野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2013年03月01日

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(文書が長くブログの字数制限を越えるため、No279-1とNo279-2に分けて掲載します。)

前回の「明大全共闘クロニクル」では、1月の東大闘争1周年集会の様子などを掲載した。
今回は2月から3月にかけての学内での民青との衝突、全共闘政治集会などの様子を掲載する。

【明治大学新聞 1970.2.12】
『和泉地区でトラブル
1月31日、和泉地区で全共闘系学生と民青系学生がトラブルを起こしたが、教職員が間に入ったためもあって、大規模な衝突には至らなかった。
31日の正午ごろ、第三校舎前で集会を開いていた民青系学生約30人と、一部ヘルメットを着用した全共闘系学生約80人はそれぞれ中庭でデモ行進した後、民青系学生は再び第三校舎に集結した。一方全共闘系は第一校舎と第三校舎を往復してデモをかけた後、第一校舎の玄関で集会を開いた。
この後、民青系学生が礫川公園に向かうため、正面方向に進んだが、全共闘系学生の傍を通過寸前に双方入り乱れての乱闘となった。教職員2、30人がこの中に入って止めたため、乱闘は数分で終わり、大したケガ人も出なかった。
このトラブルに対し、学長は「警告」を発した。要旨は次の通り。

さる1月31日正午すぎ、和泉校舎中庭および正門前において、二つの学生デモ集団のあいだに衝突さわぎがあった。トラブルは教職員や一般の学生諸君の多数の力によって大事に至らなかったが、学園内のこのような暴力事件を再び起こさないよううに厳重に警告する。
大学は現在全力をあげて紛争によるマイナスを取り返すべく努力を続けており、このような無法な事態が引きつづき起こることを許容することは絶対にできない。
学生諸君は大学が現在おかれているきびしい現実を認識し、一切の暴力を学園からしめ出し、一日も早く学園の平和が再建できるよう努力されることを切に要望する。』

『生田でも学生が負傷
2月9日、生田地区でも学生同士のもみ合いがあり、一人が負傷し救急車で近くの病院に運ばれた。
民青系の学生1人が農学部校舎付近で、「法政大学内ゲバ事件」に関するビラを配布していたが、午後3時ごろこの学生を全共闘系学生が学生会館前で討論を始めた。
ところが、4時半ごろ突然この民青系学生が逃げ出したが、工学部事務室付近で全共闘系学生にとり囲まれ、追及を受けた。その後、部屋の中に入り、「自己批判書」を書かされる
などしていたが、そこへ約20人の民青系学生が現れ“救出”し、部屋を出て行こうとした。ところが、民青系学生の一番最後にいた学生を、全共闘系学生がスタンド式灰皿で、頭や肩などを数回殴打した。殴られて一瞬気を失って倒れた学生を全共闘系は再び部屋に入れた。これに対し、約30人の民青系学生も角材を持ち、再度救出した。
午後7時ごろ負傷した学生は救急車で病院に運ばれたが、頭部4ハリ縫う裂傷、なお、骨には異常はなかった。』

和泉地区と生田地区では、民青系との緊張関係が異なっていたようだ。私がいた和泉地区では、民青系はキャンパスの中でも少し離れた第三校舎、全共闘系は学生会館・生協会館と棲み分けがあって、生田地区のような派手な衝突はなかったと思う。
民青系はあまり表だって登場してこなかったように記憶している。

【明治大学新聞 1970.2.12】
『明治公園で全軍労支援集会
全国反戦青年委主催の「全軍労闘争連帯集会」が2月4日午後6時半から、明治公園で開かれた。
集会には各大学全共闘、労働者、市民など4,500人(警視庁調べ)が集まった。大学からもブント、ML、反帝学評、中核など200人ほどが参加、これを代表して本間晟豪、横谷優一君が登壇し、連帯のあいさつを述べた。』

2月の学外集会に引き続き、2月10日には全共闘政治集会が開かれた。

【明治大学新聞 1970.2.12】
『和泉で政治集会開く 全共闘800人が結集(写真)
今年はじめての全共闘主催の「政治集会」が、2月10日午後2時から和泉地区第二校舎6番教室で開催された。
この集会は”霑?凌靴靴ぜ舛砲茲詭逝臍感ζ運動の再編強化討論会、自主講座を設定し、結集の場を保障することF?鄙忙漾∋偉つ容争、4・28闘争、6月安保闘争をいかなる質でもって闘うか、などの視点で開かれたもので、会場には各闘争委、および一般学生も巻き込み、最盛時には約800人の学生が結集した。
学生会中執両川敏雄委員長の挨拶に引き続き、全共闘の横谷優一君が「さらなる70年代の階級闘争を」と基調報告を行った。その後、二部共闘、生田地区全共闘、獄中からのアッピール、商闘委、法闘委、統一救対、10・9被告の順でそれぞれ連帯の挨拶を表明した。
最後に関口成一全明全共闘議長が「今日の集会は圧倒的に勝ち取られた。この成果を踏まえ、4・28沖縄闘争を闘い抜こう」としめくくった。そして「改革案全面撤回」「全共闘の階級的飛躍」「2・20入試粉砕闘争に決起せよ」などのスローガンを採択し、インターを斉唱、いったん中庭に出て、約300人がデモ行進を行った。

(No279-2に続く)


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(No279-1の続きです)

その後、同じ6番教室で映画「パルチザン前史」が放映され、午後8時すぎ終了した。
この日の集会は大学側と次のような確約事項を結んでの条件つき集会であった。
.悒襯瓮奪函△海麕世鮖?噌?泙覆き∨塾蝋坩戮魑こさない試験・授業の妨害をしないぢ沼膤慇犬鯑?譴覆きセ?屐文畍6時まで)を守ること、というものであった。
このうち.悒襯瓮奪函↓イ了?峺啓蕕砲弔い討惑亡?坩戮あるかもしれないことを、最初から双方話し合った。
また、この集会は学生側は「経営学部学生会」の名で届け出たが、大学側は全共闘の政治集会にスリ替わることを承知の上で許可した。昨年にくらべ、大学側の柔軟路線が目につく。』

この全共闘政治集会で配られた1枚のアジビラを、明大新聞が資料として載せている。

【明治大学新聞 1970.2.12】
『全共闘運動の新たなる飛躍を準備せよ! ―2・10政治集会アジビラよりー
社問研闘争委員会
われわれは今日まで全共闘にかかわってきたが、それは全共闘が69年1月の安田攻防戦により質的に転化したと判断した。だからわれわれはそれを受けつがなければならないと感ずるのである。
それゆえ、普段に目的意識的に帝国主義支配体制を打倒し、プロレタリア権力を樹立する政治部隊としての登場を主張するのでなく、今日まで東大・日大の教育学園闘争が切り開いた、帝国主義ブルジョアジーの教育政策の各大学への具体化(=自主規制路線)を粉砕する、各学園の個別大衆闘争機関とわれわれは位置づけてきたし、それをわが明治においても追及いくだろうという展望をもったのである。われわれはこの様な立場にたって運動に参加してきたのであった。
だが、今日までの全共闘は10、11月闘争を重大視して、全共闘内における各闘争委の質が、改良主義的傾向を多分にもっていることを十分に認識しえずに、政治カンパニア闘争へひっぱりだそうとして、全共闘の組織的混乱と失墜を招いていった点があったのではないだろうか。
そして、今日卒業試験粉砕闘争を通じて、入試粉砕闘争にかかわっていくとき、この闘争がわれわれに論理的に説明しえても、更なる前進が卒業試験粉砕闘争をみても約束されない以上、全共闘の今後の方向性についてますます危惧が起こってくるのだ。(後略)』

このアジビラを明大新聞に掲載した意図は定かではないが、内容としては、明大全共闘が抱えていた問題点を明らかにしたものと言える。
明大全共闘は結成時点から党派主導の全共闘という宿命を負っており、学内的には6項目要求を掲げつつも、各党派は69年11月の佐藤訪米阻止闘争、そして70年安保闘争という政治闘争を闘う部隊として全共闘を再編しようとしていた。
しかしながら、そのような「政治的流し込み」に対して、全共闘に参加している各闘争委員会の中には、このアジビラのように、批判的な立場も存在していたのである。
この問題は、70年6月以降、ノンセクトの台頭と、それに対する党派の対応の中で先鋭化してくる。

次は入試と卒業式をめぐる全共闘の動きである。

【明治大学新聞 1970.2.26】
『20日 全共闘がデモ行進(写真)
19日の三里塚現地闘争に参加した本学全共闘は、20日、入試粉砕に向けてデモ行進したり、ビラを配布したりした。
お茶ノ水駅、学生会館、7号館前で受験生にアジビラを配布していた全共闘は、10時頃から元町公園にヘルメットをつけた部隊約百人が結集、交通警官にサポートされながら記念館前を通り神田常盤公園まで整然とデモ行進した。
同公園では制・私服警官がとりまく中、全共闘の関口成一君と藤田美紀浩君が入試粉砕に向けて決意表明、同じく横谷優一君が「各闘争委員会を単位としたアジビラ配りを中心」とする一連の入試粉砕行動提起を行った。その後、各地区に分かれて連絡合議を開き流れ解散した。』

【明治大学新聞 1970.3.19】
『入り口で一部混乱
昭和44年度の卒業証書授与式は3月25日、神田地区で挙行された。この日、開始時刻の午前9時30分直前に、反帝学評系学生約20人が、卒業式粉砕を叫んで、法学部の式場となっている記念館講堂に突入を図った。しかし会場入り口で職員に阻まれ、約20分インターと怒号が入り乱れ、押し合いを繰り返したが、結局職員の力に圧倒され、扉がしめ切られた。
このため、法学部の式は約40分遅れて始まり、式次第途中にも、扉の外からインター、シュプレヒコールが聞こえてくるなど、落ち着かない卒業式となった。(中略)
学生は記念館から中庭にデモをかけ、ここでも集会を開いて気勢を上げた。大学側は機動隊を要請。正門付近に機動隊の姿も見られた。学生は9号館裏口から学外に抜け、逮捕者はなかった。(後略)』

明大全共闘として各党派が一緒に行動していたのは、3月までであった。
4月から新入生を迎えて新学期が始まるが、70年6月に向けて明大全共闘内部の主導権を巡って党派間の内ゲバが顕在化していく。

(つづく)

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