野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2011年09月

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(ブログの字数制限の関係で2つに分けてあります。No207-3から見てください。)

これで小集会は終了したが、その後、1950年代の砂川基地闘争を担い、明大の学生運動と自治会を作った土屋源太郎氏、反原発運動の初めを作った元芝工大教授の故水戸 巌(原子核物理学)氏の奥さんからも連帯の挨拶をいただいた。
また、解散した明大生協の元労働者からの挨拶もあった。

我々の居た場所は、明治公園の日本青年館寄りのやや高くなっている場所である。生垣越しに会場を見渡すと超満員。すでに集会は始まっているが、演壇が遠くて発言の内容も聞き取れない。
今回、初めて「明大全共闘」の旗を掲げたが、若者が「旗の写真を撮らせてください。」と言ってきたり、93年学費闘争を闘ったという人が話しかけてくるなど、旗の効果は大きいことを実感。

デモ(パレード)のコースは3コースに分かれており、政党・団体系が新宿駅南口まで、市民団体系が代々木公園まで、労組系が別ルートで代々木公園までとなっていたが、公園内のどこに居るかによって、コースが決められてしまうということで、3大学共闘は、市民団体系のコースでデモを行なうことになった。
デモコースは明治公園→外苑前→表参道→代々木公園。
明治公園から表参道までは、昔のデモコースと同じである。
集会が終わる頃、混雑に巻き込まれるのを避けることもあり、早めにデモの撮影ポイントに向った。撮影ポイントとは、外苑前の交差点にある歩道橋の上。
明治公園を出て、左手に神宮球場を見ながら進んでいくと、期せずして「おー明治」という明大の校歌が聞こえてくる。東京六大学野球をやっていたのだ。
更に進み、外苑前交差点の手前の右側には都立青山高校がある。1969年10月10日、「ベトナム反戦・安保粉砕・沖縄闘争勝利・佐藤訪米阻止」集会のデモで青山高校の前を通ると、バリケード封鎖中の校舎の上から高校生が一生懸命に全共闘の旗を振っていた。我々デモ隊も手を振りそれに応える、そんなことが鮮やかに思い出された。(写真下中央:週間「アンポ」から転載)

外苑前の歩道橋の上に陣取り、デモ隊の到着を待つ。大規模集会なのでデモの出発に時間がかかるとは予想していたが、なかなか来ない。30分ほどして、デモの先頭がやっと姿を現した。宣伝カーと横断幕を掲げた福島隊が先頭である。(写真上)
デモ隊は警察によって細かく分断されているため、かなり時間がかかっているようだ。
歩道橋の上では手製のプラカードを持った若者が、「原発止めるぞ!」と大声でデモ隊に呼びかけ、デモ隊もそれに応じる光景が見られた。
それにしても来ない。別ルートに行ってしまったのだろうか、とやや焦り始めた頃、やっと日大の旗が姿を現した。でも芝工大と明大の旗がない。日大の隊列は、私が陣取っている歩道橋の下で立ち止まった。やはり分断されてしまったのだろう。
そして待つこと30分。芝工大と明大の旗が現れ、歩道橋下で合流。隊列を整えて再度、デモを開始した。(写真右下)
この市民団体系のデモ隊の先頭集団が代々木公園に着いた頃、明治公園にはまだ出発できない人たちが結構いたとのことである。
主催者発表で6万人であるが、集会の様子を見た限りでは、この数字はほぼ実数と思われる。

今回の集会では、芝工大からの提案で3大学連名でのビラを出そうという企画があった。しかし、ビラの内容について調整する時間が不足していることもあり、芝工大単独で「全共闘世代からの9.19アピール」というビラが撒かれた。
以下、そのビラから抜粋して引用する。
「私たちは40年前に大学や政治の不正に対し一人ひとりが必死で闘いました。この時の怒りを今再び燃やすことが出来ずして、私たちの人間的再生と存在意義はないのです。
もちろん、私たちには、若者たちのように大きなエネルギーを発揮することは出来ません。しかし私たちは私たちなりの経験を生かし全国の原発を停止させ、廃炉にする運動をねばり強く闘い抜く決意を固めています。
多くの全共闘世代のみなさん!
私たちは40年間、政治問題、社会問題について共同の闘いを続けてきたわけではありませんでした。
しかし、各人が世の不正への怒りを忘れた事はありませんでした。
私たちは福島第一原発事故により、再び闘いの場に結びつけられたのです。
全共闘世代の皆さんに訴えます。
私たちと共に「脱原発」の旗をかかげよう!
原発のない社会をつくろう!もうひとつの世界を!」

「脱原発」の運動は、必然的に今までの日本の社会のあり方を根本から問う運動になるだろう。そして、それは新しい社会のしくみを作っていく運動でもある。
あの時代から40年、再び旗を掲げる時が来たのではないだろうか。

(終)

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先週の続きで、9月19日、東京新宿区の明治公園で開催された「さようなら原発 集まれ!5万人」集会とデモについて報告する。
3大学共闘を中心とした小集会での各大学からの発言(後半部分)を紹介する。(発言が聞き取れない部分は省略しています)
司会は明大の米田隆介氏。

司会(米田)
「だんだん過激な発言が出てきているようですが、今日、他の大学の方でここに参加している方がいれば・・・。金沢から桜美林大学の仲間が駆けつけてきています。お願いします。」(異議なし)

桜美林 H氏(写真中央右:H氏のプラカード)
「大学は桜美林大学ですが、当時少数派でしたが、全共闘グループで頑張っていました。(異議なし)当時の思い出としては、淵野辺の戦車阻止闘争が一番大きなエポックになりました。
僕は今、金沢にいます。今、再稼動が各地で話題になっていますが、私のところでも北陸電力志賀原発2号機の再稼動の問題が出ています。
この間、ずっと再稼動を阻止するために裁判を起こしていた訳ですけど、高裁で原発の再稼動差し止めの判決が出ました。だけれども、結局は最高裁でひっくり返されて敗訴になりました。今、原告団が解散してピースネットという、それをもっと広げた形で、石川県内、富山それから全国に広がっています。
何とか志賀の原発の再稼動を止めるためにも、頑張っていきたいと思います。よろしくお願いします。」(異議なし)

司会(米田)
「今すこし時間がありますが、どなたか是非発言という方がいれば、2~3分でお願いしたいのですが。中大から、ではお願いします。一人でも大学代表だ。」

中大 D氏
「中大全中闘の69年組でダテマサヨシという名前で音楽評論家などをやっています。皆さんご存知のように中大はブントの分派闘争によってぐちゃぐちゃになってしまったんですけど、僕らはどこにも行かず4年間一つの大学闘争をやり続けてきました。
そういった独立的な気風というものを生かして、今後も原発問題に関わっていきたいと思います。
また、私自身は福島の出身です。会津ですが、一昨昨日、法事で会津の実家に帰りました。やはり地元の人たちの、農地も使えないという言葉の中には、必ず沸いてくる<おのれ薩長、長州>に対する恨みが今でもこもっています。それから、原発のある場所、例えば下北半島の六ヶ所村、あそこは会津藩が島流しにされた場所です。そんなこともあるので、非常に地元のお年寄りから含めて、皆怒りを感じています。そのことをよろしくお願いします。」(異議なし)

司会(米田)
「あと、まだ発言していない大学の方いますか・・。東洋大学、過激にお願いします。」(異議なし)

東洋大 I氏
「初めまして、藪と申します。ずいぶん若い歳なので、学生の時は学内というよりも、むしろ三里塚で連帯する会の枠でやってました。(異議なし)
芝工大の人たちとも懇意にさせていただきました。ありがとうございました。その当時、明大は怖くて近寄れない場所でした。日大はもちろん出入り禁止です。
とにかく私は一人ですけど、孫のために、愛する子供たちのために、福島の子供たちのために皆さんと一緒にやっていきたいと思いますので、よろしくお願いします。」(異議なし)

司会(米田)
「そろそろ時間ですので、再度、芝工大のYさんの方から今日の集会に向けたアッピールとシュプレヒコールをお願いしたいと思います。」(異議なし)

芝工大 Y氏
「それでは、本日のスローガンとシュプレヒコールを挙げていきたいと思います。(異議なし)(写真中央左)
すべての原発を停止しよう!(すべての原発を停止しよう!)
原発の再稼動を許すな!(原発の再稼動を許すな!)
浜岡原発を廃止しろ!(浜岡原発を廃止しろ!)
玄海原発を廃止しろ!(玄海原発を廃止しろ!)
「もんじゅ」を廃止しろ!(「もんじゅ」を廃止しろ!)
子供を放射能から守ろう!(子供を放射能から守ろう!)
福島の子供を疎開させよう!(福島の子供を疎開させよう!)
福島をかえせ!(福島をかえせ!)
農地をかえせ!(農地をかえせ!)
海をかえせ!(海をかえせ!)
東電は責任をとれ!(東電は責任をとれ!)
経済産業省は責任をとれ!(経済産業省は責任をとれ!)
野田政権は原発を推進するな!(野田政権は原発を推進するな!)
原発をベトナムに輸出するな!(原発をベトナムに輸出するな!)
原発労働者を被爆させるな!(原発労働者を被爆させるな!)
全共闘は闘うぞ!(全共闘は闘うぞ!)
日大全共闘は闘うぞ!(日大全共闘は闘うぞ!)
明大全共闘は闘うぞ!(明大全共闘は闘うぞ!)
芝工大全学闘は闘うぞ!(芝工大全学闘は闘うぞ!)
闘うぞ!(闘うぞ!)
闘うぞ!(闘うぞ!)
頑張って闘いに参加しましょう。(異議なし)(拍手)

司会(米田)
「だいぶ空気がパンパンに入ってきましたね。頑張っていきましょう!」
(No207-4に続く)

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(ブログの字数制限の関係で2つに分けてあります。No207-1から見てください。)

明治大学 菅野氏(写真中央左)
「明治大学の生田共闘で5年間学生時代を過ごしました。その後、山形に帰って百姓になりまして、以来、37~8年農業をやっております。
福島まで120キロくらいでしょうか、沢山の福島の方々が私たちの住む長井市に来ております。もう帰れないというふうに、彼らは口々に言っておりまして、安住の地を捜し求めているという現実があります。
私たち百姓も、原発の中に見られるような経済成長至上主義というか原理主義というか、その伸びきったところで今度の事故が起きましたが、一方で、TPPという皆さんご存知でしょうか、アメリカを中心とした新しい連携協定を作ろうとしている、そのことで、最終的に農業が無くなろうとしていました。それに対する闘いを組んでいる最中の原発事故です。
今後、どういうような形で土を処理した生業を、というよりもこの国の食糧生産の基地を農民としてどういう風に守っていけるかということについては、まったく暗澹たる気持ちでおりますが、しかし、先程の芝工大の先輩の話を聞いておりますと、実に健康な言葉を続けながらご自分の気持ちを明らかにされておりましたし、久しぶりに異議なしという言葉を40年ぶりでしょうか、聞くことができまして(異議なし)、やれると、まだ60だけどやらなくてはならないという気持ちを再び持つことができた、そのように感じています。
芝工大の方々には思い出がありまして、この明治公園において明大生田の隊列のすぐ脇に芝工大の学生諸君の隊列がありまして、このマイクが壊れて、明治の工学部の学生もいた訳ですけど、何とも直しがたくいるところに「俺に貸してくれ」と芝工大の方々が持っていってくれて、直ぐに直してくれたということがありました。(異議なし)
今、またこういう所で、場を共に出来るということに嬉しさを感じています。
今日は頑張ります。皆さんよろしくお願いします。(異議なし)」

司会(米田)
「だんだん本調子に近づいてきたようですが、では、続きまして日大全共闘を代表して発言を受けたいと思います。Nさんお願いします。(異議なし)」
日大 N氏(写真右上)
「未だに日大全共闘だと思っています。日大全共闘なので、あまり難しいことは掲げません。デモでハネたいと思っている人もいるかもしれませんが、そういう人はハネてもいいんですが、後は面倒見ますから。できればこれから長い闘いなので歳を考えて、程ほどに出来れば、少しずつやっていこう、ということを呼びかけたいと思います。よろしくお願いします。(異議なし)」

司会(米田)
「今、飛び入りでちょっと昔、毛色が違ったんですが、横浜国大全共闘の人が見えていますので、一言発言をお願いしたいと思います。(異議なし)」
横国大 K氏
「米田さんと同じ杉並区で区議会議員をやっています。米田さんに応援していただいています。今日は共に頑張りましょう。」

司会(米田)
「続きまして、専修大学のK君から発言を受けたいと思います。」
専大 K氏
「専修大学生田校舎におりました。明大生田の方とは、谷を隔てて一つだったんですが、専修大学の全共闘は1969年の1.18-19が終わって4月以降の結成です。
1回もバリケードというものが築けないままに大量の逮捕者を出して終わっていきました。
さて、この原発の被害は全国各地の農民に多大の苦しみを与えています。(ナンセンス)
一昨日、静岡の農家の方とお会いすることがありました。
3.11の事故以降、3月18日に私はタンポポ舎の面々と浜岡原発を見てきました。とんでもない施設です。地元の人たちから土塁といわれてる天然の砂丘があるんですが、それによって守れるんだというようなことを言っています。しかし、地元の人や周辺の農家の人は全くそのことを信じていません。
もし、浜岡原発で同じようなことが起きたとすると、恐らく日本経済は壊滅するだろうということが分かっております。
今、この原発の問題は、チェルノブイリ以降は都会を中心として様々な市民運動が形成されました。
今日の事態は被害を受けた福島、宮城、岩手、青森など地域の農民とともに私たちがどのような形でとり結ぶことができるのかが鍵だろうと思います。
その意味では、反原発運動としての地域住民闘争を展開しなければならないと私は思っています。
今日の参加は専大からは1人ですが、1人でも専大全共闘を担っていきたい、このように思っています。(異議なし)よろしくお願いします。」

(次週に続く)



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9月19日、東京新宿区の明治公園で「さようなら原発 集まれ!5万人」集会が開催された。この集会とその後のデモ(パレード)に、明大、日大、芝工大の3大学共闘を中心としたメンバーが参加したので、その報告をする。
(報告はブログの字数制限の関係で4つのパーツに分け、今週と来週の2週に分けて掲載します。)

集会の前に3大学で小集会を持つということで、早めに家を出てJR「千駄ヶ谷」の駅に向う。「代々木」駅で総武線に乗り換えると、電車の中はそれらしき人たちで一杯。
「千駄ヶ谷」の駅前に出ると、待ち合わせをしている団体やグループの人たちでここも一杯。
明治公園に向う歩道も人波で埋まり、歩いていくがなかなかたどり着かない。
小集会の前には何とか着いたが、まだ集会開始の1時間前というのに、公園内は半分ほど埋まっている。どのくらいの人が来るのか見当がつかない。
1969年10月10日、この明治公園で行われたべ平連、全国反戦、全国全共闘、反代々木系各派(革マル派を含む)による「ベトナム反戦・安保粉砕・沖縄闘争勝利・佐藤訪米阻止」集会を思い出す。あの時は主催者発表で10万人(警視庁発表は2万人)。

12時半になり、3大学共闘を中心とした集会が始まった。以下、集会での各大学からの発言を紹介する。(発言が聞き取れない部分は省略しています)
司会は明大の米田隆介氏。

司会(米田)(写真左下)
「私たちは40年前、よく明治公園に来て、いろんな集会を行ないました。いわゆる全共闘世代です。私たちは今回の3.11、あの原発の問題を踏まえまして、40年間のいろんな想いを込めまして、再度私たちは闘いに立ちました。(異議なし)
そして具体的には4月10日に芝公園で第1回目の共同行動を行い、6月11日の100万人アクションに呼応しまして、芝浦工大全学闘、日本大学全学共闘会議、明治大学全学共闘会議、明大土曜会で統一行動をもって6.11の集会に参加しました。
そして、本日はこの第2波として、今日、9.19の集会に3大学共闘の名前を持って参加していきたいと思っております。
では、この間の問題につきまして、芝浦工大全学闘のYさんより発言を受けたいと思います。」(異議なし)

芝工大 Y氏(写真右上)
「芝浦工大のYです。私たち芝浦工大全学闘は、昨年11月、「もうひとつの全共闘」という芝浦工大の闘争史の本を出版しました。そして私たちが昨年11月に、この本を出版して宣伝活動をしている中で3月11日、とんでもない事故が起きてしまいました。
しかしながら、私たちはこの原発、あるいは核という問題に振り返ってみれば、本当に40年間いったい何を成しえたのでしょうか。
確かに私たちは大学の不正や、また安保やベトナムこうした闘いに必死になって闘ってきました。しかしながら、この原発問題や核の問題に本当に私たち全共闘運動が取り組むことができたのでしょうか。
この大きなマイナス、私たちが出来なかった点をはっきりと反省するところから、この原発反対運動を進める必要があると思います。
4月10日、私たちはいち早く芝公園23号地での原発反対の<全ての原発を停止せよ>のスローガンの下に芝工大全学闘の旗を掲げました。
そして、明大の全共闘の人たちと日大全共闘の人たちと、共に同じ旗を掲げることが出来たのです。
それ以降、私たちは芝公園での集会やあらゆるデモに共に参加して、絆を深めることができました。
そして私たちは3大学が共に闘うことによって、全共闘世代がもう一度やらなくてはならない。私たち60代がこのままで眠り込んでいいのだろうか、決してそうではない、私たちがこの私たちの世代の責任を負おうとするならば、今、私たちができる範囲で老骨にムチ打ちながら闘いに参加しなければなりません。(異議なし)
そして、ますます我々は全共闘の旗を高く掲げて決して恥じることなく、我々ここに参加している一人ひとりが、芝工大全学闘であり、日大全共闘であり明大全共闘の一人ひとりが、そうなんだ、そういう我々がその主体なんだということを皆で確認しましょう。
私が日大全共闘である、私が明大全共闘である、私はいつになっても芝浦工大全学闘の旗を掲げる覚悟をもって、この原発を全て廃止するまで共に闘いましょう。(異議なし)
もっともっと多くの我々の世代の人たちに呼びかけて輪を広げながら、我々全共闘世代は闘うぞ、ということをこれからの原発闘争の中で大きな旗を掲げていこうではありませんか。(異議なし)
今日は暑い中、共に闘い抜こうではありませんか。(異議なし)」

司会(米田)
「だいぶ昔の調子が戻ってきたようですね(笑)。皆さん元気に頑張っていきましょう。
続きまして、遠く山形の地より本日の集会のために駆けつけていただきました菅野君より明治大学を代表して発言をお願いしたいと思います。」

(No207-2に続く)

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前回(No203)の続きです。

『7. 先人が残した遺産を活かす
(奥尻島)青苗地区の仮設住宅はどこにつくられたか。
いろいろもめた。一般的には高台がいいということで、高台を候補地にして穴を掘ったら下から貝塚が出てきた。アイヌの人たちはここでしか住まなかった。それを現代人は仮設の住宅をそこに建てようとしている。
アイヌはそこに本宅を作っていた。その高さが青苗地区を襲った津波の高さを完全にクリアする高さだった。
仮設住宅を本住宅に切替えることを今の(横路)衆議院議長が北海道知事の時に青苗地区を道で買い上げて、高台の方に住宅を建てさせた。今の衆議院議長はそういう経験を持っているのだから、北海道でやったことを東北でもやればいいんだよ。
経験が実績として生きてきていない。厳しい中でも残るような家の建て方がある。
今、低いところで流されたから高いところと言っているが、話しが違う。何故、低いところに居たのかということを解明しない限り、国策としての方針が出てこない。
東北でも、今あそこを掘っても貝塚は出てこない、先人が住んだ形跡がない。先人が住んだ形跡がないところに原発を作ったり家を作ったりして、そして絶対安全だという神話を作り上げて、人を住まわせて毒薬を今製造しているんだ。
だから考古学というのは、実際の我々の今の生活の中に関連させなければいけないのに考古学は論文のための学問になってしまっている。

それからもう一つある。郵政の合理化の中で地名変更があった。全国の地名がいろいろな名前に切り替えられてしまった。
これで何が起こったかと言うと、実は人間が住んではいけないような走水だとか谷地だとか大谷地だとか、これは谷地であって、水が来た時には水が着きますよ、ということを先人は地名で残している。
能登の志賀原発は横は穴水だよね。水が溜まっちゃうところなんだよ。(筆者注:半島の反対側)
水が溜まるということは、そこに大きな断層があるということ。そういう名前を全部切替えることにより何が起こっているかというと、過去の我々の先人が残した文化遺産が全部、近代合理化の中で失われている。家を作る、土地を買う時は古文書を調べて自分の土地を前は何だったかということを調べないとダメ。

8.提案
具体的な提案だけど、ナショナル・トラスト運動をやって、グループを作って、そのグループにガイガーカウンター器を1台、これを資料室で開発すればいいと思うが、もっと簡便で素人でも操作できるようなものを独自に開発してこれを十人集まったら1台渡す、この人たちに権利をナショナル・トラストの権利書として担保すると同時に、その人たちにしっかりと地図の上にプロットして、そこの定点観測をさせるような形で運動の中に取り入れていくというやり方を提案したい。
仕事を与えることにより、厖大な資料が時系列に基づいて出来上がっていく、そういうことをやる必要がある、今の機械は扱い難い。』

ナショナル・トラストとは、一般的には自然環境等を開発による環境破壊から守るため、市民活動等によって買い上げるあるいは自治体に買い取りと保全を求める活動であるが、中村氏は「放射能汚染により田んぼで(稲を)植えられなくなったら、三里塚と同じようにモニタリング・ナショナル・トラストですよ。」と言っている。
田んぼの稲を植える権利をNPOなどが買い取り、その場所の放射線のモニタリングを定期的に行ないデータを集める、という提案と理解した。
今回の話とは別に、6月4日に開催された中村氏の「明大土曜会」での講演もあるので、いずれ、ブログで紹介したい。

【9.19脱原発集会の案内】
8月6日、明大、日大、芝工大の3大学で、9.19脱原発集会への連携した行動を確認しました。「脱原発」にも様々な思いや考えがあるかと思いますが、「日本を原発に依存しない社会にしていく」ということに賛同し、声を上げたい方は、3大学の旗(写真右)の基に一緒に行動しましょう。
集合時間と場所は、12:30明治公園の日本青年館口近辺です。3大学を中心に小集会を持ちます。

◆◆◆さようなら原発集会 集まれ!!5万人◆◆◆(写真左)
日時……2011年9月19日(祝) 13:30~
場所……東京・明治公園
集会規模……5万人(集会後、パレードがあります)

◆◆◆さようなら原発1000万人アクション◆◆◆
実行委員会では、9月17日~19日を「福島デー」(仮称)として、全国・全世界に全国アクションを呼びかけます。
呼びかけ人は、内橋克人さん、大江健三郎さん、落合恵子さん、鎌田慧さん、坂本龍一さん、澤地久枝さん、瀬戸内寂聴さん、辻井喬さん、鶴見俊輔さんの九人です。

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