野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2012年08月

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(No253-2の続きです)

それと、その日のうちに広島を逃げて広島に戻らなかったということです。あと黒い雨を浴びなかった、それと水を飲んでも嘔吐してしまった、それからもしかしたら回虫も原因があるかもしれません。
それと、たまたま電車が福屋百貨店の下に入っていて、原爆が680メートルのところで爆発しているんですけども、福屋に当たって直接光線が来ていないんですね。それも大きな原因の一つだと思っています。
【朝鮮人被爆者の存在】
そういうことで生き残ったんですが、その中で私が皆さんに是非知ってもらいたと思うのは、実は当時広島で被爆死した人、被爆死というのは1945年の12月いっぱいで死んだ人を被爆死というんですが、広島の原爆記念館が出来て被爆死した人が13万人と書いてある、その2年後には14万人になりましたが、書いてあります。
その時に見て思ったのは、当時広島には朝鮮人が5万人いたんです。広島には日本製鋼、三菱重工、三菱造船などがあって、朝鮮人がずいぶんたくさんいました。
当時の広島の被爆人口が35万人ですから7人に一人が朝鮮人です。それで僕が小学校に行ったときは朝鮮人の友達がいっぱいいたんです。
20年くらい前の統計ですが、5万人の被爆者のうち、3万人が被爆死しているんです。13万14万のうち3万人が被爆死しているんです。それを計算すると、日本人の被爆というのは3割強なんです。ところが朝鮮人の被爆死は6割だということです。
これは何故かと言うと、我々は疎開していたが、彼らは行くところがない。焼けたらすぐ戻ってきて、焼け跡が燻っているいるうちに戻ってきて太田川の水を飲んで放射能を沢山食べて、ですから日本人の倍の被爆死になった。日本人の倍の被爆死といいますが、本当は、朝鮮人部落は爆心から1キロ以内にはないんです。1キロより離れたところにいる訳ですから、日本人より(生存率が)高くなければあかんのですが、実際には倍(の被爆死)。そういうことを皆さんに是非知ってもらいたいと思うんです。
それともう一つ、僕が小学校6年の終わりで帰ってきて、中学校に入った訳ですね。中学校に入ったら朝鮮人の友達が一人しかいないんですよ。それでおかしいなと思って、新井君とか金光君、こういった仲のいい、すぐ近くに朝鮮部落があって、仲のいいのが沢山いたんのが、一人もいないんです。不思議に思ったけれど、朝鮮人は解放されて帰ったんだ、と言う風に思っていた訳です。
僕は集団疎開していたんですが、その集団疎開に朝鮮人がいなかったことを何かで気が付いたんです。集団疎開というのは町内ごとで何十か所として行ってますから、友達に「変な事聞くけど、おまえらのところに朝鮮人おったか」という話をしたら「そういえば見んかった」と誰も彼も言うんです。不思議だなと思って、僕は朝鮮人被爆者の人に「実は集団疎開行ったことがあるんやけども、朝鮮人は見んかたけども、どうなったか」と聞いたら、その時は小学生1・2年生を除いて3年生以上は強制的に疎開させられた。ですから、僕の同級生で被爆したのは300人くらいいる学生の中で2人しかいない。
それが朝鮮人がどうだったかというと、恐れ多くも天皇陛下の赤子にしていただいたんです、半島人は。ということは子供といえども銃後の守りをせなあかん、疎開などはもってのほかだということです。疎開させてもらえなかたんです。
ということは、僕の友達は恐らく、その3万人の中に入っているんじゃないかと思いました。その時は本当に慚愧の思いがしましたね。
その話を僕が小学校ですると、小学校の子供たちは十人に一人くらいは、「日本は拉致よりももっと悪いことをしたんだな」という感想を書いてくれるので、私はそのことは必ず付け加えて話すようにしています。』

米澤さんは、大飯原発再稼働阻止現地闘争に参加、また、7・16「さようなら原発10万人集会」では、4大学共闘の隊列とともにデモに参加そいている、米澤さんからは、その後、以下のようなメールをいただいた。
『3.11を起こした責任を被爆者として大きく感じています。
50年以上被爆の話をしてきましたが、乞われれば行くとゆう態度が過ちを「繰り返さない」とゆう基本を忘れていたのかもと思い、これからは不十分でも、積極的に話していきたいと思っています。
今これまでの反省の上もっともっと「核」の悪魔的存在を弾劾したいと思っています。』

※米澤さんは出前講演を行っています。ネットの「米澤鐡志の部屋」で申込みができます。
々岷藥?屐。毅以から1時間20分
⊂人数でも無料で出前します。(遠方の場合は交通費の実費を申し受けます)

(終)


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(ブログの字数制限を越えるため、No252-1からNo252-3の3つに分けてあります。)

今年の8月で広島に原爆が投下されてから67年となる。
7月16日の「さようなら原発10万人集会」の後、「明大土曜会」の定例会が開かれている会場で、広島の原子爆弾被爆証言者、米澤鐡志さん(写真)のお話を伺った。
今回と次回の2回に分けて、米澤さんのお話の内容を紹介する。

<米澤鐡志さんのプロフィール>
1934年8月生
1945年8月6日、広島の爆心750メートルの八丁堀で、電車内被爆を経験。一緒にいた母は死亡。米澤さんも全頭髪が抜け、40度以上の高熱が続き、死地を彷徨うも奇跡的に回復。
1958年 立命館大学入学
1960年 立命館大学二部学友会委員長として安保闘争参加(全学連反主流派)の中枢として戦う。
1975年頃から小学校、大学、病院、各種集会などで被爆体験講話を年7,8回平均で行っている。
以降、35年以上、悲惨な体験を二度と繰り返さないため、各地で300回以上、体験講話をしている。
また、電車内被爆者として広島の被爆電車内での講演も行っている。
※超満員の電車の同乗者で、生存者は米澤さんだけであり、爆心から750メートル以内の被爆生存者は、10人未満と言われている。

<米澤さんのお話>
(文章を読みやすくするため、筆者がタイトルを付けました。)
『ご紹介いただいきました米澤です。
私は1934年の生まれで、この8月で78歳になるんですけれども、小学校5年の時に広島で被爆したんですが、その頃の話をちょっと、もう今年になってから12~3回あちこちで喋っているんですけど、そんなことで機会があったらどこでも喋りに行きます。
実は喋り出すと1時間半以上かかるんで、30分以内は無理だと思いますが、京都の市職労の分会で喋る時は、分会は弁当を出して、弁当食べる前で1時間喋るんですね。
ですからそういうの慣れてますので。(注:料理が出ているので、食べながら聞いてくださいという意味。)
【広島へ】
丁度私は5年生で田舎に疎開していたんですけど、たまたま親父が戦争に取られまして、母親と兄弟5人で疎開していたんですが、その前にいろいろあるんですが、それは抜きにして、山の中に疎開していたので、たまたま日用品が足りなくなったので、広島に荷物を取りに行こうということで、小学5年の私と、3年、1年、幼稚園、そして親父が出征して生まれた子供で全部で5人いたんですね。 
母と私は8月6日の、その頃切符がなかなか手に入らなくて、人づてに頼んで手に入ったのが8月6日の朝6時半に志和口という駅を出る切符だったんですね。
山の中に居ましたんで、私と母は4時頃起きて大きなリュックを持って、山を下って、1番列車に乗って広島に向かったんです。
丁度1時間かかりまして、広島の駅に着いた時が7時半だったんですが、7時半に広島の駅に着いてですね、私たちは初めてなもので慣れていないので、電車に乗るのにものすごい人が並ぶ訳です。それでなかなか電車に乗れなくて、1番列車ですから、あとから次から次と来ます。やっと3台目か4台目の電車に乗れたんですが、もう詰めろ詰めろでギュウギュウ詰めですよ。僕は子供ですから窓際に行きたいですよね。ところが全然窓際に入れなくて、真ん中の真ん中に詰め込まれてしまったんです。
暑くて往生していたらやっと電車が出まして、市内の西の方に向かって電車が走ったんですけど、広島駅から15分くらい行ったところに八丁堀リというところがあるんです。そこは広島で一番高い建物の福屋百貨店というのがありまして、その福屋百貨店のところに電車が入ると同時に原爆が落ちた訳です。
【原爆投下直後の惨状】
すさまじい音をしてドカーンと、広島ではピカドンというんですけど、ただ電車に乗っていた人で生き残った人の半分以上はドーンは聞こえなかったというのが多いんですね。聞いたことがない音だったから聞こえなかったという人は爆心地に近い人で多いです。
最初、ピカッと光ってドーンときた訳ですけど、最初の爆風がすさまじいんですね。丁度福屋百貨店の前が220メートルの爆風で、ガラスが全部吹っ飛びまして、電車の中は阿鼻叫喚ですよね。血だらけになっている人、そこで死んだ人もおると思うんですが、そこは僕ら分からんですが、とにかく倒されて、たまたま僕は背が低いですから、母親も真ん中にいたんですね。母もガラスの破片が入っていましたけれど、二人とも大した怪我がなくて倒れた訳です。

(No252-2に続く)

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(No252-1の続きです)

母は私の手を引っ張って、「鐡志大丈夫か」ということで、「うん大丈夫」と言うたら、とにかく出ようということで、私の手を引っ張って、倒れた人の上を踏みながら電車の外に出たんです。
そしたら電車の外は真っ暗なんです。何故かと言いますと、当時の家屋は95%以上木造ですね、ですから市内の中心地ですけども、すさまじ爆風で高いところで30メートルも家が持ち上げられて、それがバーンと落ちた訳ですから、すごい土煙なんです。
それで外へ出たら全く何も見えないです、真っ暗で。母と私は電車の外にタオルをくわえて出たんです。電車の外に出たら、母と私は耳と目を押さえて、タオルを口にして伏せるんです。その頃、小学校1年生でも空襲になったらそういう風にするように教育されてまして、地に伏せたんです。土埃ですからしばらくすると薄明るくなってきて、周りが見えるようになった訳です。そうしたら、周りを見たらもう完全にガレキの山ですね、こちらに鉄筋の建物が、今言いました福屋百貨店とあと少し見えるけども、後はガレキの山でまったく何にも見えないような状況でした。
私は実際には紙屋町というところを通って舟入に行くつもりだったんですけど、そっちに向けて母親と二人で動きかけたら、向こうから来る人は本当に焼け焦げの人ばっかりが来る訳で、それも死にかけた人ばっかりが来るんで、それで道端に倒れている人を見たら炭だらけになっている人までいる訳です。それで、結局、母と私はこれはダメだということで、北の方の白島というところに母方のお祖母さんが住んでいたので、白島の方に逃げて行ったんですが、最初に気が付いたのは、前に歩いている女の人の背中に黒い点がポツンとあるんです。逃げるのに必死で何となくそれを見ていたら、その黒いものがスーと広がっていく訳です。結局火が付いているんです、シャツに。火が付いてやって髪の毛に燃え移る時になって、周りも言いますし、本人も気付いて、防火水槽に飛び込むのを最初に見ました。
その次に見たのは、やっぱり前を逃げている女の人で、肺まで行っているんじゃないかというくらいのこれくらいの三角定規のようなガラスが刺さっていたんです。それで血がスーと落ちてきて、モンペの背中の紐のところで止まって血がズーッと広がっていくんですけど、本人は全く気付かないんですね。そいうのが結構見られました。
それで、私たちがしばらく逃げると、左側に西練兵場というのがありまして、兵隊が恐らくそこで訓練していたんです。その兵隊が100人から200人、1部隊か1小隊か知りませんけど、出てきたんです。年寄りばっかりでしたけど。出てきたのを見たら軍服は全部焼けているし、シャツもちぎれている、ゲートルも全部ちぎれているというすさまじい形で出てきたんです。それでも軍隊は軍隊ですから、編上靴のザックザックという気持ちの悪い音をさせながら逃げてくるのに出会いまして、母が兵隊に付いて後ろを逃げたら安全なところに行けるだろうということで、白島のお祖母さんのところに行くのはあきらめたんです。というのも、あちこちから火が出てきて、8時15分というのは朝飯が終わって、当時は電気もガスもないですから全部炭とか薪でお茶とかおかゆを炊いたりしていた訳です。その上に木造の建物が落ちてきた訳ですから、あっという間ですよね。であちこちから次々と火が出てきまして、それで逃げる方向もままならない訳です。
それで兵隊の後ろについて逃げて、そうしたら兵隊が太田川の元安川というのがあるんですが、それは本川からちょっと分かれているところで、広島駅から約500メートル上流のところに大きな河川敷がありまして、そこの川に降りていったんです。
そうしたら、河川敷にものすごい人、それこそ1,000人以上の人が逃げてきたと思うんですが、お互い知った人がいると良かった良かったとか、誰々がどうしたということを言ってました。
私は朝早くから起きて、満員電車で揺られて疲れていたので、とにかくヘトヘトになっていたんで、たまたま大きな船が砂の上に置いてあったんです。母と私はカンカン照りの太陽のもとで砂の下に頭を突っ込んで、お腹から上くらいを船の陰に入れたんです。
座ってしばらくしたら、急に母も私もものすごい頭が痛くなてきて嘔吐が始まるんですね。
砂を掘ってそこにげーげー吐くんですが、朝から何も食べていなくても上げてあげてどうしようもないんですわ。涙は出るし鼻は出るし、それでもしばらくの間、30分くらいはげーげーしていたと思うんですが、出るものも何にも無くなってですね、グッタリとしていたんですね。

(No252-3に続く)

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(No252-2の続きです)

その時に見た光景で非常に印象に残っていることをお話ししたいんですけれども、そういうあげたりした人が沢山いたんですが、一番僕の印象に残ったのはですね、当時中学生、女学生というのは、1・2年生が建物疎開に残されて、3・4年生は全部工場の動員とか百姓とかにやられていて、1・2年生は建物疎開、屋根の瓦を全部下ろして大きな綱を付けて(建物を)倒す訳ですね、これは江戸の火消がやっておったように、類焼を防ぐためにズーッと建物を潰していく訳ですね、それで道路を広げて類焼を止めるという、それを広島の中学生、女学生の1・2年生たちが中心になってそれをやっていた訳です。
国防婦人会と在郷軍人会の人たちが指揮してやっていた訳です。そこへもってきて帽子とか半ズボン、半袖シャツくらいででやっている訳です。ですから、恐らくその中学生たちは3千度から5千度の光線を直接浴びている訳です。僕の想像では、1.5キロ以内の疎開作業をしていた人は全部死んだんじゃないかと思うんです。大体1.5キロから外でやってた連中は、同じようにやられまして、ものすごいやけどをして全員裸です。全く何もなくて「お母ちゃん、お母ちゃん」と言いながら逃げてきたんですけど、その時の可哀そうな感じというのは、やけどをすると水ぶくれができますよね。そうすると、丁度シャツのところと、直接光を浴びたところでは、やけどの差が違いますから、ここからちぎれるんですよ。
これが水ぶくれですから、落ちてきて、爪のところで全部止まるんです。皆そういう感じで前に手をやって、子供たちが泣きながら「助けてくれ」と言う訳なんですが、前が川ですから、やけどの水ぶくれで完全に脱水状態ですから、川に向かて行く訳です。
川に浸かるかどうか、水を飲む前に流れるんです。恐らくこれはショック死なんですね。これは子供たちだけでなしに、大人もそういう人が沢山いるんですけれども、浸かると同時に雑巾が崩れるみたいに流れていく。  それで敵が毒を流したというので、我々も川の水を飲みたいと思ったけれど、我慢せざるを得ないな、と思ったんです。
そうこうしているうちに、その川は爆心から2キロ地点の場所なんですけれど、全市が燃えていますから、火の粉は飛んでくるは、暑くて、そこに何千人以上の人がいたと思うんですけど、皆たまらなくなって、川を渡って反対側に逃げていく訳ですね。
死んで流れていく人がいっぱいおるんですけれど、母と私はやっと浅いところを通って向かい側に渡りました。そこは「にぎつ神社」といいまして、そこにごっついごっつい楠がありまして、樹齢100年か200年の楠がありまして、母も私も朝から疲れてしまって、嘔吐もしたし脱水もしているので、樹の下で二人ともぐたーっとして横になっていたんです。
そうしたらしばらくすると、急に暗くなってきて雨が降ってきたんです。ポツリポツリと降ってきた雨を、樹の下で見たら黒い油のような雨なんです。それで慌てて、僕らは空襲というのはその頃誰でも予想していましたから、防球頭巾を被って、ちゃんとシャツなんかも持って出たので、シャツを着てタオルを持って雨を避けたんですけど、丁度その場所ではポツリポツリとしか降らなかったんです。5分くらいで雨は止んだんです。それで私たちは黒い雨には当たらずに済んだんですけど、広島の西南の方は相当ひどい雨が降って、井伏鱒二の小説のように沢山亡くなった人がおるみたいです。
母も私もぐったりしていたら、たまたま10人位の兵隊が通りかかりまして、「すぐそばに東練兵場があって、弾薬庫が爆発するかもわからん。大変なことになるからここにおったらいかんし、逃げろ。」と。母も私も動く気がないんで「いいです。」と言ったんですけど、兵隊が無理やり引っ張るようにして逃げて行ったんです。
逃げていく途中で、畑に大きな井戸がありまして、そこにずらっと人が並んで、その頃珍しいポンプの井戸だったんですね。それで井戸から出た水で皆顔を洗ったり飲んだりしていたんです。それで私たちもそこに並んで水を飲んだんですけど、私は一口飲んだらぐわーっと嘔吐したんです。それでものすごく喉が渇いていますから、次にもう一杯飲んだんですがダメで、嘔吐して受け付けないんです。しょうがないからうがいだけして終わったんですが、その時に、不思議なことに母親は同じ条件なのに嘔吐しなかったんです。』

(次回に続く)

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(ブログの字数制限を越えるため、No251-1とNo251-2の2つに分けてあります。)

7月29日(日)、首都圏反原発連合主催の脱原発国会大包囲が行われた。
呼びかけ文によると
「2012年5月5日は、歴史的な一日になりました。
北海道電力泊原発3号機が定期検査の為に運転を停止し、42年ぶりに日本国内で稼働中の原発が0基になりました。
3.11以降、日本全国に波及した反原発運動と、原発再稼動に反対の声が世論の大多数になったこと、そして、福井県・大飯原発について、大阪市・京都府・滋賀県をはじめとした周辺自治体による拙速な再稼動への批判の声が高まりを見せ、運転再開が進まなかったことにより、一時的にではあるにせよ、ついに「原発ゼロ」の日を迎えることになりました。
しかし、大飯原発の再稼動をめぐる現状は、未だに瀬戸際です。
また、政府は未だに、明確で可及的速やかな脱原発への道筋を示してはいません。
「原発ゼロ」の日を迎えた今日においても、私たちは原発の可及的速やかな廃止を目指し、不断の意思表示を続けていかなければなりません。
私たち首都圏反原発連合は、あの震災と原発事故から一年となる、今年の3月11日に、「3.11東京大行進‐追悼と脱原発への誓いを新たに‐」を主催しました。
およそ14000人もの方々が、このデモ行進と国会議事堂を囲むキャンドル集会に参加されました。
そして、来る7月29日、私たちは再び、反原発を訴える大規模デモを行い、国会議事堂をキャンドルで包囲します。
もしかすると、このデモが行われる頃には、大飯原発の再稼動は進んでしまっているかもしれません。
しかしそれでも、私たちが声を上げる理由が揺らぐことはありません。
福島第一原発事故により引き起こされた悲劇を二度と繰り返さないために、次の世代にこれ以上負の遺産を引き継がせないために、前回を上回る規模で、原発反対、再稼動反対の声を政治の中枢に突き付けましょう。
多くの方のご参加をお待ちしております。」

この首都圏反原発連合は、大飯原発再稼動問題に対して首相官邸前抗議行動を呼びかけ、ほぼ毎週数万人以上の参加者で抗議行動をしている。
4大学共闘(明治大、日大、芝工大、専修大の全共闘派)は、7月16日に引き続く共同行動として、この脱原発国会大包囲集会とデモ、そして国会包囲行動に参加した。
集会は日比谷公園の中幸門付近。
少し早めに会場に到着したが、既に多くの人たちが集まっている。4大学共闘(当日は専修大を除く3大学)のメンバーも幟を立てたり、幟の作成中。
カメラで写真を撮っていると、O君から声をかけられた。O君とは、7月16日の「さようなら原発10万人集会」で40年ぶりに顔を合わせた。1969年、明大の「414B統一戦線」の黒ヘルを一緒に被っていたメンバーである。再会した時「O君太ったな。」と言ったが、私も当時からすれば太っているので、あまり人の事は言えない。
4大学共闘のメンバーが集まっている隣で、歌が聞こえ始めた。
竹の棒で地面を打ちながらリズムを取っている。(写真左下)
♪メルトダウンだぜ~(メルトダウンだぜ~) ♪へーいのーだ (へーいのーだ)♪
♪メルトダウンだぜ~(メルトダウンだぜ~) ♪へへーいのーだ (へへーいのーだ)♪
♪原発いらねえ(原発いらねえ) ♪この子が大事(この子が大事)♪
♪原発いらねえ(原発いらねえ) ♪あの子が大事(あの子が大事)♪
♪メルトダウンだぜ~(メルトダウンだぜ~) ♪へーいのーだ (へーいのーだ)♪
♪メルトダウンだぜ~(メルトダウンだぜ~) ♪へいへいのーだ (へいへいのーだ)♪
♪原発いらねえ(原発いらねえ) ♪命が大事(命が大事)♪
♪原発いらねえ(原発いらねえ) ♪未来が大事(未来が大事)♪
♪メルトダウンだぜ~(メルトダウンだぜ~) ♪メルトダウンだぜ~(メルトダウンだぜ~) 
♪メルトダウンだぜ~(メルトダウンだぜ~) イエー!

横断幕には「原発とめろ! NONUKES 脱原発四万十行動」の文字。脱原発四万十行動のメンバーが歌う「メルトダウンブルース」だった。高知県で月例デモや伊方原発再稼働反対の活動をしている団体とのこと。
日大の人が「この歌はネットを通じて全国に広まりつつある。」と教えてくれた。
「四万十から14時間かけてきました。この竹の棒を持って皆でデモに行きましょう。」と呼びかけている。「竹の棒は昔だったら凶器準備集合罪だな。」などとつまらないことをを考えてしまう。

集会が始まった。集会が始まる頃には、我々がいる辺りも人でいっぱいになってきた。集会は遠くでやっているので、発言者の姿がよく見えない。
デモの出発時間が近づいてきたので、中幸門方面に移動し待機する。待機時間を短くするため、最近はデモの先頭付近の位置を確保するようにしている。

(No251-2に続く)

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