野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2013年03月

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(文書が長くブログの字数制限を越えるため、No282-1からNo282-3に分けて掲載します。)

3月3日(日)、明治大学リバティーホールで、経産省前テント広場やたんぽぽ舎などの主催で「福島原発災害に学ぶ 福島・首都圏の集い」が開催された
福島の現状については、マスコミでも伝えられることがほとんどなく、福島原発災害が引き起こした問題が忘れられ、風化させられようとしている。このような状況に立ち向かっていくためには、福島の方々の声を広く伝えることが重要だと考える。
集会では11名のゲストスピーカーの方が発言したが、今回はNo280に続き、2名の方の発言を掲載する。
(録音が聞きとれない部分など、発言の一部を省略しています)

郡司『続きまして、大熊町明日を考える女性の会、木幡ますみさん、お願いします。』

木幡ますみ(こはた ますみ)さん
【1954年郡山市に生まれる。1978年12月、結婚を機に大熊町野上に住む。農業(水田耕作)をしながら夫婦で学習塾を経営して生活を営む。3・11後は田村市の体育館そして会津若松市の仮設住宅で避難生活。その中で「大熊町の明日を考える女性の会」を結成し、その代表として活動。夫の前大熊町議・木幡仁さんとの共著で「原発立地・大熊町民は訴える」がある。】

木幡『こんにちは。今、会津若松の仮設に住んでいます木幡ますみと言います。2日前、家に一時帰宅しました。その時、雨がしたたり落ちるところで(放射線を)測りましたら、120マイクロシーベルトありました。(会場から「エー!」という声)とんでもない数字なんですけれども、私は帰ってきた後、もっとすごい話を聞きました。町長さんが、大河原という地区があるんですが、そこに除染の様子を見に行ったらしいんです。10僂箸いΔ鵑任垢、やった方は、だいたい30僂らいの土をはぎ取って除染したらしいと言いました。、そして、その後、みんなで「下がった下がった、よかったよかった」と万歳して、その後、お目出度いなと思うんですけれども、大熊地区で食べたらしいです。「お弁当ですか」と他の人が聞いたら、弁当じゃなくて大熊で作ったんだ、「うわー何ということだ」と思いました。
私は元々原発は反対です、本当に。私は実家が郡山なんです。私の実家の近くに仮置き場があります。誰も居なくなりました。若い人はみんな出て行きました。思うんです。原発を、何でこんな排出物を溜めることも何もできない、何で初めから原発を、いくら出稼ぎが困難だとかなんとか言っても、それを受け取ったんだと、それを受け取った人たちは完全に謝罪すべきです。それに対して私たちは文句は言いません。ただ、出ても何も掴むことのできない放射性廃棄物を、またこれを今度出たらどこに捨てる、消すことは出来ません、確かに。だけど、今、郡山、福島、中通りにおいては本当に人が住んでいるんです。毎日毎日、皆さん放射能の汚染に怯えながら暮らしています。
私たちは、2週間くらい前なんですけれども、福島のところで、西尾先生という北海道のがんセンターの院長先生がいらっしゃいまして、甲状腺の検査を受けました。
私は夫より長く一時帰宅で何回も行っているんですけれども、夫は元々腎臓が弱かったんですけれども、震災で逃げてから、普通、地震だったらまた家に帰って何とかなります。しかし、原発の事故で、夫は体育館で水も飲めない、塩分ばかり付いたものを食べて暮らしていたので、腎臓がとうとうパンクしてしまいました。それで、私の腎臓を、震災の年の6月にあげました。その時、私と夫は甲状腺の検査も受けました。あげる人、もらう人、どちらも異常があったら絶対にあげられませんし、もらえません。私も夫も甲状腺は何の異常もありませんでした。
ところが2週間前に西尾先生に診てもらいましたら、夫は嚢胞がひどく、そして結節がかなり大きく出来ていました。夫には一時帰宅は行かせなかったんです。私の方は嚢胞が軽く2つありました。その時、西尾先生がおっしゃるには、「郡山、福島、毎日毎日、放射能の汚染でみんな大変な体になっている。本当に嚢胞が出来て異常事態だ。」とおっしゃっていました。私もそう思います。
私たちの町長は「帰る帰る」と言われていますが、私は絶対100年経とうと帰れるとは思っていません。「何という鬼婆だ」と言われましたが、私の夫が退院したら町長選に出しました。そして絶対に帰れないということと、脱原発を訴えました。しかし、落ちましたが、でもそれよりも、大熊の人たちが昔だったら一言も反論ができない状況でした。しかし、今、皆さんも私たちは帰れないということをおっしゃっています。本当は帰りたいんです。だけど帰れない。子どものためにも自分のためにも将来のためにも、本当に帰れないとみんな思っているんです。

(No282-2に続く)

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(No282-1の続きです)

私は飯舘に叔母たちがいるので空間放射線量を測ってきました。しかし、異常です、高いです。飯舘も川内もそうなんですけど、草むらとかに行くと1以上あります。ひどいところは5マイクロシーベルトありました。それは道路の脇の草むらとかです。私は自分の家が山の方なんです。家の後ろが山なんです。私の家の後ろは双葉です。こんなところに住めるはずはない。ましてや、家の水がしたたり落ちるところで120マイクロシーベルトというのは、このまま住んでいくと、私はどういう人間になっちゃうのかな、と思いました。
私たちは2度と帰れない。また原発は本当に危ないです。今、4号基も全然収束していないし、傾いたままです。人間はこんなに恐ろしいものを、捨てるところもなく作ってしまったことに、あまりにも科学の便利さに頼ってきたことに、私もそうですが、一人一人が自己反省し、二度と作って稼働してはいけません。
そして、この郡山、福島は人が住んでいるんです。子どもが住んでいるんです。チェルノブイリ事故のあったロシアは国土が広い、だから100キロ以内は住んでいない。だけど日本はそうもいかないんです。住んでいるんです。私たちは、ここに住んでいる子たちのためにも、中間貯蔵施設を、私はいろいろ言われましたが、やはり大熊で引き取って、その代り私たちは自分たちが生活する権利がある。だから私たちの補償を国はキチンとして欲しいです。家や土地を私たちにキチンと提供して欲しいです。また被曝管理者手帳を、原発で働いている方とか福島県民に、無料で医療が受けられるように配布して欲しいと思います。よろしくお願いします。』(拍手)

郡司『ありがとうございます、つらさとか悲しさとか、生々しい声からみなさん感じ取れたかと思います。続きまして、同じく富岡から避難された木田節子さん、よろしくお願いします。』

木田節子(きだ せつこ)さん
【1954年岩手県に生まれ育つ。35年前結婚を機に福島県いわき市に住み、21年前に富岡町に自宅を建てる。震災時は松戸の娘宅に同居して都内の介護施設で働いていた。自宅に帰れなくなり、避難所10か所を転々とした後、現在の水戸市へ。その間必死に情報を集め、学習して、昨年3月から原発難民として反原発運動に参加し、積極的に発言。今も日々学習しながら、この国の在り方を告発し続け、若い人たちや福島第一原発の収束作業で働く原発労働者にメッセージを送り続ける。】

木田『皆さんこんにちは。皆さんのように私たちの話を聞きに集まってくれる人はある程度勉強している方たちなんで、私たちよりも以前に、もしかしたら第二次世界大戦が終わった以降の歴史なんかも知っていたり勉強していて、早くからこの国の問題に気が付いていた皆さんだと思うんです。
私は、58歳になりますけれども、そういうことを何も知らずに、どちらかと言うと、今回の原発事故で自分が原発難民になるまで何も知らなかったものですから、反省だとかそういう綺麗ごとではないんですが、自分たちが原発難民になって感じたことを、都会の人たちに聞いてもらおう、なにせこれほどのことが起こったのに、この国は平気で自分たちの思い通りの事をしようとしている、それをするためには私たちが一生懸命働いて納めた税金を使っているんですね。
湯水のごとくという言葉がありますが、私たちが働いて納める税金が湯水のごとくあるのでしょうか。とてもじゃないけど働けない厳しい状況の中で、それでも納めてはいる訳ですけれども、私たちからぶんどったお金で好き勝手にしている訳ですよね、あの人たちは。
それに対して誰も文句を言わないですよね。その文句を言わない奴らは誰かということを考えたら、男の人、現役で今、頑張っているサラリーマンなんです。私の家の旦那なんです。(笑)
被災者で原発難民になりましたが、私の夫はあと3年現役が残っています。一生懸命働いています。たぶん恵まれた環境だと思います、当たり前に給料ももらっています。ボーナスももらっているので、私は東京に来ていろんな集会に出て物を言ったり出来るんですね。
田んぼも畑も失われて、それが出来ない人の代わりに、出来る者がやらなければいけないと言い聞かせてやっているんですけれども、私の目の前にいる夫が「お前が一人原発反対と言ったところで仕方がないだろう」と言ってきかなかった。

(No282-3に続く)

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(No282-2の続きです)

説得するために、お父さんの給料明細の源泉徴収票を見て、「これ見てみなさいよ。12か月計算したら、お父さん、所得税や社会保険で百万円引かれているんだよ。私と結婚した頃、たった6万8千円の給料だったよね。」35年前、鼻で笑っていました。私は東京でバスガイドをしていて、すでに12~3万給料をもらっていましたので、結婚する時に、こんな福島のたった6万くらいしか給料もらわない男の人と結婚して大丈夫かと思ったんですね。(笑)その時は私もまだ若さと情熱があったのか、あの人しか目の前にいなかったのか、(笑)どちらも忘れてしまったんですけれども、それでもやっていけるだろうと思ったんです。出来なかったです。お互いに貯めたお金を食いつぶして、銀行からお金を借りたりすることを覚えたり、自転車操業でここまでやってきたんですけどね、今、現役のサラリーマンもそうだと思うんですよ。でも、そのサラリーマンが何も言わない。このサラリーマンが「俺たち税金払わないぞ、ちゃんとやらなかったら払わないぞ。」と言ったら政治も変わるんだろうに。(拍手)
木幡さんと話して何かやろうと思って、12月10日に新橋駅前、SL前で2人でゲリラ街宣をやりました。その時の様子が○○に紹介されています。
私がすごくおっかない顔して喋っているのに、隣で木幡さんがニコッとお人形さんみたいに可愛らしく立っているのが気に食わないんですけれども(笑)、なんだか知らないうちに震災前は同じ双葉郡で会うこともなかったのに、今、こうして連絡を取り合って、2人で何か出来ることをやろうね、とやっているんですね。
新橋駅前のゲリラ抗議、2月は残念ながら悪天候などで出来ませんでした。3月は何とかやりたいと思っています。サラリーマンが考えたら本当に変わるんですよ。また、若い人も考えれば変わるんです。御茶ノ水の駅からここまで歩いてくる時に、学生さんがいっぱいいました。勘違いして、私たちの話を聞きにこんなに来てくれたんだと思ったら(笑)、ここに入ったら別の会場に流れて行ったんです。本当は皆さんは来なくていいんです。
本当は、皆さんは聞かなくてもいいくらい十分に勉強しているんです。聞かなければいけないのは、別の会場に流れて行った若者たち。明日、明後日、来年、その先を生きるためには、そっちじゃないです。そのことに気付かずに目の前を通り過ぎて行く若者たちに早く気が付いてもらいたいと思いました。
先日、私は木幡さんと同じ避難民として一時帰宅しました。フォトジャーナリスト山本宋補さんの本に、お互い紹介されています(「鎮魂と抗い3・11後の人びと」)。まだ買っていない方がいれば、是非お買い求めください。木幡さんがいっぱい載っています。私はやっぱり怒って喋っているところしか載っていません。(笑)山本宋補さんに一時帰宅に同行していただきました。山本宋補さんは入りすぎです。かなり被曝していると思います。木幡さんの家に行ったのは、私の家の次の日です。私の家は庭先で最高で10マイウロシーベルトくらいでした。前に行った時は4.6くらいだったのが、雨が降って水が庭に流れて、その雨の流れたところに落ち葉が引っかかった、そこのところが高かったんです。3か月前は4.6だったのに、この間帰ったら10いくつだった。家の中も測りたかったんですが、鍵を忘れて入れませんでした。
除染作業は無駄です。はっきり言って意味がない。本当にこの国と政治家とゼネコンと、そこからおこぼれ頂戴している地元の人夫出し、そういった者たちが儲かるための構図だと、そんなことを、いつやるか分かりませんが、新橋駅前のゲリラ抗議でやっていきます。
私たちは出来ることをやっていきます。福島県民は喋ったりやったりして行きます。でも一番やっていかなければいけないのは、皆さんだったり、私たちの前を無視して通っていった関心の無い人たちです。
私たちはもう失うものは無いんです。守りたいものがいっぱいある福島県民以外の人たちが声を上げなければ、自分たちのことは守れません。福島のことがこのまま進められ、福島のことがどんどん決まって行けば、福島方式で、同じことが起こった時、皆さんも私たちと同じ思いをするんだ、ということに気が付いていただきたいと思います。』(拍手)

郡司『ありがとうございます。穏やかな言葉の中にも、非常に怒りというものがひしひしと感じとれました。私たちも福島の女性たちの怒りというものを一緒に共感しなければならないかなと思っております。ありがとうございました。』

※ 録音の書き起こしが終わったところから順次掲載して行きます。

(つづく)

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(文書が長くブログの字数制限を越えるため、No281-1からNo281-3に分けて掲載します。)

3月11日で東日本大震災、そして福島第一原発事故から2年が経過した。
政府が「除染と復興」を進める中で、福島は2年前と何も変わらない。変わりつつあるのは福島以外の人たちの意識かもしれない。時の流れの中に原発事故を埋没させないために、そして風化させないために、私たちは脱原発の意志を今もこれからも示していく必要があるのではないだろうか。

4大学共闘(明大、日大、芝工大、専修大の全共闘派)では、3月9日の「つながろうフクシマ!さようなら原発大行動」と、3月10日の「原発ゼロ・大行動」に共同行動として参加したので、その様子を報告する。

●3月9日(土)つながろうフクシマ!さようなら原発大行動
 会場:明治公園
 主催:さようなら原発1000万人アクション
当日は晴天。天気予報では4月下旬並みの暖かさになるとのこと。花粉予防のマスクを付けて会場へ。地下鉄の「国立競技場前」で降りて地上に上がると、行列ができている。「おっ!集会にこんなに人が!」と思ったら勘違い。国立競技場で行われるサッカーJ1「川崎フロンターレ」と「大分トリニータ」の試合を見に来た人たちだったんですね。
明治公園に着いたのが13時頃。まだそれほど参加者は集まっていない。一昨年の9月、同じ明治公園で行われた「さようなら原発集会」では、会場に入りきらないほどの人が溢れていたが、今回はその半分以下。主催者発表で1万5千人ということである。
労組系は動員もあり結構な参加者であったが、市民団体系が少ない。9日・10日と連続して集会とデモがあるので、その影響かもしれない。
集会では、黙とうの後、鎌田慧さん、大江健三郎さん、落合恵子さん、澤地久枝さん、広瀬隆さん、斎藤夕香さん(福島からの避難者)の発言があり、その後、2コースに分かれてパレード(デモ)が出発した。
私は記録班としてデモ出発前に先回りして撮影ポイントで待つことにした。でも、なかなかデモ隊がやってこない。警備の警察官も手持ちぶたさ。もしかして、デモの出発でトラブルか?と思っていたら、出発の時に1名が逮捕される事態があったとのこと。
予定より30分ほど遅れてデモ隊がやってきた。私は、デモコース上のいくつかの歩道橋の上から撮影することにした。デモ隊には芝工大のI氏が付いているので、そちらの撮影はI氏に任せる。
明治公園から表参道を通り、宮下公園の隣、神宮通り公園までというコースである。
4大学共闘は約1時間のデモを終えて総括集会を開いた。
以下、その総括集会の様子である。

<総括集会>
芝工大Y「それでは、最初に明大全共闘の仲間の方から 挨拶を受けたいと思います。」

明大Y・R「聞くところによると、最初に出たところで逮捕されたということで、ちょっと緊張感のあるデモ行進ができたかと思いますが、みなさん長丁場の闘いになります。我々は根気よく、しかし激しく、あくまでもしつこく闘いを続けていきたいと思っています。そういう意味では、今日、もうちょっと(参加者が)多いのかなと思ったんですが、いろんな事情で、明日も集会があるということで、人数が少ないんですが、これにめげることなく明日も皆さん一緒に集まって行動していきたいと思います。簡単ですが、挨拶に代えさせていただきます。」

芝工大Y「有難うございました。それでは続いて日大のJUNさんから挨拶を受けたいと思います。」

日大JUN「みなさん、明日もまたがんばって集まりたいと思います。明日、南相馬市では駅伝大会があり、それに反対するビラまきに行っている知人が何人かいます。そんなとんでもない企画が予定されているようですが、これからも長く声を上げ続けたいと思います。よろしくお願いします。」

芝工大Y「それでは、続いて専修大学の全共闘から挨拶を受けていきたいと思います。」

専修大K「専大のKです。予定表にチェックだけ入れて置いて欲しいんですけれども、5月の18日・19日の土日で、再稼働阻止全国ネットの全国展開の一環としてバス2台を出して柏崎刈羽で現地行動を行います。情宣を中心とした行動ですが、一つ目は規制委員会に対する質問状を新潟県知事に渡しています。ネットで見れますから、みなさんよく調べてください。
そして5月18・19日は共同行動を提案してやりたいと思います。去年の段階と違って、知るというレベルから行動を起こすアクションをする、それはXデーに向けたところの態勢を、東京、福島、柏崎と三角形でつなぎながら展開する、そういう行動です。料金は1万5千円です。1泊で食事も出ます。締切は4月末です。どうかお願いします。
それから、この現地行動に対して、4月9日にたんぽぽスペースで柏崎刈羽の現状を大づかみでも確認するために、学習会が開かれます。是非来ていただきたいと思います。

(No281-2に続く)

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(No281-1の続きです)

明日、みなさんと行動を共に出来ないんですが、明日は柏崎刈羽で差し止め1周年の集会がございます。そこに行きますので、了解していただきたいと思います。以上です。よろしくお願いします。」(異議なし)

芝工大Y「それでは、芝工大のYの方から一言ご挨拶したいと思います。今日、報告がありましたように、すでに福島の子どもたち3万8千人の検査の結果、3人の甲状腺がんと、6人の限りなく甲状腺がんに近い子どもが、今、見つかっています。チェルノブイリにおいては5年後に5万5千人の中から4人の(甲状腺がんの)子供が見つかったんです。そうすると、今回の福島では甲状腺の異常な子どもがメチャクチャ多いんです。このままだと、4年後5年後、爆発的なことになります。ただちに子どもたちを福島から避難させなければなりません。今、そのための避難裁判が行われています。
是非、皆さんとともに、この仙台高裁で闘われている、子どもたちを避難させるための疎開裁判を勝ち取っていきたいと思います。そして福島原発告訴団が、1,324人の福島の人たちと、13,500人の全国の仲間が、東京電力や原子力保安院、安全委員会を告発しています。山下俊一を起訴せよ、東電を起訴せよ、この闘いを進めております。私たちは今、東京地検や福島地検に対し、ただちに起訴せよ、強制捜査に入れ、この闘いを共に進めて行こうではありませんか。
そして、今、専大の仲間からもありましたように、全国ネットの運動が進められています。
再稼働させない、7月8月に来るであろう再稼働の嵐を絶対に止める、柏崎刈羽を再稼働させない、そして大飯を止める、この闘いを全国の仲間とともに闘い抜こうではありませんか。(異議なし)
みなさん、明日もまた闘いがあります。そして、3月23日、福島現地において福島の県民集会があります。この県民集会にも4大学共闘の仲間とともに是非闘っていきたいと思います。頑張りましょう!
シュプレヒコール!大飯を止めよう!(大飯を止めよう!)  
         原発はいらない!(原発はいらない!)
         再稼働はさせないぞ!(再稼働はさせないぞ!)
         全国の仲間と闘うぞ!(全国の仲間と闘うぞ!)
         闘うぞ!(闘うぞ!)
(インターを歌って解散)

●3月10日(日) 原発ゼロ★大行動
会場:日比谷野外音楽堂
主催:首都圏反原発連合
9日に続いて10日も晴天。気温はもっと上がるらしい。予定より早く日比谷公園に着くが、野音前ではすでに集会をやっている。共産党系の集会のようだ。野音入口前の園路を埋め尽くしている。かなりの動員をかけているようだ。集合場所を野音入口前にしなくてよかった。
12時に野音が開き先に入るが、集会を終えた共産党系の人たちも続々と入ってくる。開会前に野音は満員。野音に入りきれない人たちが、野音の外側に集まって来る。
主催者発表によると4万人ということである。
以下、野音での出発前集会の中から、いくつかを発言を掲載する。

ミサオ・レッドウルフ(首都圏反原発連合)
『2年前3月11日から、それ以前よりも多くの方々が原発はいらないということに気付いた人が本当に多く、それから運動がどんどん大きくなっていきました。そして昨年の6月、事故があって初めて大飯原発が再稼働した、そのことを受けて、本当に多くの方々が、たまたま私たちが官邸前で毎週抗議をしていましたので、そこに集まり、3・11以降の運動がそこで結集し、そして民主党という当時の与党の政策を揺るがした、ということは、去年の運動の一つの大きな成果、そして手ごたえだったと思います。
ところが、その後、アメリカ、そして経団連の横やりが入りまして、閣議決定でゼロにすることは流れてしまいました。みるみるちに選挙がありまして、今や、いままで50数年間原発を推進してきた自民党が与党に戻ってきて、今年は更に私たちの運動も困難になるのではないか、という予測をされている方も多いと思いますけれども、そんなことはなく、原発をゼロにしたいと願っている方たちの人数は、私は一切変わっていないと思っています。(拍手)これから季節がどんどん暖かくなってきておりますので、冬の間はなかなかデモや抗議にも来られなかった方々も、そろそろ出て来れるようになってきていると思いますので、本当に今年こそは原発ゼロを政府に言わせる、このことを気持ちを引き締め直して、私どもも、様々な呼びかけをしていきたいと思っていますし、まず、今日、事故のことを忘れない、このことを多くの国民の方、そして政府、メディアに印象づけられるような、非暴力で最大限のアッピールが出来る最良の日になりますことを祈って、最後に短めのコールをさせてください。みなさんもご一緒にどうぞ。
再稼働反対!再稼働反対!再稼働反対!
ありがとうございました。』

(No281-3に続く)

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