野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2012年04月

イメージ 1
(ブログの字数制限を越えるため、No236-1とNo236-2の2つに分けてあります。)

今年の初めから日大闘争シリーズを何回か続けたが、今回はその続編。先日の「映画祭1968」でのトークセッションの中から、最終日に登場した「ラッパの大将」こと、日大全共闘芸術学部闘争委員会行動隊長、山崎氏のトークをノーカットで掲載する。
(当時の写真は、写真集「日大全共闘」より転載)

司会『お待たせいたしました。ただいまより山崎晴久様による「死者よ来りて我が退路を断て」のトークイベントを行います。今回のトークイベントの進行を務めさせていただきます、日本大学芸術学部映画学科3年の○○と申します。どうぞよろしくお願いいたします。
このたびトークをしていただきますのは、日大全共闘芸術学部闘争委員会行動隊長でありました山崎晴久様です。それでは山崎さん、檀上までお願いいたします。皆さん盛大な拍手でお迎えください。』

(檀上に上がって第一声)
山崎『まだ現役の行動隊長ですから!』(笑)
(マイクを差し出されると)
山崎『マイクいりません!』

司会『失礼いたしました。それでは早速質問の方に移らせていただきます。日大闘争時は何をされていたのでしょうか。当時は写真学科・・』

山崎『はい、2年生までは学生服を着て、日大生ですからね、通ってました。闘争が始まった時は6.11にたまたま行ったんですが、その後は闘う記録隊として報道写真を撮ってました。真面目でした。
あとバリケードの中に私はほとんど泊まっていましたから出席率は最高です(笑)。何で卒業できなかったのか不思議です(笑。)』

司会『山崎さんの「ラッパの大将」というお名前で皆さんご存知になられている方が多いと思いますが、名前の由来というのは。』

山崎『たぶん後輩だと思うんですが、ある日、私のところに豆腐屋のラッパを持ってきまして、これを首に付けろと言うから、「はい」って言って、私は後輩に任命された行動隊長です。安田講堂の学生たちとはちょっと格が違うんですが、腕っぷしは私の方が強いです。』

司会『9月30日の大衆団交の際に、紙吹雪をご覧になっていないとお伺いしたんですけど、その辺のお話をお聞かせいただけますか。』

山崎『あの時、中で体育会系の学生集会をやっていると、やばいから突っ込めと、芸術学部は結構バカばっかりなんです。あなた後輩ですよね(笑)。「行け」と言ったら行っちゃうんですよ。体育会系をどけて真ん中に陣取ったんです。そうしたら途中で緊急放送で芸術学部が襲われています、ということでまた江古田に帰ったんです。だから歴史的瞬間を見ていないから、私は日大闘争が勝ったという実感はないです。』

司会『今でも車のナンバーは930』

山崎『それはそうです(笑)。11・8の方が関東軍に勝ったからいいかなと思ったりしますが、930です!』

司会『改めて本日作品をご覧になられまして、何かご感想というか当時の思い出などお話いただけますでしょうか。』

山崎『実はスクリーンで見るのは初めてなんですよ。勝手に写されまして、私の肖像権はどこにいったんだろう。まあ、ご覧のとおり単ゲバで右翼です。ということで、左翼からかなり攻撃受けるんですけどね、左翼は頭がいいです、右翼は力があるんです。私はどちらかというと両翼ですから空を飛べるんです(笑)。左翼だけではだめです、右翼だけではだめです。日大全共闘というのは、そういういろいろなのが集まった多様性の中で初めて成り立つ。前の連赤でああいうふうになっちゃったのは多様性を認めない一神教だったからだめなんです。私みたいに多神教で大和魂と武士道にのっとってやればいいと思う。
日本大学は古田はその道を外したんです。佐藤栄作も外したんです。だから私は天誅を下したんです。』

司会『ありがとうございます。もう少しお話をお聞きしたいところなんですが、ここから質疑応答の時間に入らせていただきます。どなたか山崎さんに質問のある方いらしゃいますでしょうか。』

会場から『私、JUNと言いまして山崎君と同学年でした。遠くから駆け付けてくれてラッパさんありがとうございます。(山崎さんが立ち上がってファイティング・ポーズをとる)今はやりのやらせ質問っぽいんですけども、一つお答えいただきたい。ラッパさん、あなたは最近、某掲示板にこういう書き込みをされています。
ちょっと読みます。「教えてくれよ君たちが目指したものは、ってことは後輩たちは我々全共闘に総括せよと突きつけてきたのかな。思い起こすと我々は当時大衆団交でつるし上げを食らわした理事者たちの年齢になっている。
そして、主催した学生たちはチラシによれば「総括せよ」と突きつけているらしい。」というような意味のことを書き込みされています。

(N0236-2に続く)

イメージ 1
(No236-1の続きです。)

そこで質問です。
仮の話なんですけども、現役の学生たちが貴方方に、私も入りますけど、大衆団交を要求してきたら貴方は受けて立つ用意があるんでしょうか。』

山崎『あります。』

JUN『てめー、このやろー、あんたたちが今の日本をこんなにしたんじゃないかよ。えー年金かっさらってさ、どうすんだよ。うちら若いもんがあんたたちの年金をこれからずっと稼いでいくのかよ。どうすんだよ、総括しろよほら、てなことをもしかしたら言われるかもしれない訳ですけども。』

山崎『いいですね。』

JUN『覚悟はありますね。』

山崎『あります。』

JUN『はい。』

山崎『私は関東軍、機動隊を敵に回して逃げたことないですから。それだけは自慢の単ゲバですから。三島由紀夫が乗り込んだように、私は日大生の前に乗り込みますよ。ただし、学校と学生が私に対してケンカ売れるかどうかですよね。JUNさん、あんたも一緒に行くんだよ。』

JUN『はい(笑)。そういう風にラッパさん、喜んで受けるということをおっしゃっています。で、学生の方に一つ提案があります。映画学科のこのイベントを主催された学生の皆さん。是非、ラッパさんもああおっしゃっていますので、我々の世代に大衆団交要求書を突きつけていただきたい、ということをお願いしたいと思います。検討してみてください。
で、やらせ質問の最後になりますけど、この映画祭1968を企画してくださった映画学科理論評論コース3年生の皆さんに心から感謝します。
こういう映画祭をやるが、映画日大闘争のフィルムを是非上映したい、フィルムを探してもらえないだろうか、というメールが飛び込んできました。私はほんの少しだけお手伝いをさせていただきましたけども、本当にうれしかったです。まだこの後2コマ、「日大闘争・続日大闘争」そして「圧殺の森」が残っていますけども、この映画祭が本当に大成功に、まあ今日が最終日なんですけど、ご苦労様でした。ありがとうございました。
また、この映画祭の実施を提案して学生たちの自主性を活かした形で指導して下さった○○先生、本当にありがとうございました。感謝しています。
私は日大を放り出されて40数年間、日大の教員は絶対に信用しない、お友達にもなりたくない、とずっと思ってきました。だけど今回のことで少しだけお友達になってもいいかな、と思い始めたところであります。
ありがとうございました。お騒がせしました。』(拍手)

司会『もう少しお聞きしたいところなんですけれども、最後に私たち学生に向けて一言お願いいたします。』

山崎『いつかはみんな死ぬんで、そのつもりで生きてくださいね。私はあと60歳生きますから、120歳まで生きると思います。ただ、いつ死んでもいいように覚悟をしてくださいよ、あなた方みんな(会場を指さす)。
最後にアジテーションやりたいんですが、ショートカットで。
本日、ここに結集された全ての闘う同志諸君に熱い連帯の挨拶を送りたいと思います。(異議なし)
よーし、我々は闘うぞ!(我々は闘うぞ!)闘うぞ!(闘うぞ!)最後の最後まで闘うぞ!(最後の最後まで闘うぞ!)』(拍手)

司会『これにて「死者よ来りて我が退路を断て」のトークイベントを終了させていただきます。山崎様本当にありがとうございました。』(拍手)

No225『行ってきました!「映画祭1968」+日大全共闘芸闘委委員長のトーク』に寄せられた「ラッパの大将」さんのコメントです。
『最終日緊急参戦してきました。日大全共斗の萌芽期を見るようでエネルギーをいただきました。楽しかったね。後輩たちに感謝。後60年は生きて行けそう。
最後のクレーマーの飛び入りも面白かった。闘う教授も頼もしかった。島隊長・鹿砦社も参加。その後も盛り上がりました。
トークの後、活動者会議。参加者は東大の隊長と記念写真。紙の爆弾の社長も感激していました。日大闘争は立ち見が出ました。
次の予定は大坂か神戸か?それとも芸術学部の中か?
トークショーは最初20分の予定でしたが、次の上映入れ替えの時間があり15分に。
これくらいならアジテーションに丁度良いかな?と思っていたが愛妻からも930からも「ダメ!」
シナリオを考えていたらJUNさんのやらせ質問!臨機応変の柔軟さで乗り切りました。
単なるアドリブですが (^^♪ 
全共闘→勝手連→住民運動→反公害→脱原発は一つの延長線に位置します。
私は神を殺した「共産主義」や1神教は肌が合いません。1神教も今では「神」ではなく「金(かね)」に腐敗堕落していますが・・・。多様性=八百万の神々の復活→全共斗。生きているということは闘う事です。
日大生10万の内自称全共斗3万。逮捕者は判っているだけで1,600を超える。
特に芸斗委では11・8の関東軍との暁の死闘。続いて11.12の機動隊導入で壊滅状態になったが、同志が隊列に復帰するまで「単ゲバ」現役宣言です。』

(終)

イメージ 1
(ブログの字数制限を越えるため、No235-1とNo235-2の2つに分けてあります。)

2月19日に東京・杉並区の「蚕糸の森公園」で2・19「脱原発杉並デモ」が行われた。今回はその様子を報告する。杉並区のローカルな公園での集会・デモであるが、日大のJUNさんから招請メールがあり、参加することにした。日大関係者がこの集会の準備会に関わっているとのこと。
<招請メール>
「いろんな考えを持つ人たちが脱原発の一点で共同行動を育てようとしています。
準備会議には120余名が集まりプラス視聴者多分3ケタ、司会者からここに集まった人は皆準備委員です!の発言があり、会場からは、またTwitterを経由して創意工夫に満ちた提案が寄せられ討議され決定されていきます。
そのいくつかをご紹 介。
―橘世韻弔泙蟶F釮ら、デモコース近隣へのビラ入れ5000枚
昨年4月10日高円寺デモの経験を踏まえ、解散地・阿佐谷周辺の居酒屋さんにもアピール(ビジネスチャンスですよ!と)
▲瀬鵐紅鼻∧欅蕷爛好織ぅ襪里散歩リヤカー製作+実行班、カラオケ班(想像出来ない!)などなど。
7抻,箸量詰僂淵肇薀屮詼瓢澆離妊眄依?100人(だったかな)には、あらかじめ調査・作成したトイレ・マップを持ってもらう(デモ参加者から必ず聞かれるそうです)。
ず鯑鋐付けたのですが「レデー・ガガへの手紙」という動画がYouTubeにアップされています。こういう発想、ジジィは嬉しくなります。
なんだか面白そうですよ!準備会議の中で「日大全共闘が大挙してやってくる」とのウワサ(誰が撒いたんじゃ!)も出ているらしい。
よって皆さまに参加をお願いする次第です。この辺に集まって欲しいという準備会議メンバーからの地図添付、もちろん例の「のぼり旗」立てています。」

「脱原発杉並」のサイトを見ると、この集会の発起人には雨宮処凛(作家・活動家)、岩井俊二(映画監督)、菅伸子(前首相夫人)、小林亜星(作曲家)、菅原文太(俳優)、辻井喬(セゾン文化財団理事長)、中川五郎(フォークシンガー)など名前の知れた方々もいるが、八百屋、会社員、自営業、働くおかあさん、パート業員、講談師、中学1年生、アルバイト、日大全共闘・・などなどいろんな人がいる。脱原発の一点で共同行動を育てようということで、労組の動員のない集会・デモである。
サイトのコメント欄にはこんな書き込みが
<コメント1>
うちは高円寺です。うちのおばあちゃんは、デモの人達が来るのをすごく楽しみにしています。
デモのお祭りみたいな賑やかさが好きで、一緒に踊りたくなると言ってます。
おばあちゃんは一人で歩くのが大変なので、私が外に連れて行ってあげると言ったらすごく喜んでいます。がんばってください。
<コメント2>
上記呼びかけ文中の「なんでもあり」は掲げられる主張的にもマナー的にも如何なものでしょう。
「なんでもあり」なデモには賛同できません。

会場の「蚕糸の森公園」は、国の蚕糸試験場の跡地に作られた公園である。公園内には当時の建物が保存されており、何となくレトロな雰囲気(写真左下)。レトロな門柱を抜けて公園に入ると広場があり、そこが集会会場である。
日大の幟旗の下には日大のメンバーが集まって来る。今日は明大関係者は来ないかな、と思っていたら杉並区在住のY・R氏が明大土曜会の旗を持って参上。明大の旗の傍にはゲバラの旗が?
ゲバラの旗を持っていたのは12月の経産省包囲キャンドルデモの時に会った全共闘ジュニアの女性だった。ゲバラの旗、いいですね(写真右下)。
そこへMLのヘルメットを被った謎の3人組が登場。日大経闘委の旗を持って記念撮影(写真右上)。この3人組のうちの1人は明大OBとのこと。いろんな人がいっしょくたの集会です。

集会の開始にあたって、主催者から「脱原発杉並呼び掛け文」が読みあげられた。
『原子力にたよらない世界をめざして、杉並を中心とした市民が立ちあがりました。 原子力発電所はもういらない! わたしたちは、その一点において、広くゆるくつながった「有象無象」です。世代も、仕事も、会社も、国籍も、組織も関係なし。ひとりひとりが自分の声をもつ、みんなちがって当たりまえの個人です。
自分たちの使う電気がどこから来るかに無関心すぎた、訴えてきたけれど力が足りなかった、あるいは、知っていたのに見て見ぬふりをしてきたことを悔やむ??ひとりひとりにそれぞれの理由があり、そこから「脱原発」を求めます。
わたしたちの子ども、孫、そのまた孫の未来を脅かしてはならない。放射能に家を追われた人、残ることを選んだ人、福島の原発事故現場で被曝しながら作業をつづける人たちを忘れてはならない。放射能で大地を汚すな。痛みを分かち合い、開かれた議論の場をつくろう! と、訴えたいことはたくさんありますが、全部ここでは言い切れない。

(No235-2に続く)

イメージ 1
(No235-1の続きです。)

けれども、これだけは言いたい。
すべての原発のすみやかな停止を! 再稼働をぜったいに許さない!
原水爆禁止署名運動発祥の地、杉並区からわたしたちは新たに声をあげます。
若い衆も大先輩も、商店主もサラリーマンも母ちゃんも父ちゃんも、素人の乱やTwitterデモや西荻ゆるデモの参加者も、いろんな政党もいっしょくた。
われら杉並の「有象無象」、原発のない社会をめざし、しぶとく、しつこく、むやみやたらと手を結んで、訴えつづけていきます!』

集会での発言、まずは杉並区での集会なのに世田谷区長の保坂さんが出てきて発言を行った。
世田谷区長 保坂展人氏
『杉並の皆さん今日は。東京の皆さん今日は。関東の皆さん、全国の皆さん今日は。
3月11日からもうすぐ1年が来ます。あの日、皆さんどうしていたでしょうか。私は夕方から様子がおかしくなってきたな、原発の深刻な事故がですね、進行していると、本当に震えが止まらない思いでいました。
だからこそ、この国はこの社会はもう変わらなければいけない、変わることでしか生き延びることはできないと思います。今、全国津々浦々から、原発をめぐって、そしてエネルギーのあり方をめぐって声が上がっています。
おそらくアンケートを取れば、大変多くの方がもう変えようよ、もう転換しようと思っていると思います。皆さんいかがですか。恐らく、その声がどこかで遮断されて、どこかでフィルターがかかって政権交代したはずのこの国の政府の方針はそうなっていません。皆さんの声をしっかり上げていく、そして私も今日は一人の市民として参加しましたが、是非、大きく盛り上げていきたいと思いますし、できることをしっかりと一歩一歩やりながら、多くの人の声は意思は3月11日、あの経験をもって、この社会は確実に変わるし変えられるし、それを選ぶんだということを伝えていきたいと思います。
ともに頑張りましょう。』

次は何でもアリということで新右翼の一水会の鈴木さん。
一水会顧問 鈴木邦男氏
『鈴木邦男です。ありがとうございます。さきほど司会の人が右から左までと言ってましたけど、右は僕ぐらいかもしれません。でも、来たいと思いながら左翼の人と一緒にやるのはいやだなとか、こんなところで左翼を利するのはいやだなと思ている人が一杯いるんです右翼の人たちは。でも大半は原発反対です。その証拠に右から考える脱原発集会デモというのを今まで10回くらいやっています。先週も大阪へ行ってやってきました。
今までは右翼の人たちも何か原発は危ないと思いながらも、そういうことをやると左翼の人たちを利する、僕は言ったんですけども、利するような左翼はどこに居るんだと、そうでしょう、右も左もないですよ、この日本を守る、この日本を我々が守っていく、そういう意味では右も左もない、イデオロギーも関係ない、ですから、仲よくと言ってます、右も左も仲よく、共産党もいる社民党もいる新社会党もいる右翼もいる、いいじゃないですか、素晴らしいですよ、これは。革命的な日ですね、今日は。歴史に残る日だと思います。今日は保守派の大物の西尾幹二さんも発起人になっています。来れるかどうか分かりませんけども、そういう風にいろんな右翼や保守派の人たちがどんどんと反原発、脱原発に名乗りを上げています。これは非常に力強いし、今まで左翼の運動と思われていたものがいや違う、右も左もない、全国民が反対しているんだ、そういうことで分かってきたと思います。今日は皆さん一緒にがんばりましょう。ありがとうございました。』

その後、何人かの発言があったが、その中から小学6年生 山本さんの発言。
『原発をやめよう。この目標を立てているけど何もなっていない。今の私は福島の方々に申し訳ない気持ちで一杯です。私は東京に住んでいて平和な毎日を過ごしていますが、福島の人たちは地震で家族を亡くし、家を無くして、その中には家族や知り合いを亡くした方々がいたり、家族も知り合いも元気なのに放射能のせいで家に住めないのが現実です。
この放射能が日本に関わるのは3回目なのです。しかも今回は日本人が日本人を痛めつけていたのです。自然災害だということもあるかもしれないけど、本当のことを教えてくれません。これはどういうことでしょう。戦争の時と同じではないですか。
これをきっかけに原発をやめてください。皆で平和に暮らせる、これが私の願いです。』

集会後、JR阿佐ヶ谷駅までデモがあり、参加者は主催者発表で4,000人。
いろいろ意見はあるかもしれないが、こんな集会・デモも面白い!

(終)

↑このページのトップヘ