野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2012年05月25日

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(ブログの字数制限を越えるため、No241-1とNo241-3の3つに分けてあります。)

今年は連合赤軍による浅間山荘銃撃戦とメンバーの総括による死から40年となる。連合赤軍をめぐっては、当事者や関係者の本が数多く出版されている。また、最近では若松孝二監督による「実録・連合赤軍あさま山荘への道程」(2008年)の上映や、漫画「レッド」の刊行など、「連合赤軍」の意味を問う作業が続いている。 そこで、今回は当時の資料から、浅間山荘銃撃戦直後に開かれた2つの集会の様子を紹介する。

40年前の1972年2月19日、浅間山荘の銃撃戦は始まった。
この銃撃戦を受け、同年2月24日、東大安田講堂前で日本赤色救援会主催の銃撃戦支持人民集会が開かれた。
明大新聞にこの集会の様子が乗っているので、まずこの記事を見てみよう。
【明治大学新聞 1972.2.24】(引用)
『「連合赤軍断固支持 人民集会開かる 破防法体制化を拒絶せよ」
先日、警察権力は、その全ゆる暴力機能を駆使した捜査により、突如として榛名山、妙義山麗に点在していたと見られる連合赤軍の“アジト”摘発に乗り出した。
そうした権力の襲撃に徹底した反逆を開始した彼らは、19日より軽井沢「あさま山荘」を舞台に1500名を動員した機動隊に包囲されつつ孤軍奮闘している。
一方、それに呼応する人民集会が、24日6時より東大安田講堂前で開かれた。この「連合赤軍支持人民集会」は、日本赤色救援会主催により約80名の結集を獲ち取り、始まった。
まず、日本赤色救援会は基調アピールを行い、「われらが人民の軍隊―連合赤軍は大胆に銃撃戦を展開している。連合赤軍銃撃戦・断固支持!組織破防法の企みを許すな!連合赤軍に全ゆる支援の手を!」と、発言。ついで軽井沢現地で九ん体制を整え、ビラ情宣等の救援活動を行う救援センターからは、現地の状況―そこでの救援活動が述べられる。
大菩薩峠被告団(赤軍)は「今、世界赤軍兵士がまさに具体化するのは、革命的言辞を吐く60年代闘争の観念性の暴露であり、何よりも革命戦争を蜂起させる武器を握った権力との大胆な緊張関係の創出であり、それをリアルに全人民に提示しえたことにある」と戦闘宣言を終えた。
京浜安保共闘のアピールを受け、支援団体(革命救援会・日本反帝戦線等)の発言が続いた。封鎖中の安田トリデを背にした本集会は7時半過ぎ終えていった。
21日、「支持集会」に先立ち情宣を行う人々に、権力は強暴にも妨害、3人を不当逮捕した。この日、2時ごろより原宿―明治外苑間を9人(3人づつ3隊)で歩きながらビラ情宣していた。途中、巡回中のパトカーがこれを見つけ、ひとりをパクろうとした。暴力的にパトカーに引きづり込む官憲を、大衆の見守る中で抗議。不当逮捕に窮地した官憲、抗議した1人を殴る。そのうち誰かが通報したか、大挙した権力が強権的に3人をその場からパクっていった。
一方、23日3時ごろ本学・記念館前に日本赤色救援会の名で立て掛けてあった“立て看”が警察の手で破られるといった弾圧があった。
「連合赤軍・銃撃戦・断固支持」を掲げる意志の表示すら奪おうとする権力の犬に、R戦線・日本反帝戦線が厳重な抗議を申し入れた。(後略)』

銃撃戦は2月28日に終結するが、翌3月になると、山岳アジトでの「総括」による14名の死が明らかになる。この事実を受け、3月31日、日本赤色救援会・HJ裁判闘争支援委・大菩薩破防法裁判支援委の主催により「HJ(ハイジャック)二周年 銃撃戦万歳・故連合赤軍兵士追悼人民集会」が開かれた。
この集会は、本来なら1970年の「よど号」ハイジャック闘争2周年の集会となるところであったが、浅間山荘銃撃戦、そして総括による14名の連赤メンバーの死を受けた追悼集会となった。
「もっぷる通信特別号 3・31人民集会特集」(1972年4月20日発行)(写真)には、この集会の内容が掲載されているので、その内容を一部紹介する。
銃撃戦と連赤メンバーの死という衝撃的な事実を受けて、赤軍派と革命左派、そして両派関係者がどのように受け止めたのかが生々しく語られる。
集会では基調報告(日本赤色救援会)、「連合赤軍公判対策委員会」設置の呼びかけ、特別アピール(共産同赤軍派、日本共産党<革命左派>)、連帯の挨拶(救援連絡センター世話人丸山照雄)、獄中アピール(赤軍兵士上野勝輝他)、各氏アピール(佐野茂樹、重信房子)と続くが、ここでは、要約したものをいくつか掲載する。

(No241-2に続く)

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(No241-1の続きです。)

【もっぷる通信特別号 3・31人民集会特集】(引用)
『基調報告 日本赤色救援会
この銃撃戦は追い詰められたところから発し、「計画された戦術」ではなかったけれども、日本における階級闘争史上かってなかった銃による帝国主義軍隊―機動隊との闘いとしてあり、我々はこの闘いの偉大さを高く評価し、その革命性、英雄性、献身性を無条件に支持する。(中略)
開始された銃撃戦が中途挫折を余儀なくされたこと、「党内闘争―党(軍)の団結の強化」を粛清という形に結果させたこと、兵士たちの死と心ある人々の失望をまねき、敵につけいるすきを与えたこと、そしてこれら総体をして一時的にせよ革命戦争を暗闇の中に引きずり込んだことの責任の一端は我々にあるのだから、我々はこの自己批判抜きには何事も語りえないし、何事も成し得ない。(中略)
この問題をめぐる我々の闘いとは、これを人民内部の矛盾としてとらえ、この矛盾を敵の手に委ねることなく、一切の悪意と偏見を排し、全人民的政治課題として防衛し、「人民の軍隊―人民」の新たな関係をつくりあげ、武装闘争の強固な陣形を創出すべく教訓化、全体化することであると考える。
社会主義革命戦争の一翼を担うものとして「団結―批判―大団結」(ホ・チミン)のマルクス・レーニン主義の立場にたって、労働者、友人、兄弟たちと共に反撃を用意しよう。(後略)』

『特別アピール 共産主義者同盟赤軍派東京都委員会・関西地方委員会
「我々は明日のジョーである」2年前の本日、我が赤軍派の精鋭の同志たち9名は、そう宣言し、全世界の闘う兄弟たちの下に飛躍した。我々は、多くの兄弟、友人の全てを前に、その比類なき勇気と、その限りない希望を示したこのよど号ハイジャックを「不死鳥(フェニックス)作戦」と呼び、革命戦争の赤光が不滅であることを、そして我が赤軍派の赤い血もまた、不滅であることを誇りをもって再確認した。(中略)
連合赤軍兵士の英雄的死闘としての銃撃戦、そしてその敗北に並行し顕在化された苛酷なる党内国内矛盾としての、いわゆる「処刑」、その両者不可分なる現実は、69年安保攻防敗北以降の日本階級闘争の直面した武装闘争のリアリティと、その冷厳たる深淵を、余りにも象徴的に体現するとともに、はがゆい程の未熟さを引きずりつつ、その前線を荷ってきたきた我が赤軍派にとっても、その発足以降歩んだ栄光と悲惨の苦闘の歴史を余りにも凝縮し、体現した。(中略)
今回のいわゆる「処刑」が、作夏、連合赤軍誕生以降、我が赤軍派と、その最愛の盟友である日共(革命左派)の両者を中心に進められた、より高次な団結(いわゆる「新党」結成)に向けたその党内軍内矛盾としてあったことを明らかにしなければならない。
そしてそうした党内軍内矛盾が多くの同志、兄弟、友人を含めた味方総体内部の矛盾として、その相互関係をもつものであったにも拘らず、且つ団結あっての制裁であるにも拘らず、その矛盾に対し余りにも閉鎖的に、余りにも独断的に、余りにも早急に、その処理を計ったことを(中略)いわゆる「処刑」に至らしめたことを、全兄弟、全友人の前に深く自己批判しなければならない。(中略)
我が赤軍派は(中略)いわゆる「処刑」に参加した我が同盟員に対する厳格な処分を行うものである。(中略)
今回の連合赤軍の敗北とその党内軍内矛盾が如何に苛酷であったにせよ、否、そうであるが故に、我々はその試練を通し、更なる意識性と更なる実践をもって、今回中途挫折したより高次な団結に向けた事業を、断乎として継承するだろう。(後略)』

『特別アピール 日本共産党(革命左派)神奈川県常任委員会
(前略)我々には、一部の限られたニュースから判断すればこの問題は、人民内部の矛盾としか思われません。我々は人民内部の矛盾をこのようなかたちで処理することに断固反対します。(中略)
我々は、一部の革命派同志たちが、どうしてこのような誤りを犯したのか、その根本原因をつぎのように分析しています。それは、一部革命派同志たちは建軍武装闘争を政治によって総帥することをせず、政治を重視しないで推し進めてきた結果であると考えます。プロレタリア政治、反米愛国路線によって建軍武装闘争を総帥しなかった結果だと思います。今回のことは、政治抜き「軍事路線」の破産を宣告したものと思います。
私達獄中の同志は、7月15日の統一赤軍結成のニュースを知った時、一部の革命派の同志たちが、政治を重視せず、反米愛国路線を放棄して、統一赤軍を結成したことに断固反対し、脱党宣言まで含めてこれに反対しました。一部革命派の同志たちは形の上では、この反対意見を取り入れて統一赤軍(中央軍と人民革命軍の事実上の合同)を連合赤軍(両者の共闘―正しい)に改めました。

(No241-3に続く。)

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(No241-2の続きです。)

しかし、一部の革命派の同志たちは、依然として反米愛国路線による軍事の統帥の必要を理解せず、政治「抜き」の軍事路線を押し進めたため、獄中の全ての同志がこれを断固批判し、再三再四、脱党宣言を含めて、7月以来、今回の事態に至るまで、この路線に警告を発してきました。(中略)
しかし、彼らは獄中が脱党宣言を出すのを避けるためか(それともマスコミのでたらめか)獄中の者には合同しない、統一赤軍はつくらない、反米愛国路線は守る、人民遊撃路線は守る、毛沢東思想は守ると、手紙で1月に知らせてきたので獄中一同安心していたのでした。(中略)
政治を放棄した時、そこにもうこうした痛ましい火種はあったのです。(中略)
政治路線を重視し、政治的自覚の高い人で軍を構成しないと、軍の機密保持のため不必要な処置をとらなくてはならなくなる。我々は、今回の事態をはっきりと政治抜き「軍事路線」の破産と宣言します。我々は、反米愛国路線、人民遊撃戦争路線、毛沢東思想を放棄して結成された統一赤軍=新党は我々の党派(革命左派)とは別の党派であることを宣言します。(中略)
政治路線が正しいか否かが、全てを決定するのであり、政治によって我々の闘争を全て統帥しなくてはなりません。我々は反米愛国を高くかかげて、人民遊撃戦争路線を高くかかげ、毛沢東思想を高くかかげて、赤軍派の同志の皆さんと固く正しく団結し、共闘し、人民遊撃戦争の大道を前進しようではありませんか。(中略)軽井沢銃撃戦は断乎支持する。(後略)』

『各氏アピール
「赤軍派の同志諸君ならびに連合赤軍の同志諸君そして友人たちへ! 重信房子」
さらば連合赤軍の同志諸君!
赤軍兵士の1人として、夢と勇気を込めて、決別を宣言する。決別とは、真の革命戦争を準備すること。決別とは、不退転の決意で自らを検証すること。
たとえ銃撃戦の開始をもって、人民に武装の質を伝達したとしても、自らの体内に共産主義がないかぎり、それは我々がめざす革命戦争ではない。
敵との直接的な緊張関係を通してでなく、味方内部を規律によって、共産主義化しうるという幻想は、悪しき独裁を助けるだけだ。我々はこんな革命はいらない。
仲間を殺した連合赤軍の同志たち、今だ、同志と呼ぼうとする私の気持ちが判りますか。仲間を殺す権利など、誰も持ちあわせてはいない。あなたたちの革命の私物化を、闘う同志たちは、決して、許しはしないだろう。
たとえあなた達が、数人、数十人の敵を殺したとしても、仲間を殺した罪は、償えないだろう。
殺害に責任ある同志たち、ブルジョア裁判によってではなく、人民の手によって裁かれることを望んで欲しい。
(中略)
パレスチナの闘う同志達は、日本の闘いをインターナショナルといいつつも、実は、ナショナルな情念価値観念にとらわれていることに、悲しみと、驚きを表現しています。(後略)』

『獄中アピール
「共産主義者同盟赤軍派 上野勝輝」
今回の連合赤軍について見た場合、あきらかに反革命兵士の処刑ではない。
赤色救援会声明は「両者は不可分の冷厳たる現実であるにも拘らず云々」として銃撃戦支持、同志殺しウヤムヤの態度を表明している。銃撃戦をブルジョアとプロレタリアという階級闘争のあらわれとして、支持するが、プロレタリアと共産主義の点からは同志殺しというプロレタリアート独裁の展望を否定し去った連合赤軍故に支持しない、これが正しい立場である。
あさま山荘の銃撃戦は、銃撃戦という発展段階、これからますます革命戦争が必要だという発展段階を示したにすぎない。
「党内闘争―処刑」ではない、同志殺しだ。』

この「もっぷる通信特別号 3・31人民集会特集」は、リンクしている「明大全共闘・学館闘争・文連」HPの「時代の証言者たち」コーナーで、連合赤軍を検証する重要な資料の一つとして全文公開している。
そちらも見ていただきたい。

今年(2012年)の5月13日、「連合赤軍事件の全体像を残す会」主催の「浅間山荘から四十年 当事者が語る連合赤軍」シンポジウムが都内で開かれた。
当事者として植垣康博氏(赤軍派)、青砥幹夫氏(赤軍派)、雪野建作氏(革命左派)、前沢虎義氏(革命左派)が出席。塩見孝也氏(赤軍派議長)、三上治氏(叛旗派)、鈴木邦男氏(一水会代表)、森達也氏(映像作家)、山本直樹氏(漫画家)など多数ゲストを交えて、5時間近く様々な事が語られた。
このシンポジウムの様子も、近日中に紹介する予定である。



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