
1960年代後半から70年頃の新聞記事を紹介するシリーズ。
今回は毎日新聞の「学園喪失 角材の論理を追って」という連載記事を紹介する。
(写真は「叛逆のバリケード」より転載)
【否(ノー・ノン)】1968.10.24毎日新聞(引用)
『<島育ちの僕は一貫して勉強しませんでした>
「資本論?読んだことないなあ・・・」
マンモス日大生8万人の意識を目ざめさせた“英雄”という賛辞の一方で、私服刑事にリンチを加えた“暴徒学生”の主犯とされる秋田明大(あけひろ)日大全学共闘会議議長は、とりわけ秀才というわけではない。
瀬戸内海に浮かぶ小さな倉橋島の出身。生来“環境には鈍感で、ラクビーや水泳が得意だった”という。彼の女房役、酒井吾郎副議長も広島県の同じ私立高校を素行不良で退学させられ、高校卒の検定試験を受け“ようやく”日大に入ったというから、お世辞にもエリートとはいえまい。(中略)
全学連OBで中核派の指揮者北小路敏氏はいう。
「学生運動家というとオニか蛇(じゃ)のようにいわれるけど、ふつうの人間、ふつうの学生ですよ。」
“ふつうの学生”が紛争の主役におどりあがったのはなぜか。
日大“創業以来”の大闘争を組みあげたその秘密は・・・?
<みんなガタガタふるえていました>
あの日のことは忘れられないと秋田議長はいう。
昨年4月20日の新入生、移行生歓迎大会での事件。
「演壇の羽仁五郎氏に対して“アカ!ジジイ!引っこめ!”のバ声が乱れ飛び・・」「応援団を先頭に数十人の学生が控室にいた執行部役員を引きずり出し」たそのあげく「脳波に異常をきたし、数日間食物摂取不可能となり、満足に体も動かせない」ほど「バットで頭をなぐられたり、頭を壁に打ちつけられたり、胃をけられた」のである。
なにかが彼の胸の中でカチリと鳴った。
「ボクは委員でもなければなんでもなかった。ノンポリだった。(いまでも“一般学生”ですが・・・)しかしその非道ぶりをみて、僕は頭にカーッと血がのぼった」
サークルの委員長になれば処分される。三崎祭では話を聞きたい講師も呼べない。目の前で“大学右翼”が暴虐の限りをつくす。教授はその暴力をとめるのでなく、なぐられた方をキツ問する。職員室から日本刀が出る・・。
では、学生は、といえば抵抗したって仕方がないじゃないか、大学側にチェックされるだけだ、就職もできなくなる。
こうした蓄積された内的な怒りが、外に向って爆発したのだと秋田議長はいう。
“ノー”
平均的学生たちは一斉に叫んだ。学園民主化に立ち上がった。芸術学部の学生20人は絵筆持つ手を土方仕事にかえ、1人1万円ずつ20万円の運動資金をつくり出した。
「5月にはじめてデモをしたときは、スクラムをどう組んだらよいかわからなかった。シュプレヒコールもうまく声がだせなかった。みんなカッカしながらブルブルふるえていた」
学生は社会のワキ腹、一番敏感な部分だ、とはレーニンの言葉だが、大学のスキャンダルの数々は、田舎出の“一般学生”のワキ腹をいたく“刺激”した。
従来、学生運動とは疎遠だった学生が“主体的”に立ち上がり、スト体制の底辺を形成している点は、日大も東大も同じだ。
<お父さん、お母さん、さようなら>
小さな鉄工所で機帆船のエンジンを修理している父親は三度上京したという。
「オフクロは監獄なんかへ入れられたら困るといった。ボクがほかの学生を裏切るわけにはいかんよ、というと、オヤジはなにもいわなかった。(オヤジは若いとき右手の親指を歯車でくだかれているんです)最近の電話では“お前の顔を当分みれんかもしれんなあ、元気でやれよ”といっていた。
不肖(?)の息子は、オヤジもだんだんエスカレートしてきたナと思う。
逮捕状をシリ目に、彼がたてこもる経済学部校舎の壁には、こんなヒロイックな文字が並んでいる。
お父さん
お母さん
ボクはこれから機動隊の中へ突っ込んでいきます
さようなら
むすこをよろしく
決死隊一同より
<ボクには明日しかない きょうのたたかいが明日を設定するのだ>
「異常なのは教師ですよ」
東大医学部の紛争で、他科にさきがけ医局を解体した精神神経科の石川清講師はこう学生を援護する。
「医学部の教授は逃げることしか知らない。自分に力がないからすぐ激高する。学生は狂犬ではない。青年に関する本一冊読まず、恐怖心から学生を異物視する。異常性はむしろ教授会の方にある。ぼくらの専門用語でいえば、こういうのを驚がく反応と呼んでます。」
(中略)バークレイ、ソルボンヌ、神田、本郷・・で、執ように「ノー」「ノン」「否」と叫びつづける文明の息子たち。
彼らは「試験管の中で実験するわけにはいかない」と、ポスト・ゲバルト(暴力以降)のプログラムを持たない。
繁栄の中で、大人たちはあまりに「量」を追いすぎてきたように思われる。
「カベなきカベだなあ・・人間不在の技術文明、いったいだれがこれを利用するのですか」
(秋田議長の話)』