野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2013年02月08日

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(文書が長くブログの字数制限を越えるため、No276-1からNo276-3に分けて掲載します。)

先週に引き続き、昨年10月、1966年当時の学生会中執委員長であった故中澤満正氏(写真)が、明大土曜会の会合で明大学費闘争について語っていただいた内容の後編を掲載する。
なお、文章が長いので、筆者の独断でタイトルを付けさせていただいた。

<2・2協定前夜>
翌日、駿河台で大衆集会をやろうと思っていたですが、全然集まらないです。他所の党派はほとんど来ない。明治も社学同系の強烈なシンパの100人弱しか来ない。誰もアジテーションもしない。一人私がアジテーションするだけなんです。
私はここで、大衆のエネルギーからかけ離れた学費闘争の衰弱というのを初めて認識して、翌日の2月1日の全学闘会議で妥結案を呑んで、半年結論を伸ばし、その間に学生と協議するという案で手を打つしかない、敗北を宣言しようという方針を出して、その議論が進行中だったんです。
それが1回でまとまる会議だと思っておりませんから、全学闘では了解されましたけれど、各学部闘争員会、各地区闘での了解を得ておりませんので、その晩、ブントに呼び出されて明治のLCとブント学対、そして社学同の都委員会との合同会議が行われるんですね。
確か「2月7日にブント総力で明大支援の総決起大会を明治で開くから、それまでは妥協されては困る。妥協するならそのあとにしろ。そうでないとブントの面子が立たない。」ということで、私は「ブントの面子はそうかもしれないけど、我々は大衆運動として生きてきたんであって、大衆のエネルギーのないところで、党の面子だけで闘いを続けるなんてことはできない。」と言って、最後まで折り合わなかったんです。
そのやっている会議の中で、一人ずつLCが呼び出されて消えていくんですね。最後に残ったのは商学部の委員長で全学闘の書記長だったスガヤ君と私だけです。最後に「社学同やブントが面子で闘いを進めるというのなら、今日、私は全学闘で妥結すべきだという方針を出したんで、とても一緒にはできない。私はもうここで運動を降ろさせていただきます。やるなら社学同がやってください。明大独立社学同としてはできません。」と言って、そこで打ち切りになったんです。
最後に「斎藤克彦もいないし、コガもいないし、その他、明治のLCも見ての通り一人散り、二人散りしているのでどこかから呼び出しがかかっているようだから、斎藤の行方を確認して、押さえるなら押さえないとダメですよ」と忠告だけして、「私はこれでブントとは縁を切らせていただきます。」と言った。
中大学館の臨時亡命政府から離れるんですね。

<2・2協定調印>
朝、タクシーに乗ってスガヤと二人で「終わっちゃったな。明日からどう生きるか考えなくちゃいかんな」と言っていたら、タクシーのラジオの臨時ニュースで「未明にホテルで、懸案だった明治大学の学費値上げ反対闘争は妥結、調印した。」という話が出た、
「何だ、俺らが政治局とケンカしている間にあいつら勝手にやりやがった。」
しょうがない新宿に出て、深夜映画館に入って、飯食って、それで私の学生運度は終わったんですね。
のちに大内君の証言によると、かなり前から学校当局と会って妥結案の検討がなされ、当日までは約1週間近く篠田さんの自宅にずっと居てですね、そこから調印式場に行った。私は誰が仕組んだなんてことは言いませんけれども、そういう人たちは自分たちが正しいと思っているんでしょうから言いませんけれども、私はいつも交渉は大衆の前で、大衆の道義に基づく共感が得られない運動はやらないということで、一方的に我々は自治会を論破し、大衆的共感を得てやってきたポツダム自治会運動の最後の運動だった。
それだけ大衆基盤もあったんですね。(中略)

<明大社学同とは>
余談ですが、私は明治の社学同、あれだけ全学制覇したけれど何人いたかというと、30名です。30名いれば十分だと思った。30人が100人の人間を、あたかも社学同のように考える仲間を持つ。その100名が5人から10人の、ひと声かければ一緒に闘う仲間を持っていればいいと。
そうじゃなかったら、民青は当時明治に300人いたんですから、それでも全学部で共産党を追放して社学同が持っていたのは、やっぱり、そういう大衆基盤なんです。
その大衆基盤を大事にすることが一番重要だ。できれば学費闘争でそれを倍くらいにしたい、常時だいたい500名動かせる力を、主要な闘争だと社学同のLCが考えた時に、もちろんいろんな手続きを踏んでですが、共に参加してくれる500名の部隊を作りたいと思ってたんですね。

(No276-2に続く)

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(No276-1の続きです)

だから私は党を肥大化させることを自己目的にする人たちとは、基本的に相いれなかった。考えてみると、私は学生運動を4年くらい付き合いましたけれども、結局、一度も社会主義者になったこともないし、共産主義者になったこともない、ましてブントなんていう前衛政党に属したこともない、そういう人間でした。(中略)
明治の社学同は支部総会をやっても全員集まらないんですから。だけど、中央大学は社学同が一応取っていましたけれど、あそこの権力基盤は非常に弱くて、3分の1しかなかったんです。右翼が3分の1.民青が3分の1、社学同が3分の1。まず右翼と組んで民青を暴力でたたいて学外追放して、次に右翼をゲバルトで放逐して、その助っ人でいつも明治が行くんですが、その時は全員集まるんです。そういう社学同でしたから、真面目な社会主義者にとっては極めて不真面目な独立社学同でした。

<大衆運動の原則>
でも、忘れてはいけない原則というのは、とにかく大衆運動が死ぬ気でやると言った時に、本当に一緒に死ねるのかどうか。
僕は最後の30団交で手を洗いに行った時に、2人や3人死ぬことがあっても、今日は
戦い抜く、これが最後の勝利のチャンスだからと言ったんです。ある人に言わせると、たかが学費という学内問題じゃないか、適当なところで手打ちすればいいと言うけれど、それでは、学生大衆からすれば見え見えで、そんなものに踊る学生大衆はいない。そうじゃなくて、たとえ敗れようと勝利しようと、自分たちの成果は自分たちの結果だということが実感でき、共感でき、敗北した後でもちゃんとその後の陣形が構築できるようなものにしなくてはならない。これを階級形成論というんですが、革命というのは民衆のお祭りだと言った人がいます。私もそうだと思います。
大衆エネルギーの頂点まで行った時に、革命的な指導と結びついたその一瞬に革命というのは起きる。日常生活を送っている大衆が、毎日革命のことなんか考えっこないですよ。今日食う飯のことしか考えない。今迫られている仕事の事しか考えない。自分の子供が今悩んでいることしか考えないですよ。でも、そういう人たちでも、あまり非道なことをすると怒りを感じるんです。素直に怒りを感じたエネルギーが、ちゃんと表現できるような組織や運動が必要だと思います。

<大衆運動の組織論>
僕は今の運動で一番欠けているのは、いろんな意味があるんですけれど、党派の思惑に支されない良さというのはあるんですけれど、大衆組織、大衆運動の技術というものの軽視だと思います。例えば、我々がここに運動の頂点を持ってこようと思ったら3ケ月前からずーっとプログラムを作るんですね。
例えば3ケ月前にやる講演会の講師は、非常に理性的で知的で論理的で実証的な学者を呼びなさい。2ケ月前になったら、その政治的な意味合いがどういう意味合いなのかというのを呼びなさい。闘争の月に入ったら、アジテーションの上手い学者・文化人を呼びなさい、こういう風に組み立てるんです。
朝、正門で撒くビラは2ケ月前はこういうビラ、1ケ月前はこういうビラ、闘争の時になったらこういうビラ、とトーンがずーっと変わって来るんです。昼時に食堂前で撒くビラはこういうビラ、と同じビラは絶対撒かない。それからクラス討論に持っていくビラはこういうビラ、ちゃんと討議素材として扱えるビラ。それから看板の置く箇所も徐々に増やしていくんです。校庭に立てる旗の本数も、1ケ月前から徐々に増やしていくんです。
最後の10日くらいは大立看板で、全クラスのマス目取りをして、そこに例えば原子力潜水艦寄港反対決議をしたクラスはそこに貼り出す、ストライキ決議をしたところは赤でストライキ決議、とずーっと貼っていくんです。
そうすると、何も貼られていないところは非常に肩身の狭い思いをするんですね。そこへ行って、とにかく教授とケンカして、教授を教室からたたき出して、暴力じゃなくていたたまれなくして、そして決議を取ってくる。
大衆のエネルギーをその1日の1点の集中させていくという、これは明らかに大衆運動の組織論なんです。だからそういう技術というのは、昔の日本共産党が一番長けていたんですが、そういう伝統も共産党は無くなったからね、大衆迎合しか考えなくなったからダメなんですが。

<大衆に支えられて次の指導者をつくる>
日本の戦後の大衆運動史を見ると、全うな労働運動をやって、組合員が命までかけて戦ったのはどういう闘争だったかというとですね。労組の執行委員は、みんな現場で一番優秀でよく働く人間が執行委員になった時代だった。

(No276-3に続く)

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(No276-2の続きです)

「あいつがやるって言うんだから、やらない訳にいかんよな」。だから三井三池なんかもそうです。そういう伝統が無くなって、労組官僚が生まれるようになってから、日本の労働組合は、ストライキ一発すら打てなくなった、こういうことなんです。
もっと普通の生活者の目線で、その人たちの共感を得ながら、その人たちがいつでも自分の頭で考え判断し行動し、場合によったら闘いに参加する、そういう陣形を作らなけりゃいかん、と私は思います。
一軍だけではできないですよ。今のサッカーの繁栄というのは実に戦略的に作られてますでしょ。J1の1部リーグ.二部リーグ、その他3部リーグもあるでしょ。それでどこでも言っていることは、大衆に支えられろということですね。サポーター組織が全国に張り巡らされている。スポーツの世界でもそれぐらいのことを考える。私たちももうちょっと、私たち自身が単なる大衆に落ち込むんじゃなくて、いつも次の指導者を作るという視点で、自分たちと同じ思いで動いてくれる人たちを作って、その人たちも一人で動くんじゃなくて、仲間を作るということ。(中略)

<謙虚さを持った政治集団に期待>
私は理論家でもないし、何でもないんですが、ともかく物知り顔にいろいろ言う人に対しては我慢がならない。
だから塩見君なんかの不幸は、関西に居られると困るということで、本部に出そうということでブントの本部に来て、学対部長をやらされて、行くところが無くて早稲田に付いたというのが始まりですね。早稲田の社学同なんてごく少数派ですから、運動なんかやる必要がないんです。そういうところと、全ての行動が全学生に見られている、そういうところの学生運動は基本的に違うんだと私は思います。
全てがポツダム主義的自治会みたいな、ああいうヒエラルキーを持った運動がいいなんて思いませんけれども、そういうノウハウを身につけた活動家がいれば、もうちょっと、もったいないですね、毎週金曜、あれだけ反原発で国会前に減ることなく集まるエネルギーを持っていながら、あれを何で10万人に出来ないかと私は思うんです。
時としてどんなに素晴らしい党派でも誤ることがある。誤った方針が出た時に、文句が言える大衆政治集団が私は必要だと思います。
だからこそ私は、ブントも再統一で統一委員会というのを作るんですが、その創刊準備号で長崎浩さんが書いている、「我々は歴史的相対的存在である、明日も我々が優れているとは限らない。相対的というのは、他所の党派が全部間違っていて、自分たちだけが唯一正しいという訳ではない。相対的に正しいと思っているだけだ。」ということを言った党派はそこしかなかったんですね。その人たちとやる羽目になった。
でも、私はそういう謙虚さを持った政治集団が、党というのは難しいだろうが、現れないか、綱領があるから革命が出来るんじゃない、大衆のエネルギーがあるから革命ができるのであって、亡命していたレーニンがソ連に帰ったということは、私はあまり評価しないんです。国内に残って大衆運動をずっと指導していたトロッキーの方が大衆政治家としてはまっとうだと、私は未だに思っております。トロッキストじゃないですよ。トロッキーの考えに賛同することはないですが、いわば運動とともに生きる人間の生き方としては、ああいう生き方は正しいんだ、と私は思います。』

以上、故中澤満正氏の講演の内容である。
中澤氏からは、後日、次のようなメールをいただいた。合掌。
<先日は大変お世話になりました。久し振りの顔にも会うことが出来ました。心に重く数十年の亘って後輩にすまない、責任を取っていないという負債を多少でも今回の企画で返せたら望外の幸せです。感謝申し上げます。(中略)
 アジテーターとしての私は明大闘争で多くの人の生き方を変えた責任は自分の一生の生き様で返す以外にないと思い正直に大衆組織化に総てのエネルギーを掛けてきたと思っております。(中略)
 短時間でたいして中身のある話ができず申し訳ありませんでしたが、現状の私の体力では精一杯でしたのでご容赦ください。
貴兄らのご活躍を祈っております。>

【明大学費闘争の概略】
1966年
6月 学校当局学費値上げの基本方針決定
6月~10月 学費団交が続く。
   11月 全明治臨時学生大会を開催しスト権を確立
        和泉地区・生田地区スト突入。本校バリケード構築。
   12月 二部学生大会でスト権確立
        和泉校舎に右翼襲撃
        学費値上げ発表
1967年
 1月20日 学費団交 8,000名結集
 1月29日 学費団交 全学闘と体育会が衝突
 1月30日 機動隊導入 バリケード撤去
 2月 2日 2・2協定調印

※ ホームページに、明治大学学生部発行「学費問題紛争経過報告書」をアップしています。そちらもご覧ください。

(終)

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