イメージ 1
No144の続きです。

1969年9月30日の日大法経奪還闘争は、バリケード封鎖中の駿河台の明大本校を拠点として深夜までゲリラ戦が闘われた。
各大学のバリケードが次々に崩されていく中で、駿河台の本校は都内に残された全共闘最大の闘争拠点であった。

10月1日、大学当局は「大学はできるだけ早く全学的な集会を開く予定」という内容の広告を新聞に掲載、また、「9月30日の付近の混乱によって市民生活に強い不安を与えたことから、本学施設をこのままのいわゆる拠点校の状態に放置することはできない」と判断し、10月4日、明大八幡山グラウンド(写真:明大スポーツから転載)で全学集会を開催することを決定した。
そして10月3日、全明全共闘と全局共闘からの団交要請を拒否するとともに、朝日、毎日、読売の3誌の新聞紙上に全学集会への参加を呼びかける広告を掲載した。

いよいよ全学集会、この日は逮捕覚悟で家を出た。
逮捕されても黙秘する覚悟で、電車の定期券や学生証は持たず、財布と救援ノートだけを持って和泉校舎に向かった。
和泉では、全学集会に向けて総決起集会が開催されたが、明大新聞に当日の集会の様子が載っているので見てみよう。

【全学集会は流会】1969.10.9明治大学新聞(引用)
『<和泉で総決起集会>
4日の午前10時から、和泉校舎6番教室で、約500人を集め全学集会に向けた全明総決起集会が開催された。
生田地区全共闘が「真の明大総叛乱を貫徹しよう」と挨拶。この後、次々と各闘争委員会から決意表明がなされた。
関口成一全明全共闘議長が「大学側の官憲導入・ロックアウトの策動を見抜け。右翼・民青を許さず、明大闘争を闘い11月決戦に向けて、バリストを貫徹しよう」
横谷優一吃全共闘がこの日の行動方針と全学集会での獲得目標、さらに商闘委・政経闘委の決意表明の後、互井賢二全明全共闘副議長代理が「スターリン主義者を徹底的にぶっつぶせ。今や個別闘争は時代遅れであり、政治闘争を闘い抜かなければならない。今日は機動隊とぶつかって行こう」、さらに本間晟豪全局共闘会議議長が「全学バリストに対する弾圧である。徹底的に粉砕しよう」と決意を述べ、最後に曲呼委から発言があった。
ただちにヘルメット・ゲバ棒抜きでデモに入り、正門を出たところで機動隊の規制を受けたが、正午すぎ明大前駅から電車に乗り込んだ。
八幡山駅を出ると、また規制を受けて会場まで遠回りさせられた。
なお、このデモの先頭にいた本間晟豪全局共闘会議議長は私服刑事数人に東京都公安条例違反などで逮捕された。』

この日の総決起集会に結集した人数は約500名。明大全共闘の中心的部隊が2~300名なので、それをやや上回る参加であった。ほぼフルメンバー。
この日の行動方針は、部隊を二手に分けて、会場に入る部隊と会場の裏手で待機している部隊に分ける。
会場内に入る部隊は学生証を持つので、逮捕歴のあるものや警察に顔が割れている者、会場外は逮捕歴のない者や警察に顔が割れていないものを中心に構成したと記憶している。
会場内に入った部隊が学校当局や体育会の阻止行動、あるいは機動隊により逮捕された場合、会場の裏手に待機している部隊が会場に突入して演壇を占拠し、全学集会を大衆団交に切替えるという戦略だった。
私は会場外での待機組。

大学側は会場で次のような文章が書かれたパンフレットを配布した。
【明治大学全学集会にあたって】1969.10明治大学学長(引用)
『(前略)<バリケードの意味するもの>
現在みられるバリケードは、大学の「改革」ではなく、その「解体」を主張する極めて少数の学生のためのとりでとしてのみ存在する。(中略)「永続闘争」を叫ぶ学生たちの拠点化の象徴としてのバリケードは、彼らの「闘争」に組しないものをすべて排除する。
大学の自治は、大学が教育・研究の場である時にのみ存在する。バリケードはこの自治を放棄したことを意味するものといわざるをえない。(中略)
<全共闘とその運動>
(中略)「全共闘」は「闘うものの組織」と称して「大学問題」を踏み台とした政治闘争にはしり、その方向も社会的には現体制打倒、学内的には「大学解体」を目指して大学内諸機関・各種委員会の粉砕を叫ぶにいたっている。(中略)
このまま推移すれば、連日新聞紙上に報道されているような陰惨な「内ゲバ」の発生が憂慮される。一方では市民生活に強い不安を与えた、9月30日の本学周辺での混乱に見られるような事態が惹き起こされている。(中略)
学生諸君の中には、あるいはバリケード解除は大学側の改革への姿勢を失わしめるものと心配するものもあると聞くが、その懸念も全くない。
学生諸君の協力をえて、全学一致してすみやかに学園の正常化を達成することを念願する。』

全学集会の様子は次回に続きます。