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今年は、東大安田講堂攻防戦から44年目。
4年前の1月のNo64からNo71で「東大安田講堂攻防戦」を書いたが、その続きである。
1969年1月18・19日、東大安田講堂攻防戦が行われた。
安田講堂攻防戦の様子は連日新聞の1面で取り上げられ、テレビでも生中継された。報道機関は読者や視聴者に何を伝えたのだろうか。
安田講堂攻防戦のテレビの生中継についての興味深い記事があるので紹介する。
(写真は毎日グラフより転載)

【固定したカメラの目 安田講堂攻防戦のテレビ報道について】法政大学助教授 佐藤毅
サンデー毎日 1969.2.20増刊号(引用)
『<異常に高い視聴率>
1月18.19日の2日間、東大安田講堂をめぐる“攻防戦”があった。テレビ各局は、この事件をめぐって、18日午前7時の機動隊導入いらい、定時のニュースのほか、次々と報道特別番組を組み、東大構内からのナマ中継を行ったものである。
ちなみに、18、19日の2日間の東大関係番組の放映時間は、NHKが11時間、TBSが9時間、NET(現テレビ朝日)が6時間、日本テレビが5時間50分、フジテレビが2時間40分にのぼったという。
大量な機動隊の導入に匹敵する大量なテレビのナマ中継と特別番組の投入。これはいったい、何を意味するものであったろうか。(中略)
18、19日の両日にわたるナマ中継を一言でいえば、圧倒的に迫力のある画面であったことはたしか。あらためて、テレビの特性はナマ中継による同時性であり、臨場感であることを人々に決定的に印象づけたといってもよい。
あまりの迫力に、中継がとだえると、あわててチャンネルを切り替え、どこか放送している局はないかと捜しまわったという視聴者はザラである。
視聴率はNHKの44.6%(18日午前8時)をはじめ、各局とも軒並み異常なはねあがりを示したという。

<国家権力の側から>
(中略)テレビ映像はまず、さまざまな解釈の可能性を整理しないまま大衆に提示する。そのことによって、事件の認識や評価をまず大衆自身が行うことができる媒体である。
が、この両日のナマ中継によるテレビ映像は、その焦点を多分にフィクショナルな“安田トリデ攻防戦”に一義的にしぼることによって、興奮のルツボをつくりだし、それをクッションにして、多様性というテレビ映像のすぐれた特性を殺していった。
この日のナマ映像は、さしあたって、火炎ビン対ガス弾、隠し砦対水攻め、危険薬品対ヘリコプター、投石対トロイの馬・・といった発想図式の中にあって、そこにドラマ以上の、また、プロレスやキックボクシング以上の迫力ある興奮をもたらそうとした以外の何者でもないといわれても仕方ない。
これでは東大に警察力がはいったことの意味はふっとんでしまう。(後略)

<一義的映像と一義的発言と>
ここに、この両日のテレビ映像が、単なる興奮を視聴者にもたらしただけではない、重大な意味が隠されているように思う。それは視聴者の興奮をテコにして、カメラの目を機動隊や国家権力の目とだぶらせ、そのことによって、視聴者の目をも一義的にそこにおとしこんでいく危険性をもったといってよい。(後略)』

固定したテレビカメラの目に代表される報道機関の姿勢は、その後の「浅間山荘事件」の報道にも引き継がれ、解釈の多様性を自ら放棄した一方的なものとなる。

一方、世界各国のメディアはどのように伝えたのだろうか。
【各国でも大きく報道】朝日新聞1969年1月20日(引用)
『<反米闘争の発生を憂慮 米紙(ニューヨーク 林特派員 19日発)>
東大闘争は7学部集会以来、ニューヨーク・タイムス紙などにかなりくわしく報道されており、19日の朝刊では安田講堂をめぐる警官隊と共闘派学生との攻防戦について「学生らなおも包囲に屈せず」という見出しで、約2,000語をついやして事件の成り行きがこまかく報じられている。米国でもスチューデント・パワーは全国的な大問題だけに、一般の関心は少なくない。(中略)
18日のニューヨーク・タイムスは、学生側に「造反有理」という毛沢東中国主席の言葉が盛んに引用されていることを引き、闘争の結果よりも闘争自体に焦点が置かれ、権力につながるエリート養成校としての東大の権威を失墜させようとする破壊的な意思に、学生たちの真骨頂があると述べている。

<革命的人民の士気を高める 新華社 (中国通信=東京)>
北京18日発新華社電は東京からの報道として、東大紛争の模様を次のように報じた。
『佐藤反動政府は18日午前、1万人に及ぶ完全武装の警官と数十台の装甲車を派遣して東大に侵入し、進歩的学生に野蛮な弾圧を加えた。学生の闘争は、日本の革命的人民の士気を大いに高め、米日反動派の威風を大いにたたいた。』

新華社の論評は44年という時代の隔たりを感じさせる。当時は毛沢東主席のもと、紅衛兵が「毛沢東語録」をかざしながら天安門広場を埋め尽くしていた時代。
今は「改革開放」という名の下で、「赤い資本主義の国」となっている。

(終)