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前回の続きです。図書新聞の記事と、当時の新聞記事から慶大闘争を見ていきます。
写真は占拠中の三田校舎塾監局(本部)(毎日グラフから転載)

【みゆき族から新左翼へ 今は自動車誌を編集】2009.6.20図書新聞(引用)
聞き手は小嵐九八郎氏(作家・歌人)
『(前略)
小嵐:文学部自治会の委員長になられた?

鈴木:いいえ、たしか書記長とか、そういうものだったと思います。

小嵐:次の年の69年には大学立法が出てきましたね。そのころはどうされていましたか。ブントに入られたのはいつですか。

鈴木:入党の手続きをした記憶はないんです。署名した覚えがないですね。

小嵐:社青同解放派もそうでした。“心意気”で入党です。

鈴木:68年の夏休みにもバリケードを維持するんですが、教師も学生も来ないですから、あまりやることがないんです。
愛塾挺身隊というのが結成されて、ブルジョアの息子たちが素敵なスポーツカーに乗ってバリケードを破りに来たんですけれど、それの警戒ぐらいでした。
議論はずっとしてました。本当の無党派というのは日吉文学会にしかいなかったと思います。みんな真面目で、よく議論して、別に男女交際などもせずに、麻雀もやらずに、礼儀正しくておとなしい学生たちだったです。
ヒューマニスティックな正義感が結集軸だったと思います。僕は大江健三郎がいっていることも賛成だし、サルトルも賛成でした。吉本隆明が好きな人もいました。
和光晴生氏は、映画を媒介にして、日本赤軍に参加することになりますが、文学的な性向の強い学生だったと思います。
(後略)』

【慶大塾監局 26日ぶり占拠解く 反スト派の説得成功】1968.10.4毎日新聞(引用)
『米軍資金導入問題から東京・三田の慶應義塾大学塾監局(本部)を占拠していた社学同系の学生45人(うち女性6人)は、占拠反対派学生が徹夜で背得した結果、4日午前4時半すぎ占拠を解いた。先月9日夜、占拠して以来、26日ぶりである。
同大学では紛争発生以来“話合い解決”を尊重、一貫して話合いの態度を持ちつづけ、医学部中央事務局占拠、教務部占拠もすべて説得により退去させることに成功している。(中略)
占拠派の学生は3日昼開かれた大学当局と全塾自治会の塾長会見打ち合わせに出席したが、この日、スト反対派の学生が塾監局のドアの窓ガラスをこわしたため、留守部隊が塾監局の屋上から牛乳ビン数本を投げた。
このことからトラブルが起こり、占拠派のリーダー2人が同夜遅くまで約300人のスト反対派の学生につるしあげられた。
4日未明にようやく解放されて塾監局内部にはいり、占拠派学生全員が協議した結果、占拠を解いた。
占拠派の学生45人は午前4時すぎ、赤ヘルメット姿で塾監局から出てきた。「米軍資金導入反対」のシュプレヒコールを繰返しながらキャンパス内をデモ。男子学生のほとんどはヒゲがのび、ボサボサ髪、女子学生の衣服もうすよごれている。
いずれも疲労の色をかくし切れぬ様子で、キャンパス内をデモったあと、正門から姿を消した。(後略)』

【慶應大 塾長囲んで“団交” 幕切れは、とんだ暴力ハプニング】1968.10.13毎日新聞(引用)
『米軍資金導入問題で紛争が続く慶應義塾大学では12日午後、学生約三千人が集まって、永沢邦男塾長との“大衆団交”が開かれた。
会場では激しいヤジが飛んだが“つるし上げ”方式にならず、大学生らしい論争が続けられた。
しかし、同10時50分すぎ、討論内容に不満をもつ体育会系の学生約50人が壇上にかけ上がり、十分間にわたって自治会代表になぐるけるの乱暴を働き、永沢塾長や大学首脳は学生や職員にかかえられてかろうじて脱出、自治会代表のけがはなかった。
この日の“団交”は米軍資金の性格と辞退声明を中心テーマに午後2時から三田の西校舎518番教室で開会、大学側から永沢塾長以下常任理事、各学部長ら13人が出席、学生側は全塾自治会の村川浩一委員長代行が代表して「米軍からの資金援助は戦争協力になる」と大学側を追及した。永沢塾長が「資金援助が戦争協力にとながるとは思えない」と反論した。
この間、会場には激しいヤジが飛びかい、騒然としたふんいきに包まれた。
大学側と学生側の議論は最後までかみ合わず、平行線をたどったまま。約9時間後の同10時すぎ、学生側が17日に再び“団交”することなど7項目の要求書を出し、大学側もこれを了承。その他の要求について次回に回答することを約束して、同10時45分、9時間にわたるこの日の団交を終わった。
すると、それまで討論に不満を持ちながら見守っていた体育会系の学生約50人が、どっと壇上にかけ上がり、村川委員長代行ら自治会代表の顔、頭などを素手でなぐった。
村川浩一委員長代行は自治会の学生にまもられ、すばやく脱出、この騒ぎにまきこまれた永沢塾長らも、もみくちゃにされたが、大学教員にだきかかえられ、やっと会場を抜け出し、とんだ幕切れとなった。』

(つづく)