野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2013年02月01日

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(文書が長くブログの字数制限を越えるため、No275-1からNo275-3に分けて掲載します。)

1966年(昭和41年)、明治大学で学費値上げ反対闘争が闘われた。この闘争は、翌年の「2・2協定調印」により幕を閉じる。
この協定調印は明治の社学同のボス交と批判され、当時三派全学連委員長だった明大社学同の斎藤克彦氏は罷免され、明大社学同は学内外からの批判にさらされることになる
昨年10月、当時の学生会中執委員長であった故中澤満正氏が、明大土曜会の会合で明大学費闘争について熱く語っていただいた。(写真)
今回はその内容を掲載する。
なお、文章が長いので、筆者の独断でタイトルを付けさせていただいた。

『<学生運動への関わり>
中澤と申します。
私は1963年に明治大学に入って、67年の春に退学処分になった者です。この間、闘われたのが、66年から67年にかけての全学バリケード封鎖、ストライキ、約3ケ月くらいにわたるストライキの実質的指導責任者でございました。
ちょっと話しますと、私は右翼の明大中野という東中野にある付属高校の出身で、大学に入ってきた時に「全学連というけしからん集団が学生運動というものをやっているらしい。これを4年の間にぶっ壊そう」と思って、連日自治会室に行って論議するんですが、話がかみ合わない。言ってることがチンプンカンプンで分からない。(中略)
それから関係の本を読み漁ったりしたんですがね。どうもマルクス主義とか、特にレーニン的社会主義というのは性に合わない。特に一番ダメだなと思ったのは「社会は階級的な基盤を基に成立している」。それはそのとおりだと思うんですが、「その階級が消滅すれば権力は必然的に基盤が無くなるのだから消滅する。残るのは社会だけだ。」とレーニンさんは言っているんですが、そんなこと、どう考えても人間社会で有り得ない。
権力が権力を作って行くのであって、権力が必然的に消滅するなんてことは歴史の事実として1回もない。基本的にウソだこれは。こいつらに勝つためにはアナーキズムしかない。
和泉にいる時代、部隊の多数を私たちアナーキスト集団の若い衆が、明治の部隊の中心になっていた。当時の63年というのはぺんぺん草も生えなかったんですよ。
60年安保大闘争を闘った栄光ある明治の学生運動は、その後、指導機関のブントの四分五裂があったりしてですね、私が入る前の年の62年に大菅法闘争という最後の燃えカスで、それを闘って、その後はもう評論家みたいな元活動家の人しかいなくて、デモといっても明治から行くのは多くて30人、普通はだいたい10人くらいしかデモに行かないというぺんぺん草も生えない状態ですね。

<学生会中執委員長就任>
だから5.6人のグループを作って活動すると、すぐブントの主流派になったんですね。主流派になってから、社学同系の人たちと一緒にずっと活動をしていたんです。何でかと言うと、比較的体質が合ったからなんですね、
ちょうど2年の後半から、私は当て馬で学生会中央執行委員会の委員長、昼間部全学自治会の委員長をやっていました。本当は社学同のオノズカ君という商学部の僕の同期の人間がなる予定だったんですが、商学部は民青が強くて、社学同の影響力がほとんどないところで、選挙に負けまして、中執委員になれなかったんですね。そこで、私が急きょ中執委員長になった。
私は珍しく中執委員長としては、その頃は1期で交代ということだったんですが、2期やって、4年の春までやったんですね。

<明大独立社学同>
その頃は明大独立社学同を名乗っていたんです。独立社学同というのは何かと言うと、社学同は旧来のブント系の学生運動のいろんな系列で党派がいっぱいあったんですが、その中でどこにも所属しない独立派が我々だったんですね。
独立社学同のモットーは、党より大衆運動が大事であるというのが基本的な価値観だったと私は今も思っております。もちろんマルクス主義や社会主義の勉強もしましたけれども、マルクス主義者や社会主義者になったことは、自分の心の中では一回もないんです。社学同に属しながらですね。
現場で起こっている大衆運動より、党の利益が優先するなんていうことは、あってはいけないということが明治の社学同の基本的な指導理念だった。
2年の半ば以降に作り上げた組織、ポツダム自治会と言われますが、大衆の合法的な機関としての自治会が、運動として最盛期を迎えたのが、明治大学の学生運動だったと今でも思っています。
全共闘の時代になると、手続きとかそういうのは全部無くなって、ある種の社会的学生大衆の感情みたいなもので、10人くらいでバッとバリケードを作って学校を封鎖する、それに呼応して大衆が運動に参加してくるみたいな運動になってくる訳ですが、私たちは地道に下からコツコツと運動を積み上げ、組織を積み上げ、大衆基盤を作って行く、そういう
活動をやってきた訳です。

(No275-2に続く)

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(No275-1の続きです)

<明大学費闘争の借り>
私が今日ここに来たのは、後輩の人たちに借りがある、借りを返さなくてはいけないということで、ここの幹事をやっているY・R君が私の2年後輩なんですけれど、明大闘争があんな形で終わったために、全国の批判を受けて、彼は明治の名誉回復には死ぬ気でやる以外ないということで、東大安田講堂の攻防の時には、社学同の行動隊長を引き受けて、あそこに籠って闘った、そういうことまで後輩にさせた私の責任というのはある。
明大学費闘争の本題に戻ります。
明大学費闘争当時、私は明治大学社学同のLC、これは常設の委員会で社学同の中のリーダー委員会、そこのキャップを明大学費闘争が終わるまでやっていました。
今考えてみると、未だに私は明大学費闘争が何故負けたのか分からない。何で勝てる闘争を、あんなに粗末な負け方をしたのか分からない。これは恐らく66年の春、明大学費闘争が話題に上る頃から、ずーっと長い間裏面工作があって、それが最後、2・2協定という形で結実したんじゃないかと思わざるを得ない、と私は思っています。

<中執委員長交代>
最初に始まったのが、次の委員長をどうするのか、ということ。「中澤、2期やったんだからもう降りろよ」と私は斎藤克彦に言われて、「そうか」と。でも、私としては、どうせ学費闘争の責任者をやれば退学処分は免れないので、勝とうが負けようが退学処分は出るので、わざわざ被害者を増やすことはない、俺は最初からその覚悟で運動に関わっていて、私は継続すると言ったんですが、同意が得られなかった。私は私がダメなら、次のバッターとして和泉の地区闘の委員長をやった小森君、彼が大衆指導者としての能力が一番高いので彼と言ったんですが、これも同意が得られない。
三番目に、だったら生田の井口君、彼は論理力もあるし冷静だから彼がいいだろうと言ったんだけど、それも受け入れられない。結局、見たことも聞いたこともない大内君が委員長になるという展開があったんです。
私が不勉強なのか、大内君がそこで名前が上がるまで、大内君の名前すら知らない。中執委員長を2年やって、生田の闘争もやりましたから、農学部不正入学闘争もやって知っておるんですが、名前すら聞いたことがない。もちろん顔も知らない。活動歴があるなんてことは、生田で何人かは活動経験でよく知っている人間もいたんですが、そういう人間でもない彼が突然委員長になったんです。
最初のアジテーションなんか見るもお粗末ぐらいだったんですね。ここから、今考えてみると始まっていたんではないかと思います。最後は話は通じないと思ったんだろうと思います。

<裏面工作>
そういう風に思われた私の不徳の致すところなんですが、その後、いろんな工作がいろんなルートで行われました。
政府のルート、総務部のルート、大学新聞のルート、いろんなルートがありました。それから先輩の学生運動経験者のルートが使われました。結局、ああいう形になりました。
私は、直接に裏話で具体的に話を聞いたのは2回だけでした。一つは斉藤君本人から、実は、総務課の職員だったか学生課の職員だったか私は記憶が定かではないんですが、に誘われて1泊で熱海に行かないか、切符も新幹線も手配すると言われた、買収工作だと思って俺は断ったんだと。
もう一つは、斎藤君から次の団交で総務担当、総務担当というのは基本的に学費問題の総括責任を負っている役員なんですが、加藤五六という理事に名指しで白紙撤回を迫れと、そうすれば、加藤五六は失言風にとにかく撤回します、と言うはずだと、だからこれを指名しろと。私はあえて指名しませんでした。何故かと言うと、実に簡単なんです。
これから運動がようやく上昇局面に入るところで、何で運動を止めなければいけないのか。私は勝つことを目的としていないで、勝てると思っていた。それは最も大衆の意識が高揚し、最終高揚局面のある段階まで行ったところで勝つなら勝ちたいと思っていた。
そうでなければ学費闘争をやった意味がない。
その2回しか私の耳には入りませんでした。
コソコソいろいろやてるみたいだから気を付けた方がいいよ、という話は何人かから聞きましたが、陰で誰と誰が会って、どういう話が行われていたかは、2・2の当日が過ぎるまで全く知りませんでした。馬鹿と言えば馬鹿なんですけれど。

<1・20団交と1・27団交>
特に顕著になったのが最終局面です。20(1月20日)団交だったかな。これが明治の学費闘争の大衆運動としては一番高揚して、団交終了後、校内と御茶ノ水の通りのデモで六千人くらいのデモが組めた時です。明治で六千人というのはすごいでしょ。通常三万の学生のうち一万五千くらいしか登校していないんですから。だから最も高揚した時期ですね。

(No275-3に続く)

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(No275-2の続きです)

そのあと、私は過労でずっと大学に泊まり込んで、碌な食事もとらなかったもんですから、一晩に鼻血を3回も出しましてダウンして、これじゃダメだから家で休養してくる言って3日ほど寝ていたのかな。
そうしたら経営学部の同期で、思想的にはどちらかというと構造改革派に近いミヨカワ君という友人が訪ねてきて、「お前がいないと、社学同が大変なことになっているぞ」と言われて、「そうか、そんなになっているのか」ということで、のこのこ行ったら、丁度91番教室で次の団交に向けての討論集会をやっていて、他党派が批判するのはともかくとして、今まで社学同を支持していた人から浮き上がっているんですね。
私は何が起こっているのか全然理解できませんでした。
何故かと言うと、27(1月27日)団交というのが和泉で開かれまして、この27団交というのは私は存在すら知らなかったです。集会の話を聞くと、もうボス交が成立して、手打ちの団交なんじゃないか、ひどいじゃないかと、こういう話です。
「そりゃひどい」と私は思いました。宮崎先生には、私は大変罵倒されておりますけれども、もう話はついていて、そこで妥協案が出されて、それでシャンシャンで、あとは調印だけにしようという話だったみたいです。
私は27団交の招集も受けないし、情報、こういう団交があるとか、ほぼ合意内容が出来たという話も受けてなかったです。ですから私にとっては青天のへきれき、何でそんな団交をやったのか分からない。
とにかく前面に体育会が出て、校歌の斉唱が行われるというひどい団交だった。唯一、和泉地区闘の小森がアジりにアジりまくって、何とかその日の妥結を逃れた後だったと思うんです、私が出て行ったのは。

<1・29団交での体育会との衝突 機動隊導入>
しょうがないから29(1月29日)団交に賭ける以外ない。これは元々設定されていた。
この時に私は、独立社学同の行動隊長であったイケハラに、100名の武装部隊を準備せよ、角材を持って舞台裏に潜めと。これは勝利の確約が得られるまで団交は続けるから、大学当局者が途中態勢しようとしたら檀上で阻止するから、そうしたら体育会が今度は檀上を占拠しにくるから、我々が殴られた後、体育会を殲滅しろと。体育会といっても、当時動員できるのは500名くらいだった。そのうちの過激派というのは100から150くらい。これさえ殲滅すれば、体育会はいなくなる。
北島のラクビー部、それから島岡の野球部、剣道部、ここらあたりしか強硬派はいなかったですから、絶対そうしろと言った。
一つは、私がもちろん現場に行く予定だったんですが、足止めをくらったんですね。当時、統一ブントの議長だった松本礼二氏が「中澤、こういうときに現場に出ちゃいかん。とにかく最後の決戦なんだから学外指導部を作るつもりで、俺と一緒に居ろ」と、こういう話で喫茶店に缶詰になったんです。ところが現場の方は、前の団交で社学同の妥協路線が見え見えになっていたんで、みんな他党派から突き上げられて、明治の指導と称して入っていた当時のブントの学対部長だった塩見、のちに赤軍派の議長になった男ですが、こいつが付き上げられて、社学同を中心にして武装部隊を作って、団交の始まる前から演壇の前を占拠していた体育会を殴り飛ばして、全員メッタ打ちでたたき出す、という行動に及んだんですね。
一番ビックリしたのは、恐らく記念館の周囲に集まっていた学生大衆の諸君だったんじゃないか。明治の社学同というのは、そういうことは絶対にしなかったです。理が通らない。不当に向こうが暴力を振るったから、暴力で振るい返すということは理が通る。
それから急速に学生のエネルギーが退潮になっていく訳ですね。
そのあと、91番教室に撤収した体育会が武装し始めた。この武装に耐えきれずに大学院団交に持ち込むんですね。
他所の党派は命を懸けてやる必然性もないですから、明治大学の学生運動にはほとんど何の足跡もない党派ばっかりですから、MLが二部に多少いましたが、みんな他の部隊は散ってしまう。明治だけ残るという状態です。
私はようやく大学院団交をやって、ここに居てもしょうがないということで、私が一番運動で尊敬していた松本礼二、当時議長に私は現場に行きますから、議長に何と言われようと現場に行きますからと戻ったんですが、もうその時は最後の団交だったですね。
一方で91番教室の体育会は本館のバリケードを崩し始める、いつ警官隊が導入されても支障がない状況でした。結局、警官導入で排除されてお終い。

※ 中澤満正氏は、病気療養中のところ1月21日に逝去されました。
ご冥福をお祈りします。

※ ホームページに「学費値上げ阻止にむけて」(1966)をアップしています。そちらもご覧ください。

(次週に続く)

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