野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2011年07月

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No187の続きです。
11月の授業再開を待っていたように、明大でもスト権解除に向けてスト反対派が動き出した。
スト反対派の「有志連合会」は学生会中執に対し、「学生大会」の開催を要求する要請文を提出した。

【有志連合 学生大会を要求】1969.11.13明治大学新聞(引用)
『スト権解除のために動きが注目されている「有志連合会」(佐々木裕代表=法三)は、学生会中執(両川敏雄委員長=政経四)に次のような要請文を提出した。

<要請文>

今般、全明治大学有志連合会において葉書により「学生大会要求」の賛否を問うた結果、下記の通り賛同を得ましたのでここに書面をもって11月25日に学生大会を開催するよう要求いたします。
なお、当要請に関する確答を11月12日正午までに当会宛御返送下さい。但し、期日までに返答のない場合はこの要求を拒否したこととみなします。


賛成5,835  反対181  無効146  棄権1  保留6  
住所変更による返送 1,161 未回答15,530  総計22,860

昭和44年11月10日
明治大学学生会中央執行委員会 委員長 両川敏雄殿
全明治大学有志連合会 委員長 佐々木 裕

これに対し、学生会中執は「要求事項が闘争の本質にかかわっていない」として、今のところ有志連合の要求に従って「学生大会を開く意志はない」(両川敏雄委員長談)と期日までの回答を拒否した。(後略)』

そして11月29日、「有志連合会」と「全明クラス連合(準)」(民青)との共催により、体育会が警備する中、スト権解除、中執リコールに向けた「全学集会」が和泉校舎中庭で開催された。
全共闘はこの「全学集会」に対し、授業再開後、初めて組織的な阻止行動を行なった。

【学生大会移行ならず 29日和泉中庭で全学集会】1969.12.11明治大学新聞(引用)
『スト権の解除へ動いていた有志連合会(佐々木裕代表:法三)は全明クラス連合(準)との共催で29日和泉中庭で「全学集会」を開いたが、主催者の意図した「学生大会切り変え」は参加者の反対でならず、「スト権解除」を学生会中執に要求する決議を採択するにとどまった。
この日、和泉地区対策本部会は全学集会のため「ハンドマイク持ち込み可、3,4年生の出入り可」という措置を取った。また、正門脇には機動隊員の待機する風景もみられた。
一方、全共闘系学生約100人はこの「全学集会」のけん制を含めて、同日午前11時ごろから、同じ和泉キャンパスで、ロックアウト体制・授業再開策動粉砕のための「全明総決起集会」を開いていた。
有志連合・全明クラス連合(準)共催の「全学集会」は正午から始められた。開始早々、二号館二階の非常階段に設けられた議長団席に向け、全共闘系学生がデモ行進し、「最低限の防備はする」(佐々木代表談)として集められた体育会学生と小ぜり合いがくり返された。
まもなく、全共闘系学生は集会を開いたが、渡辺体育会委員長は集会をすぐやめるよう数度警告を発した。
全共闘系学生はこれに従わなかったため、体育会学生が実力で排除にのり出し、全共闘の集会は雲散霧消。その後、数度全共闘系学生と体育会学生は衝突を起こし、全共闘系学生は一時正門検問所の外まで押し出された。
この衝突で全共闘系とみられる学生1人が倒れる事態も生じ騒然となった。
集会はこの間、一時中断する一幕もあったが平穏のうちに進められた。(写真)
席上、発言にたった文三の民主化闘争委員会の1人は「学生大会を要求する様々な人がいる」とし民主的な学生大会の場として∥膤愿?匹紡个靴鴇貊蠅隼?屬鯤歉磴気擦覘他大学生の参加は一切認めない6Т錙武器の持ち込みを認めない、などの要求項目を提起して具体的に取り組む構えをみせた。
また、一般学生の間からは「代議員・選管の改選を抜きにして行なった6月17日の臨時学生大会は無効だ」との声もあった。
この日、有志連合の目指していた「全学集会→中執リコール、スト権解除」への“夢”は実現せず、かねてから主張していた路線を単に確認するのみにとどまった。
また、体育会の渡辺健二委員長は「体育会は有志連合をバックアップしているだけで、今後は独自の路線で目的達成に努力する」との見解を明らかにした。
最後に全学の意志を反映した話し合いの場を今後も設け、四決議を強く要求することを拍手で確認し2時すぎ閉会した。』

全学集会の様子は、次週に続きます。

(つづく)


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生きている 生きている 生きている
バリケードという腹の中で
生きている
毎日自主講座という栄養をとり
“友と語る”という清涼飲料剤を飲み
毎日精力的に生きている

生きている 生きている 生きている
つい昨日まで 悪魔に支配され
栄養を奪われていたが
今日飲んだ“解放”というアンプルで
今はもう 完全に生き変わった
そして今 バリケードの腹の中で
生きている

生きている 生きている 生きている
今や青春の中に生きている

日大闘争の記録「叛逆のバリケード」(写真:日大農闘委HPから転載)の巻頭を飾る有名な詩である。
この詩の作者は、当時日大全共闘文理学部闘争委員会に所属していたT氏であるが、私の知り合いである文闘委のN氏の仲介で今年の2月下旬、新宿の喫茶店「D」で、この詩を書いた「いきさつ」などの話を聞くことができた。
この「詩」はどのようにして「叛バリ」の巻頭を飾ることになったのだろうか?

(Y:筆者)
Y:「Tさん「叛バリ」の例の詩を書いたんですよね。」

T:「書いたというより黒板に殴り書きしたんですよ。本当は。」

N:「あー、そうなの、本のためにわざわざ書いたんじゃなくて。」

T:「違う違う、それを本で取り上げてもらっただけなんですよ。別に、頼んだとかそういうんじゃなくて。」

N:「ずーとわざわざ書いたと思ってた。」

T:「あそこを占拠してた時に泊まり込んでたじゃない。その時は夕方になると人が居なくなるじゃない。それで寂しくて書いた。Kと2人だった。夜、1人は見回で交代で警備で外に居るじゃない。そうすると2人だったのが1人になっちゃう。その時に黒板に書いた。」

Y:「それを誰かが、Oさんとかああいう人が写したんですかね。ほら、叛バリの編集者。」

T:「俺は知らない。「版バリ」は知らないところで作られてたでしょ。当時は。だから、誰だか分かんないね。週刊誌だったかな、なんかで見た時に写真にも出てましたよ、あれ。その書いたものを写真で撮ってたヤツがいた。だから、その、作者不明じゃないけど、こういうのが書いてあるってしか出てなかった。別にどうのこうのってのじゃないから。」

N:「頼まれて、書けとか言われて、あるいは自分から積極的に投稿したのかと思っていた。」

T:「全然違うよ。」

N:「聞いてみるもんだね。俺は知らなかった。ずーと付き合いは長いけど、今日初めて聞いた。」

T:「何気なしに書いたということでしょ。他の落書きとか書いてあるところに書いたんだもの。」

N:「だけど、あなたの書いたものがピックアップされた。」

T:「誰だか知らないけど、誰かが写した。」

N:「ピックアップするだけ光っていたということでしょ」。

T:「載せるのもがなかったんじゃない。」(笑)

Y:「昔から詩みたいなものは書いていたんですか?」

T:「いや、そんなには書いていないけどメモ程度には思いついたことを書いていた。」

N:「我々の中でも彼はセンスがあった。詩人です。」

T:「そんなことないって。」

N:「感性を持った人間が居たということだね。」

N:「彼のものは日大闘争の勃発時の巻頭を飾るにふさわしい詩。夜、寂しいときに書いたとは思わなかった。あれを書いたのがあなただったってずーっと知らなかった。誰かから、ある時聞いてエーと思った。」

T:「あまり知っている人はいないでしょ。だって、書いた時に周りに人が居ないんだから。」

N:「だけど、口伝てに分かるわけでしょう。あなたが書いたって事は結構広く知られてるよ、いいんじゃないの。あのあとに東大でもそういうものを見たことがあるけど、政治的だったり党派的だったりするけど、あなたが書いたこれは生き生きとしたナイーブな感覚で、だからやっぱり生きている。」

T:「まだ、それほど染まってないからね。」

N:「染まってない、そうだよなー。だからいいんじゃない。」

この話の後、T氏に大学を去った後のことを聞いてみた。

T:「大学が終わって1年くらいは仕事をしていなかった。なんかもやもやしていて・・。ある日、働かなけりゃと思って仕事についた。そこで定年まで働いた。」

Y:「今、昔のことは考えないですか?」

T:「ほとんど考えていない。今、アラブの方でやっているでしょ。ああいうのを見ていると何か若いころを彷彿とさせるような、向こうは若い人がやっているのが多いじゃないですか。自分らがやっていた頃の神田とかの状況がアラブの状況に似ているので、鮮明に思い出したりしています。ここのところ、テレビとか新聞とか夢中になって読んでいます。
虐げられたり抑圧されたりしていると、どこかで爆発する。日大もそうだと思う。政治的なものを持っている人がいたかもしれないけど、それが全てではない。」

この日、T氏は、当時の日大闘争への関わりについて多くを語らなかった。ボイスレコーダーで録音していたので緊張していたのかもしれない。また機会があれば、もっと話を聞いて見たいと思う。

※JUNさん、ご協力ありがとうございました。

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No194の続きで、明大生田のY氏からのメールを紹介する。
私からの「コスタリカに行くきっかけのようなものを教えてください。」という質問への回答である。 

【Y氏からのメール】
『現在、北で国境を接するサンディニスタのニカラグアと、カリブ海の川を境とする国境でもめている。
 ニカラグアは、チャベスと組んで、パナマに替わる大運河計画を立てている節がある。
このため、カリブ海側の川の付け根を確保したいらしく、コスタリカ側に軍隊を駐屯させてしまった。軍隊がないので、武装警官を派遣してニカラグア軍と対峙している状況だ。
 コスタリカの対抗策は、外交のみである。まず、米州機構(OAS)理事会に不当を訴えた。北アメリカ(いわゆる日本で言うアメリカ、南北両アメリカはどこでもアメリカ)主導なので、当然ニカラグアを非難する。リーガンの時に、選挙で選ばれたサンディニスタをコントラを使って反革命を起こさせた北アメリカだから当然のことだ。
さらに、河口が鳥の大繁殖地なので、ラムサール条約違反でハーグの国際司法裁判所に訴えている。
 このままニカラグアが引き下がれば良いが、今回はチャベスと組んで、膨大な石油収入による資金の裏付けがあるので、簡単に収まりそうもない。軍隊なしで、この事態をどう収めるか見守っている。

尻切れトンボになったが、以上が与えられた4課題である。
ガッコ終わって40年経ってみると、当時の記憶が薄れてしまっているのが情けない。
私の友人の中には、日本から1万2千キロ離れた、地球の裏側にメールが行くかと本気になって心配している方が何人かいました。でも大丈夫です。ちなみに、時差は日本の15時間遅れです。日本時間から3時間引いた、日本時間の昼なら夜、夜なら昼です。』

『皆様お元気ですか。
小生の住所が決まりました。
11月10日に、首都サンホセでの一カ月のスペイン語学校を終えて首都から65kmカリブ海側(東)のトリアルバにやって来ました。あと100km余りでカリブ海です。バスで2時間半くらいかな?
20km北にトリアルバ火山、北西20kmにイラズ火山があります。
トリアルバ火山は噴煙をあげていて、昨年は降灰がひどかったそうです。活火山は、九州四国を合わせた地に10個以上あります。凄いでショ。 
標高3821mの富士山より高い休火山チリポ山が南西50kmにあります。
いつか仲間と登ります。
みな、山並みが平らなので富士山のように高く見えません。

この地は農業が盛んで、酪農(ジャージーが多し、搾乳時以外は放牧)、高低差を利用した野菜栽培(人参、ブロッコリ、玉ねぎ、なぜかハヤトウリの平棚栽培、そして言わずとしれたコーヒー(近くに700haある、コスタリカ最大の農園があるそうです。)
標高1700m越えの峠道の、両側の急傾斜地(奥多摩並み)でも農業が盛んに営まれていて感心しました。
土壌は、伊豆大島や八丈・三宅と同じ玄武岩由来で、黒褐色で作物の生育具合から見て肥沃そうです(Yの感想)。
以上の事、英語とスペイン語チャンポンで何とか聞き取りました。

CATIE(熱帯農業研究・教育センター)は、コスタリカの人は、誰でも知ってる位有名ですが、在留日本人ボランティアは知りませんでした。
何勉強してんだろうね?(中略)
農場は大きく、畑は1,000ha(1匯擁?砲△蠅泙后
熱帯果樹、ナス科(ナス、トマト、トウガラシ)、ウリ科、サトウキビの遺伝子保存農場があります。
小笠原で有望で、たぶん日本に無い「食用になるヤシの芽用ヤシ」(新芽が地面から叢生する)で且つ、その実を茹でるとイモみたいな味のするヤシの実、熱帯果樹ではCASカス、こちらでは、ジュースにして飲みます。酸味と香りが良いです。
サポテ、カニステルなどなど他にいくつか有望な果樹があります。
2年間で、何かいいもの見つければと思っています。』

今年の1月から連載してきたY氏のメールは、今回で最終回である。
私の質問に丁寧に回答していただいたY氏に感謝するとともに、コスタリカでの今後の活躍を期待したい。
このメールは、今後、ホームページの「明大闘争の記録―関係者の証言」コーナーにまとめて掲載する予定である。

(終)

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