野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2011年08月

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前回(No202)の続きです。

『4.脱原発への方途
原発を止めたら、足りなくなった電気をどう出すんだという議論がある。これに対する対応をどう出すか。
実は、坂本龍一なんかがやっている民間バンクですよ。この民間バンクのお金をどこに使うかというと潮力、風力、太陽熱。具体的に原発止めて行こうという事業を起こして、ここでこれだけの電気を使う、それが3基でだめならば6基にする、6基でダメならば8基にする、そのためには、これだけの資金がかかる、それをトータルしても原発よりも安くあがる。
潮力、風力、太陽光など、トータルとしてどれだけの雇用機会が生まれるかを含めて具体的に提案する、実際にやる。
僕が(今)ただ一つやれているのは、深夜電力だけ。
電気止められて黙って過ごすのはいやだから深夜の電力を使うことによって需要の一番低いところの電気を昼間からそちらに移す。今になって新しいことを発見したようなことを言っているが、(僕は)30年前からやっている。
屋根も太陽熱に替えようと思っている。自動車も二酸化炭素の発生の少ない自動車に切替えることくらいしか、反対運動を続けて行く方途が見つからない。
具体的に反原発の資料を提供するという段階から、その代替のエネルギーを提供するような団体を作っていく、グループを作っていく、個人を開発していく、この基軸をもってやれば完全に今の考え方に打ち勝てると思う。
このことを言いたくて来た。
この2つをやりませんか。この明大生田の地から新しいNPOを立ち上げて、そういうことをやろうという人間に、いろんなところから金を持ってきて、そして、実際にどこそこでどういう発電が始まったということが山火事のように広がっていけばいい。

5.建築から見た福島原発
建築関係、耐震構造についてもカラクリがある。
今のような福島の原発が可能になるような法改正は準備されていた。
(福島原発は)20メートルくらい山を削って、強い岩盤を出してそこに原発を乗せた、と言っている。それ(原発)は最初のGL(グラウンドレベル)のところに建てればよかった。
杭の長さが、30メートルか40メートルの杭を打たなければならなかった。1本30万円くらいする。これが何千本という状態で原発を支えないとダメだった。そのお金を節約して港からの荷揚げを簡単にするために、その20メートルを削って原発を下に落としてきた。
そこに津波が地盤の高さまで来た。こういうことを可能にしたのが国交省だ。そのための法律を前もって用意してきた。
建築の方からも、その時に関わった学者を実名を挙げて告発していくつもりだ。

6.津波で残った建物
こないだ釜石から宮古まで行って、宮古から石巻まで一人で自動車でボランティアをやりながら下がってきて感じたのは、原発の問題はもちろん重大な問題だが、建築の問題が全部被災の問題に片付けられているのは犯罪的だ。
流されたところの住宅は人間が住むところじゃなかった。現地でそれを言った。
「死者にムチを打つようなことを言うかもしれないけれど、あなた方は不幸にして津波に持っていかれたのではないんだ。住んだ時から持っていかれるのは分かっていたんだ。」と。
ということは、そういう所にしか彼らは住めなかったんだ。金がある人は少々不便でも高台に行った。実際に残った家と流れた家を見てごらんなさい。
石巻にいってビックリしたけど、このことは「人を殺さない住宅」という本にも書きましたが、北海道南西沖地震の時、(奥尻島)青苗地区で2軒だけ家が残った。
今回と同じように、流れてきた舟が家を潰した。津波が潰したのではなく、流れてきた舟が家を潰した。東北でも全く同じように見える。それでも2軒家が残った。僕はそちらの方に目を向けて、あそこの調査をやった。何故残ったのだろうか。
いろいろ調べて本にも書いた、論文も書いた。残るべくして残っている。
この地に家を建てる時には、どういう風に風を読まなければならないか、太陽を読まなければならないか、津波に備えなければならないかということを、この2軒の大工はちゃんと計算している。
津波は南から入って玄関を抜けて向こうへ行ってしまった。帰りも玄関から抜けて行ってしまった。家は残った。この2軒の大工は同じ大工。
これと同じことが石巻で、全部原っぱになっているのに3軒だけ家が集落で残っていた。2軒の家は入母屋作りの頑丈な家で、金持ちの家に見える。1軒は最近のプレハブのような家。
どうして残ったんだろう、これも全部調べました。結局、この3軒とも津波と風を想定して建てられている。高さの問題で言えば、GL(グラウンドレベル)は同じですから、津波に遭えば流されてもおかしくない。
東北でも北海道南西沖地震でも中部日本海沖地震でも残るべき建物は、残るべくして残っている。』

(つづく)


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N0190と191で、NPO法人原子力資料情報室共同代表 伴英幸氏を囲む会合について紹介したが、「建築Gメンの会」で活動していた中村幸安氏(1960年明大中執委員長、元明大助手共闘)からの発言を紹介できなかったので、今回、その部分を紹介する。

(著者の独断で見出しを付けました。括弧内は著者注。)
『1.天然ガス転換反対闘争
伴君と知り合ったのは、天然ガスに切替えるという東京ガスの運動に対して、天然ガスで組織をやろうということで(町田市)鶴川6丁目を基盤にして、どういうことでやろうとしたかというと、体を張ってやった。伴君も来たよね。東京ガスの連中とも機動隊ともやりましたよ。
だけども、結果的にはガスを使わないことしか我々には手段がないじゃないかということで、結局、ガスの転換をさせなかった。
だから天然ガスに切り替わっても、我々のガス器具からガスが出てこない。何が一番困ったかというと、今、マスコミは新しいことを発見したかのように言っているが、節電で生活を見直した。30年前にやった。
ガスを止められ何が困ったかというと、風呂が入れない。後はガスが来なくとも何とかなる。石油で切替えられる。
結局、ガス釜の替わりに我々は石油ガス(液化石油ガス:LPガス)を入れた。石油でお湯を沸かすガスを入れた。
ガスを単に石油に替えただけという批判があるかもしれないが、東京ガスに対する抵抗の手段が無かった。石油ガスが入るまで、自家用車10台連ねて子供を乗せて銭湯に通った。毎日、風呂に入れないから、1週間に3回だけ銭湯に通った。それで、完全に独占に毒されている生活を見直した。

2.原発で作っている電気はいらない
その後に出てきたのが、原発、チェルノブイリ。
伴君がさっき言ったように原発で作っている電気はいらない。総供給電気量の17%(原発の割合)が東京に来ている。請求されてきている電気料金の17%は払わない、原発の電気は要らない。
ところが、17%×6月で、(半年に)1ヶ月分くらい滞納することになる。
そうすると彼らは電気を止めに来る。だから6ヶ月に1回、家の電気は停まっていた。さすっても揺すっても電気は来ない。電気が来なくなって何が困ったかというと、冷蔵庫が使えなくなるということ。あとは、暗くなったら「ロウソク」を灯せばいい。子供は「ロウソク」の灯りで集中して勉強するようになる。マイナスは何もない。
冷蔵庫が使えないので、クーラーボックスを3つも4つも買って、この中に冷凍食品を入れた。
その次に考えたのが、冷凍食品は止めようじゃないかということ。冷凍食品で我々が毒されてしまっている。春夏秋冬、トマトを植えること自体が間違っている。自然のものは自然で食べよう、ということで、天然ガスの問題から原発の問題に来た。
今、30%が原発だというと、3ヶ月に1回電気を停められる。
今から4年前、とうとうこの戦術を止めてしまった。何故止めたかというと、3ヶ月に1回電気を止めに来る時に、東京電力町田支店の営業課長がお歳暮、お中元を持って挨拶に来る。「受け取らない」と言うと、玄関に置いてくる。こういうお金まで電気料金の中から出ているとしたら、これは大きな問題だ。
東京電力に電話をして「営業課長が来たら不法侵入で訴える」と言ったら、「前々からの申し送りで担当者が代わると挨拶に行くことになっている」とのこと。完全に営業ベースの中に組み込まれている。くもの巣にかかった蛾みたいなもので、もがいてもどうしようもない。(そこで)この戦術は止めた。

3.原発被害の裁判を支えるナショナル・トラスト運動
4月10日から1週間現地に入った。車で1人で運転して宮古まで行って、福島まで行った。「東京の人間は我々を犠牲にして電気を使っているじゃないか」と言うけれども、「福島を犠牲にした電気を買わないためにやってきた」と避難所でも言っている。僕みたいなドンキホーテみたいなやつがいるんだと。
次に何をやるかいうことで、今、一つ考えているのはナショナル・トラスト運動をもう1回考えたらどうかということ。
田んぼで(稲を)植えられなくなったら、三里塚と同じようにモニタリング・ナショナル・トラストですよ。10ポイントのモニタリングに対して自分が経費を負担する、それらのデータを基にして、底辺の被害実態を明らかにして、長い目で見て、裁判をサポートしていくという形でやればいい。実際は三里塚でも一坪運動をやってきた。
建物を保存するためのナショナル・トラスト運動は定着している。実際に自分たちが払ったお金が、どこの原発の被害関係を明らかにしたのかということを地図で明らかにして、これを定期的に公開していけば、今やっている文部科学省のモニタリングの比ではない。数億というモニタリングが出来上がることにより、裁判の格好のデータになっていく。これらを具体的サポートしてもらうためのナショナル・トラスト運動を提案したい。』

(つづく)

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No199の続きです。

11月29日の有志連合と全明クラ連主催の「全学集会」当日、私は414B統一戦線の仲間と一緒に全共闘の集会に参加しデモを行なった。検問体制の中でのことで旗もメットも何もなし。(写真)
前回の記事にあるように、「全学集会」にジグザグデモで突っ込んで警備の体育会学生と押しつ押されつの小競り合いがあった。
何回か突入を試みた後、いきなり警備の体育会学生がデモの隊列に襲いかかってきた。一部の者は笑いながら履いていた下駄で殴りかかり、女学生が倒れた。デモの隊列は総崩れとなり、正門付近まで押し返された。
この時はさすがに私も「キレ」た。正門付近に設けられた「全学集会」の受付に「このやろー!」と行きかけたが、仲間に「まあまあ、そんなに興奮するな」と引き止められた。
体育会との衝突はこの日が初めてであったが、その後、このような衝突はなかった。

「全学集会」は「有志連合会」と「全明クラス連合(準)」(民青)との思惑の違いを露呈する結果となり、スト権解除、中執リコールには至らなかった。
【前途多難な有志連合】1969.12.11明治大学新聞(引用)
『(前略)全学集会の前日に行なわれた「記者会見」で、中屋事務局長が「全学集会が成功するにせよ、失敗するにせよ,全くの一般学生がここまでやれたということは全国でも珍しいケースだと思う」と語っていた。
が、その全学集会の後彼は「実に腹が立ちましたね。まわりで見物していた一般学生は一体どう考えているんでしょうね。」とハキ捨てるようにつぶやいたのである。
その日の参加者は主催者側発表では約3,200人でしかもその大半は、学生服姿の体育会学生と共催の形をとった全明クラス連合(準)の学生にみえた。
皮肉にも、そしていみじくも中屋事務局長のいった“全くの”一般学生は実は、生協会館の上から高見の見物?に興じていたのである。その数は約2~300人。
一般学生の持つ弱み(討論の場の欠如)を克服することから立ち上がったハズの有志連合にとってこの事実はあまりにも“冷厳”すぎたようである。(中略)
ところで、集会の進行途中で、共催の形をとっていた全明クラス連合(準)との間に会の運営をめぐって大きな食い違いが生じた。「学生大会切り変え」を主張する有志連合に全明クラ連は反対を唱えたのである。
この事態を契機に、あくまで「政治的に無色な組織」と規定する有志連合会は「今後は一切の政治組織との共闘は組まない」方針を一層、強固にしたものとみられる。
また一方で、この有志連合会の運動に”アンチ“の施政を示す全共闘系学生の批判は大要すれば次のとおりである。
「われわれ全共闘は彼ら『有志(?)連合会』が、われわれの提起してきた課題、即ち国家権力が大学にかけてくる帝国主義的再編(=目的別大学、農学部・再編切捨て、学長への権限強化など)に対し、いかに闘うのか?との問に何ら答えずして欺瞞的に事態の収拾を謀っているのを決して許してはおけない」(全共闘アジビラ「志向性なき有志連合の闘争破壊を許すな!」より)(後略)』

【全学集会を終えて 大会要求は続ける】1969.12.11明治大学新聞(引用)
『全明有志連合会 佐々木裕
(前略)この集会に集った学生は約三千名であった。
集会は13時から予定どおり開かれたが、11時30分頃から全共闘系の学生40~50名位がわれわれの全学学生集会粉砕を叫んで、集会を開いていた。そして集会執行部の数度にわたる集会への参加の呼びかけにもかかわらず、議事進行を妨害したため、集会規約にのっとり、一部学生有志の手により、議事妨害者を排除した。
その後は議事進行もスムーズになり、多数の学生の意見を聞くことができた。(中略)
われわれは、この集会を振り返ってみて、議事運営の面で多少の混乱はあったが、いわゆる一般学生の手で、この様な集会を開催することが出来たということにより、われわれでも大学改革に何等かの形で参加出来るのだという強い自信を持った。
今後、われわれは、全学学生集会の四項目、すなわち1.スト権解除、2.中執リコール、3.ロックアウト早期解除、4.大学立法実質化阻止の決議のもとに、署名活動を行い、多くの学生の意思を結集し、再度中央執行委員会並びに、学生自治会に対して、臨時学生大会開催を要求し、全学的な討論の出来る場を、設けていくことを要求する考えである。』

この「有志連合会」はこの日限りで、その後は表立った活動はなかった。全明クラス連合(準)も同様である。
この「有志連合会」による「全学集会」に対する阻止行動を契機に、12月の「明大全共闘政治集会」に向けて全共闘も活動を活発化させる。
そして学内ロックアウト体制の象徴ともいうべき検問体制や学館閉鎖に対する闘いが始まろうとしていた。

(つづく)

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