野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2011年11月

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N0200の続きです。

11月29日の有志連合による全学集会阻止闘争を契機に、学内ロックアウト体制に対する全共闘の行動が活発化していく。
生田では学館解放と、授業再開阻止の闘いが始まっていた。
【生田学館を実力解除 1日、二ヶ所で授業が阻止】明治大学新聞 1969.12.11
『生田地区で28日、工・農学部三年次生以降の授業が再開された。(中略)午前9時ごろロックアウトされた生田学生会館前で、約30人の全共闘系学生が「授業再開粉砕」のシュプレヒコールを叫びながらデモ行進をはじめた。正門の検問所に向い、その後対策会議の本部となっている新図書館入口に押しかけ、教職員に「私服刑事は何のために入っているんだ」などと迫る場面もあったが、階段でスクラムを組んで、インターを合唱、学館前に引き上げた。
午後からは約150人がキャンパス内をデモった。その後、デモ隊の一部が学生会館前にあるロックアウト中のサークル部室を“解除”、同時に学生会館にも玄関から入り込み開放した。
1日の午後には、授業中の工学部実験室に実験助手共闘と学生十数人が現れ、教授に「何故授業を再開するのか」と迫った。教授が「授業の妨害はするな」というと、「討論をしみきただけだ」と食い下がり、結局、授業が不可能になった。同じ日の午後、化学実験実でも同様の事態が起こった。』

生田での全共闘の授業再開阻止の行動にもかかわらず、大学当局は12月1日から検問体制の緩和を決めた。
【全学部授業始まる 1日から検問体制も緩和】明治大学新聞 1969.12.11
『大学当局は全共闘系学生の授業阻止行動はヤマを越したものとみて、12月1日よりこれまでの一人一人検分する“厳戒検問体制”を緩和、特殊の場合を除き本学生の構内への自由な立入りを認めた。
これは全学の授業が一応“軌道”にのったこと、他大学生の立入りもないことなどの理由によるものである。しかし授業再開にあたって出した「学長告示」は今なお生きており、検問所では職員がヘルメット・ゲバ棒などの凶器を持ち込まないよう監視している。』

『中川学長
学生会館のロックアウトはまだまだである。生田では学生が侵入したことは聞いているが、こちらとしては強硬な手段に訴えるのもどうかと思うし、また学生の方も今のところ根拠地にするような気配をみせていないので、警告だけにとどめている。
5日には学生は学館奪還のために実力行動を展開するということも知っている。警官を呼ばないこともないが、安易な考えはもっていないつもりだ。学生も自分たちの行動がますますロックアウトを長びかせること位心得てはいるだろう。』
大学当局は、ずいぶん余裕というか楽観的な考えを持っていたようだが、5日、和泉校舎ではロックアウト粉砕・学館実力解放に向けた闘いが行なわれた。

和泉校舎の正門前では学館実力解放の集会が持たれた。集会中、どこからともなく社学同の赤ヘル部隊が丸太を抱えて現れた。
「おー!丸太!」。68年10.21で防衛庁に社学同が丸太で突っ込んだ(写真)ことはよく知っていたが、目の前に現れたので騒然となった。
社学同の赤ヘル部隊は、丸太で検問所に突撃、ベニヤの検問所はあっという間にバラバラになった。集会参加者は検問所に使われていた材木をゲバ棒がわりにして、赤ヘル部隊とともに中庭を駆け抜け、学館に突入。
学館を逆封鎖していたベニヤを丸太とゲバ棒で破壊し取り払った。
大学側に機動隊を呼ぶ隙も与えない、電光石火の作戦だった。

【17日に全明政治集会開く】明治大学新聞 1969.12.25
『今後の明大闘争の報告を占うものとして注目されていた「全学政治集会」は和泉地区で開かれた。
集会は午後1時から第二校舎6番教室で予定されていたが、大学側は「混乱が予想される」としてこの日の午後の授業を全部休講措置にする旨、マイクで放送し、キャンパスに留まっている学生に対しては、即刻退去するよう何度も呼びかけた。
シャット・アウトされた正門の外付近には、帰りそびれる学生、午後からの授業に登校した学生ら約1,000人が密集、また大学側の要請した機動隊員の姿もみえた。
全共闘系の学生は学内でデモをくり返した後、封鎖された正門を実力で“開放”し、外の学生を導き入れ、図書館前で集会を始めた。
集った約800人を前に全共闘の横谷優一君は「大学の数々の妨害策動をハネ返して克ち取った今日の政治集会は、学友諸君に勇気と力を与えた。(中略)」また二部共闘の本間晟豪君は「正常化という波にのった大学立法の実質的な適用、それを側面から援助しようとする右翼秩序派―日共民青の反革命を弾劾し、権力と一体となった大学当局に対する対決を強めよう」とそれぞれ訴えた。
その後、各学部闘争委、生田地区闘、新寮闘争委などから連帯の挨拶があり、また三里塚反対同盟の青年行動隊からも基調報告がなされた。』

政治集会も終わり、時代は1970年に突入していく。

(つづく)

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1960年代後半から70年頃の新聞記事を紹介するシリーズ。
今回は毎日新聞の「本日休講 大学紛争を考える」というコラムの記事を紹介する。

【ナンセンス】1968.9.22毎日新聞(引用)
『1 相手の論理をやっつける用語ナリ
 2「ベラボーメ」「ふざけるな」などと同じ意味ナリ
ただいま大流行の言葉「ナンセンス!」と「異議なし!」

用例その1
東大医学部本館前で16日開かれた“大衆集会”。学生側の“追及”すでに4時間。卒業試験の延期問題で返答に窮した小林隆医学部長が「もう生理的な限界にきました。これ以上正常に考え続けることはできません」と答えたとたん、学生側から「ナンセンス!先生から習った講義では、まだ生理的限界にきていないはずです」再び学生から一斉に「異議なし!」かくて集会は続行された。

用例その2
1月31日夜、日比谷公会堂で開かれた「全学連佐世保闘争報告大集会」。演壇に立った秋山勝行全学連委員長がカン高い声でぶちまくった。いきおいあまって「われわれワァ、無知な大衆をゥ、乗越えー、これから孤立することによってエー」とやったところ、すかさず聴衆から「ナンセンス!大衆は無知か!」とヤジが飛んだ。ハッとした秋山委員長、「今の発言を訂正!」、とたんに「異議なーし」の大唱和。

用例その3
アメリカの“全学連”が呼びかけた「国際反戦デー」(4月26日)明治公園は白ヘルメットの中核派、赤ヘルメットの社学同、青ヘルメットの社青同解放派の三者が集ったが、集会がテンデンバラバラなら、デモの“攻撃目標”も防衛庁、国会、アメリカ大使館とバラバラ。中核派の学生が反目する社学同の学生をヤジッた。「お前ら、口惜しかったら王子に来てみろ」米陸軍王子病院開設に反対してデモを連日繰り広げた“実績”を誇りたかったらしい。
とたんに「ナンセンス!王子から世界が見えるか。王子埋没主義ハンターイ」と社学同の学生がやり返し、同派の学生たちは口々に「イギナーシ」

かってのエロ・グロ・ナンセンスの時代のナンセンスとは違う。いまの「ナンセンス」は安保のころから使われ始めた「マルキシズムを非政治的に純粋経済理論的に分析したロジックを信奉する三派の前身が、相手の論理を非難するときに用いたのを源泉とす」(東大文学部尾崎盛光事務長)らしい。相手をバッサリ切って捨てる。論争のヤイバを交える手間をはぶく、これは手っとり早い、というので愛用され出した。
“話せばわからない”直線的なゲバルト至上主義の学生を早稲田の仁戸田六三郎教授は「マムシは一生懸命走ると直線的になるそうだけど本当かね」といい「ほろ苦人生の“ほろ”が通じない」と嘆く。
日大経済学部1号館の壁にこんなハリ紙があった。

<投石隊心得>
 ,佑蕕い鯆蠅瓩禿蠅欧襪海函
◆仝事命中のさいは某所で“いこい”1本を進呈する。
 十人に命中し、1人以上の重傷者を出した場合は“ピース”1本の半分を進呈。
ぁ,劼箸弔劼箸弔寮个、われわれの涙の結晶であるから、決してムダ石を投げぬこと。
ァ‥┐寮个覆匹派藹?擦訃豺腓蓮崙鐱楝膤愾干惷ζ会議バンザイ」と叫んで倒れること。
“ゲリラ”の先陣訓。戦中派は旧軍隊の一節をおもい浮かべたくなる。(中略)

この「ナンセンス」―「てやんでー」「ベラボーメ」「バッキャロー」「ふざけるな」と同じニュアンス。
「異議なし」は「ヨーヨー」「大統領」「ヨッシ」あるいは歌舞伎の××屋ァ―。好きか、きらいか、季節でいえば夏と冬、単純明快に割り切る短絡反応のマル・バツ式発想である。
立場の違う相手をギョッとさせる。いわれる方は足元からすくわれた感じ。救いがない。
言う方は、ときに自分の迷いや論理的ゼイ弱性をふり切ったり、ごまかすのに、たいへん有効。
むかし「非国民!」の一言のもとに切り捨てた問答無用に通じる“硬直した”一元一次方程式“だ。二元、三元の根(コン)は認めない。交通信号でいえば「赤」と「青」だけ。
中間の注意信号の「黄」やウインクは不用、馬券ならさしずめ○印か無印で、本命に対抗する△印に迷うなど全くナンセンス。
受験勉強で著者と書名を線で結べばすむータスキがけの訓練ばかりしたため習い性となったのか。
二者択一の組み合わせの点では電子計算機のオートメーション・システムだが、こちらは初めから答えのわかった“原始計算機”だ。
「体位向上知能低下のシンボルですナ。エゴを追及することに急で、相手の立場に立って考えることをしない」(尾崎氏)
複雑な大学紛争解決への「正解」を探すのに苦労するわけである。』

この記事が書かれたのは68年9月。現象的な部分だけを取上げての記事であり、大学闘争の本質については何も書かれていない。大学側の視点に立った一方的な記事であるが、当時は、このような論調の記事が多い。
当事者としては「ナンセンス!」も「異議なし!」も、もちろん「異議なし!」である。

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