野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2010年09月

イメージ 1
全国学園闘争シリーズ第8回目は、東京の慶応義塾大学。

今回も大学の写真を撮りに行った。
JR田町駅を降りて第一京浜国道をまたぐ歩道橋をわたり、慶大方面に向かう。まだ朝が早い時間帯なので、慶大の中等部や女子高等部の学生に混じって大学の正門を目指す。
桜田通りに出て、正門の反対側の歩道から写真を撮ろうと思ったが、構内が工事中で写真写りが良くない。
そこで、東京タワー方面に回りこんで、東門(門といっても建物の1.2階部分が通れるようになっている)でパチリ。(写真)

図書新聞で現在、「60年代・70年代を検証する」シリーズが連載されているが、2009年6月に鈴木正文氏(元慶應文自書記長)のインタビュー記事が掲載されている。
今回はこの図書新聞の記事と、当時の新聞記事から慶大闘争を見てみたい。

【みゆき族から新左翼へ 今は自動車誌を編集】2009.6.20図書新聞(引用)
聞き手は小嵐九八郎氏(作家・歌人)
『1968-69年の全共闘運動の中で、慶應大学でも全学バリケード封鎖が行なわれた。
多くの学生がストライキを支持し、さまざまな党派の活動家が生まれた。
慶大だけでなく、全国の活動家たちは、70年安保再改訂阻止・沖縄返還協定反対を掲げて、犠牲をおそれずに進んでいった。
警察の厳しい弾圧に対抗して武装闘争に向かい、懸命に闘った。
だが、それは軍事路線をめぐって試行錯誤をよぎなくされ、党派的な分裂を深める過程でもあった。
その中の1人、鈴木正文氏に、当時をふりかえり、そしてその後の自身の歩みをふまえて、新左翼の運動の体験を内在的に総括する貴重な話をさまざまに語っていただいた。(中略)

小嵐:では、68年に大学に入ってからのことをお聞きします。
慶應大学では、ちょうど米軍が医学部に委託研究をしていた問題がありました。

鈴木:その年の3月か4月に朝日ジャーナルが暴露したんです。医学部が米軍から研究資金を援助されていたんです。
そのころちょうど米軍によるベトナムでの枯葉作戦が進められていて、大問題になっていました。
多分、その作戦に慶應大学医学部の研究が敏捷に取り入れられていることは、常識的に見てありえないとは思うんですが、大きな目で見れば、米軍が特定の研究のために資金を出していること自体、何らかの見返り期待があると考えられます。
ですから、大学当局の説明がどうあれ、やっていることがおかしいとなって、闘争が始まり、5月にはたちまちストライキに入っていきます。
僕は当然それを担っていくことになりました。(後略)』

【慶大24時間スト 日吉分校大学の公聴会拒否に】1968.7.5毎日新聞(引用)
『慶応義塾大学(永沢邦男塾長)医学部が米陸軍極東開発局から受けていた研究補助金問題をめぐって学校当局の責任追及と1日に予定されていた同問題の全塾公聴会を学校側が拒否したしたことに対し、同校日吉自治会(村川浩一委員長)の「日吉学生大会」は4日昼、横浜市港北区の同大学日吉校舎で開かれ、2回の投票の結果、賛成多数で同日午後8時から24時間ストに入った。

大会には日吉在学生約半数に近い五千人が参加した。
第1回投票は2時間も遅れ午後5時前に行なわれ、総得票数3271票のうち賛成1536、反対1603と反対投票が多かったが、過半数に達しなかった。
このため再投票で賛成が過半数を占めれば24時間に限りストを行い、その後の体制については5日午後3時から東京の三田校舎で開かれる全塾学生大会で決めるという条件で再投票に入った。
その結果、総投票数3011票のうち賛成1797、反対1152票で賛成多数でただちに日吉自治会では正門入口にバリケードを築き、スト体制にはいった。(後略)』

【日吉無期限ストへ 三田で三千人深夜集会】1968.7.6毎日新聞(引用)
『米陸軍極東開発局から医学部への研究補助金問題をめぐって、4日午後から24時間ストに入っていた慶応義塾大学(永沢邦男塾長)日吉自治会(村川浩一委員長、三千人)は、5日午後1時から学生大会を開き、今後の闘争体制を討議、村川委員長から提案されたストの無期限続行について、同4時半学生投票を行なった。
この結果、総投票数1761票のうち賛成892票、反対790票で同自治会は無期限ストにはいることを決めた。
一方、全塾自治会(原信夫委員長)は5日、永沢塾長に対し「6日、三田校舎で塾長団交を開いてほしい」と申し入れた。
これに対して永沢塾長は「塾長団交を受ける意思はない。8日に公聴会を開き、塾長、全常任理事、医学部長、各学部教員有志が出席して学生と意見交換し、説明したい」と述べた。
しかし、自治会側はあくまで塾長団交を求める方針で、スト決議を提案する構え。
三田校舎では午後から経済、文、法、商の各学部ごとに学生大会を開き午後6時過ぎから全塾学生大会を開き、日吉自治会から合流した学生をあわせ、約三千人が深夜まで討論を行なった。』

(つづく)

イメージ 1
前回の続きです。

全学集会の様子を明大新聞の記事で見てみよう。
【全学集会は流会】1969.10.9明治大学新聞(引用)
『<学長は所信表明ならず>
授業再開へ向けて、注目の全学集会は10月4日、八幡山グラウンドで開かれたが、学生が演壇を占拠したため、学長自らの所信表明はならず、流会となった。
グラウンド入口では教職員130人が学生証を検分、大学側のパンフを学生に手渡した。
事前に要請された機動隊は一般学生を刺激させないためか、学生の目の届かないところに待機しデモ隊に備えた。
会場の陸上競技場は約8000人の学生で埋まった。午後1時10分、学長、総長らが演壇に現れ、「これより所信表明を行なう」と呼びかけた瞬間、演壇近くに陣取っていた学生約30人は「ワー」と演壇に押し寄せ、学長らを押し出して占拠した。
2,3人の体育会学生ともみ合ったが、学生はスクラムを組んで、“全学集会粉砕”のシュプレヒコールをくり返した。このため学長らはいったんラクビー部合宿所へ退避した。
ぼう然と立ち尽くす一般学生に前に、まもなく赤旗を持ったデモ隊約500人はグラウンド裏手の金網を越えて侵入、グラウンドをデモ行進した。
学生は集会を開き「大学側がこの場に現れるよう」訴えたが、大学側が合宿所のスピーカーから「全学集会にあたって」のパンフを白石四郎政経学部長が2回読み上げ「これで大学の態度表明を終わります」と放送した。
その後、体育会学生を中心とする「自由討論会」も別のグラウンドで持たれた。
「このままでは流会にできない」とする大学側は、裏側の入口から再び入場、これを学生らがスクラムで巻き込もうとしてが、水野東太郎理事長、松田孝学生部長らは学生を振り切って、合宿所に逃げ込んだ。
その際、木下半冶学務理事が学生につかまり、演壇で「全学集会の意義は」などと追及されたが、木下理事は黙して答弁しなかった。
そして午後2時50分、「本日の集会は混乱のため中止する」と西垣脩二部教務部長が流会宣言をした。これに対抗して学生側は独自の「全学集会」を開いた。
助手共闘、院生共闘の挨拶があり、午後4時近く、インターを斉唱、グラウンドを約500人がデモ行進した後、和泉校舎へ向かった。
なお、約100名の「一般学生・良識学生討論会」も開かれたが、4時前に終了した。』

会場内に入った部隊は阻止されるという前提で我々は会場外で待機していたのだが、“予想に反して”会場に入った部隊が演壇を占拠した。
「演壇を占拠した!」とのレポの情報で、会場外に待機していた我々の部隊も、演壇占拠組を支援するため、既に細工して破ってあった金網から会場内に突入。
私も演壇に駆け上った。
写真(明大新聞から転載)の中央で後ろ向きに立っている学生が横谷氏。右手に生田共闘の学生の顔が見える。学生服で中核旗を振っているのは商学部の学生だろうか。

大学当局が、全学集会の経過を父兄に送った文書の中に「当日午後1時15分八幡山グラウンド陸上競技場に集った数千名の教職員・学生に前に学長があらわれ、所信の表明を行なおうとしたところ、演壇周辺に集っていた全共闘系の学生が一斉に学長その他当局者をとり囲み、マイクロフォンを奪って学長らを演壇から暴力的に引きおろしました。
それと時を同じくして、会場の外に待機していた他大学生の一団が、ラクビー場の金網を破って会場に乱入し、同じく演壇を占拠しました。(後略)」
という記述がある。
会場の外に待機していた他大学生の一団というのは誤りである。私はその中にいた。日大の応援部隊が入っていたかもしれないが、明大全共闘の部隊であり、「他大学生の一団」ではない。

全共闘白書にこの時の様子が書かれている。
『匿名 1968年入学 「是非発言したいこと」
(前略)明大闘争で八幡山全学集会が行われようとしていました。そこで全共闘はそれを阻止しようと八幡山まで行ったことを覚えています。全学集会が始まるや横谷君が壇上を占拠し、流れるようなアジテーション。今でも強烈な印象として頭から離れません。(後略)』

『<弾劾集会も和泉で開く>
この日の全学集会に対する弾劾集会が午後5時すぎ、和泉校舎6番教室で開かれた。
まず関口成一全明全共闘議長から「全学集会は圧倒的な力で勝ち取られた。大学側を弾劾して勝ち取られたのだ」との総括があり、横谷優一吃全共闘から「確かに本日は圧倒的な力量で勝ち取られた。われわれはバリ死守をもってこれからの政治闘争を闘い抜く。方向性としては圧倒的な学友を結集し大デモをくりひろげてゆく。そして質の高揚をめざし、大学解体、世界叛乱を勝ち取るのだ。
70年、帝国主義に対しては全国全共闘で闘い抜こう」との総括と方向性が述べられた。
そのあと、シュプレヒコール、インターの斉唱で午後6時頃終わった。』

ほとんど逮捕者もなく全学集会を流会にさせたことで、全共闘の士気は高まったが、機動隊導入ももはや時間の問題となった。

(つづく)

イメージ 1
No144の続きです。

1969年9月30日の日大法経奪還闘争は、バリケード封鎖中の駿河台の明大本校を拠点として深夜までゲリラ戦が闘われた。
各大学のバリケードが次々に崩されていく中で、駿河台の本校は都内に残された全共闘最大の闘争拠点であった。

10月1日、大学当局は「大学はできるだけ早く全学的な集会を開く予定」という内容の広告を新聞に掲載、また、「9月30日の付近の混乱によって市民生活に強い不安を与えたことから、本学施設をこのままのいわゆる拠点校の状態に放置することはできない」と判断し、10月4日、明大八幡山グラウンド(写真:明大スポーツから転載)で全学集会を開催することを決定した。
そして10月3日、全明全共闘と全局共闘からの団交要請を拒否するとともに、朝日、毎日、読売の3誌の新聞紙上に全学集会への参加を呼びかける広告を掲載した。

いよいよ全学集会、この日は逮捕覚悟で家を出た。
逮捕されても黙秘する覚悟で、電車の定期券や学生証は持たず、財布と救援ノートだけを持って和泉校舎に向かった。
和泉では、全学集会に向けて総決起集会が開催されたが、明大新聞に当日の集会の様子が載っているので見てみよう。

【全学集会は流会】1969.10.9明治大学新聞(引用)
『<和泉で総決起集会>
4日の午前10時から、和泉校舎6番教室で、約500人を集め全学集会に向けた全明総決起集会が開催された。
生田地区全共闘が「真の明大総叛乱を貫徹しよう」と挨拶。この後、次々と各闘争委員会から決意表明がなされた。
関口成一全明全共闘議長が「大学側の官憲導入・ロックアウトの策動を見抜け。右翼・民青を許さず、明大闘争を闘い11月決戦に向けて、バリストを貫徹しよう」
横谷優一吃全共闘がこの日の行動方針と全学集会での獲得目標、さらに商闘委・政経闘委の決意表明の後、互井賢二全明全共闘副議長代理が「スターリン主義者を徹底的にぶっつぶせ。今や個別闘争は時代遅れであり、政治闘争を闘い抜かなければならない。今日は機動隊とぶつかって行こう」、さらに本間晟豪全局共闘会議議長が「全学バリストに対する弾圧である。徹底的に粉砕しよう」と決意を述べ、最後に曲呼委から発言があった。
ただちにヘルメット・ゲバ棒抜きでデモに入り、正門を出たところで機動隊の規制を受けたが、正午すぎ明大前駅から電車に乗り込んだ。
八幡山駅を出ると、また規制を受けて会場まで遠回りさせられた。
なお、このデモの先頭にいた本間晟豪全局共闘会議議長は私服刑事数人に東京都公安条例違反などで逮捕された。』

この日の総決起集会に結集した人数は約500名。明大全共闘の中心的部隊が2~300名なので、それをやや上回る参加であった。ほぼフルメンバー。
この日の行動方針は、部隊を二手に分けて、会場に入る部隊と会場の裏手で待機している部隊に分ける。
会場内に入る部隊は学生証を持つので、逮捕歴のあるものや警察に顔が割れている者、会場外は逮捕歴のない者や警察に顔が割れていないものを中心に構成したと記憶している。
会場内に入った部隊が学校当局や体育会の阻止行動、あるいは機動隊により逮捕された場合、会場の裏手に待機している部隊が会場に突入して演壇を占拠し、全学集会を大衆団交に切替えるという戦略だった。
私は会場外での待機組。

大学側は会場で次のような文章が書かれたパンフレットを配布した。
【明治大学全学集会にあたって】1969.10明治大学学長(引用)
『(前略)<バリケードの意味するもの>
現在みられるバリケードは、大学の「改革」ではなく、その「解体」を主張する極めて少数の学生のためのとりでとしてのみ存在する。(中略)「永続闘争」を叫ぶ学生たちの拠点化の象徴としてのバリケードは、彼らの「闘争」に組しないものをすべて排除する。
大学の自治は、大学が教育・研究の場である時にのみ存在する。バリケードはこの自治を放棄したことを意味するものといわざるをえない。(中略)
<全共闘とその運動>
(中略)「全共闘」は「闘うものの組織」と称して「大学問題」を踏み台とした政治闘争にはしり、その方向も社会的には現体制打倒、学内的には「大学解体」を目指して大学内諸機関・各種委員会の粉砕を叫ぶにいたっている。(中略)
このまま推移すれば、連日新聞紙上に報道されているような陰惨な「内ゲバ」の発生が憂慮される。一方では市民生活に強い不安を与えた、9月30日の本学周辺での混乱に見られるような事態が惹き起こされている。(中略)
学生諸君の中には、あるいはバリケード解除は大学側の改革への姿勢を失わしめるものと心配するものもあると聞くが、その懸念も全くない。
学生諸君の協力をえて、全学一致してすみやかに学園の正常化を達成することを念願する。』

全学集会の様子は次回に続きます。

↑このページのトップヘ