野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2012年03月

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(ブログの字数制限を越えるため、No232-1とNo232-2の2つに分けてあります。)

No230に引き続き、明大土曜会のメンバーであるH氏の福島県飯館村訪問記を紹介する。
放射能汚染で避難を余儀なくされた福島県飯舘村の住民を支援する手がかりを得ようと、避難している飯舘村関係者を訪問した時の報告である。
訪問記第2回目は飯舘村の「負げねど飯舘!!」リーダー佐藤健太さん。
(写真は【愛する飯 舘 村を還せプロジェクト「負げねど飯舘!!」フォトギャラリー】からの転載です。)

■3.11以降の飯舘村の若者たちのチャレンジ■
「負げねど」は年上の人もいるが、3.11以降に生まれた約25人の村の若者たちの活動媒体だ。佐藤健太(29歳)さんは護岸ブロック製造業、佐藤工業で働いていた。
 「負げねど」は、せめて子どもさんや妊婦は危険な福島ではなく、公費で県外避難を村の行政に訴え、東電への補償を求めたり、マスコミ世論に飯舘の現状を伝える活動を続けてきた。立ち上がりは佐藤さんのツイーターからで4月16日に有志が集まった。

村当局は村での村民の生活や農業産業基盤を守るために、村周辺から約1時間の計画避難を考えていた。佐藤さんたちは、それでは一番影響を受ける子どもが危険にさらされると、村当局の放射能汚染認識の甘さ緩慢な避難計画の非を訴え意見は対立した。
 4月21日に菅野村長と懇談し、今後20年30年と子どもの健康被害を見守っていくことで合意した。手帳の具体的アイデアを提供し、村独自の子ども健康手帳が発行された。

 村当局は6月22日に役場機能を移転した、それとともに全村民の村外避難が完了した。約1,700戸ある村のコミニティは拡散した。「負げねど飯舘!!」はこの拡散したコミニティを何とかつなげる活動にチャレンジしようとしている。つながらなければ村の絆はだんだんとかぼそいものになっていく。着目したいのは自分たちの活動を、「住民運動(3.11以降の新たな共同体運動)として認識していることである。

 佐藤健太さんは相当のイケメンなのだがお会いしたお顔は手に余る課題と格闘格闘の連続のためか、こころなしかお疲れのようだが、「「負げねど飯舘!!かわら版」を手に思いの丈を語りだしてくれた。

■佐藤さんへのQ&Aから■

Q 今一番の課題はなんですか? 

佐藤 「2年後に村民は帰る」、村当局はそのための除染計画で頭がいっぱいのようで、拡散した村民のコミニティのためにはあまり機能していないのです。周辺の村と比べると計画的避難が遅かったので、避難住宅の確保先が県内バラバラになってしまいました。飯舘村の人がまとまって避難している所は少ないのです。若い家族は多くは県外に避難しました。放射能が村にもたらしたものの一つは「家族や地域の共同体の苦界」「見えない津波」なんです。
 私としては村民相互のコミニティそれは村民であった証・絆ですから、心のよりどころとして守っていくことだと思っています。
 10月1日に「負げねど飯舘!!」でこのかわら版を発行しました。「負げねど飯舘!!」で拡散した村民の電話帳づくりもスタートさせました。

Q 村から約1時間といっても多くの人が家族ばらばらになっていると聞いていますが?

佐藤 そうです1時間圏は壮年年寄り世代が多いのです、その中にも県外に自主避難したいと思っている人もいますが、今の所は自主避難の補償はラチが空きませんので、生計上留まっている人も多いのです。私たちの活動は「村に帰る」を最大公約数にしていますが、若い人は2年間も待てない、帰れないなら帰れないとハッキリ言ってくれというものまた多いのです。

Q 帰る前提が除染となってますが村は動き出したのでしょうか?

佐藤 一部で宅地の試験的除染をしたと聞いていますが、具体的動きはまだですが「宅地2年、農地5年、山林20年」の計画が村から出されました。除染の総予算は約6,000人の村民で約3,200億円です。国は第2次補正の予備費として2,200億円用意しましたが、その全てを飯舘村のためだけに投入してもまだ足りないのです。
実際に動き出したのは防災と除染を兼ねた集落毎(行政区)の雑草の刈り取りです、これとて村民の自主作業で進められました。
 私も南相馬でやっている除染業者から聞いたのは「相対的線量低下効果」です。飯舘村は75%が山林です、セシウム134の半減期は2年ですから自然消滅で線量はそれだけ下がりますが、山林や農地や宅地のホットスポットから線量は循環して来ます。宅地の除染は相対的なものと思っている村民はたくさんいます。

(No232-2に続く)











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(ブログの字数制限の関係で2つに分けてあります。No232-1から見てください。)

Q 二本松を車で走りながら近くの山肌遠くの吾妻阿武隈山系の山稜を見ると、山の除染は果てしなき戦いだなと思います。そうすると長期的に村の拡散したコミニティをどう守るか、県内外に避難している人たちの生活にどう寄り添うかがとっても大切なような気がします。

佐藤 村人自身の声を伝えあって行きたいのです。拡散した人たちの連絡先は「個人情報」ということで村からは教えてもらえないのです、「負げねど飯舘!!」でたぐり寄せるしかないのです。

Q 約1,700戸ですね、一口にコミニティといっても大変ですねお金も時間もかかります。しかしたぐり寄せたコミニティは、これから村に帰る人帰らない人に分かれても3.11以降の飯舘村のこれからを考える財産になると思うんです。

佐藤 この「「負げねど飯舘!!かわら版」はA3両面だからまだ郵送しやすいのですが、この「健康生活手帳」(写真)をどう全戸に配布するか頭を悩ませています。一戸に2冊3冊4冊と同時に送るとクロネコメール80円を超えてしまいます。義捐金とカンパに頼っているのが現状です。
 このコミニティメッセンジャーに福島を飯舘を考える人がボランティアで関わってくれるとうれしいんです。

Q 持続可能なコミニティ支援ですね。80ページですか「健康生活手帳」について説明していただけませんか。

佐藤 この9月に「負げねど飯舘!!」で自主発刊しました。12月末には全戸に配布したいと思っていますが頭を悩ませています。村の「健康手帳」は19歳まで、19歳以上でも絶対に必要です。影響の程度は違っても被爆した事実、それをこれから何十年と引きずっていかなければならない生活に変わりはありません。
 この手帳は村民相互のコミニケーションツール、被爆保障問題に対する記録として作りました。絶対に証拠になる村民約6,000人の記録を残しておくことが必要です。
最初は被爆者手帳にしようと思いましたが、「国からの被爆認定」のむずかしさ、「この手帳を持つ人が被爆者として差別」されることへの懸念から「健康生活手帳(行動記録)」にしました。
弁護士さん、先ほどの広島・長崎で被爆された方、水俣病の患者さんのアドバイスを受けています。監修はチェルノブイリの子どもたちの支援を長年続けている、飯舘村民で勉強会もやりましたが、医師の振津かつみ先生(兵庫医科大学非常勤講師)、早くも3月中旬に飯舘村に来て線量調査を実施した木村真三先生(事故後勤務先の労働安全衛生総合研究所に辞表、独協医科大学准教授。11月1日より同大二本松国際免疫学研究所分室に赴任)からも専門的なアドバイスを受けています。

Q 良心の知恵が詰まっているのですね。3.11以降の飯舘や福島の動きが細かく出ているので参考になります。
ところで、村は作物の作付け制限すなわち禁止地区になっていますが、除染作物ですなわち農業を通した除染で自然エネルギーと共生するという村の方向は出ていますか?

佐藤 いや村としても村民も「これからの見通しが立てられない段階にある」と思います。まだ難しい課題なのではないでしょうか。

Q 最後に、いただいたチラシ「11.11ふくしま会議」について説明をお願いします。

佐藤 赤坂憲男先生、玄侑宗久さん、清水修二福島大学副学長などが共同代表です、私が事務局長をおおせつかいました。被災後の福島の人は「身近なこと目先のことしか頭にありませんでした。ここにきてようやく草の根で動いていた人たちが横に繋がることができるようになりました。福島人自身の目線で地域のこと福島全体のことが見通せる地点にたどりついたのです。12日には若もの会議を分科会として設定しました。ここから福島の若ものが震災後の経験を踏まえて第1歩を踏み出すきっけになるようにしたいと思っています。
 実は集まる団体はみんな自己資金は乏しいのです、「ふくしま会議」への多くの人の連帯をお願いしたいのです。いうまでもなく私たちの戦いは目先すらの展望が立たない中での長期戦です。福島県内外の心ある人たちとの息の長いくじけない運動が必要なんだと思っています。

 佐藤さんたちの戦いは確実に果てしなく遠い。17~18歳ころに見た「若者たち」というTVドラマの主題歌を思い出してしまった。「君の行く道は 果てしなく遠い だのになぜ 若者は行く」だったか、「だのになぜ」。
 佐藤健太さんからはいろいろなお話をお聞きしたが「コミニティ」に絞った報告とした。
以上

【お知らせ】
伊達判決53周年シンポジューム「日米地位協定を問う」
2012年3月31日(土)13時~17時
明治大学リバティータワー1階(1011教室)
基調講演 松元 剛氏(琉球新報政治部長)
     新原昭治氏(国際問題研究家)
参加費:500円
主 催:現代史研究会
    伊達判決を生かす会  http://datehanketsu.com

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2012年3月11日。東日本大震災と福島原発事故から1年目の日、福島へ旅に出た。
第1の目的は郡山市で行われる「原発いらない!3.11福島県民大集会」への参加であるが、もう一つの目的は福島市に住んでいる大学時代の仲間との再会である。
3月も半ばになろうというのに、あの日と同じように寒い。
東京駅から新幹線に乗ると、車内に乗客は少ない。喪服の女性の3人連れが私の斜め前の席に座った。震災で犠牲になった方の関係者だろうか。
車窓を行き過ぎる景色を見ながら、昨年のあの日を思い出した。
丁度、新宿にあるビルの8階で仕事をしていたが、地震の揺れが尋常ではないことに気付いた。周りの同僚も椅子から立ち上がり、机やロッカーに手をついている。窓の外を見ると、隣のビルがしなるように大きく揺れているのがはっきり分かる。窓ガラスや天井がギシギシという音を立て、地震の揺れが治まった後も建物は左右にゆっくりと揺れている。
余震も断続的にあり、その度に建物の揺れと地震の揺れの相乗効果で歩くのも不安な感じであった。
この時はまだ地震のことで頭が一杯で、津波や原発事故のことなどは考えられなかった。
その後、テレビに津波の映像が流れ多くの方々が犠牲となったことを知った。そして、福島第一原発の爆発。もう日本は3月11日の前には戻れない、と思った。
この時の何とも言えぬ無常感は忘れることはないだろう。

新幹線は宇都宮を過ぎ郡山へ。途中、トンネル抜けると雪景色が広がっていた。青空を背景に遠くの山並みも真っ白な雪を被っている(写真上)。郡山を通過すると福島はすぐだ。
福島駅に降りるのは初めてである。待ち合わせ場所は新幹線の改札口なのだが、それらしき人はいない。改札を抜けて売店の方に行って、また改札口に戻ってくると、「○○さんですか」と声をかけられた。
先ほど改札口付近で見かけた人であるが、U氏だったのだ。
大学を出て以来、会っていないので40年ぶり。当時より痩せている所為か全く分からなかった。でも声は変わらない。
駅前のビルの上に福島市内を見渡せる展望室があるということで、案内してもらった。薄曇りの天気の下で福島市内はひっそりとしているようだった(写真2段目)。
U氏の自宅にお邪魔して昨年の震災の時の話など伺った。
「電気は通じていたが、水道が止まった。1週間くらい給水車に並んで水をもらった。トイレの水として川の水も汲んだ。放射能のことは全く知らされず、後になって給水車で並んだ時の放射線量が24マイクロシーベルトだったことを知った。
昨年はマスクをしていたが、今はもうマスクもしなくなった。放射能への馴れだろうか。外から来ると福島市の人たちはどんな生活をしているのかと思うだろうが、普通の生活をしているように見えると思う。
家庭菜園をやっているが、除染なんてできない。そこで収穫したものは自ら食べる、他の人に食べさせることはしない。周りの人も皆そうだ。
市内では子供が減って、幼稚園や保育園が無くなっている。私の子供も東京に居るが、福島には戻らないと言っている。
福島の出身ということで、婚約を破棄された女性がいるという話だ。生まれる子供に放射能の影響が出るということだろう。
福島は悪い意味で有名になってしまった。」
放射能をめぐる差別や、放射能とともに生きることを選ばざるを得ない心情を語ってくれた。

U氏とは一緒に郡山市での集会に参加することになっており、新幹線で郡山市に向かった。開成山球場は駅から歩いて30分ほどのところにある。
駅から真っ直ぐの道を歩いていくと、途中に放射能の線量計があり、0.45マイクロシーベルトの値を示している(写真右下)。
球場に入ると内野席はほぼ満席状態。外野席も開放したが、「外野席は除染していないので小さいお子さんは入れないように」とのアナウンスがあった。
集会では加藤登紀子さんの歌や大江健三郎さんの挨拶などがあり、午後2時46分、全員が起立し、震災犠牲者の方々に黙とうをささげた。
黙とうをしていると、遠くから鐘の音が聞こえてきた。悲しげなサイレンの音も。
震災から1年、こうやって福島の地で震災犠牲者の方々を悼むことが出来てよかった。

集会の最後の挨拶から
「立ち止まって考えましょう。地震は止められないけど原発は人の意志で、行動で止められるはずです。私たちはただ静かに故郷で過ごしたかっただけです。あの事故以来、何もないのです。長い間慈しんできた地域の歴史も文化も、我々を守っていた優しい自然も。
少し不便でもいい。少しくらいの豊かさでいい。どこに根を張って生きるかなんて、まだ考えられません。放射能を気にせず生きることのできる、自然を大事にした社会こそが望まれます。
全国の皆さん、脱原発・反原発に関心を持ち、心を寄せてください。確かな一歩を皆で踏み出すために力を寄せてください。そしてもう少しの間、寄り添ってください。傷はあまりにも深いのです。」

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(ブログの字数制限を越えるため、No230-1とNo230-2の2つに分けてあります。)

No224で、昨年11月に開催された「11.11ふくしま会議」の様子を報告したが、会議に出席した明大土曜会のメンバーであるH氏は、この会議の前に福島県内の各地を訪ねていた。
放射能汚染で避難を余儀なくされた福島県飯舘村の住民を支援する手がかりを得ようと、避難している飯舘村関係者を訪問していたのである。
「ふくしま会議」の報告と併せて、訪問時の報告が送られてきたので、紹介する。
訪問記第1回目は飯舘村の酪農家 長谷川健一さん。
(写真は【愛する飯 舘 村を還せプロジェクト「負げねど飯舘!!」フォトギャラリー】からの転載です。)

『■酪農からの別れ■
福島県伊達市にある応急仮設住宅に長谷川さん(59歳)を訪問した。長谷川さんは乳牛約60頭を飼育する酪農家であったが、原発事故での計画的避難指示で乳牛全てを売り払って伊達市に避難した。
長谷川さんは村に10ある行政区の一つ前田地区の行政区長さんを務める地域のリーダーでもあり、飯舘村認定農業者連絡協議会会長も務める村のオピニオンリーダーでもある。

 飯舘村は阿武隈山系北部標高200~600mの高原に開かれた村故に、太平洋側から「やませ」が吹き込み、冬は北海道並みに「冷える」。またこのやませは福島第一原発事故による強い放射能汚染をもたらす原因にもなった。
 歴史的にみると、飯舘村では大型打製石斧の出土はあるが弥生式遺跡は出ていない。耕種農業は苦闘の連続だったようであるが、今から約半世紀前に畜産が「耕さない農業」として取組まれるようになった。

 現在4期目の菅野村長(64歳)も酪農家出身だ。父が始めた乳牛飼いを手伝うために帯広畜産大学を出てから村に帰り、30年間で約60頭まで規模を拡大したが、全ての牛を売り払い「酪農家生活」に別れを告げて平成8年に村長選挙に出馬した。
 訪問時間の関係で村の発展を担ったであろう村長や長谷川さんたちの「飯舘村酪農同志会」「夢想塾」の青年時代のことは聞けなかった。菅野村長の選挙は「だいぶ手伝ったよと」と長谷川さんはぽつりと語り、「吾妻山系に今朝初雪が降った。吾妻が初雪降れば飯舘は初霜だ」と飯舘村の方に少し首を振り向いた。

なお、村おこし「夢想塾」の活動は代々引き継がれ、これが「子どもと女性に寄り添う村」「スローライフの村=までいの力」推進の母体となり、3.11以降は村の若者たちが中心の「「負げねど飯舘!!」プロジェクト結成に結びつくのである。

■応急仮設住宅■
 
 避難住宅は吾妻山系が手に取るように見える山麓に開かれたりんご園地帯の中に、ログハウス風のいかにも新造という感じの二軒長屋が何棟も建っていて、真ん中に小さい集会場があり、寄贈○○と書いた軽四輪車が止まっていた。
 冬には寒かろうなと思いつつ「こんにちは」と玄関の戸を開けた。簡易の流し台と食卓応接を兼ねた板の間、奥は6畳二間の間取りである。これでは二人生活で息子や孫の同居は大変だ。

■長谷川さんへのQ&Aから■

長谷川: この仮設住宅は126戸で入居しているのは82戸、飯舘の前田地区は54戸だがここに21戸が入っている。娘は嫁に行っているので前から飯舘を離れていたが、長男は山形の長井市で牧場のアルバイトをしているし次男はこの近くに仕事を見つけてアパートに暮らしている。
 多くは俺の所のように家族離散ばらばらに暮らしているのさ。
 この仮設住宅はプレハブに在来工法の木を組合わせているので、仮設住宅としては良い方だと思っているが入居期間は2年間となっている。

Q: 長谷川さんの所にはジャーナリストも見えているので情報は多く持っていると思いますが、他の人はどうでしょうか?

長谷川: 県外県内に分散していることもあるが村からの情報は少ない。ほとんどの人はテレビ・新聞・口コミで情報を得ている状態だ。集落のコミニティや集落共同体としての営みという質問には、「これからは大変むずかしい」「そもそも人が集まる連絡からしてむずかしい」のだ。

Q: 村にときどきお帰りになっていると思いますが、帰るとどんな活動をしていますか?

長谷川: 誰だって帰りたいと思っているさ、生活道具全てを置いて来たのだからいつ帰っても村での生活は出来る。だがこれから先は「2年で帰ると村はいっている」がその見通しは全く立っていない。
 俺の息子には「もう村に帰るな」といっているし、俺たち世代も帰る人、帰らない人に分かれるだろう。福島市で有識者も交えた「10.4負げねど飯舘のシンポ」があった、その後に村民が50人くらいで話し合った。そこで 自主的に取ったアンケートがあり、一番は「村に帰りたい」と思っていたが「息子や孫と暮らしたい」が一番だった。息子家族は県外に避難した人が多い。』

(No230-2に続く)

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(ブログの字数制限の関係で2つに分けてあります。No230-1から見てください。)

『「見まわり隊」は「村の臨時職員」として約400人雇われた。集落でチームを作りローティションでやっているが、一回の出動は休み時間もあるが8時間だ。村民の雇用だと国から補助金を引っ張って来たが、これとて来年の3月で切れる。
いいですか、村の安全と村民の雇用の「見まわり隊」だが、もう一つの側面は私たちが再被爆に晒されているということだ。政治家や村の上層部は被爆という最大のリスクを頭に入れて物事を進めているいるのか? 幾つもの疑問符が避難生活後に生まれていて、これは心ある村人が思っていることなのです。
 地区ごとに除草を始めた。これは防災と除染のためでそれは良いのですが、地区により作業中の放射能への対応がまちまちだ。うちの地区は埃を吸い込む手刈りはしないで、マスクをしながら線量計で測りつつ(6.5マイクロシーベルト/時、除草後5マイクロ)密閉式のトラクター(室内2マイクロ)でやったが、他の地区ではマスク無しで手刈りの所もある。
 行政指導と村民への情報がまだ行きわたっていないのです。村の被爆調査は村民の1/10、600人が終わっただけだ。

Q: 先日村の除染計画が新聞に出ましたが。それによれば区長が除染リーダーになり、集落の人には除染教育をして行うと出ていました。またあれから約半年たちましたが汚染の状況はどうでしょうか?

長谷川: 除染の声は聞いているがまだ我々の所には来ていない。これ(「広報いいたて」8月30日発行/20地区で行った村独自の放射線量調査)を見て欲しい。
俺の地区は19の前田字福田地内宅地だ。(以下、マイクロシーベルト/時)

前田宅地(地上) 1m  1cm    10/30に訪問する飯舘ふぁーむの小宮地区
8月11日   5.27   9.30     7.70   8.50  
8月18日   5.10   9.23     7.85   8.00

世間に発表された数値の倍はあるというのが実感だし、11日より増えた地区も幾つかある。セシウムは「土着と浮遊」を繰り返しているのではないか。

 村の除染計画は宅地2年、農地5年、山林20年でとりあえず国から6億円引っぱって来たが(10.28飯舘ふぁーむ伊藤さんのブログによれば、24日に避難民と村役場の懇親会があり3200億円の予算を国に要求した)、根拠がない数値だと思う。仮に除染で宅地が半分の数値になっても、これでは住めない数値だ。
 宅地と水田は平だからやり易いが畑と山林は勾配があり除染は難しいし、山林は除染出来ずに「気の遠くなる自然消滅」を待つ、すなわち放置されるのではと思っている。まだ誰も山林の線量を測っていないので、線量計を持って山に入ってみようと思う。
 チェルノブイリでは山林といっても日本と地形が違う、向うはかなり平らな森林地帯。だがチェルノブイリでは山林の除染は放棄された。飯舘村は230平方キロメートルでその75%が山林なのです。宅地や田んぼは除染されて低くなったが、山林の風や水でまた高くなるのではと危惧している。
 除染は村の雇用というが、我々村民は被爆者なのです、被爆した者をまた再被爆させるのかといいたい。我々が汚したのではない、汚した人がきれいにしていくべきだ。

Q: 聞きにくいところもあるのですが長谷川さんのご生計は?

長谷川: 東電から1世帯100万円、1人30万円出ただけだ。見まわり隊が月10万円、頂いた義援金を食いつぶしている。
 このままでは飯舘村は世間から忘れられてしまう、そうならたいめにも3.11後ビデオカメラを買って村の記録を残すことに勤めている。ボランティアでやっているが、声がかかれば3.11以降の村の現状を説明するために出向いている。

Q: 原発被災地の風評被害や都会の若い人のデモについてどう思いますか?

長谷川: デモはやった方が良いし共感もしている。世界的に有名になった飯舘の農産物を買う人はいないだろう。我々は生産者なのです、生産者として安全安心な物を届けるプライドがあるのです。そのプライドを守って行ける村の現状ではない。

Q: 最後に一言お願いします。

長谷川: がんばろうと思うが半年、1年、2年先がまったく見通せない。
人生の計画が立てられない、そこに苦悩焦燥がある。
 分村計画も有識者からささやかれているが、村の伝統共同体意識を守るのは難しい。俺達世代でも帰る人、帰らず避難先の家族と暮らす人、俺達世代が亡くなったら村は廃村という実感もある。
 見通せない先を少しでも具体的に見通せるようにする戦いはこれからだと思っている。』

(終)

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