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No199の続きです。

11月29日の有志連合と全明クラ連主催の「全学集会」当日、私は414B統一戦線の仲間と一緒に全共闘の集会に参加しデモを行なった。検問体制の中でのことで旗もメットも何もなし。(写真)
前回の記事にあるように、「全学集会」にジグザグデモで突っ込んで警備の体育会学生と押しつ押されつの小競り合いがあった。
何回か突入を試みた後、いきなり警備の体育会学生がデモの隊列に襲いかかってきた。一部の者は笑いながら履いていた下駄で殴りかかり、女学生が倒れた。デモの隊列は総崩れとなり、正門付近まで押し返された。
この時はさすがに私も「キレ」た。正門付近に設けられた「全学集会」の受付に「このやろー!」と行きかけたが、仲間に「まあまあ、そんなに興奮するな」と引き止められた。
体育会との衝突はこの日が初めてであったが、その後、このような衝突はなかった。

「全学集会」は「有志連合会」と「全明クラス連合(準)」(民青)との思惑の違いを露呈する結果となり、スト権解除、中執リコールには至らなかった。
【前途多難な有志連合】1969.12.11明治大学新聞(引用)
『(前略)全学集会の前日に行なわれた「記者会見」で、中屋事務局長が「全学集会が成功するにせよ、失敗するにせよ,全くの一般学生がここまでやれたということは全国でも珍しいケースだと思う」と語っていた。
が、その全学集会の後彼は「実に腹が立ちましたね。まわりで見物していた一般学生は一体どう考えているんでしょうね。」とハキ捨てるようにつぶやいたのである。
その日の参加者は主催者側発表では約3,200人でしかもその大半は、学生服姿の体育会学生と共催の形をとった全明クラス連合(準)の学生にみえた。
皮肉にも、そしていみじくも中屋事務局長のいった“全くの”一般学生は実は、生協会館の上から高見の見物?に興じていたのである。その数は約2~300人。
一般学生の持つ弱み(討論の場の欠如)を克服することから立ち上がったハズの有志連合にとってこの事実はあまりにも“冷厳”すぎたようである。(中略)
ところで、集会の進行途中で、共催の形をとっていた全明クラス連合(準)との間に会の運営をめぐって大きな食い違いが生じた。「学生大会切り変え」を主張する有志連合に全明クラ連は反対を唱えたのである。
この事態を契機に、あくまで「政治的に無色な組織」と規定する有志連合会は「今後は一切の政治組織との共闘は組まない」方針を一層、強固にしたものとみられる。
また一方で、この有志連合会の運動に”アンチ“の施政を示す全共闘系学生の批判は大要すれば次のとおりである。
「われわれ全共闘は彼ら『有志(?)連合会』が、われわれの提起してきた課題、即ち国家権力が大学にかけてくる帝国主義的再編(=目的別大学、農学部・再編切捨て、学長への権限強化など)に対し、いかに闘うのか?との問に何ら答えずして欺瞞的に事態の収拾を謀っているのを決して許してはおけない」(全共闘アジビラ「志向性なき有志連合の闘争破壊を許すな!」より)(後略)』

【全学集会を終えて 大会要求は続ける】1969.12.11明治大学新聞(引用)
『全明有志連合会 佐々木裕
(前略)この集会に集った学生は約三千名であった。
集会は13時から予定どおり開かれたが、11時30分頃から全共闘系の学生40~50名位がわれわれの全学学生集会粉砕を叫んで、集会を開いていた。そして集会執行部の数度にわたる集会への参加の呼びかけにもかかわらず、議事進行を妨害したため、集会規約にのっとり、一部学生有志の手により、議事妨害者を排除した。
その後は議事進行もスムーズになり、多数の学生の意見を聞くことができた。(中略)
われわれは、この集会を振り返ってみて、議事運営の面で多少の混乱はあったが、いわゆる一般学生の手で、この様な集会を開催することが出来たということにより、われわれでも大学改革に何等かの形で参加出来るのだという強い自信を持った。
今後、われわれは、全学学生集会の四項目、すなわち1.スト権解除、2.中執リコール、3.ロックアウト早期解除、4.大学立法実質化阻止の決議のもとに、署名活動を行い、多くの学生の意思を結集し、再度中央執行委員会並びに、学生自治会に対して、臨時学生大会開催を要求し、全学的な討論の出来る場を、設けていくことを要求する考えである。』

この「有志連合会」はこの日限りで、その後は表立った活動はなかった。全明クラス連合(準)も同様である。
この「有志連合会」による「全学集会」に対する阻止行動を契機に、12月の「明大全共闘政治集会」に向けて全共闘も活動を活発化させる。
そして学内ロックアウト体制の象徴ともいうべき検問体制や学館閉鎖に対する闘いが始まろうとしていた。

(つづく)