野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2010年07月

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No140の続きです。
明大全共闘内でセクト間のヘゲモニー争いが続く中、大学当局は10月1日からの授業再開に向けて動き始め、次のような文書を全学生(父兄)あてに郵送した。

【後期開始にあたって 学生諸君に訴える】1969.9.26明治大学(引用)
『(前略)わが明治大学においても「明大を第二の広大に」(明治大学新聞9月18日付)のスローガンや、「徹底抗戦」(明治大学新聞同上)をめざした「永久闘争宣言」(明治大学新聞同上)を発する明大全共闘運動の動向は、ますます激烈の度を加え、大学闘争の段階から、いまや政治闘争にまでエスカレートしてきたことはあきらかであります。(中略)
今日の大学紛争は、すでに政治闘争化の様相を呈し、一個別大学が対処できる範囲を越えつつあります。(後略)』

ここで引用されている明大新聞に掲載された明大全共闘の記事はこれだろう。
この記事は吃商学部闘争委員会(中核派)の主張なので、全共闘を代表しているものではないが、大学側の授業再開の宣伝にうまく使われてしまった。

【本学の砦死守戦に勝利 六項目要求=改良主義路線と対決】吃商学部闘争委員会 1969.9.18明大新聞(引用)
『(前略)われわれは、今、明大のバリケードを強化拡大し、砦死守の闘いの態勢を確立することである。こうした時、ブント、ML派の党派利害のために9.3全明全共闘結成を流産させてしまった犯罪性を弾劾すると共に、われわれはブント・MLの諸君に結成のための共同の努力を訴える。
明大の砦死守戦に勝利し、11月決戦を断固として闘い抜くことこそがわれわれの任務である。
広島大学に続け! 我々の意識と決意は鮮明である。』

9月24日、授業再開を目指して、明大全教職員集会が八幡山グランドで開催されることとなったが中止される。
【10月新学期控え緊迫 スト100日】1969.9.25明治大学新聞(引用)
『(前略)24日、全教職員集会が当初予定されていた本学付属中野高校講堂から急拠本学八幡山グラウンドに移され、午後1時30分から開かれる予定であったが雨天のため中止された。
この全教職員集会は「最近の学内事情について」を議題に学長か所信の表明がなされ、10月1日から予定されている授業再開のための大学側の方針を全教職員に図ることになっていた。(中略)
一方、教職員集会に反対する全共闘各セクト、各闘争委約250人は、この日八幡山グランドに近い和泉校舎に集まり八幡山に向かおうとしたが、正午過ぎ教職員大会中止の報が入ったため各闘争委員会ごとに集会を開いた後解散した。
生田地区各闘争委、政経闘委などブント系約70人が前夜から和泉校舎に泊まり込み、この日に備えた他24日午前8時30分頃史地共闘を中心とする四連協仏文4闘委などノンセクト約50人が同校舎に到着、続いて法闘委など反帝学評・ノンセクト30人、ML・中核系50人と、正午までには各セクト・闘争委が集結し、冷たい雨が降る和泉校舎に、久しぶりにシュプレヒコールが響きわたった。
しかし、セクト間の折り合いがつかず、ブント系が1号館207番教室、ML・中核系が学生会館1階ホール、反帝学評系が図書館前でそれぞれ別の集会を持ち、またノンセクトも1本にまとまらず統一集会もないまま2時過ぎ解散した。(後略)』

「ノンセクトも、史地共闘・四連協など50人が学館会議室、和泉地区ノンセクト20人が学館と四分五裂の状態」(明大新聞)であり、全明全共闘結成を巡る対立は解消せず、全共闘はセクト間の対立により事実上の分裂状態にあった。
私もこの日、和泉の学館運営委員会室で待機していた。明大新聞で20人と書かれていたが、実際は414B統一戦線の10人程度。

9月30日、「日大法経奪還闘争」(詳しくはNo49参照)を前にして、駿河台の本校が捜索される。
各大学のバリケードが次々に崩されていく中で、駿河台の本校は都内に残された全共闘最大の闘争拠点であった。(写真は朝日新聞から転載)
【「日大奪還」に先制 明大を捜索“武器”ごっそり】1969.9.30朝日新聞(引用)
『警視庁公安部と神田警察署は30日午前6時すぎ神田・駿河台の明大記念館、学生会館、1.2.4.5.11号館など9ヶ所を凶器準備集合罪、建造物進入、暴力行為等処罰に関する法律違反の疑いで捜索、角材、鉄パイプ、ガソリンなど17件、およそ1200点を押収した。
調べによると、日大全共闘の学生たちが今月4日明大記念館などで集会を開き、同日夕方から明大通りを無届けデモ、機動隊に投石した疑い。
11日にも明大学生会館などに角材や石を大量に持込み、日大経済学部本部に押しかけバリケードで封鎖した。
さらに30日午後の「日大奪還闘争」のために29日、近くの明大記念館などの角材や鉄パイプ、火炎びん、石などを多量に持ち込んだことがはっきりしたので、警視庁では日大奪還闘争に“先制攻撃”を加えるために捜索したという。(後略)』

(つづく)

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No109で1969年11月13日号の「週刊読売」臨時増刊号について紹介したが、その中の各党派代表者へのインタビューを党派ごとに抜粋して紹介するシリーズ。
第4回目は学生解放戦線(ML派)である。(写真はML派機関誌「赤光」より転載)

【“屈服か、否定か”鋭い選択を迫る70年闘争】1969.11.13週刊読売 臨時増刊号(引用)
『全日本学生解放戦線統一戦線部長(ML派) 春日研三(東大中退)
<70年安保闘争を具体的にどういうふうに闘っていくか>
ぼくらとしては、70年闘争というものが一つには安保期の闘争であるということ、それからもう一つ、ぼくらの70年闘争の帰趨が11月決戦にかかっているということ、この二つが当面の問題の第一のカギのような気がする。(中略)
われわれは多数の人民をわれわれの側に獲得しながら、彼らの70年を平穏にというもくろみに11月決戦でクサビを打ち込むであろう。

<つまり実力をもって阻止するという態度を堅持するのか>
そうだ。これに対しては、絶対に退くことはできない。
それこそぼくら自身がここまで成長した運動の基盤だったと思う。
実力闘争こそそれ以前の運動がいろいろ修辞語をつけられながらも、結局のところ現在の社会党に代表されるような運動に屈服してしまったということに対して、根本から変革し、新しい運動をつくり出すバネになっていた。
そのバネもぼくらは10.8羽田闘争に見いだしているが、これをぬかして70年闘争は考えられない。
さらにいうならば、そういう実力闘争にとどまらずに、東大闘争であるとか、または日大闘争に見られるように、単に改良的に大学を民主化しようとか、学問の自由を獲得するとか、防衛するというような立場、または運動というものを根底から否定してしまい、新しい大学をつくるかとい問いかけを迫ったわけだ。
その基盤の上に70年闘争が開花しなければいけない。
つまり、日本人民全体に、少なくとも安保闘争で闘う全て人間が、現在の支配を認めるのか、それとも支配を否定するのか、それともその支配に屈服するのかという問いかけが、そのような鋭い選択が迫られるような闘いを実現したい、いや実現するつもりだ。
それが実力闘争というものだと思う。(中略)

<現在警察はきわめてきびしい警備体制を整えている。そういう中にあって佐藤訪米阻止ができると思うか。いまの力関係などから考えて>
具体的にできるかどうかということは、結果を見ないとわからないが、そのカギは、たった一つであると思う。
それは新しい武器や特殊な戦術で、人民大衆が機動隊を攻撃し、打ち破ることができるかどうかという一点に課せられているということだ。(中略)
少なくともぼくらの実力闘争の部隊と、10.10に象徴されるような広範な統一戦線の力というものをもって、それができると確信しているし、さらにいうならば、そのことで機動隊を打ち破ることができると思う。(中略)

<全国全共闘連合―学生統一戦線に関して、その党派的な確執なんかすべて包括してまで統一戦線を組まなければならなかったかということについて>
簡単にいえば、全国百五十万学生の熱望の結果であるということだろうと思う。
だから当初、中核派なんかはことしの3月の全学連大会で、全共闘連合などといって組織いじりをしている諸君は日和見主義者であるといって、唯一の中核派全学連に結集せよ、というような立場をぶち上げてみたり、また社学同側なんか、ことしの7月になって全学連をつくるというようなことを行いながらも、ことしの9月5日の全共闘連合の結成大会には、結集せざるをえなかった。
これは、やはりいまいったように、運動が先に行っており、全国の学生はそこに結集点を求めていたということが、それに対する簡単な回答だと思う。(中略)

<たとえば現在という時代は歴史的に見て、日本帝国主義が矛盾を限界にまで持ち始めており、「たつのは今だ!」という声がある。たとえば赤軍派の行動なんかは、そういう歴史的解釈で裏づけられると思うが、それに対してはML派の諸君は、どういうふうに見ているのか>
かなりニュアンスがあるが、われわれとしては、そもそも帝国主義の時代がすでにジリ貧の時代ではないかと考える。
(中略)赤軍は前段階武装蜂起、権力奪取というふうに考えている。それはいわば、われわれにいまや政策が要求されてきているビジョンが提示されなければならないということに対する、彼らなりの一つの回答の方法だったろうと思う。
ただ、彼らは結論を短絡させて、権力の打倒、これを武器による解決に求めてしまう。
これではぼくらとしては、解決になりえないと思うのだが。(中略)
もっと広範な労働者の運動が全共闘によって生み出され、われわれがもっと強大な力を持つことができたときに、初めて回答を与えることができるだろう。
いずれにしても、その時期になってきている。(後略)』

(つづく)

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参議院議員選挙が7月11日に行われる。
民主党の衆議院選挙でのマニフェストの成果を巡って、民主党政権にどんな審判が下されるのか注目される選挙であるが、41年前、東京では東京都議会議員選挙が行なわれ、北小路敏氏(写真は「前進」から転載)の「革命的議会主義」という言葉が注目を集めた。
新聞にこの時の選挙の様子が載っているので見てみよう。

【新左翼に都民の審判どう下るか ゲバ棒をマイクに持替えたが】毎日新聞 1969.7.14(引用)
『<「天下とる手段さ」 演説会は人気上々>
低調といわれ、雨にたたられどおしの都議選だったが、投票率は59.74%を記録、4年前の、あの熱っぽい“刷新都議選”をともかくも上まわった。
きょう14日の開票結果が注目されるが、なかでも関心を集めているのが、ゲバ棒をマイクにかえ、ヘルメットをバラの花にかえてひとり気をはいた元全学連委員長北小路敏候補(杉並区)。
個人演説会に三千人を超す聴衆を集める人気ぶりは他候補を圧倒していたが、議会主義を公然と否定する“新左翼”の“片手にゲバ棒、片手に投票用紙”戦術に対して都民がどういう審判を下すかは興味のつきないところ。
市街戦から選挙戦へと進出した彼らの思想と行動を追ってみた。

「議会主義を否定する三派全学連の指導者が、なぜ議会に出ようとするのか、ふだんの行動とは矛盾しているのではないか」4年前の刷新都議選、2年前の補欠都議選、そして今回と三たび立候補した北小路候補に寄せられる、右からも、左からも共通した疑問、ないし批判の典型である。
しかし、北小路候補やそのバックの革命的共産主義者同盟や全学連中核派はこう答える。
「われわれはアナーキーでも、反議会主義でもない。革命的議会主義だ」と。
趣味で社会運動をやっているのではなく、やがて天下を取ろうとしている以上、議会にも一定の勢力基盤を持ち、議会の中でも闘っていこうとするのは当然。
「議会」などという制度に信頼をおいたり、議会を通じて政権を取るようなプロセスは考えていない。
それどころか、いずれは議会のような不便な制度は廃止すべきだとさえ考えているが、いまはともかくその議会にも勢力を出せるよう運動を進展させることは必要だというわけ。
「議会は革命のための補助的な陣地」というのだ。

民衆が勝利をおさめるにはなんでもやらなければいけない、というので、これまで学生運動からスタートして、労働運動(反戦)、市民運動(ベ平連)、農民運動(成田空港反対)、さらに高校生運動へと幅を広げてきたが、これにさらに議会闘争が加わると、彼らは主張する。
さらに爆発する学生運動の起爆剤となった42年10月の第一次羽田事件以来の「革命的左翼の成否を住民大衆に問い、70年闘争への民衆の承認をとりつける闘いでもある。」と革共同の機関紙“前進”は強調する。
中核派内部でも2年前までは立候補是非をめぐって激しい論争が繰返されたが、いまは「70年」を前に、この都議選に勝つかどうかが、大きな目標となり、疑問を生じさせないほどになった。

同じ反日共系全学連各派の中でも、革マルや社学同、そのほかは北小路選挙にそっぽを向いたまま。
「ぼくを支持するような人はふだんは投票ぎらい、棄権主義者なのでやりにくい」とゲバ棒からの転換のむずかしさを告白するが、中核派だけは全力投球。
過去2回の選挙でスクラムを組んだ本多延嘉書記長は破防法で捕われの身、そのほかおもだった幹部も捕らえられたり地下にもぐっての“破防法選挙”だが、学生たちは“現地闘争本部”を作り、ゲバ棒を捨てて全国から大挙してかけつけた。(中略)

彼らに裏方ばかりやらせては、と、北小路候補と60年安保以来、一緒に運動を進めてきたあるベテランは自ら“炊事班長”をかって出て選挙期間中、にぎりメシをにぎりつづけた。
選挙の後半戦、せりあう候補の間でポスター破りが盛んになると、全学連の支援学生たちは徹夜で街頭パトロール。
ゲバ棒や暴力には慣れっこのはずの彼らだが「どんなことがあってもゲバルトをふるうな。ポスターをはがされてもはがし返すな」ときびしい注意を受けていた。
「闘争にはそれぞれの形態がある。街頭闘争の戦術と選挙闘争の戦術とは違う」という理由からだった。(中略)

辻説法と演説会の一本やり。胸に赤いバラの花をつけ“進歩的文化人”や多数の“三派シンパ”を動員してのソフト・タッチの選挙戦。
その人気は大したもので、駅前演説でも千人ぐらいの聴衆はすぐに集まった。
開票翌日の15日には法政大で同派の全学連大会を開く。当選第一声をそこでぶち上げようというわけだ。(後略)』

1969年6月、明大和泉校舎(杉並区)では、正門を入るとドーンと中核派の大きな立看板があり、商学部のI氏が北小路敏氏の選挙を応援するアジ演説をする光景が見られた。
演説会では米倉斉加年氏(俳優)や野坂昭如氏(作家)などが応援演説をしたが、北小路氏は1万5千票余で惜敗した。

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