで立命館大学闘争を紹介してきたが、立命館大といえば、この人が思い出される。
「二十歳の原点」を書いた高野悦子さん。(写真は週刊読書人から転載)
69年1月から5月にかけて、彼女も立命館大全共闘の一員として闘争に参加していた。
そして69年6月24日、貨物列車に飛び込み自殺。二十歳であった。
彼女の手記は今でも読まれているが、この手記がベストセラーになった時期、「週刊読書人」に掲載された書評があるので見てみよう。

【無名の死。風化した死】1971.8.16週刊読書人(引用)
『高野悦子著「二十歳の原点」(新潮社)がすでに8万部を越えるベストセラーになっている。
いったい、なぜ若い世代は、彼女の死に魅かれ、その手記を読むのか。
読まれる原因がひそむ情況の中に、実は大変な頽廃があるのではないか。
その頽廃は高野悦子の死を変貌させてはいないか。
ここでは彼女の死の周辺を分析する。

「戦いか然らずんば死。血みどろの闘争か然らずんば無。かくの如くに、問題は厳として課せられている。  ジョルジュ・サンド」
高野悦子の手記「二十歳の原点」を読むにつけ、このジョルジュ・サンドの言葉を思いださずにはいられない。
本当はこの手記を読むべきではなかったのではないか、と暗い憂うつな思いにもとらわれるのである。
なぜなら、読めば読むほど、こういうふうにとり上げれば、とり上げるほど、高野悦子の死はますます“風化”し、色褪せて、彼女自身、手記の中で書き記したように「自殺は敗北であるという一片の言葉で語られるだけのものになる」(6月1日)からである。(中略)』

筆者は“風化”の原因として、1番目に高野悦子の手記を商業出版として遺族が出すことを決めたことと断じている。
同じ6月に遺書もなく、手記もメモも焼却して“無名者”として自殺した早大生の死と比べ、“死”が商品になる、これが風化でなくてなんであろうかと。
2番目に彼女の死について勝手な解釈や想像を加える人間やメディアや登場である。
なぜ高野悦子は死を選んだのか?実のところは当の本人以外分かるはずもないのだから。
3番目に読書側の頽廃した二つの対応、ひとつは「二十歳の原点」を作品として読んでいないかということ。

『たとえどんなに秀でた作品であっても、作品は作品である。
現実の「闘い」に己の死を賭け、生身をさらして書いた独白とは、あるいは、その一語一句にひとりの人間の重い現実がのしかかっている手記とは、自ら次元を異にしているのだ。
その手記にはまごうことなきひとりの人間の生があったはずである。「手記」が、そして現実にあった死の重みが、一片の虚構の中の生と死と同様に読まれること、これは“風化”した死に他ならないだろう。(中略)』

そしてもうひとつの読者側の頽廃とは

『これが高野悦子のおかれていた心的状況であった。
三つのモチーフ、孤独感、生への不安(絶望)、そして終末感、これらは実は、70年安保も敗北し、一時の大学闘争の連帯感も喪失し、生きてはいるが、かといって確固たる展望も持ち合わせない、現代の若い世代の心的状況にぴったりと相応しているのである。
この三つのモチーフへの共感は、とりもなおさず、実は自らに対するいつくしみと慰みにほかならない。
手記を媒介にしての、手記を自らを写す鏡としてのこの自己憐憫、自己慰安、これこそ読者自身のもうひとつの頽廃である。
生者たる読者のための安逸の手段と化した高野悦子の死、これは最悪の状態まで“風化させられた死”といえるだろう。
樺美智子しかり、奥浩平しかり、山崎博昭しかり、そして高野悦子の死も風化しつつある。
もはや、これ以上の“風化”は防がねばならぬ。
もう一度、冒頭にかかげたジョルジュ・サンドの言葉に立ち戻って、考えねばならないだろう。

  戦いか然らずんば死。血みどろの闘争か然らずん無・・・・。』

最後に、全共闘白書に掲載された立命館大学全共闘の皆さんの発言を紹介して、終わりにしたい。

【全共闘白書】(新潮社発行 全共闘白書編集委員会編)(引用)
『「ぜひ発言したいこと」という質問に対する回答(抜粋)
<立命館大学> 67年入学
全共闘運動がアッケなく(と私は思っている)終わってしまったのは何故だろう、またどうすればもっと現在も続いているような運動になっていたのだろうか、いつも当時を思うと考えてしまいます。

67年入学
以前は団塊の世代はみんな全共闘をやっていた連中と同じ気分と信じていたが、どうやらわれらが全共闘は少数派のようだって最近気付いた。』

「二十歳の原点」については、<1969-1972連合赤軍と「二十歳の原点」>というサイトがあり、この手記について非常に丁寧に語られている。
黒を基調としたモノトーンのデザインで、トップページにあるヘルメットを被った女性がタバコを吸うシルエットが印象的なサイトである。(リンク参照)

(終)

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No136に引き続き立命館大学の闘争の様子を紹介する。

【立命館大に機動隊 学生と衝突】1969.5.20毎日新聞(引用)
『20日午前7時ごろ、京都府警は機動隊約400人を動員、全共闘学生がたてこもっていた立命館大恒心館(京都市上京区)の封鎖を解除した。
恒心館内には全共闘の男女学生約200人が泊り込んでおり、屋上や窓から投石したが、間もなく抵抗をあきらめ、20分後には機動隊が館内の捜索にはいり、火炎ビン約150本、鉄パイプ60本、投石用の石トラック2台などを押収した。

全共闘学生たちは全員裏庭の広場に集合、間もなく約100メートル北側の広小路学舎にはいり、正門、西門などのバリケードを築いて同キャンパスを完全に封鎖した。
一方、機動隊の立入りを知った、一般学生、学友会側学生らは、次々に登校、各門で全共闘と激しく投石、学生同士がなぐり合うなど混乱、双方にけが人が出た。
この衝突を見守っていた機動隊約300人は、正午マイクで大学側の退去命令を伝えたあと、まず西門のバリケードと金網を乗越え約100人の機動隊員が構内にはいり、続いて正門からの金網を乗越えて次々と構内にはいった。
バリケードの中にたてこもっていた全共闘学生たちは鉄パイプ、角材を振り上げて激しく抵抗、7人が公務執行妨害現行犯で逮捕された。

学内の乱闘は機動隊の出動でいったんおさまったが、大学側は「警官の立ち入りを認めない」と府警に退去を要請したため、午後零時20分、機動隊は学外に引揚げた。
このあと学内は再び全共闘と学友会側学生が対立、乱闘や投石を繰返してますます混乱を深めた。
大学側は全共闘にマイクで「すぐ学外に立去りなさい」と命じ続けた。

この日の府警の捜索は3月18日全共闘学生が学友会学生の泊り込んでいた広小路学舎の研心館自転車置場に火炎ビンを投込み守衛室に放火3月20日興学館のとびらをこわし、ガスのゴム管の先に火をつけ応接室を焼いた4月8日研心館に乱入、泊り込んでいた学友会の学生、職員に暴行した、などの容疑で大学側も捜索を認めた。』

【“わだつみの像”を返せ 立命館大 破壊学生を責める】1969.5.21毎日新聞(引用)
『「わだつみの像をなぜこわした」「あんな像にいま何の価値があるんだ」
機動隊の立ち入りで荒れた立命館大広小路キャンパスで20日の午後、逃げ遅れた全共闘学生をつるしあげる学友会と一般学生。
かみあわぬ議論と怒声の中で、傷ついた“反戦の像”の表情はわびしかった。

“わだつみの像”は戦没学徒の手記「きけわだつみのこえ」出版を記念して本郷新氏が制作、東京大学に立てるはずだったが学内の一部に反対があって中止、当時の末川博立命館大総長らが昭和28年、同大にひきとり、立命館民主主義を象徴するものとして親しまれてきた。
この像を20日午前9時ごろ、機動隊と争った全共闘の学生が破壊したのだ。

倒された像が左腕をもぎとられ、頭部にぽっかりあいた穴には花がさしこまれ、胸には赤ペンキで「死」の文字が書き込まれる無残さ。
全共闘学生も、末川前総長への激しいつるしあげをしなかったように、像の破壊だけは控えていた。
しかし、いま全共闘学生の1人は「像が立命館民主主義のシンボルであるかぎり、死ぬ運命にあった。立命館民主主義の死は機動隊の乱入であきらか」と語るようになっていた。

機動隊が再び出動して全共闘学生を排除した午後3時過ぎ、逃げ遅れた女子学生2人が“わだつみの像”のあった台座のそばに連行された。
たちまち学友会と一般学生たち4.50人が取囲む。
別の学生がキャンパスの片すみに、こわされたままになっていた“わだつみの像”を運んできた。
「これを見ろ」2人に、無残に穴があいた頭ともがれた手を見せる。
学友会側の学生の1人が「これから全共闘の弁明を聞こう」とマイクで声をはりあげた。
周囲の学生の数は約500人にふくれ上がった。
全共闘派の女子学生がさらに1人、男子学生が4人連れてこられた。
なかには応援にきた府立医大生もいる。
「君たちはなぜ像をこわした」また怒りの声がとぶ。
マイクを握らされた1人は「わだつみの像がいったい立命館大でどん
な役割を果たしたんだ」と叫んだ。
すかさずやじと怒号が渦巻く。
“争点”のかみ合わない押し問答は1時間半にわたって続いた。』

全共闘は、この日(5月20)以降、京大に亡命することになる。
6月28日、立命館大学全学共闘会議法学部闘争委員会の機関誌「CONTESTATION」(コンテスタシオン)が創刊される。
この機関誌はホームページの「全国学園闘争図書館」コーナーで見ることができる。

(つづく)

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