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1971年の明大局学苑会の委員長だったN氏から、ある冊子を預かった。タイトルは「御茶ノ水讃歌」(写真)。
230ページにも及ぶ自費出版の冊子である。著者は石川彰氏。

石川氏は1970年6月、局学苑会にノンセクト執行部が誕生した時の組織部長であり、1968年4月から1972年3月までの明大局瑤砲ける4年間の活動を回想してこの冊子に書いている。
この冊子は、石川氏の個人的な回想録でもあるが、当時の明大における闘争の記録でもある。
この冊子は50部程しか作られなかったようだが、このまま少数の関係者だけにしか知られず、時の流れの中に忘れ去られてしまうのはいかにも惜しい。
あの時代、闘争に関わった多くの方の想いや証言を私のホームページで紹介したいと思っていたので、スキャナーで全文を読み込み編集して、私のホームページで公開することにした。公開にあたっては、N氏を通じて石川氏の了解を得ている。
本は吃瑤鉢局瑤嚢柔されているが、全文を一度に公開できないため、4パーツの分け、順次公開することにした。冊子では登場人物は実名で書かれているが、40年以上も前のことなので、原文のまま掲載することにした。

冊子の主な内容は、次のとおりである。
1 1部 1968.4 ~ 1969.6(今回公開)
  68.6.18学苑会学生大会、68.7.3明大学館での民青とのゲバルト、68.11.22東大での全国総決起集会
  69.1.18-19神田カルチェラタン、69.4.12明大学館への機動隊乱入、69.4.28沖縄闘争 
2 吃堯1969.6 ~ 1969.12
  69.6.15集会、69.6全学バリスト突入、69.6新宿郵便局自動読取機導入阻止闘争、バリケードの中での生活、69.10.4全学集会粉砕闘争、69.10.21国際反戦デー、69.11.18-19佐藤訪米阻止闘争 
3 局堯1970.1 ~ 1970.12
  70.6.12ML派による解放派へのゲバルト、70.6.14―6.23反安保集会、70.6.29学館実力解放闘争、70.7.15学苑会学生大会におけるノンセクト執行部の誕生  
4 局堯1970.12 ~ 1972.3
  70.12.11学苑会学生大会、71.6.17沖縄闘争、NDUの映画“モトシンカカランヌー”上映会活動、71年局駿台祭実行委員会での活動、71.10.21国際反戦デー

本の冒頭はこんな文章で始まる。
『4年間に渡る、私の愛した御茶ノ水の街に或る甘酸っぱさを持って、別れの歌を送りたい。明大通りを中心として、左右に二百メートルの幅、長さ二百メートルぐらいの広さを持った街であった。北の方は汚れた神田川とその向こうの医科歯科大に遮られ。水道橋駅寄りに御茶ノ水橋、秋葉原駅寄りに聖橋があった。
 この街が私の青春だった。』
当時の御茶ノ水近辺の様子も描かれるが、主題は「あの時代」の闘争との関わりである。 
 
例えば、68年7月3日の明大駿河台学館での民青とのゲバルトの様子は次のように描かれている。
『民青のデモ隊約三百名が大学院の横を曲がって学館のほうへ向かってきた。デモ隊は学館の前で「学館を明け渡せー!」とシュプレヒコールを始めた。
その時、赤と白のモヒカン模様のヘルメットを被ったML派の突撃隊がデモ隊に突っ込んだ。
デモ隊の中にかなりの数の一般学生が混じっていたので、彼らを傷つけたくないとの配慮から、ベランダからの投石は行なわれなかった。指揮者が「石を投げるな!」と怒鳴っていた。ML派の突撃隊は直ぐにデモ隊に押し返されてしまった。(中略)
民青のデモ隊は一度学館の中に入るとそのまま攻撃に移らず、再び外に出た。すると、五号館の方から百名ぐらいの黄色のヘルメットで、完全武装した民青の“暁部隊”と呼ばれていたゲバルト部隊が学館に突っ込んできた。階段で放水と投石が始まった。
時を同じくして、大学院の横から小型トラックが出てきて。デモ隊にヘルメットとゲバ棒を支給し始めた。(中略)
中では三階の階段のバリケードを挟んで、投石、放水、ゲバ棒の闘いが始まっていた。石がコンクリートに当たり、水が流れ落ち、ゲバ棒が唸り、悲鳴と罵声が飛び交い、学館は俗に言うデモノイズ、乱闘ノイズに包まれた。
研連の部屋では重信さんが先程から何回も当時ブントの拠点であった中大学館に救援を求める電話をかけていた。(後略)』

この冊子が発行されたのは平成5年である。
かなり細かいところまで書かれているが、人の記憶なので事実関係が不明確な部分も見受けられる。
そんな所を差し引いても貴重な資料であることに変わりは無い。

※ 明大全共闘ホームページに新設した「明大闘争の記録―関係者の手記―」コーナーで公開中です。見てください。