野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2011年06月

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No188の続きで、明大生田のY氏からのメールを紹介する。
私からの「都の農業試験場に入って、農業研究(?)を通して何か見えてきたものはありますか?」という質問と「コスタリカに行くきっかけのようなものを教えてください。」という質問
への回答である。

【Y氏からのメール】
『都には通算28年勤務した。小笠原父島の農業試験場に3回、通算で8年強、伊豆大島3年、島勤務は合計11年強だった。あとは、新宿庁舎や多摩の出先機関の事務仕事や、練馬区で農業改良普及員などなど、行政から試験研究まで、農業関係業務はほとんどこなした。
その間に見えてきたものは、東京の農家は奥多摩と島を除いて困っていない、金持ちだということだ。
そりゃそうだ。土地を切り売りして、分譲住宅にしたり、アパート経営して地元の大金持ちだから。
多摩地方は、戦前小作争議が盛んで、1970年代でも革新が強かった。社会党や共産党は、農民組合を組織して地元に食い込んでいたからだ。
田んぼのあるのは、多摩川沿いのみで、洪積台地(武蔵野台地)は水がなく、採れるものは陸稲、麦、サツマイモだけで、米の獲れる多摩川沿いに比べ極端に貧しく、水吞み百姓が多かった。白米を食べられるのは年に3~4回位、現金収入は「お蚕」のみだった(なにしろ「田無」という地名があるくらいだ)。
でも、そういうことも、住宅が多摩地方にドンドン建っていくうちに薄れていった。平らな台地は、溢れる都会の人口を吸収するのにもってこいの場所だった。
東京のほとんどの農家は、山形の菅野のように、純粋に農業だけで生活しているのとは違う。百姓をするのは、所有する市街化区域内の土地を「生産緑地」として税務署に認定してもらい、税金を軽減する手段だからだ。
今でも、区内や北多摩の固定資産税は、反(300坪)当たり、宅地や宅地化農地だと100万を越えるが、生産緑地(市街化農地)の認定だと、たった3,000円だ。大部分は、仕方なく百姓をして、市街化農地以外の土地で資産運用しているのが、現状だ。
確かにそんな中でも、地下足袋を履いて農業だけで食っている、立派な農家も何軒はいるが、ほんの少数派だ。
東京の良い面は、消費者と直結した農業ができることだ。卸売市場で買いたたかれることもない。家の前での直売や農協の直売所で、消費者の声を聞きながら農産物の生産ができる。一生懸命やれば一千万円の祖収益があげられる。
反面、畑の周りの住民の監視も厳しいから、いい加減な農業はできない。農薬だってやたら撒けないし、草ぼうぼうのいい加減な畑には、すぐに空き缶や空き瓶その他のゴミが投げ込まれる。だって、同じ場所に住んで、生産緑地というだけで、畑の固定資産税が300分の一になるんだから、当然と言えば当然である。

4 コスタリカに行くきっかけ
まだ、ナンもせずの年金暮らしは嫌だし、都の嘱託でチンタラと過ごすのも嫌だし、「嫌だ!嫌だ!」もっと前向きに生きられないかという思いが、一つありました。
しかし、他の要因もあります。前にも書きましたが、私はアナキーです。1936年に始まったスペイン市民戦争に興味がありました。バリケードで読んだジョージオーエルのカタロニア賛歌がきっかけだった。ファシスト対人民戦線、その人民戦線内部におけるスターリンに影響され共産党による、人民戦線他派の追い落とし、この構図が学生闘争と重なった。
人民戦線には、各国から義勇兵が参加しました。ヘミングウエー、アンドレ・マルローなどが有名ですが、ナチス占領下のヨーロッパ各地、アメリカ、イギリスからも多くの義勇兵が参加しました。スペインの労働組合は、アナルコサンジカリストの労働組合が主力で、ファシストの軍隊に、最初は武器がなかったので、ダイナマイトと素手で立ち向かいました。(これも対機動隊と学生の様だ)。共産党・社会党以外に労働組合があったなんて、初めて知った。アナーキストの組合が実際にあって活動していたんだ。
ファシストに敗れ、多くが世界に散っていきました。メキシコを中心に中南米にも。今そのラテンアメリカが熱い。キューバは勿論、サンディニスタのニカラグア、チャベスのヴェネズエラ、ブラジルのルーラ、チリ、アルゼンチン、ウルグアイ、ボリビア、ガイアナも左派が政権を握っている。そして、北アメリカの新自由主義に異を唱えている。市民戦争の精神がラテンでも継承されているんだと勝手に思った次第です。
ちなみにゲバラは、10代はじめ、父親に買って貰ったラジオで、市民戦争の経緯を熱心に聞いていたそうです。
そして、コスタリカには軍隊がないことです。62年前に、軍隊は廃止され首都サンホセの兵営は、現在国立博物館になっています。9条で軍隊持たないといって、実際は持ってる日本とは大違いだ。』

(つづく)

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6月11日は福島原発事故から3ヶ月。全国で「脱原発」の集会とデモが行なわれた。
東京23区では、芝公園、代々木公園、新宿中央公園で集会が行なわれることになり、集会の参加にあたって、どこの集会に参加するのか検討することになった。

1)芝公園での集会→東電前デモ(社民党・JR労連・旧来の市民グル-プ等)
2)代々木公園での集会→渋谷周辺パレ-ド(若者を中心としたグリ-ン系)
3)新宿中央公園での集会→新宿周辺サウンドデモ(素人の乱などの高円寺グル-プ)
4)夕方6時、1)、2)、3)とも新宿アルタ前に総結集。

1)、2)、3)を検討した結果、3)の線もあったのだが、『3大学が合同した旗は全共闘世代にインパクトを与え同世代にアピールしていくだろう。芝公園はそれらの世代が多く集まる。芝公園で3大学の旗をなびかせよう。芝公園には「プロジェクト猪」も主催団体の一つになっている。』ということで、明大、日大、芝工大の3大学共闘を中心とするメンバーは芝公園の集会に参加し、6時からは新宿アルタ前に結集することになった。3大学共闘にあたって、各大学からの次のようなメッセージが関係者に送られた。

ー捻差大全学闘 Yさんから
6.11は3大学で百人とは言わず、二百人が集まろう、集まる努力をしよう。3大学の共同行動は、とりわけ全共闘世代に強くアピールするものと思います。これから連帯するところは大いに連帯し共に進んでいきましょう。私は東京を離れるので参加できませんが、6.11福岡集会には参加します。一人芝工大全学闘の旗をかかげます。
¬逝臈斃鵬顱(禿栂寛陲気鵑ら
3.11以降、状況は一変しました。被災された方々には心よりお見舞い申し上げますと共に、6.11に集まり脱原発を更に進めて行きたいと思います。3大学の旗がひるがえる共同行動は、あれから40年の我々に意義あるものと確信しています。
F鋿臍感ζ(日大930の会) JUNさんより
「日大930(きゅーさんまる)の会」は日大全共闘の同窓会的な集まりで、その名称は1968年9月30日の大衆団交に由来しています。
これまで「930の会」は「記憶を記録に」を合い言葉に、過去と現在をつなぐことに重きを置いてきましたが、3・11大震災・原発事故は、日本そのものの将来を左右するターニング・ポイントであるととらえ、過去と現在をつなぐだけではなく、未来を見据えた行動にも積極的に関っていかざるを得ないのではないかとの声が強まっています。 来る6月11日「脱原発100万人アクション」に、明大・芝工大・九大・東洋大・早大ほかの闘う仲間たちと共に参加出来ることは大きな喜びです。 長い闘いになると思います。最後まで共に、闘いましょう!

芝公園の集会は原水爆禁止日本国民会議 /プルトニウムなんていらないよ!東京 /原子力資料情報室 などの呼びかけによるもので、芝公園→経産省前→東電本社前→銀座→東京駅前→常盤橋公園というコースでデモが行なわれた。
参加者は顔だけ出した者も含めると30~40名。目標の100名には及ばないが、雨模様の天気を考えると上出来と思う。
集会場では3大学の旗が始めて翻り、明大全共闘生田地区共闘会議の赤ヘルも登場した(写真右下)。
「明大土曜会」の旗を掲げていると、2~3人の若い人が声をかけてきた。聞いてみると明大の大学院の学生とのこと。この旗を見て明大関係者と思ったらしい。さっそく明大全共闘ホームページの宣伝のため、名刺を渡す。
集会参加者は主催者発表で6千名。でも見た感じは1500から2000名程度か。

今年の1月、明大の黒ヘル同志だったN氏が惜しくも旅立たれた(ブログNo172参照)。存命であれば、この集会とデモに参加したであろうと思い、昨年2月の明大同窓会でインターを歌うN氏の写真(写真上中央)を胸ポケットに忍ばせて参加した。3大学の旗が翻るこの光景を見せられなかったのが残念である。

デモが始まる頃になると、雨も上がり陽が差してきた。私は写真を撮るため歩道橋に登ったり、歩道を歩いたりしてしたが、そのうちに旗を見失った。皆、途中でデモを抜けたようだ。
6時に新宿駅東南口での待ち合わせということで、早めに新宿に着き、アルタ前に行くと、すでにすごい人だかりである。駅に戻る途中、渋谷系か高円寺系の大音量サウンド・デモが駅の前を通りかかり、すごい迫力。
デモの最後尾につけてデモ隊と一緒にアルタ前へ。機動隊はいるが、あまりの人数の多さに「流れ解散してください」と言うだけ(新聞によると2,500名)。駅から地上への出入り口は警察により規制され、駅から東口広場には出られない状況となっていた。
6時から7時くらいまで東口広場で3大学の旗を翻していたが(写真左上)、疲れも出てきて解散。やはりデモは数ですね。
「脱原発」の集会・デモは今後も続くので、「脱原発」に声を上げたい方は3大学の旗の下に集まろう!

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(ブログの字数制限の関係で3つに分けてあります。No191-1から見てください。No191-2の続きです。)

Q:『内部被爆の情報があまり出ていないのでは。新宿でもあるのか。』
A:『それはある。皆マスクもしないから。』

Q:『原子力資料情報室と反原発の運動はどういう関係なのか。』
A:『僕らは運動を組織するということはあまりやっていない。それはできないし、やる能力もない。僕は政治的にはオンチといわれている。』

Q:『上関原発をどう止めていったらいいのか。』
A:『この2年くらいで、それまでは地域の運動だったものが、いまや全国の運動になっている。その動きを背景に何回も政府への要請をしているが、なかなか白紙にはならないのも事実。祝島の人たちは断乎反対、上関町は推進という「ねじれ現象」になっている。
2つか3つくらいの路線がある。一つは生物多様性、原発ではあまりやってこなかった大きな動きで、一つはそういうことで、国際世論を高めるということ。
もう一つは耐震安全性について言うと完全にダメなので、見直し路線に持ち込んでいくという方法。
今の状況だと、おいそれとやりますという状況にはない。今のうちに状況を変えてしまわないといけない。中国電力が本当に(原発が)必要なのかどうか疑問。島根の3号炉を増設して、もうすぐ運転される。原子力への依存度が結構高くなっていて、電力的に足りない訳ではない。むしろ何処かに売らないと間に合わないような感じ。
それでも原子力を作るということは国策的なところがすごくある。
今、国策が揺れ動いているが、決定的に新増設は考え直す方に持っていければいい。』

以上、5月9日の原子力資料情報室共同代表 伴英幸氏を囲む会合の質疑の様子である。
ボイスレコーダーでの録音から原稿を書いているが、聞き取れない部分はカットした。
また、質問とは別にN氏(明大助手共闘)から以下のような提案があった。
「グループを作らせて、そのグループに放射線の測定器を1台もたせる。原子力資料情報室で素人でも操作できるような簡便な簡易測定器を独自に開発して、グループに渡す。この人たちが地図にプロットして定点観測するようなことを運動の中に取り入れていくことを提案する。」
N氏からは、今回の震災に関連して30分ほど様々な話があったが、その内容は、別の機会に報告したい。

※6/11「脱原発100万人アクション」
来週、6月11日(土)は福島原発事故から3ヶ月になります。この日、全国で「脱原発社会」を目指した集会やイベントなどが行なわれます。
東京でもいくつかの会場で集会やデモが行われますが、明大関係者もこの行動に参加する予定です。
すでに5月27日の日比谷野音集会で、日大全共闘、芝工大全学闘の方々との共同行動を開始していますが、6月11日は明大・日大・芝工大の3大学を中心としたメンバーで、連携した行動をとっていきたいと考えています。
 第1部は芝公園、第2部新宿アルタ前ということで3大学合意しました。

☆くり返すな! 原発震災/つくろう! 脱原発社会 6.11集会&デモ
 日時:6月11日(土)集合13:00 集会13:30 デモ出発14:30
 場所:東京・芝公園23号地(東京タワー下・地下鉄三田線「御成門駅」5分)
 デモコース(予定):芝公園→新橋→東電本社前→日比谷公園流れ解散
 ※雨天決行 参加費無料
 呼びかけ団体:原水爆禁止日本国民会議 /プルトニウムなんていらないよ!東京 /原子力資料情報室 / 日本消費者連盟 /ふぇみん婦人民主クラブ 、など

☆新宿アルタ前アクション
 日時:6月11日(土)18:00~20:00
 場所:東京・新宿区新宿東口・アルタ前
 (主催):6.11脱原発100万人アクション・東京

「脱原発」に声を上げたい方は、明大・日大・芝工大の旗の基に集まり、一緒に行動しましょう。(写真は明大の旗)
  

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(No191-1の続きです。)
(写真は原子力資料情報室HPからの転載)

Q:『批判的学者は使ってもらえないのか。』
A:『マスコミには専門家リストというのがあって、そこから選んでコメントをもらう。リストに批判的学者が載っていたとしても数が圧倒的に少ないから、選ばれる可能性が低い。
そもそもそのような割合になるということは、原子力分野のアカデミズムの方が批判的 な人をパージする体質になっているからであり、批判的な学者はこのようなリストには入ってこない。』

Q:『2,3週間くらい前に、原子力開発に携わったOBの技術者が自己批判声明のようなものを出し、自分たちは力があるから協力させろという要求が出ているが、これについてはどう評価するか。』
A:『期待はするけど無理だと思う。あの人たちは本当に反省ととれるかどうか良く分からない。ただ、今回の事故対策に義勇軍みたいに手を挙げている人もいるが、協力者を受け入れるルートがない。東電にいっても、原子力安全委員会にいっても全然相手にされない。ルートが確立されていない。』

Q:『今朝の毎日新聞に、日本とアメリカが提携してモンゴルに最終処理場をつくる。しかも最終処理場付で原発を売り込むみたいな話が出ている。日本では新しい原発は難しいだろう、アメリカでも難しいだろうということで、処理場付で海外に売り込むという路線がロシアとかフランスからも出てくると思う。
日本で脱原発社会を作る運動を続けていくのもいいけれど、第2のフクシマがモンゴルに出来てしまうのを阻止するにはどうしたらいいかというのが一つ。
もう一つは、民主党の仙石が地震の前に原発の売り込みにベトナムに行っている。そういう悪さを企てているのは、どうも仙石のような気がするが、その辺の情報があったら教えて欲しい。』
A:『仙石は1989年の脱原発法の時の紹介議員だった。その当時は反対だったはず。』
会場から:『仙石は東大のフロントだった。』

Q:『福島だけではないが土壌汚染、放射能に汚染された農地がどうなっていくのか、教えてもらいたい。』
A:『今、メインの放射物質というのはヨウ素とセシウム。そのうちのヨウ素は半減期が8日なので3ヶ月もすれば二千分の一くらいになる。長期にわたるのはセシウム。セシウムは土壌で極めて高い汚染のところがある。
そういうところは、今、それがいいかどうか分からないが、5千ベクレル以上は米作の制限といっている。仮にそうだとするとそのエリアは相当長い間耕作ができない。
チェルノブイリの経験から言うと、あまりメカニズムは分からないということだが、結論としては地表に相当長く留まる。雨が降っても、20センチくらいのところに留まっているらしくて、雨と一緒に下に行かない。
だから高い汚染のところは、それをひっくり返して処理すれば別だが、例えば5千ベクレル以上はダメとなったら長期にその場所はダメになる。
それが作物にどう移行するのかは、実はよく分かっていない。移行しやすいものもあれば、移行しにくいものもある。』

Q:『自民党の河野太郎が子供の被爆量など原発問題で発言しているがそれについて。』
A:『あの人は放射線審議会の重鎮で、国際放射線保護委員会の論理に貫徹している。それで、子供について言うと、感受性が高いから適用すべきではないというのが国際的常識なので、そこはヒューマニズムで良しなのだが、「労働者の被爆について250まで緩和したが、あれには根拠がない。倍以上はOKだ。それを認めなかったのは法的根拠がない。それを認めていれば、危険なところにもっと早く作業員が行って事故を収拾させることが出来た。」そういうことを言っている。人道的な部分だけ報道されている。』

Q:『マスコミの報道について』
A:『東電の広告費がすさまじい。広告費を干されるので自己規制する、次に大手のところはやりすぎると干される。原子力関係は特にそういう圧力がかかってくる。何人もいる。そうすると、その人は意義を感じてやっているのでいいかもしれないが、後に続く若い人が出てこない。自己規制してしまう。』
 
Q:『政府の参与の辞任の報じ方に象徴的に出ているのでは。』
A:『そこはどうか。どちらかというと、お涙頂戴的な報道だった。あの人は記者に全部ペーパーで配った。あれをマスメディアが自分たちの新聞に全部を書くことができなかったとしても、また、放映する時には全部は言えないのは当然かもしれないけれど、それをホームページで公開していくかどうかは結構大きい。』

(No191-3に続く)

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前週に続き、5月9日のNPO法人原子力資料情報室共同代表 伴英幸氏を囲む会合について報告する。今回は伴氏の話に続く質疑の様子である。
Q:会場からの質問、A:伴氏の回答

Q:『中部電力は浜岡原発を止めたら1日7億円かかる、火力発電の方がコストが高いと言っているが、原発を作っても廃炉にしてから20年近く手当てをしないといけない。総合的な流れからいくとコスト的に高い、廃炉する期間を見ていない。実際のところはどうなのか。』
A:『一方的にキャンペーンを張ろうとしている。コスト計算は原発に有利なようになっている。例えば火力の耐用年数は15年に対し、原発は1年多い16年。火力は毎年燃料費が上がっていくのに対して原発は据え置くという、そういう優遇策がある。その辺を同じ条件で計算すると原発の方がちょっと高いという結論になって、耐用年数16年で計算してもやや高いという結果になっている。それをうまく隠している。
燃料費がかかるのは織り込み済みなので、それほどコストに影響してくるとは思わない。』

Q:『燃料の再処理は技術的に確立しているのか。』
A:『日本はプルトニウムを取り出す技術を持たせてもらえていない。六ヶ所も東海もフランスからのもので、重要な部分はブラックボックスである。
六ヶ所でトラブルを起こしているのは、唯一日本の技術で作ったところで、日本の技術のあり方そのものが問題なのかと思うが、日本の技術は未熟なところがあってうまくいっていない。』

Q:『日本の原発は全部アメリカ製なのか。』
A:『最初の1基はイギリスから来たが、日米関係が優先して2基目からはアメリカのライセンスになった。アメリカは新規発注が78年から途絶えている。既存の発注もスリーマイルの事故で半減する。それで80年代後半からは全く作らない状態になっているので、アメリカには製造技術はない。日本はライセンス契約で建ててきているので、一応製造技術は保存している。元のところはアメリカのライセンスで、ライセンス料を払わなければ何もできない状況である。』

Q:『原発の青図そのものも日本にはないという話を聞くが。』
A:『日本では2つの流れがあって、自主開発路線を以前の科学技術庁がとっていた。「もんじゅ」もその流れの延長。ところが通産省とか電力会社は金をかけてコツコツ開発するのに反対で輸入して国産化していこうという路線で、基本的にそちらが勝ってしまった。』

Q:『学者の問題で当初70年代頃は反対派も賛成派も論争をやっていた。反対派がドンドンいなくなって、唯一京大に5,6人いるということだが、実際にそういう構造になっているのか』
A:『5,6人ではなく3人くらいになってしまっているが、そういう構造になっている。批判的学者を育てない構造になっている。独立行政法人になってからもっとすごい。』

Q:『原子力資料情報室の活動の内容と、今回の原子力に事故を受けて、今後、どのような方向でやっていくのか教えてもらいたい。』
A:『活動内容は、名前が資料情報室なので情報が武器である。認定NPO法人になった。会員制で会員の人に毎月通信の形で情報を返していく。会員は現在2200人位居る。昔、チェルノブイリの時は2800人くらい居た。風化してきたので、また増やさないといけない。よろしくご協力をお願いしたい。
基本的には情報を提供する。その時に処理する情報は各地の運動情報ではなく、どちらかというと、その中身。今回でいうと事故がどういうものであったかとか、どういう本質的問題があったかという切り口で情報を皆に返していくのがメインの仕事である。
後は国際会議を開いたり、研究会を開いたりしているが、全部情報を皆に返していくということ。
それで、これからどうしていくのかということでは、一つには政府の事故調査委員会を追いかけていく。特に出ていない情報が結構あるので、そういうものに着目しながらそれを出していき、追いかけていく。批判的学者が少ないので、その中(委員会)に送り込めない。送り込むだけのチャンネルはあるのだけれど送り込めない。
もう一つは脱原発政策を実現しないといけないので、原子力に取って代わるシナリオが結構出ている。その辺をうまく出していきながら政策転換できないか、ターゲットは経済産業省ではダメなので、国会の方でそういう動きが出来るのか、大きな戦略としてどこにどうアタックしていくのかまだ見えていないところもある。」

(No191-2に続く)

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