野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2011年04月

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No180の続きで、明大生田のY氏からのメールを紹介する。

私からの「当時、地下足袋を履いて校舎の裏の空き地を耕していたそうですが、どんな想いからですか?」という質問に対する回答の続きと、「都の農業試験場に入って、農業研究(?)を通して何か見えてきたものはありますか?」という質問への回答である。

【Y氏からのメール】
『なんだかんだ虚脱状態のまま、1970年になり、時は虚しく過ぎていった。
2月に研究室の先生から、小笠原の農業試験場で、新卒を3人募集しているよと話があり、3月初め、筆記試験と面接を受けた。
合格通知が届いて、都庁に出向いたのは3月26日の卒業式だった。
式場の記念館には入らず、学外を仲間とうろうろして、そのまま午後都庁に手続に行った。
御茶ノ水の駅に向かう途中の、電機屋の中から、フォーククルセーダースの「帰ってきた酔っ払い」が流れていた。

今日は卒業式だったというと、係りの人は恐縮していた。そして、10年ぐらい帰れない覚悟でいて下さいとも言われた。
小笠原は日本返還後、まだ2年もたっていなかった時のことだ(日本返還:1968年6月26日)。
地図が好きな私は、小学校高学年の時、小笠原諸島の存在を知っていた。
地図に漢字で、沖縄や大東島と共に書いてあるのになぜか(ア)と書いてあるのが不思議だった。
小笠原に惹かれたのも、移住研に在籍したのがなせる業だった思う。佐藤訪米は1968年なので、小笠原は沖縄返還の足慣らし、下準備だったというのが、偽らない気持ちだ。
3月31日、学校最後の日、赤軍派がよど号をハイジャックした。スゲーことするもんだ。
生田農場の小屋で、その事を聞いて仲間と喝采した。あすから、仕事だ。

ああー、ここまで2日間5時間かけて、書いてきたが、全く筆が進まなくなってきた。
明大全共闘クロニクルなんかを、コスタリカの地で延々と読み始めてしまった。
記憶が薄れ、大学時代の記述がいい加減なので、嫌気がさしてきたせいもあるのか!でも、人のを、読んで記憶を呼び起こしても仕方いないので、また勝手に書く。

3. 都の農業試験場に入って、農業研究(?)を通して何か見えてきたものがありますか?

1970年当時、日本の景気は良く、役所に入る奴は数が少なかった。
ほとんどは、景気の良い民間会社に入るのが主流だった。
移住はもうあきらめていたし、農家じゃないから農業はできないし、残る選択肢はこれだった。
今だったら簡単に農家になれるのに、当時は戦後の農地解放を受けて、農地売買に関する農地法の縛りが、ずっときつかったからだ。
4月に就職し、7月初めまで、立川の農業試験場で小笠原に行く準備と研修をした。
当時の立川はまだ米兵がいて、暗い雰囲気で、稲毛よりずっと田舎だった。
米軍立川基地はベトナム戦争のため、盛んに飛行機を飛ばしていて、砂川の基地反対同盟にも、活動家が入っていた。
立川で最初にしたことは、ウドの根を、包丁を使って株分けすることだった。
ウドなんて、見たことも食った事もなかった。
これには訳があった。立川、横田に米軍基地があり、周辺の農家は、飛行の邪魔になるので、畑にビニールハウスなどの構造物が建てられなかった。
そして考えられたのが、冬にサツマイモを保存しておくイモ穴を利用して、ウドを軟白(ウドのモヤシ栽培)することだった。
多摩は冬の寒さが厳しいので、熱帯作物であるイモはそのまま冬越しできない。
地中の一定温度下(15度位か)で保存するのは、昔から多摩の農家に伝わる知恵だ。
まず竪穴をほり、一定の深さから横穴を掘り伸ばしていく。
その横穴でウドのモヤシを作っていた。農民が穴の中で、一酸化炭素中毒になったり、落盤事故にあったりと大変な目にもあっていた。

その立川を後にして、竹芝桟橋を1000トンの船で、1000キロ南方の小笠原諸島父島に向けて出発したのは、7月初旬だった。
途中台風に会い、相当揺れたが、43時間後に父島二見港に船は錨をおろした。
初めての船旅、そして台風にも会った。
船長は引き返そうと思ったそうだが、当時は都のチャーター船だったので、都の責任者が引き返してもどうせ揺れる航海なら、そのまま突っ切ってくれと言ったそうだ。(普通の人が、貨客船で、父島に行けるようになったのは、1972年のことだ。)
伊豆七島、ベヨネーズ列岩、鳥島、ソウブ岩など過ぎて三日目の朝、小笠原諸島の一番北の、聟島列島(竹芝から900km)を見たときは感動した。海は濃紺だった。船の突っ切る両側を、トビウオが左右に飛んでいくのが、印象的だった。』

(つづく)

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No175の続きです。

1969年10月9日の機動隊導入から11月の授業再開までの期間は、70年安保闘争の最大の山場の時期であり、機動隊導入ロックアウトが、明大をこの政治決戦の砦としないための措置であることは明らかであった。(大学の告示:写真は明大新聞から転載)

大学の教職員の中には、この措置に疑問を投げかける者もいた。
【私はこう思う】明治大学新聞 1969.10.16(引用)
『形骸化された教授会 農学部教授 山本大二郎
10月9日の事態は、本学からの教育、研究、学問の自由の喪失である。
このことは8月3日から予期されていたことであり、大学当局は多くの教職員、学生をあざむきながら、一つの路線に沿って、着々とことを進めてきた。
8月3日、民が「主」でない民主主義議会はいきつくところにいきついた。
多数をたのむ自民党議員どもは、千九百年前のエルサレムでキリストを裁いたユダヤ人達と全く同じようである。
「キリストではなくバラバを!」と叫ぶ群衆は、罪なきキリストを処刑した。
「社会保障よりは軍備を!」「大学教育の検討より法規制を!」こうして、大学立法は臨時措置の美名にかくれて成立し、目下猛威を振るっている。
農学部では学部長が少数のメンバーの意見を聞いただけで、個人の判断で「生田地区への機動隊導入」の同意を10月7日に行なっている。
そして、10月8日に緊急教授会を求めた。12時間にわたる議論。
空虚そのもので、学生の言う「形骸化」された教授会である。(中略)

ストライキ中、私はしばしばバリケードをくぐり、農闘委の諸君の討論集会に参加してきた。
こういうのを造反教授と言うのだそうである。
人の言うことは大切なことである。「政治」とは、選挙のたびに一票を投じることではなくて、人々の間の沈黙の壁を破ることであるという言葉を読んだことがある。
政治を引き合いに出すのは見当ちがいであろうが、われわれにとって必要なのは沈黙の壁を破ることではなかったろうか。
聞くところによると、第二次大戦中は「校歌」の二番の斉唱が禁じられていたという。
いままさにそのような時代が駈足で近づいて来ている。
これはその時代に青春を奪われたわれわれ年輩者は、歴史的に振返ってみれば、全身でもって感じ取れるはずである。
10月9日を境に、もう体制内の批判分子、反乱分子では済まされなくなった。
極悪罪人バラバを赦しキリストを処刑した国家権力に対しての闘いだけが残されている。』

大学当局は、11月10日からの神田地区最終学年の授業再開に続いて、18日から和泉1年次生、21日から和泉2年次生、生田工・農4年次生、24日から神田3年次生、短大1年次生の授業再開を発表し、10月9日機動隊導入以降、始めての授業が再開された。

神田地区での授業再開の様子を見てみよう。
【“検問所”で一時混乱 機動隊が出動13人逮捕】明治大学新聞1969年11月13日
『(前略)10日午前8時すぎ、7号館入口で職員が学生証の検分を始めると登校してきた学生がバラバラと入講していった。
授業再開粉砕を叫ぶ全共闘派学生もこの頃から集り出し、約100名近くにふくれあがった。
午前9時ごろ、検問所のすぐ前で集会を開き始めると、またたくまに人垣ができた。
しかし登校してきた学生に授業ボイコットのビラを配る程度で、入講の実力阻止の構えはみせなかった。(中略)
全共闘の横谷優一君が「われわれは何も難しいことをいっているのではない。この学生証検問所を取り除いてくれさえすればよいのだ。そして誰でも入れることができるよう要求しているだけだ」と訴えた。
9時30分、前方にいた学生がすわり込みを始めた。
これを合図に遠巻きに待ち構えていた機動隊が排除にかかった。
「すわれ、すわれ」「スクラムを組め」と学生の声。
しかし機動隊約20人は、すわり込みの学生約30人を難なく排除し「歩道だから立ち止まるな」とう理由で、6号館方面へ規制していった。
その間、“真空地帯”となった検問所へ学生が押しかけたが勢いに押されて職員が7号館扉をあわててシャット・アウトした。
これに怒った学生が検問所を足で蹴るなど壊しにかかると直ちに機動隊員が規制にかかり学生数人を逮捕した。
この光景をこわごわ見つめる一般学生に、大学のマイクが「7号館入口を閉鎖します。6号館にお回りください」と継げた。
ぞろぞろと学生が6号館に向かったが、全共闘派学生も6号館検問所で集会を開いたため入口は開かれなかった。
そのため、また「7号館を開きます」のアナウンスがあった。
一般学生は学生証を提示して、続々と“入講”した。
全共闘の集会はそのまま続けられたが、「4年生はガイダンスを中止する闘いを展開すべく教室に入る、残りは各闘争委で総括し、午後3時にお茶の水公園に集る」という報告で午後10時30分に集会は終了した。(中略)なお、この威力業務妨害などでの逮捕者は13人で、このうち横谷全共闘代表者会議長や関口成一全明全共闘議長がふくまれている。』

(つづく)

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