野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2011年01月

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1月11日、ホームページのゲスト・ブックに書き込みがあった。
「本日aaghさんが旅立たれました。 合掌  藪G」
昨年来、ガンで病気療養中ということは知っていたが、突然の訃報に接し言葉もなかった。

aaghさんとは、1972年明治大学文学部入学、文学部ゼミナール協議会で活動していたN氏のことである。
このブログやホームページのゲスト・ブックにaagh、文ゼミ協の名前で多くのコメントを寄せていただいた。
N氏との「出会い」は、私が明大全共闘のホームページを立ち上げて3ヶ月ほど経った2007年9月、こんなコメントを寄せてくれた。

『 サイト管理者さま
はじめまして。というか、30数年前、すれ違っていたのかも知れませんね。
わたしは、学年的には3年?ずれてますが、御HPを読ませていただき、「あ!あの時だ」と思った場面に会いました。有難うございました。』
その後、こんなコメントも
『わたしは、大学に入ったら当然学生運動やろう、と思っていました。
入学式(九段)で見た戦旗派の人たちの武装情宣が一番格好良かったものです。
でも、和泉で、偶然、文ゼミに入りました。
当時の文ゼミは、顧問のようなOBが元ML。
理論的支柱だったひとがMUPの大学院生(例の地理のアレです笑)。
委員長は「人民の力派」の白ヘル(後に放逐?されましたが、いい人でしたよ)。
明大中野では、文ゼミからも二名の逮捕者が出ました。
その後、4年に渡る裁判闘争がありました。前後関係はよく覚えてないのですが、あの頃、「反革命マップ粉砕」という戦旗派の人たちによる武装デモがありました。
生田の情況派とは、確かに仲良かったですけど。
3年前、三里塚管制塔被告カンパ闘争が、ありました。
酒の席で、当時の戦派派のリーダーと飲みました。「何で内ゲバしたんだっけ?」
お互い、わかりませんでした。』

N氏は「我孫子亜細亜旅社」というHPと『「ゴドーを待ちながら」の街で』というブログを開設していた。
HPの方はウイルス感染でこの1年ほど閉鎖されていたが、ブログはN氏が旅立つ少し前(今年の元旦)まで更新していた。

そのブログからの引用
『2010.3.5(金)
わたしが学生時代に所属していた「文ゼミ協(文学部ゼミナール協議会)」は、小さな自治会組織だ。
明大の文学部には、文学学科と地理歴史学科の二つがあった。
仏文のわたしが、英文や、日文や、独文や、地理や、東洋史専攻の連中と交流出来たのも、文ゼミ協の場だ。
わたしの結婚式(その後失敗したが笑)にも全員来た。
アビコの家に入って、まだ、左にあるライオン君は、彼ら、彼女ら、からの結婚プレゼントだ。
彼ら、彼女らとは、15年前?に会った。新宿ゴールデン街。朝まで語った。
それから、15年、会っていない。
15年という時間が、長いか、短いか、知らない。
明大の先輩のホームページを、読んでもらいたい。』

このブログには、仏文出身のN氏ならではの洗練された文体と、独特のリズムがあった。
60年代後半の音楽、特にビーチボーイズの曲のこと、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」のこと、村上春樹の小説のこと、カメラのことなどブログ上でコメントを通じてやりとりさせていただいた。。

N氏とは、2008年11月22日の「日大全共闘結成40周年集会」で顔を合わせ、駿河台の8号館1階のマップ共闘の部屋で見たことがあると思った。
その後、2010年2月の明大集会で再会したが、それが最後になってしまった。

年末にN氏のブログに書き込みをしたところ、こんな返事が返ってきた。
『和解とネットワーク」。いいコトバです。
わたしも微力ながら、自分のコトバでそれを探していきます。今度、アビコに遊びにきてください。』
そして、遊びに行く機会もないまま、N氏は旅立ってしまった。
N氏は私のホームページとブログの熱心な読者であり、理解者であり、支援者であった。
また、1972年当時、二百数十名の部隊を有していた明大黒ヘルの同志であり、今後も明大闘争を伝える人材として期待していただけに、早すぎる旅立ちは残念でならない。

N氏はどこへ旅立ったのだろうか・・・。
幻の「我孫子亜細亜旅社」でダルマストーブにあたりながら人生をふり返り、一人微笑んでいるのだろうか。
それとも、ネパール・カトマンズの空を鳥となって自由に飛んでいるのだろうか。

合掌。

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前回の続きで、明大生田のY氏からのメールを紹介する。
私からの「明大の海外移住研究会ではどんな活動をされていましたか?」という質問に対する回答である。
(写真は1970年頃の生田校舎)

【Y氏からのメール】
1 海外移住研究会の活動                      
 1966年に農学部農学科に入学。
千葉市稲毛から、片道2時間かけて通学していた。
最初、小田急新宿駅が2階建てになっているのを知らないで、総武線からの乗り換えにまごついた。
当時の生田は稲毛よりもっともっと田舎だった。

移住研は額面ドーリ海外移住を志す又は、興味のある仲間の集まりで、正式に文連に入っていた。
当時の4年生は、1963年入学、3年1964年、2年1965年と続く。
4年、3年は移住研の趣旨ドーリの活動を目指していて、体質も右翼的だった。
入学当初、5月の連休に千葉市の明大誉田農場で合宿があった。
食堂で自炊、昼は農場の手伝い、夜は畳敷きの2階の大広間で、移住についての勉強や、はたまた校歌・応援歌を先輩から教わったりした。
ついでにエロ歌も!10ha(30万坪)もある畑の真ん中の宿舎だから、誰に構う必要もなかった。
今でも残る、移住研の心情左翼・行動右翼的体質は、この頃培われた気がする。

実際に横浜の大桟橋に移住船を見送りにいったことも何度かあり、その船に南米の移住地に一年間派遣される、学生海外移住連盟(通称:学移連ガクイレン、北は北大から南は琉球大まで全国40位の大学が参加していた。
琉大は勿論日本返還前で、祖国復帰運動にも深くかかわっていた)の仲間もいた。
4年生などは、1960年安保の敗北から3年しか経っていない、1970年にはまだ早い時期に入学しているので、考え方も保守的だったし、広い南米の大地で活躍することを本気で夢見ていたのかも知れない。
しかし、時代は1970年に向けて少しずつ、変わっていっていたのかも知れない。
1965年早大学費闘争が、大学側の白紙撤回で勝利した。2年生はその当時入学したので、私が移住する気があるのを知って、良く茶化されたりした。「今はそんな時代じゃないよ!」と。
1966年、今度は明大の学費闘争が始まった。確か、5月か6月?いつだったっけ?

家から生田まで遠いし、アルバイトで金稼ぎをすることにした。
しかし、生田や本校記念館の集会にはほとんど出かけた。当時、農学部で5万円の学費を8万円にあげるなんてとんでもないことだ。一年生もクラスで討論したり、集会に出かけたり、学費闘争について真面目に対応していた。
2年生が研究会を引っ張っていた。4年生は就職があるからと、さっさと身を引いていたし、3年生は2人だったので、影響力はなかった。
こうして、移住研でありながら、南北問題などに焦点を当てるようになり、会は右から左へ旋回しだした。
日本の景気も良くなり、海外に目を向ける人(移住)も減っていたのも、もう一つの要因であろう。
当時、生田ではストライキ中に農学部大教室で自主講座が開かれ、東大の助手共闘で後に活躍する最首悟さん達が東大からきて、最新の講義をしてくれ、まったくついていけなかったのを覚えている。
この自主講座があったの、まだ覚えている人はどれくらいいるかな。誰が企画したのか、知らないが、東大闘争後に開始された自主講座に数年先駆ける素晴らしい企画だった。
学費闘争は膠着状態になり、生田祭も駿台祭もバリケードの中だった(勘違い、後述)。でも、皆頑張って闘争に多少なりともかかわっていた。
1967年正月明け、どうも本校の様子がオカシイと生田で噂が流れ、そのままあの2.2協定に至った。あっけにとられた。もう少しだったのに!今でも悔しい。
2月2日直後に開かれた、中大での総括集会は満員だった。明大執行部に、他大学から猛烈な非難が浴びせられ、もみくちゃにされていたのを、今でもはっきり覚えている。
明治の学費闘争は敗北に終わり、明治の学生運動も下火になった。
しばしの休憩である。

どうも、ここで、徒然なるままに書いているので、いかに、沢山記憶違いをしていると思い戦後学生運動史の抜粋を挿入します。
<あるHPより抜粋>
「11月18日、全明大臨時学生大会が開かれ、賛成271.反対138.保留38.棄権1で先制的ストライキに突入した。
 11月13日、約9000名の学生で和泉校舎封鎖、11月28日5000名で生田校舎封鎖(5千もいたかな?それに塀もないのに封鎖の仕様がない。校舎のみ封鎖)
11月30日、駿河台校舎を封鎖し、明大全学闘争委員会が学費値上げ阻止の大衆団交を開いている。4000名結集。この闘争は越年することになった。
 12月9日、中大自治会、学費値上げ反対、学生会館の学生管理・処分撤回を要求して全学スト突入。社学同の指導によって最終的に大学側に「学生の自主管理」を認めさせ、処分の白紙撤回を勝ち取るという学生側が勝利を飾った。」

そんな、こんなで、2.2協定直後の、中大は景気が良い訳だったんだ。

(つづく)

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2011年元旦。夜明け前に起床して外に出る。「今年はどんな年になるのだろうか。」
夜が明けて徐々に明るくなっていく空の様子を眺めながら、そんなことを思う。
夜と昼との境界の時間、年の初めはこの時間帯が一番いい。
風の冷たさと街の静寂が、「私が今ここに居ることが一番確かなこと」という感覚にさせる。

さて、2011年の最初の回は、「あの時代」から40年、様々な場所で活躍している方々の「今」を伝えるシリーズの3回目として、明大生田のY氏からのメールを紹介する。
Y氏とは、昨年2月6日に開催された「明大2月6日に集う会」でお会いしたが、「資料をダンボールで送りつけるから」と言われ、「どうぞ」と軽く返事をしたところ、ダンボール3箱もの貴重な資料や雑誌を送っていただいた。(写真)
Y氏の本棚の本がそのまま引っ越してきたようである。
Y氏は昨年の9月、農業指導で南米コスタリカへ渡ったが、現地での活動を伝える「コスタリカ通信」を明大生田のH氏あてに送ってきた。
H氏からはY氏のプロフィールとともに、「コスタリカ通信」がメーリングリストで私のところへも転送されてきた。

【Y氏のプロフィール】
『1966年農学部入学。あまたの活動家を輩出し、生田の松下村塾といわれた海外移住研究会で活動。都農業試験所に入り、志願して伊豆大島や三宅島などの「島勤務」などを行う。当時の資料や雑誌をYさんに託し、2010年JICAでコスタリニカへ。』

【コスタリカ通信】
『皆様お元気ですか。
小生の住所が決まりました。
11月10日に、首都サンホセでの一カ月のスペイン語学校を終えて、首都から65kmカリブ海側(東)のトリアルバにやって来ました。
あと100km余りでカリブ海です。バスで2時間半くらいかな?(後略)』

この「コスタリカ通信」をこのブログで紹介しようと思い立ったのだが、Y氏がコスタリカに渡った背景なども書かないと読者もよく分からないと思い、Y氏にメールを送った。
『ブログで公開するにあたり、Yさんにいくつかお伺いしたいことがあります。
私のブログを見ている方は生田の方たちだけでなく、明大の和泉や二部、また、日大全共闘の方々などいろんな方がいます。当然Yさんがどんな方かも知りません。
ということで、「コスタリカ通信」の背景となる事柄も書きたいと思っています。
お伺いしたいこと。
1 明大の海外移住研究会ではどんな活動をされていましたか?
2 当時、地下足袋を履いて校舎の裏の空き地を耕していたそうですが、どんな想いからですか?
3 都の農業試験場に入って、農業研究(?)を通して何か見えてきたものはありますか?
4 コスタリカに行くきっかけのようなものを教えてください。』

しばらくして、地球の裏側にいるY氏から返信があった。
『お便りありがとうございました。こういうことは、初めてなので戸惑っています。さて、与えられた4課題やっと書き終えました。添付ファイルで送ります。』
こうやって海外とも通信できるのだからメールは便利だ、と思いながら添付ファイルを開くと、そこにはY氏の個人史ともいえる長文の文章が・・。
こんなに書いていただけるとは思ってもみなかったので、ビックリ。
海外での忙しい仕事の合間に書いていただいたと思うと、感謝です!
読んでいくと、「アレ」と思う文書が目に入った。
「私はアナーキーです」
Y氏は生田なので、てっきり赤ヘル(ブント)の人と思っていたが、そうではないことが判明。当時、生田には1回しか行ったことがなく、和泉では生田の情報はほとんど入ってこないこともあり、誤解していたようだ。

Y氏からはこんなメールも
『生田がブンドばかりだったというのは、大きな誤解です。
移住研も、80%違いました。あの頃は、そういう時代です。
今見ると、BUNDの連中の方が、変わり身が早く、時代の流れについて行っているようです。
生田のノンセクトの連中は、ほんと要領の悪い奴らばかりでした。
でも、そういう連中が最後までバリケードに残りました。かれらは、学生時代と今でも、アンマシ変わっていません。
仕事もね!
PS:カタロニア賛歌を、オーエルの原文で読み返しています。POUMが共産党によって消滅させられる過程は、読んでいて切なくなり、何度も読みが続かなくなりました。』

※Y氏からのメールは「南米コスタリカへの道」として、何回かに分けて掲載していく予定です。第1回は次回1月7日、その後、間をおいて公開していきます。

(つづく)

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