
No183の続きです。
11月11日、大学側は「授業再開にあたって」を配布し、以下の告示を貼り出した。
その後、引き続く「学内ロックアウト体制」の始まりである。
『授業再開について (昭和44年11月11日)
告示 明治大学
大学は学内から暴力行為を排除し、教育・研究の機能を回復するために、当分の間次のような措置をとります。
1 学生証の確認をします。
2 次の構内立ち入り禁止措置をとります。
夜間(駿河台地区は午後9時30分から翌朝8時まで、和泉地区は平 日午後6時・土曜日午後3時から翌朝8時まで、生田地区は午後7時から翌朝8時30分まで)と休日の立ち入りを禁止します。
3 次の行為を禁止します。
ヘルメット、棒その他の凶器類およびマイクの持ち込み。
所定の場所以外への掲示、貼紙。
4 次の事態が発生した場合は、大学はただちに警察力の出動を要請します。
教職員・学生の身体拘束、暴力行為など、身体生命の危険がある場合。
封鎖、占拠が行なわれる場合。
建物、施設へ損傷が加えられる場合。
授業、業務の妨害が行なわれる場合。』
この告示に合わせたかのように、生田ではロックアウト粉砕闘争が行われた。
【生田校舎に学生侵入】1969.11.13明治大学新聞(引用)
『21日からの授業再開に向けて、ロックアウトを強化中の生田地区では11.12日の両日にわたり、生田共闘会議の学生が学内に乱入、2人が逮捕されるなどの騒ぎが起こった。
11日午後2時ごろ、15.6人のフク面・武装した学生が正門から侵入、守衛所の電話機を壊しトランシーバーを取上げ、キャンパス内になだれ込んだ。
そのうち、約半数は対策本部のある新図書館に入り込み、別の1隊は生田寮側のヘイを壊し、外にいた学生を導き入れ、工学部四号館の1階を一時占拠した。
約1時間後、大学側の要請で機動隊員がかけつけたが、学生はすでに学外に逃げ去った後だった。
12日は午後1時から工学部会議室で工学部執行部と実験助手の話し合いが行なわれた。この会談には57名の実験助手のうち約半数が出席したが、助手共闘はこの話し合いを「授業再開に向けて当局の恫喝だ」として出席を拒んだ。
この会議の粉砕を叫んで、生田共闘会議の学生15.6人は学内に侵入、うち3人が会議室に乱入した。この事件で2人が待機していた私服刑事に逮捕された。(後略)』
11月16日から17日にかけて、70年安保闘争最大の山場である佐藤訪米阻止闘争が国電「蒲田」駅を中心に闘われ、2,500名に及ぶ逮捕者が出た。
翌18日から和泉校舎、21日からは生田校舎で授業が再開されたが、佐藤訪米阻止闘争の直後ということもあり、全共闘としての組織的な授業再開阻止行動はなかった。
18日の和泉での授業再開の日、私は何をしていたのか思い出せない。正門に出来たベニヤ張りの検問所を学生証を見せて通ることに「抵抗」して仲間を待って正門付近に居たのかもしれない。あるいは、構内の様子を見るため中に入ったのかもしれない。でも、構内に入ったとしても学生会館はベニヤ板で逆封鎖されており、生協会館2階の喫茶コーナーでウロウロしていたのだろうか?
明大新聞に授業再開の様子が載っているので見てみよう。
【生田で学生1人逮捕 和泉は平穏に授業再開】1969.11明治大学新聞(引用)
『和泉地区で18日(火)、法、商、政経、文、経営各学部1年次生の授業が再開されたが、予想された全共闘系学生の妨害行動はなく、平穏のうちにガイダンスが行なわれた。
大学側は機動隊を要請、正門付近に機動隊員の姿がみられたが、学生との直接的なトラブルはなかった。正門前では生田寮生、和泉民主化行動委の学生が、登校してくる1年生にビラを配る程度であった。また、数日後に体育祭を控えて、同祭実行委員が宣伝活動を行なっていた。
午前10時ごろのキャンパスでは登校時間を午前9時、11時、午後1時半と三分されたためか、みかける学生数はまばらで、ひっそりした感じであった。
なお、和泉対策本部調べによると、この日登校した学生数は約4,000人で9割の登校率。
また、21日(金)は同じ和泉地区各学部(法・商・政経・文・経営)2年次生のガイダンスと生田地区工、農学部4年次生の授業が開始された。
和泉では18日と同じく機動隊が要請されてあったが、全共闘など数組織の学生がビラを配布していただけで混乱はなかった。
クラス単位で行なわれたガイダンスは多少討論が行なわれたが、30分たらずで早々と打ち切るところが多かった。』
当時の多くの大学でもそうだったように、明大でもスト権解除に向けてスト反対派が動き出した。
11月29日、「有志連合会」と「全明クラス連合」(準)主催の「全学集会」が体育会の警備の下、和泉校舎中庭で開催されることになり、全共闘は授業再開後、初めての組織的な阻止行動を開始することになる。
(つづく)