野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2011年02月

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NO163の続きです。
前回は1969年10月9日の機動隊導入による明大本校大学院徹底抗戦の新聞記事を紹介したが、今回は同日の和泉校舎と生田校舎の機動隊導入の様子を明治大学新聞から見てみよう。(写真は生田校舎)

【9日のキャンパス】明大新聞1969.10.16(引用)
『<和泉>
9日午前6時30分、学校当局の要請で700人の機動隊が和泉キャンパスに出動した。
和泉校舎では連日多くの全共闘系学生が泊まり込んでおり、多いときには100人近くを数えた。
しかし、この日はいちはやく機動隊の導入を察知して、前夜から全員引揚げており、壁や机・椅子に書かれた多くの落書きが無言の抵抗を示しているだけだった。
和泉校舎のバリケード構築状態は甲州街道に面した正門と、事務室のある第1校舎が頑丈に組まれており、機動隊は第1校舎のバリケード撤去にはやや手こずった様子だったが、午前7時すぎには正門のバリケードに使われていた机・椅子のとり外しが完了。
「当分の間休校とする。教職員以外の立ち入りを禁止。無断で立入ると法律によって罰せられる」との理事長・総長・学長名のロックアウト声明が正門脇の守衛所前に貼り出されると、ただちに、業者の手によって厚いベニヤ板の塀が各入口に出来て、来校者をシャット・アウトした。(後略)

<生田>
どんよりとした霞に包まれた生田の丘に、青い乱闘服に身を固めた神奈川県警機動隊員500名と本学教職員25名が姿を見せたのは午前6時50分だった。
同7時3分、高木亀一工学部長が、正門に陣取った機動隊指揮車の上から拡声器を通し冷厳に“退去命令”を下した。
「只今から生田校舎を閉鎖するから校内にいる者はただちに立退きなさい」
ひっそりとしたキャンパスに響きわたった
十数分を過ぎた頃、立て篭もっていた助手共闘9名が姿を現した。
7時20分、助手共闘の立ち退きを尻目に、バリケードの撤去に移った。
本校とはうって変わって“ロックアウト策動粉砕”を叫びながらも学生の姿は見えず、撤去作業は抵抗もなく順調に進んだ。
解除にあたる教職員の顔にどことなく複雑な色がうかがえた。生田校舎のバリケードはそれ程頑強ではない。
8時30分、ほぼ解除作業は終了し、30分後、機動隊が生田から消えた。(後略)』

10月9日の機動隊導入以降、駿河台・和泉校舎では特別の動きがなかったが、生田校舎では11日と12日、学生が有刺鉄線の切断、破壊を続け、さらに教職員の制止、警告を無視して校舎内に進入、フトン・マイク等の搬出を行なった。
大学側は13日、連日の学生の妨害行為に対し警察の出動を要請し、機動隊が学内に入り、大学側立会のもとに、学生会館、第1校舎、第2校舎、1.2.3号館を捜索、その際不法侵入の学生3人が逮捕された。

一方、民青系学生約80名は21日、和泉校舎正門前で「明大民主化行動委員会」「明大民主化闘争委員会」「明大民主化連合委員会」の三者共催により、「『全共闘』暴力学生の妄動を糾弾し「安保なくせ」「沖縄かえせ」の声を大きく広めよう!」のスローガンを掲げる集会を開いた。

機動隊導入・ロックアウトに対し、学生会中執両川委員長は次のような抗議のコメントを出した。

【機動隊導入の現況と展望】明大新聞1969.10.16(引用)
『学生会中央執行委員長 両川敏雄
われわれが提示した問題に対して、なんら真剣な対応を全くみせず、さらに「加藤東大近代化路線」の踏襲に過ぎぬ改革準備委員会なるものも、大衆の前に公開することなく、秘密裡に作業を進め、しかも改革素案なるものも明らかにされていない段階において、機動隊導入による大学当局の反動的なロックアウト策動でもって、闘う全共闘に攻撃をかけてきたことに怒りを持って抗議する。
この犯罪的な行為は決して忘れないし、絶対に許すべかざることである。(中略)
全国全共闘の下に圧倒的な学友を結集し、大デモを繰広げてゆく。
10.10に2,000人にのぼる本学の学友諸君の結集をみて、さらに自信が強まった。
この力をもって今後対当局に対する抗議を行なっていきたい。
大学解体、総叛乱を勝ち取る運動を展開していくとともに、70年安保、帝国主義的再編に対しては、全国全共闘で断固闘い抜く覚悟だ。
物理的に高いヘイをめぐらし、われわれの分断工作をはかろうとも決して負けはしない。同じ理想をもってともに闘い抜く者の心の絆はどんな攻撃をも打ち破る鉄の団結といえる。
われわれは止むことなく闘い続けるし、後から続いてくる部隊を信じて、どんな恫喝も恐れず進んでいく。』
 
10月9日の機動隊導入・ロックアウト後、10.21国際反戦デー、11月の佐藤訪米阻止闘争へと政治闘争の流れは集約されていく。
大学当局は11月中旬から、校舎ごとに順次授業を再開していくが、全共闘のロックアウト体制への反撃も開始される。

(つづく)

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No170の続きで、明大生田のY氏からのメールを紹介する。
私からの「当時、地下足袋を履いて校舎の裏の空き地を耕していたそうですが、どんな想いからですか?」という質問に対する回答である。

【Y氏からのメール】
2 地下足袋の活動
 園芸学研究室に在籍し、確かにいつも地下足袋を履いて校内でリヤカーを曳いていた。
研究室には3年生から入れた。
丁度、時代は1968年に突入していた。
当時の先生は、国の園芸試験場長から農学部に教授でいらした方だった。
ある時、生田の農場で先生を交えた実習があり、何人かの学生は白衣(実験着)に靴で農場に入った。
いつも温厚な先生がその時怒って言った言葉を今でも覚えている。「畑には、地下足袋を履いて、作業着を着て来るもんです」。そういう、先生の足元には確かに地下足袋が!
確かにそうだ。革靴なんかで入ったら、畑の土は固くなるし、そういう気遣いは大事だと思った。
さっそく、生田駅前の農協で地下足袋を買った。
作業着は親爺のお古だったかな。
当時の卒論は、栽培関係でも、室内実験で済ますことが多かった。
だから地下足袋を履く奴はいなかった。
私は畑で作物を栽培して、その結果を見たかったので、地下足袋になるのは当然だった。
最初、地下足袋で校内を動き回るのは恥ずかしかった。研究室と農場は、校内の北の端と南の端にあったので、畑に行くのに校内を縦断しなければならなかった。
学館前で、昼のアジ演説に人が集まっている横を、リヤカーを曳いて通ることは度々だった。しかし、そのうち平気になった。
だんだん、畑で仕事をする連中は、皆地下足袋を履くようになっていた。
この頃、東京の農家の連中でも、長靴履いて畑に出る奴が多いけど、そういう農家はあんまり信用しない。
作業中に土が中に入るし、長靴は重くて作業がしづらい。やっぱ畑(田んぼじゃない)は踏ん張りがきくし地下足袋だ!と、今ではすっかし全共闘ではなく地下足袋党になってしまった。

生田の農場は、元は、土のテニスコートに、10儖明垢蠹擇鬚靴燭世韻世辰燭里如極端に水はけが悪くて、ナンも作られていなかった。
そこで、カチンカチンの土の耕盤をスコップ一丁で天地返し(土をシャベルで上と下入れ替える作業)を2段行った。
機械がなかったからスコップのみである。スコップは、金属部分が縦30cmだから、それで2段切り返すと、約60cm弱が切り返される。
これを一人でほとんど毎日やっていると、移住研の後輩たちが手伝ってくれるようになった。
そうしてようやく幅5m、長さ10mぐらいのビニールハウスを建てる場所を確保した。
生田には、ビニールハウスなんてなかった。建て方は分からないから、厚木のビニールハウス屋に一か月ばかり住み込んで、建て方を習い、材料を買って貰って、自分で建てた。
次に、中に植えるものを考えなくちゃ。
とりあえず、じゃ胡瓜でも作ってみるかということで、苗つくりから始めた。
サラリーマンの子供だったので、農業のイロハも知らず、昼は畑、夜は研究室で農業書を読んで、毎晩夜中の真っ暗な道を、30分かけて下宿に帰った。
良くパトカーに職務質問を受けた。暗い誰もいない道を一人で歩いていたし、時代が時代だったから。

そのうち、4月頃になりビニールハウスの開け閉めをしなくてはならなくなった。ハウスの中が高温になるからだ。夏場は朝6時ごろに開けた。
めんどくさいので、研究室の長椅子の上に、一人で寝るようになった。
朝は農場で獲れる1kg以上あるレタスに、マヨネーズをかけて食っておしまいだった。昼は、生協の運営する学生食堂で、一皿50円のカレーライスを地下足袋履きながらよく食べた。
そのうち、学校側も農場管理の職員に熱心な人がいて、ビニールハウスを建てるため、天地返しをはじめた。
移住研の連中も熱心に手伝っていた。そうしているうちに、移住研の連中も、人のばっかりやっていないで、自分たちで畑をやろうということになり、農学部校舎の北側、牛を放していた山の一角を、地下足袋を履いて天地返しをして、勝手に畑を作り始めた。
海外移住研究会の面目躍如というところだ。

時は1968年、午前はガッコで農作業、午後は動員で神田や代々木公園によく出かけた。
1968年入学の後輩たちは、高校で学生運動の洗礼を浴びている連中が多く、移住研以外でも、生田の闘争を担った連中が一番多い。
東大・日大闘争は既に始まっていて、大学闘争は全国に波及し始めていた。
佐藤訪米・訪べト反対闘争(御茶ノ水駅の電車にゲバ棒を自分の前にしっかり持って、戸口に立っていた白ヘルメットの学生を覚えている)、4.28闘争などなど学生運動は高まっているようだった。
生田はこの時期比較的静かだったが、移住研内では先輩たちと、ゲバ棒で武装して警官に立ち向かうことについての是非が、真剣に議論されていた。
なかなか真面目だったし、ある程度社会変革(革命)の可能性を信じている部分もあった。

(つづく)

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