野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2010年12月

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前回の続きで、10月23日(土)にBSジャパンで放映された「田原総一郎の遺言 タブーに挑んだ50年」という番組について紹介する2回目。

『(対談)
山下:僕らは今までのジャズのやり方を全部ぶっこわしてやっちゃえと言ってやったんです。
それを聞いてくれる人は想定できないんだけど、あの時代だからこそあいつらも壊せといっている。
壊すやつが偉いんですよ。
で、壊してどうするの、そんなものはどうでもいい、壊して向こうに飛び込んでいけば何かある、ですから僕らも平気でドーンとやった。
そうすると、聞いている彼らが「いいぞ」と言ってくれる。
実際にあの後、これが噂になって、大学祭に次々に呼ばれて大学ツアーができたくらい。
普通の学生はテレビタレント呼んでやるが、大学には一部に必ず変な連中がいます、この連中が「あいつらを呼ぼう」ということで、ある種の象徴で僕らを呼んでくれた。
それで、狭い教室であれを手本した。
(写真は1970年明大和泉祭のパンフから)

(映像が流れ、その中で)
山下:実際にやる方と彼らとはすごく離れている。とても距離があると思いますね。
こっちがやることはピアノをたたくことなんだし、向こうは角材で実際に闘うわけですから。

(対談)
山下:一番わくわくする出来事なんですよ、学生たちが暴れているとうことは、世の中をひっくり返そうとしているから。こんなすごいことってないんですよ。

司会:しかもそこで、自分は殺されるかもしれないと思って演奏するわけですよね。

山下:もしかしたら火炎ビンが飛び交うと言われましたから。

田原:当然ゲバが起きると思っていた。民青がガーと来てゲバルトになると思っていた。
民青が来たが、静かに聴いている。大学側が「何してるんだ!」と当然来る、教授たちも静かに聴いている。
早稲田は変な大学で皆、静かに聴いちゃう。僕はガックリですよ。

山下:戦争が起きなかったから田原さんには不満だったかもしれないが、僕にとってはすごくたくさんのものを得たものです。

田原:周りにいた連中がレコードを作った。

司会:こちらの「DANCING古事記」というレコードですね。

田原:今買うとすごく高い。

山下:プレミアで2~3万。

司会:しかもこの音源がこのフィルムから採られている。

田原:このピアノを担いだ連中に、いろいろ面白い連中がいて、例えば中上健次という作家、ニセ学生で運動だけやっていた。それから立松和平という男、このピアノ事件で小説書いてこれが彼のデビューになった。

山下:実は彼はいなかった。

田原:アルバイトでいなかったのに、いたふりして書いている。

山下:いなかったことは言っていて、田原さんが夢みたとおりの事を書いている。

司会:小説の中では、(ゲバが)やられている。

山下:僕はドラマーの背に負ぶさって血を吐きながら逃げる、すごいですよ。

司会:これを映像化したいくらいですよね。

田原:伊集院静もピアノ担いだって言っている。

山下:いろいろな作家の方が、あの時あそこにいたと言っている。又聞きですが。それから北方謙三さんもいたという話がある。

司会:あの時あそこにいたと言いたいくらいモニュメントな出来事だった。

山下:今になってみれば、そういう伝説になってくれたので、ありがたいと思っている。
学生たちが革命をしようとしていたあの時間に、いちばん得をしたのは物を創造する人たちですよ。
亡くなった立松和平さんはそのことがきっかけで新人賞の候補になったわけだし、北方謙三さんも作家になりましたよね。
あの頃を抱えている人たちの中に、あいつらがあんなことをするのなら負けていられないという情熱がわいている。

司会:反体制を創造に向けていった人がいたのですね。

田原:寺山修司だって唐十郎だってみんなそうだ。

山下:そのLPは、今、誰に聴いてもらっても恥ずかしくない出来です。
大隈講堂からぶち破ってピアノを持ち出してなんて、今やったら逮捕ですよね。
当時はそれができた。大泥棒ですよ。

田原:それを番組で放送までできた。放送までできて、大変なことだと分かっていてもテレビ東京の幹部は僕をクビにもしなかった。

質問:撮影の許可は事前に出したのですか。
田原:許可を得ていません。早稲田大学に無断です。むしろ学校側が抗議に来ることを求めていました。

(終)

※今年のブログは今回で終わりです。ブログを書き始めて3年が経ちましたが、今後も書ける限りは続けて行きたいと思っています。また、関係の方々の情報発信の「場」としても活用していければと思っています。来年は1月1日からです。

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2010年もあと少し。
今年の締めくくりは、10月23日(土)にBSジャパンで放映された「田原総一郎の遺言 タブーに挑んだ50年」という番組について、今回を含め2回に分けて紹介する。
この番組に関連して、ブログのNo82「1968-69年 全国学園闘争 明治学院大学編」に、こんなコメントが寄せられたことを覚えているだろうか。

<コメント>
『昨夜(5/27)、久米宏の番組で田原総一郎がプロデューサー時代手がけた番組で、早稲田の黒ヘルが大隈講堂から運び出したピアノで山下洋輔がコンサートをやる映像を流していましたね。黒ヘルに記された「反戦連合」の文字に鳥肌立ったのは私だけでしょうか。
久米が早稲田闘争のおかげで自分たちの就職は大変だったと語っていましたが、どう大変だったんですかね。(虎児)

TBSの「クメピポ」という番組ですか?残念ながら見ていません。
そんな映像が流れるとは思っていませんでしたので、焼酎ロックを飲んだ影響もあり、その時間はすでに寝てました。(yajiuma)

山下洋輔が早稲田でピアノを壊しながら"演奏"をした時、たまたま現場にいました。
久米のアジも聞いたことがあります。(省略)(文理\(^o^)/学科)』

この時の久米宏の番組は、コメントにあるように寝ていたので見ることができなかったが、今回の「田原総一郎の遺言 タブーに挑んだ50年」という番組の中でこの映像を見ることができた。

【1969年作品「バリケードの中のジャズ ゲバ学生対猛烈ピアニスト」】
『1969年、バリケードの中の早稲田大学。立看板に「JAZZによる問いかけ 山下洋輔トリオ 相倉久人 平岡正明」という文字が書かれているが、場所は書いていない。
反戦連合の黒ヘルを被った14~5人が、ピアノを運んでくる。
やがて山下洋輔トリオの演奏が始まり、黒ヘル学生たちが演奏に聴き入っている。
演奏が終わり、外に出て構内を歩く山下洋輔へのインタビューに、アジテーションとインターの歌声が重なる・・・。』

番組では、この映像の他に田原総一郎と山下洋輔による対談があった。
この対談の内容が結構面白いので、ブログで紹介する。

(ナレーション)
田原がディレクターとして活躍した時代は日本が高度経済成長の真っ只中にあり、ベトナム反戦運動などに端を発した世界的学生運動の波が日本にも押し寄せ、全国各地の大学で学園紛争が巻き起こる。
やがて大学の存在意義そのものを問う全共闘運動へと広がり、多くの大学が機能停止状態に陥った。
そしてついに学生同士の内ゲバが続発、死傷者まで出る事態へと突き進んでいったのである。

(対談)
司会:学園の中で暴力闘争が行われるのは信じられない。田原さんはイデオロギー的に誰に付くということではなかった?

田原:誰に付くということはなかったが、全共闘はぶっこわし屋。僕は壊すのは大好きだから心情全共闘ですよ。

司会:各派ということではなくて、ぶっこわせというスローガンがいい、破壊せよと。

田原:そう、実際にぶっこわしていたから。

(ナレーション)
その時代、モダンジャズに心頭していた学生たちのスターといえば山下洋輔。
その演奏ぶりは正に圧倒的だった。
前衛芸術粟津潔の「ピアノ炎上」など過激で挑戦的な演奏でも若者たちの支持を得た。
そしてそれらの映像イメージの原点は5年前の田原作品の中にあった。

(対談)
山下:とにかく、ああいう演奏を一人でも多くの人に聞いて欲しかったのでチャンスを捜したことは確かで、我々の仲間が田原さんに届けてくれたときに、ピアノを弾きながら死にたいと言っている奴がいるという風に伝わって、田原さんが「面白い、俺が殺してやる。」ということになって、それでそこの場所を設定してくれたのだと思います。

田原:山下さんが弾きながら死ねる状況を作るにはどうしたらいいか真剣に考えた。
殺される状況をね。早稲田に彦由という男がいて黒ヘルだった。当時一番過激だった。
そこで彦由に「山下さんが弾きながら死ねる状況を作れないか」と訊いたら、「面白い、やろう」ということになった。
(彦由常宏;黒ヘルメットのアナーキスト集団「早稲田反戦連合」のリーダーという字幕)
そこで、早稲田大学のこのピアノの鍵を無くしたために首になった人がいるという大事なピアノを盗み出して、当時民青、共産党が封鎖しているところに黒ヘルが民青にゲバかけて地下のホールで山下洋輔さんがやる。』
(写真は毎日グラフから転載)

(つづく)

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全国学園闘争シリーズの9回目は関西大学。
関西大学は1886年に創立された関西法律学校を起源とする大学で、1922年に大学令に基づく旧制大学となった。
関西私学を代表する「関関同立」(関西、関西学院、同志社、立命館)の一つである。
この関西大の様子が、朝日ジャーナルの「学園ハガキ通信」に載っているので見てみよう。

【学園ハガキ通信】朝日ジャーナル 1969.8.3号(引用)
『関西の日大闘争 <関西大>
6月20日以来全共闘に封鎖されていた関大本部は機動隊導入により7月5日解除された。
この全共闘の闘いは関大の学内支配体制=右翼ファッショ的支配体制(体育会応援団の学内機動隊を駆使して意識的学生を暴力的に抹殺)=大学立法の先取り的体制を打破する闘いであった。
まさに関大80年とは、裏をかえせばそのような血にぬられた暗黒の歴史なのである。
それを端的に示すのが次のような事件である。
登校の電車内で「朝日ジャーナル」を読んでいたところ、関大前駅に降りたとたん一緒に乗り合わせていたらしい体育会系学生3人に取囲まれた。
そして全共闘か?学生証を見せろ(持っていなかった)とか何の権利もないのに高圧的に胸ぐらをつかみながらいい、違う、一般学生だと答えると(はっきり言え、体育会本部で調べたらわかる。全共闘やったら命ないものと思え、関大体育会をなめるな)などとならべたてた。
結局三発なぐられただけで“釈放”になったが、捨てゼリフに、赤がかった本読んでたら一般学生でも2,3発なぐられても文句言えないぞとおどかして帰っていった。
まさにこの言葉こそ関大80年そのものをあらわしているといえよう。』

関西の日大闘争という「学園ハガキ通信」への投稿を受けて、翌月の朝日ジャーナルに関西大のルポ記事が載った。

【苦悩する個別学園闘争 関西から】朝日ジャーナル 1969.9.21号(引用)
『日大ミニチュア版 関西大
しばらく前の本誌「学園ハガキ通信」欄で「関西の日大闘争」と題した記事をご記憶でしょうか。
電車の中で右翼学生におどされた学生の話です。だからボクも日大闘争のイメージを頭にえがきながら関大へむかいました。
が、千里山のキャンパスについてまずびっくりしたのは、その広々として見晴らしのいいことで、この点では全国の大学の中でも十指に入るのではないでしょうか。
キャンパスなしの校舎にぎゅうぎゅう学生をつめこんでいる日大とは、全然様子が違いました。
全共闘の学生がたむろしている建物はすぐわかりました。三階の窓からハシゴで出入りしていたからです。
7月5日、機動隊が入って全共闘が封鎖していた関大会館は解除されたのですが、その後、誠之館(学生会館)、法・文研究棟、社研究棟を封鎖して現在にいたっています。
学生たちの話いろいろ聞いてみますと、たしかに日大闘争を小型にしたような点があります。
関大でも前近代的な学生支配の制度の告発が闘争の基調になっています。
ビラや集会の届け出制などを定めた学生規則の撤廃が5項目要求のはじめにあげられています。
もっとも関大の学生支配構造は日大ほど露骨ではありません。
学生が学生を支配するという構造になっており、その意味では日大より巧妙なのかもしれません。
6学部の自治会の上部機関として各自治会やサークルの予算の配分を牛耳っている中央執行委員会があります。
学生投票で選ばれた中央委員会のメンバーで構成されるのですが、その選挙がいままで相当インチキなものだったらしいのです。
投票時間も短時間、場所も1ヶ所に制限、体育会、サークルなどの組織票だけが入るような仕組みになっていたそうです。
こうした不正選挙をめぐる闘争が昨年来続き、商、文、社会学部の自治会などが中心となって、中執の支配から完全に離脱しようという動きがあったのです。
ことしの4月、大学立法反対をひとつのバネに、関大でも新しい学生の自治体を創設しようとする動きが活発になり、それが6月14日に6学部闘争委員会(後に関大全共闘)による大衆団交要求という形に発展したわけです。
大学側はもちろん拒否、6月20日の第2回目の申し入れも拒否、その日に関大会館を封鎖という形にエスカレートしました。(次回につづく)』

【キャンパス情報】毎日新聞 1969.6.21(引用)
『関西大
体育会系が学生組織を牛耳っていたが、学内民主化を叫ぶ反日共系学生たちが20日、全共闘を結成、理事長室や本部事務局などがある大学会館を封鎖した。同大学では、今年二月にも反日共系学生が社会学部学舎を封鎖したが、こんどは反体育会感情をむき出しにした紛争で、今後学生どうしの衝突が心配される。』(写真は毎日ムックから転載)

(つづく)

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前回の続きです。
6月20日に関大会館を封鎖した全共闘は、翌日一旦撤退したが、6月22日、再度封鎖に踏み切る。(写真は毎日グラフから転載)

【関西大再び騒然 全共闘、体育会系とこぜり合い】毎日新聞 1969.6.23(引用)
『封鎖さわぎが一段落したばかりの関西大学で22日朝、再び全学共闘会議派の学生が関大会館を占拠、表にバリケードを築いてたてこもり、封鎖に反対する体育会系学生と深夜までにらみあった。
このため大学側は緊急部局長会議を開き、両派が衝突したときは、警察の出動を要請することを決めるとともに、実力行使を避けるよう説得をつづけた。
全共闘(文、社会、商三学部自治会と五学部闘争委員会で組織)は21日午後7時すぎ、バリケード封鎖中の関大会館から自主的に撤退、姿を消したが、22日午前10時ごろ、“外人部隊”を含め約150名のヘルメット学生を動員、会館を再占拠した。
このあと全共闘は会館前の広場に立てカンバン、机などでバリケードをつくり、館内に角材、鉄パイプ、石などを持込み、さらに小型トラックで食料を運び込んで長期封鎖の体制にはいった。
一方、体育会、文化系の学生約500人も約400メートル離れた体育館やサークル館3ヶ所にたてこもり、通路にバリケードを築いてにらみあった。
両派の学生は夜にはいってから再三鉄パイプなどをふりかざしてこぜりあいを繰返した。』

【キャンパス情報】毎日新聞 1969.6.24(引用)
『機動隊導入を決議
<関西大>全共闘(反日共系)が大学本部を封鎖しているが、学友会執行部(体育会系)は23日、全学集会を開き「機動隊導入を大学側に要請する」と決議した。
全学集会は約五千人の学生が参加、杉原四郎教学部長、桜田誉学生部長らも出席した。
全共闘はこの決議に強く反発しているので、紛争はいっそうこじれそうだ。』

【苦悩する個別学園闘争 関西から】朝日ジャーナル 1969.9.21号(引用)
『日大ミニチュア版 関西大
(前回よりつづく)このときの学内の右翼勢力と全共闘のゲバでは日本刀が登場するなど日大的なシーンがあったらしいのです。
このあたりから、いくつかのサークルが続々学友会離脱を宣言するなど、中執による支配体制が事実上崩壊をみせはじめるのです。
一方、大学側の内部はバラバラで、法、文、商の教授会は機動隊導入に反対の決議をするしまつ。
日大ともっとも違うのは古田会頭的な人物が関大にはいないことかもしれません。
結局、中谷敬寿学長、桜田誉学生部長ら執行部は8月30日に辞表を提出してしまいました。
9月8日、法、経など一部授業再開の動きが出はじめましたが、全共闘は妨害戦術に出ており、まだまだ情勢は混沌としています。
ところで関大は万博会場に近く、学外では関大闘争が万博反対にどう結びつくか、関心のまとなのですが、学生たちは、基本的には反対していてもさて具体的にどうするかということになると相手がでかすぎて・・と苦笑していました。』

闘争とは直接関係ないが、万博に関連して新聞にこんな記事が載っていた。

【関大全共闘、手配師に食われる】毎日新聞 1969.8.14(引用)
『万博工事 保釈金かせぎ二百人タダ働き
逮捕された学友たちの保釈金をかせぐため。関西大学全学共闘会議の学生たち延べ228人が、24日間も万国博の国連館建設現場で働いた。
ところが、いっこうに金を払ってくれず、全共闘で調べたところ、この仕事をあっせんした手配師が金を持ち逃げした疑いがでてきた。
学生たちが働いたのは熊谷組の下請会社、柏田工務店の建設現場。全共闘のメンバーの1人N君=社会学部三回生=が国鉄大阪駅で手配師の「西田」という男から「万国博会場でいい仕事がある」と持ちかけられ、仲間と相談した結果、逮捕された学友の保釈金や闘争資金に使う目的で、全共闘あげて働くことを決めた。
学生たちがこの話に乗ったのは、日給2,300円(食事付き)という条件だったためで、口約束だけでとびついた。
全共闘は封鎖中の同大学社会学、法文研究室に泊まり込んでいる学生たちを、先月18日から毎日平均10人、柏田工務店に派遣、万国博会場内で土運びやアナ掘り作業をした。
給料日の今月10日、学生が柏田工務店に給料をもらいに行ったところ、日当は手配師が約束した1日2,300円ではなく1,100円と半額で、しかも食事代(350円)を差引いて、たったの750円という説明。
この抗議で寝耳に水の柏田工務店社長、柏田定利さんが調べたところ、先月分の給料は、すでに会計係から手配師の「西田」に支払われていることがわかり、保釈金も皮算用に終わりそう。
自分たちが汗を流した国連館の壁に「万国博粉砕」と書きなぐったのが精いっぱいのウサ晴らしだった。』

(終)

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