野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2012年07月

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(ブログの字数制限を越えるため、No250-1とNo250-2の2つに分けてあります。)

No237に引き続き、明大土曜会のメンバーであるH氏の福島県飯館村訪問記を紹介する。
放射能汚染で避難を余儀なくされた福島県飯舘村の住民を支援する手がかりを得ようと、避難している飯舘村関係者を訪問した時の報告である。
訪問記第4回目は飯舘村の「飯舘ふぁーむ」伊藤延由さん(2011.10.30)。

■放射能に負けない村の作法■
 二本松から飯舘に向かう川俣町に入った。町内会自主ボランティアのたくさんの人が1チーム5名位で街角の側溝や落ち葉が散った街路樹で除染している。汚したのではなく汚されたのだから第一義的には国や東電がやらなければならない作業のはずだ。

 飯舘村に入った。飯舘ふぁーむへは6月25日以来の再訪になる。その時は村の街道に沿った田んぼや畑はその見分けがつかないくらい草ぼうぼうだったが、今回はかなり除草されている。日曜なのか何軒かは車が止まり窓が開いている。それでも村道を歩く人の姿は見かけなかった。
 街道から飯舘ふぁーむに向かうわき道から小太りの体が汚れた犬が顔を見せ、ずっと車を追いかける目つきでたたずむ。

 この10月期に飯舘村の長谷川健一さん、佐藤健太さん、ふぁーむの伊藤延由さんにお会いしたが、「スローライフの美しい村」「までいの力」という言葉を聞くことはなかった。
 原発事故からの避難について、これからの除染について、帰村について、村内では考え方が分かれている。家族の選択肢、村の選択肢という厳しい現実と向き合っているからだ。

 ふあーむの伊藤さんにお聞きしたのだが、「飯舘は水争いのない村」だったそうだ。「川からの用水路ではなく、各農家が<ため池>を持っていたり、山の沢水引いてをいて農業用水にしていた」とのことだ。そして気候が厳しい村は、村落の共同体が強くなければ生活の難しい所だったのではと想像する。
対立し足の引っ張り会いばかりではなく、考えは違っても危機に際しては協力する。そして、ものごとを前に進める。そんな村の姿が改めて問われているのではないか、と思う。
 村の対応に厳しい意見を持つ3人だが、どこかで共通する「いいたて村を愛する心」を感じた。
飯舘ふぁーむのある小宮地区は浪江町に近く、村でも放射線量の高い地区だ。
参考までにふぁーむ敷地の線量を示しておく。

11.09今朝7時半の線量(マイクロシーベルト/h)(前回値10.28)

室内         1.3  (1.3)
玄関先        3.5  (3.0)
上の田んぼ1m   5.4  (5.1)
地面        8.0  (7.1)
畑  1m       4.5  (5.2)
地面       6.0  (6.3)
下の田んぼ1m   6.8  (6.0)
地面        7.0  (7.5)
ハウス地面     1.5  (2.3)
天井         4.2  (4.3)

 
■伊藤さんとのQ&Aから■

飯舘ふぁーむは村の中心から車で約15分、途中の道からはほとんど人家を見ない山あいの美しい谷間にある。伊藤さんは村への残留宣言をしていたが、度々の村の説得、みんなへの協調もありここから1時間離れた松川町のアパートから通っている。
ふぁーむの玄関前のベランダには、はちみつを濾している桶やマイタケを乾燥するカゴ、近くの川で捕ったどじょうの水槽が並んでいる。

Q このどじょうがブログに出ていた野田さんですか?

伊藤 原発再開の首相にも困ったもんです、マイタケは乾燥させて東電に請求します。この分厚い書類が東電への8月31日までの補償請求のつづりです。
後は3ケ月毎に請求することになってますが、私でも頭が痛くなります、こんなものをお年寄りに書けというのも無理な話です。
 弁護士とも相談したのですが、補償の振込先だけ東電の書類を使い、後は私のフォーマットで請求します。
 農業への補償は農協がなってますが、受け入れるのは農業のみで林業や精神的被害は受け付けません。それに農協は補償額の2%を引きます。2%は上乗せして東電に請求すべきだと思います。
 
Q 3.11から半年以上が過ぎましたが、改めてどうですか?

伊藤 チェルノブイリを学んでいれば放射能は同心円に降らないということは判っていたはずです、悔やまれます。3月15日は浪江町方面から避難した人が、村の施設に1,200人はいました。線量が高かったその日は、午後から雨、夜から雪、夜中は吹雪になりましたが、ここのふぁーむには毛布がいっぱいあるので、何度も濡れながら村の施設に運びました。
 今日あたりのここの線量は4~5マイクロシーベルト/hあります。3月15日は100マイクロシーベルト/hを超えていたと思います。

Q 世界7月号で伊藤さんのことを知りましたが、その後のマスコミの対応はどうですか?

伊藤 マスコミは飯舘村が問われている問題からの発信はしなくなった外から報道するだけになり、何らかの規制が働いていると思います。
(No250-2の2に続く)

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(No250-1の続きです。)

伊藤 それを感じたのは5月9日に東電の社長に抗議文を突き付けたときからです。その時大手マスコミ各社は来ていたのです。報道は一切ありませし、その後NHKのクローズアップ現代がここのキャンドルナイトを取材に来ました。村民の想いや東電の対応についても話したのですがその部分はカットされています。某国内TV局のディレクターが来ますが、局ではなくあくまでも個人でここに来ています。

Q 記者クラブからの報道に不信感を持っている人も多いです、上杉 隆さんの自由報道協会にかんばってもらいたいですね。

伊藤 外国メディアの方が自由な報道精神を持っています。先日ドイツのインターネット報道機関が取材に来ましたが、私の意見はフルタイムで報道してくれました。こんなこともあります、10月4日村の避難者向けの説明会がありましたが、取材に来たインターネット報道機関に村の説明だけは流してよい、質疑応答はダメというのがありました。
 私は「負げねど飯舘」から連絡を受け、説明会参加者にダメかどうか聞くべきだと提案しました。村には立派な意見を持っている人がいるものだと感心しました。

Q 飯舘ふぁーむではヒマワリや根菜、野菜など多くの作物の残留検査をしましたが、どんな感想をお持ちですか?

伊藤 ハウスと露地でキュウリ・ナス・ジャガイモ・トマト・インゲン・サトイモ・サツマイモなどを行いました。ほとんどこの飯舘でも「不検出」若しくは「検出されても30ベクレル台」でした。検出されたセシウムを見ると137が少し多いのですが134とはほぼ1:1の割合になっています。
 インゲンは移行率が高く、ハウス土壌232ベクレルに対して33ベクレル検出されました。同じハウスでしたがキュウリ・ナス・トマトは不検出でした。
 イモ類は6~100ベクレルの範囲で出ています。

Q ヒマワリ、農水省の「効果なし」という発表には、ああヒマワリでもだめなのかと、一瞬目の前が暗くなりましたが、伊藤さんの数値と大きな隔たりがありました。

伊藤 村にある農水の実験圃場は比較的線量の低い地域にあります。ヒマワリ収穫後を見たのですが、根と地表から30センチ位までの茎は刈り取っていないのです。
 私のデーターですが、土壌11320ベクレル/kgに対して根7060、茎222、花82、合計7364ベクレルです。今ヒマワリを灰にしたものを検査に出しています。

Q セシウムは場所によってバラツキが多いと聞きましたが。

伊藤 1メートルメッシュで区画してその1メートル内の地表を測りましたが、9~16マイクロシーベルト/hのバラツキがあります。国は2kmで区切っていますが、もっと細かい汚染地図を作製する必要があります。
 セシウムは水で流れやすいことも判りました。水を掛け流した田はセシウム合計325ベクレル、そのままの下にある田は23700ベクレルとこれほどの違いが出ています。セシウムは土着と離飛を繰り返すと思いますので、山が多い飯舘の平らな所を除染しても長い目で見ていかほどの効果があるか疑問に思っています。国は東電は責任を棚上げし、村当局はがむしゃらな除染に突き進もうとしています。

Q 土質と作物への移行率はどう考えますか?

伊藤 二本松のコメでも判りましたが粘土質の土壌にセシウムは良く吸着し、砂質は作物に移行しやすい土壌ですが、肥料のカリウムや汚染濃度との関係などまだ土壌と汚染度と作物への移行係数はブラックボックスの中にあると思います。
 私は事故後、これは大学の研究室とタイアップして放射線の作物への影響を考えなくてはダメだと考え、幾つかの大学に連絡しましたがナシノツブテでした。土壌改良材メーカーから申し出がありましたので、データーは公開するということで比較試験を行いました。

Q 強く汚染された飯舘村、チェルノブイリと同じように体内被爆に関連する農作物の実験はこの地だからこそやってみる価値があると思います。

伊藤 そうだと思います。私がここに来て2年目なのですがここを離れないのは、実証実験をやる意味がある、私を温かく向かい入れた村の人の恩義に報いるためでもあるのです。

 
 飯舘ふぁーむは東京のIT会社の職員研修農場として2010年に開設された。2年目にして原発事故に出くわしてしまった。ふぁーむの伊藤さんのブログからは、除染して出た放射性廃棄物の仮置き場をこの小宮地区に置くことが報告されていた。また一つ大きな困難を抱えることになった。新聞報道では「仮置き場は国有林」となっていたのだが、それは村道からさほど離れていない場所だ。
 
飯舘ふぁーむは集落の人、村の人とのふれあいをとても大切にしている。避難している人を招いてときおり食事会をしている、なんせ約25人は泊まれるスペースだ。近所の目黒さん(伊藤さんの農業の師匠)たちを招いて、「飯舘で目黒のさんま」バーベキュウをしたりしている。
 
(終)

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(ブログの字数制限を越えるため、No249-1 とNo249-3の3つに分けてあります。)

7月16日、代々木公園で「さようなら原発10万人集会」が開かれた。
毎週金曜日、首相官邸前で数万人の市民が原発再稼働に抗議の声を上げる中で、どのくらいの参加者があるか注目されたが、主催者発表で17万人、警視庁発表でも7万数千人もの人々が集まった。
4大学共闘(明大、日大、芝工大、専修大の全共闘派)を中心とするメンバーも、この集会に参加し、独自の小集会と、果敢なデモを行った。
今回は、この小集会での発言を中心に、当日の様子を報告する。

<小集会での発言>
Y・R『今日は暑い中、こうして集まっていただき、皆さんご苦労様です。私たちは、昨年の3・11の後、4月10日に、この3大学共闘母体になるような集まりを芝公園で行いました。その後、9月19日、明治公園で行われた5万人集会、実質6万人集まった大集会に3大学共闘、当時は芝浦工大、日大、そして明治、この3大学の旗を高く掲げまして、我々は登場したわけです。
その後、私たちは、例えば今年の3月11日、福島郡山における現地集会に3大学共闘として参加しました。そして、その前段の3月10日の猫啼温泉における交流会において、専修大学のメンバーを加えて、これからは4大学共闘として闘おう、ということを確認しました。(異議なし)
ここに専修大学全共闘の旗が掲げられています。これをもって、4大学共闘が見事に実現したと思います。(拍手)(写真右上)
私たちは、この間、例えば経産省前のテント村におけるハンバーストライキにYさん、そして私も参加しました。また、6月16日、大飯原発再稼働阻止の闘いに福井においても私たちは闘いました。このような形をもって、4大学共闘として、我々はこの間、1年以上にわたって闘い抜いてきました。
また、今日、このような形で、若干まだ集まりは良くないんですが、これから三々五々と集まって来ると思いますので、皆さん、元気にがんばっていきたいと思います。
それでは、最初にYさんの方から、この間の闘いの経過と、今日の闘いに向けた決意表明を受けていきたいと思います。(異議なし)』(写真中段)

芝工大Y『今日ここに、暑い中、多くの全学闘、全共闘の旗の下に結集した皆さん、まず、芝浦工大の私の方から挨拶したいと思います。(異議なし)
さきほど、明大のY・Rさんの方から紹介がありましたように、私たちは昨年の3・11以降、自分たちの全共闘運動の原点を見つめ直す、このことを、一つの自分たちの40年前からの総括として、この反原発運動に参加してきました。(異議なし)
もちろん、私たち全共闘世代の多くの人たちが、市民運動や地域運動で闘っています。この反原発の闘いにも多く私たちは見ることができます。
しかし、私たちは何故この全共闘の旗の下にいるのでしょうか。40年前、私たちが為し得なかったこと、つまり、ベトナム反戦や沖縄闘争としてしか語られなかった40年前の闘争を、私たちは3・11で反省の念を突きつけられました。
私たちが原発や核の問題を捉えることができなかった、私たちが闘うことができなかったということが、今日の事態を引き出してしまいました。私たちは、まず、このことを反省の原点に置きながら、あくまでも全共闘運動にこだわった運動として、この原発反対、再稼働反対の闘いに起ち上がってきています。
9・19明治公園における6万人の集会において、私たちは3大学共闘として闘いました。
しかし今日、専修大学の仲間を加え、そしてまた、4大学以外の仲間を加えてここに結集しています。
私たちは9・19以降、経済産業省前のテント村において、9月11日、若者4人のハンガーストライキに応え、改憲阻止の会がテントを作り、それ以来310日になろうとしています。このテントが作られて310日近くになろうとしています。その間、昨年12月11日、福島の女性たちが未来を育む10月10日の応援闘争を闘うという決意を受けまして、私たちは今年の9月11日まで10月10日のテント応援闘争を闘おうと思っています。
その間、経産省テントを基準にして、多くの市民が集まり、学生が集まり、サラリーマンが集まり、そして私たちのような世代の人たちがあり、裾野を広げていきました。
私たちは、その裾野がますます多く広がる運動を、力は小さいけれども、断固として押し進めて行こうではありませんか。(異議なし)
私たちは、残念ながら大飯原発3号基の再稼働を許してしまいました。しかし、私たちはこの3号基の再稼働を止めろ、撤回させるというメッセージを持って闘って行こうではありませんか。(よし)

(No249-2に続く)

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2012.7.20
(No249-1の続きです。)

各電力会社が並ぶ伊方、柏崎、こうした原発の再稼働は一切許さない、野田を許さない、この決意を基に最後まで闘っていきたいと思います。(よし)
私たちの闘いは、決して今までのようにちょっとやそっとで終わる訳じゃないんです。2年も3年も5年もかかるかも分かりません。しかし、日本から世界から原発を無くす、原発の輸出など許さない、こういった声が日本の全国で響き渡っています。
この運動に、私たちは首都で大きな声をますます上げながら闘っていきたいと思います。
皆さん頑張りましょう。(異議なし)(拍手)』

芝工大『それでは景気づけにコールをしていきたいと思います。(異議なし)
原発いらない!原発いらない!再稼働反対!再稼働反対!原発いらない!再稼働反対!
全共闘は闘うぞ!勝利するまで闘うぞ!
それでは集会を続けたいと思います。』

Y・R『ようやく気合いが入ってきたようです。それでは続きまして、本日我々3大学共闘に結集し、4大学共闘を作りました専修大学から発言を受けたいと思います。お願いします、(拍手)』

専修大K『』皆さんこんにちは、専大雄弁会のKです。今日は専大全共闘の再結集の日で、12時に現地で待ち合わせることにしております。この間、全共闘の再結集に関して、さまざまな昔の仲間からの肯定的な意見や、まったく逆の意見も私の方に来ております。
しかし、未来を見つめていきましょう。(よし)我々の闘いは2年3年では終わらないかもしれない、我々も棺桶の中に足を突っ込んでいる状態ですけど、がんばりましょう。
今から100年後、200年後の小学校の歴史の授業で、先生から、今のような輝かしく素晴らしい社会を作り上げてくれたのは、21世紀初頭、東北地方の大震災と、あの忌まわしい福島原発事故の中から立ち上がった一般の市民、国民の努力があったからこそと教えられた時、幼気な児童の眼から感謝の涙を湛えつつ、1ページ、1ページ教科書をめくることができますように、私たちは今、この会場より脱原発、反原発、沖縄闘争のために闘うことが必要だろうと思います。(異議なし)
全国のかつての学友の皆さん、我々とともに立ち上がろうではありませんか。(異議なし)
専大全共闘は最後まで闘いぬくことを決意表明し、連帯の挨拶にしたいと思います。(異議なし)(拍手』

Y・R『力強い連帯の挨拶、ありがとうございます。続きまして明治大学の方から発言を受けたいと思います。』

明大O『明大全共闘を代表して連帯の挨拶を述べたいと思います。私たちは昭和40年代に激烈な闘いをして、そして敗北しました。でも、日本の形はいっこうに変わらなく、しかも、ますます悪化した方向に行こうとしています。
3・11以来、多くの人たちが野田政権あるいは民主党政権に対する断固とした闘いを今開始しつつあります。我々は、この闘いの先頭に立って闘っていかなければならないと思います。
そして郡山、仲通の地域での悲惨な状況があります。あるいは飯館村における高線量の中で闘っている人たちも一杯います。
私たちは、そういう人たちと深く連帯しながら、デモや座り込みだけでなくて、広義の連帯行動をしていきたいと思います。
各大学の40年前の闘いをもう一度再現し、共に闘っていきましょう。(異議なし)(拍手)』

Y・R『続いて日本大学から発言を受けたいと思います。』

日大『本日お集まりの全ての同志諸君、学友諸君というのはもう昔の話で、我々はこの間何十年と生活をしてまいりました。最初は私なんかの場合は、日大に入って、この理不尽さは一体何なのかということで闘争をしてまいりました。
そして40年経って、日本大学のみならず、三里塚、沖縄、釜ヶ崎さまざまなところで 理不尽さというものを感じてまいりました。そしてこの年になっても原発という理不尽さを感じております。こういった政治的なもののみならず、社会においても会社の中においても労働問題、そして家庭においてもさまざまな理不尽さというものを感じております。
そして、この理不尽さに対して、はっきりと声を上げて、これは違うと上げていく声こそが必要だと思っております。
原発のみならず、さまざな社会においての理不尽さに対して断固として闘っていきましょう。(異議なし)
昔のようにかっこいい言葉はあまり出てきません。一点突破全面展開なんていう言葉をさかんに言って喜んでおりましたけれど、今は大人しく素直に自分の気持ちを述べていきたいと思っています。
よろしくお願いします。(拍手)』(写真中段)

Y・R『日大の発言で、これからの我々の闘いは、昔のように変に気張ったりせず、淡々と闘いを続けていく、そのような決意があったかと思います。
続いて、4大学以外で是非発言をしたいという方がいましたら、よろしくお願いします。』

(No249-3に続く)

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(No249-2の続きです。)

明学大『元気ですか。元気があればデモもできる、元気があれば原発もなくせる、元気があれば野田政権も打倒できる。私は明治学院大学を中退で、(「みんな中退だ」という声)地域の運動の中で右翼的偏向を突破できず悶々とする日々でありますけれど、本日皆さんと出会えたことで、一生をかけて反原発、反資本主義の闘いのために闘うことをここに宣言して、新たに5大学共闘として結集したいと思いますが、いかがでしょうか。(異議なし)(拍手)
ただいまの拍手で確認されたのでありがとうございます。(拍手)』

Y・R『早速K君にお願いして、4大学共闘を5大共闘に書き換えてもらうように連絡したいと思います。次、東洋大、6大学になりますかね。発言をお願いします。』

東洋大Y『皆さん今日は。東洋大学から本日は3人で結集しました。この恰好なんですけれども、ボーイスカウト連盟○○県連の○団を代表してまいりました。うちの団はJUNさんのおかげで徹底して拡散戦法をとったら、とんでもないことに、みんな浜岡原発よくないなんてことを言い出して、そんなことを平気で言うような団になってしまいました。JUNさん、ありがとうございます。
そんなことで、皆さん仰いますように、4年間、5年間、何年かけてもなるべく早く、日本の全国の原発を完璧に無くし、子供たちの、孫たちの、そして恐ろしいかみさんたちの安全のために、我々は最後の最後まで闘おうではありませんか。(異議なし)
今回は絶対に負けは許されません。(そうだ)
共に闘いますのでよろしくお願いします。(異議なし)(拍手)』

Y・R『ただいまは、東洋大学の力強い発言でした。どなたでも発言されたい方どうぞ。』

Y『私は60年の立命館大学の学友会、全共闘ではないんです。(異議なし)
実は、私は広島で1945年に小学校5年の時に被爆しまして、その後、60年以降、現在まで50年間、核と人類は共存できないということを旗印にして運動を続けてきたんですけど、残念なことに福島の事態を起こしてしまいました。
そういう意味では、今のような広い運動ができなかったことについて慚愧に耐えない。私は大飯の闘争には3回ほど行きまして、30日、1日とバリケードを作って座り込みをした時は、膝がガクガクして、78歳ですから大変だったんですけど(拍手)、それでも死ぬまで反戦・反核のために闘っていきたいと思っています。(拍手)
皆さんと先が短いと言いましたけれど、私はあと10年以上は最低がんばるつもりでいます。共に頑張りましょう。(異議なし)(拍手)』

Y・R『今日、この集会とデモが終わった後、いつも集まる明治大学の近くのMにおきまして懇親会、総括をやる訳ですが、そこに今発言されたYさんに来ていただきまして、詳しいお話を伺いたいと思いますので、是非、皆さん、この後4時からMでこのような催しを行いますので、是非参加して欲しいと思います。よろしくお願いします。
そろそろ時間になりますので、これから全体集会に参加して、デモの出発は1時半くらいかな。私たちは明治公園に向かう市民グループの梯団で行きますので、是非、皆さんMに集まっていただいてYさんの話を伺いたい、ということで、今日は暑いですが、皆さんがんばって集会・デモを果敢に闘い抜いて欲しいと思います。よろしくお願いします。(異議なし)(拍手)』

Y・R『芝工大にシュプレヒコールをお願いします。』

芝工大『全共闘、シュプレヒコール!
原発はいらない!原発はいらない!再稼働反対!再稼働やめろ!原発を止めるぞ!原発はいらない!子供たちを守ろう!福島の子供たちを守ろう!日本の子供たちを守ろう!世界の子供たちを守ろう!世界中に原発はいらない!日本に原発はいらない!再稼働をやめろ!
全共闘は闘うぞ!全共闘は闘うぞ!勝利するまで闘うぞ!死ぬまで闘うぞ!闘うぞ!闘うぞ!闘うぞ!(拍手)(死なないぞ)」

デモは先頭集団のすぐ後の梯団で出発。
明治公園まで約1時間、果敢にデモを行った。青山通りでは3車線に広がるデモを貫徹。(写真中段:芝工大撮影)
明治公園手前で、広がったデモ隊を規制しようとする警官ともみ合う場面もあったが、明治公園に到着。いつものように「伝統芸能」のインターを斉唱して解散した。(写真下)
4大学共闘の参加者は、目標の100名には届かなかったが、新たな参加者も加えて、ネットワークを広げることができた。
脱原発の闘いは長い闘いである。7月16日の集会とデモは、その長い闘いの始まりにすぎない。

※7月29日(日)の「脱原発国会大包囲デモ」に、4大学共闘で参加します。首都圏反原発連合の呼びかけの行動です。
日時:  7月29日(日)15:30集合  16:30デモ出発
場所:  日比谷公園中幸門(日比谷公会堂裏)

※ 不正なコメントが続いているので、しばらくコメント覧を閉鎖します。

(終)

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