野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2013年03月

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(No281-2の続きです)

渕上太郎(経産省前テント広場代表)
『経産省前テント広場というところの代表ということになっております渕上と申します。昨日、明治公園で大きな集会が行われました。そして、そこでたくさんの方々がスピーチをされた訳ですけれども、多くの方々が、我々は福島を忘れてはならない、風化させてはならないということを発言されておりました。私も全くそのとおりだと思います。
今、福島で起きている一つの側面は、除染と復興。その除染は当事者自身が殆ど信用できていない、ただ単にゼネコンが莫大な金に群がって分捕り合戦をやっている、そういうものです。もちろん、その間に、不正な手抜き除染などというものがある訳ですけれども、政府や行政が何と言っているかというと、あの汚染された地域で、年間20ミリシーベルトを下回った場合、今、避難している人たちを帰還させる、帰還命令を出す。そして、また、それに応じない人は支援をしない、そういうことを決めつつあります。
ご存知のように、福島は何も終わっていない。4つの原発から引き続き高度の放射性物質がまき散らされているという、例えばそんな状態。あるいは4号基にいたっては、ちょっと大きめの地震が来ればひっくり返る、こんな状況が2年間続いているんです。
もちろん、除染によって多少見かけ上は線量が下がったりなんかするんです。そして多くのみなさんが、自分たちの故郷に、ふるさとに帰りたいと思っている。例えば、飯館村、あそこは誰も帰れないことになっています。しかし、既に百数十人の高齢者の方が、「私は仮設でストレスになるより、放射能があってもここにいたい」そういう気持ちで戻ってきているんです。私は、何ともそのことについて申し上げられないけれども、大変なんだな、ということだけは分かります。どっちがいいなどと簡単には言えない、それが今の福島の状況なんです。どうかみなさんも、その点で深いご理解をいただきたい、そのように思います。
さて、経産省前テントのことですが、これは、私どもが一昨年の9月に原発の再稼働に反対するということで、思わず建ててしまったテントです。あんまり意図的ではなかたんですが、原発反対運動を持続的にやっていく場、呼びかける場として、これを確立して、多くのみなさんのご協力を得て、今日で確か545日目になりますが(拍手)、建て続けています。私ども自身が、こんなにあそこで居座っているとは思いませんでした。けれども、今、こういう運動も、私たちの運動の全体の中の一つとして、重要な役割を果たしてきていると私は思います。そしてまた、同時に言わなければならないことは、この持続的な運動という意味でも、今日、この集会を主催している反原連のみなさんが昨年の3月から始めた、言う所の官邸前金曜日行動、金曜日の官邸前行動というのも、毎週、毎週やられてきています。一昨日は、今日の集会があるのでお休みということがありましたけれども、これから先も続くんですね。多くの心ある方々が、そしてまた原発に疑問を持つ方が、とにかく金曜日に官邸前、あるいは国会前に集まって反対という声と意志を表明する場となっている訳です。
私たちはこういう場を、原発反対は当然なんですが、我が国の正に民主主義の実践の場として、みなさんと共に守っていきたい。テントを撤去するようなさまざまな策動に、私たちは断固として抵抗していくつもりです。自らの意志で撤退することはありません。(拍手)これから先、長い反対運動、原発に疑問を呈する運動、廃炉に向かう運動が続くと思いますけれども、退かない、私たちは退かないのだ。そしてまた、諦めないのだということを誓い合って、3年目に入る偉大なる運動の前進につなげていきたいと思います。
どうもありがとうございました。』

デモコースは、日比谷公園を出発して各省庁を巡り国会議事堂まで行くコース。途中の経産省前で「無心」さんに声をかけられた。このブログにもコメントを貰っているが、ご自分のブログでも脱原発を訴えている方である。
4大学共闘は経産省前テントで離脱し、そこでインターを歌って一時解散。5時からの国会前大集会には元気のある人が参加することになった。
私は、夜に用事があったのでそこでリタイア。9日・10日とも人数は少ないとは言え、4大学共闘を中心としたメンバーは20数名が集会・デモに参加した。
今後もがんばりましょう!

(終)

※ お知らせ
伊達判決54周年記念集会「日米地位協定を問う!」
日時:2013年3月31日(日) 12時30分~16時30分
会場:東京しごとセンター地下2階講堂(JR「水道橋」駅徒歩5分)
資料代:500円
 主催:伊達判決を生かす会

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(文書が長くブログの字数制限を越えるため、No280-1からNo280-3に分けて掲載します。)

もうすぐ3月11日がやってくる。あの福島第一原発事故から2年となる。
3月3日(日)、明治大学リバティーホールで、経産省前テント広場やたんぽぽ舎などの主催で「福島原発災害に学ぶ 福島・首都圏の集い」が開催された。
この集いには、井戸川前双葉町長、大熊町の明日を考える女性の会、飯舘の新天地を求める会など福島の方々11名がゲストスピーカーとして参加し、様々な角度から福島の現状について報告があった。
福島の現状については、マスコミでも伝えられることがほとんどなく、福島原発災害が引き起こした問題が忘れられ、風化させられようとしている。このような状況に立ち向かっていくためには、福島の方々の声を広く伝えることが重要だと考える。
そのため、この集いでの11名の方々の発言を、数回に分けてこのブログに掲載することとした。以下、その発言である。
(録音が聞きとれない部分など、発言の一部を省略しています)

「福島原発災害に学ぶ 福島・首都圏の集い」 
●主催者代表挨拶:渕上太郎(ふちがみ たろう)さん
【経産省前テント広場代表】
渕上『福島原発災害から何を学ぶのか、そしてまた今の福島から何を学ぶのか、という角度から今日の集会が持たれました。現代史研究会、経産省前テント、たんぽぽ舎、福島原発事故緊急会議、反原発地方自治体議員・市民連盟の共同による主催で本日の集会を開催したいと思います。
言うまでもなく、一昨年の12月に政府は原発は収束したと宣言している訳ですけれども、
この3月11日のあの大きな、しかも甚大な、そして深刻な事故は基本的には何も終わっていない。
線量も高いし、そこから逃げ出す子供たちが依然として県外に避難せざるを得ない。あるいは、賠償交渉でも東電が出し渋っている。そういう状況の中で、マスコミや行政が、あたかも福島の事故は終わったんだ、残りの課題は除染と帰還なんだということで動き始めている訳です。私たち首都圏の者たちは、必ずしも十分に福島の立場に立って理解が出来ていないかもしれない、そういう状況だと思うんです。
本日の集会は、大変お忙しい中を十数人の方が、今日、みなさんに何かを訴えに来ているということについて、是非、みなさんもお考えいただき、改めて脱原発、反原発の運動に力を出していきたいと思います。
主催者を代表して一言ご挨拶を申し上げた次第です。
今日、お並びの方は全部福島の方々です。福島の方々のご意見、あるいは現在の状況について聞いていきたいと思います。
今日の司会の郡司真弓です。よろしくお願いします。』

コーディネーター:郡司真弓(ぐんじ まゆみ)さん
【1950年福島県いわき市生まれ。横浜市在住。1984年から生協活動を通じて環境・平和・人権活動に関わる。1998年に神奈川県内でリサイクルショップの収益を海外支援に充てるWE21ジャパンの設立に参加し、2010年まで理事長を務める。2011年3月11日の大震災とその後の原発事故を受けて福島の人たちが孤立しないために、そして福島の人たちと共に生きるために同郷の講談師神田香織たちとNPO法人「ふくしま支援・人と文化ネットワーク」を設立し、事務局を担う。】

郡司『皆さんこんにちは。私は福島県いわき市平というところで育ちました。3・11以降、そこに暮らす友人、親戚、親もおります。夫も郡山出身です。いたるところに福島に暮らしている仲間がいる、と胸が張り裂ける思いを今までしてきました。しかし、福島から一歩、茨城、千葉、東京、そして今住んでいる横浜、だんだん離れれば離れるほど原発に対する認識の違いを本当に感じてまいりました。
私もいろんなところで話をすると、首都圏の人たちからは「福島の人たちの声が聞かれない、聞こえにくくなった」という声も聞いています。
本日はこのような11人、3・11をどのように過し、その後、どのような生活を強いられているのか、生の声を聞く非常に貴重な機会だと思っています。
本日は5時までの長い時間を予定していますが、それを共有していただき、首都圏に住む私たちは福島と一緒にどのようなことをしたらいいのか、ということを考える機会に、是非していただければと思います。
11人の方にいろんな話を思うだけ話していただきたい、聞きたいと思っているんですが、時間が限られておりまして、大変申し訳ないんですがお一人10分でよろしくお願いいたします。
さっそく第一スピーカーの方からお話を伺います。安斎徹さん、よろしくお願いします。』

安斎 徹(あんざい とおる)さん
【1947年、飯館村に生まれ、育つ。現在は飯館村小宮地区から伊達市内の仮設住宅に避難。長年、出稼ぎ、葉たばこ、野菜作りからグリーンツーリズム、水田耕作で生活を営む。3・11後「まげねど飯館!!」の活動に参加、現在は「新天地を求める会」】

(No280-2に続く)

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(No280-1の続きです)

安斎『皆さんこんにちは。時間が10分しかないので、うまいこと話せないので、大雑把に話をします。昨年、WHOが飯館の住民は20から50ミリ被曝しています。でも100まで行かないから健康に影響ない。そして、福島県にIAEAが入りました。これは福島県の私たちの被曝事故を黙殺しようとしているんです。そして、先月末、WHOが出した福島県のガンリスクで、特に飯館は高い。すでに福島県の住民は(ガンは)出ています。これからも出るでしょう。出ない方がいいんですが出ます。
飯館の住民も福島の住民も何かしら体に影響が出ています。自分も出ています。たまに会う人の顔を見ると、顔が一回り小さくなっています。これは被曝と精神的なストレスだと思います。特に飯館は、賠償は個人でやれと、飯館の村長を始め飯館の議会の人は何も聞いてくれない、そして今年の秋に帰村宣言をする。この前、国会議員の先生と私も話をしましたが、飯館は3年5年で帰れる村じゃない、30年スパンくらいで考えなくてはいけない、そこに帰そうとしている。「自分たちは自民党政権ですから1から見直します。復興住宅の方も進みます。」そういう話はしていただきましたけれど、政治家というのは言葉は悪いですが、ウソを付くのが商売、選挙公約は破るためにあるものだ、国民のためにあるものじゃないです。
これを見てください。(スクリーンに写真が映る)福島の子どもです。放射能で外で遊べない。昨年、保養に行きましたけれど、福島の子どもが一番先に触るのは土、植物。福島の子どもは外で遊ぶことが出来ません。土にも触ることは出来ません、水も触れません。子どもにつらい目に合わせるのは誰か、国と原発村です。
あれだけの大事故を起こして責任を取ろうともしない。そして、今もなお原発がいつ火を噴くか分からない。あの原発1基が爆発すれば、あそこに近寄ることが出来ません。次から次と爆発します。それにもかかわらず帰そうとしています。事故の時に自分たちに何も情報が伝わらない、飯館も故意に被曝させられています。帰村させて事故が起きれば、自分たちは死にますよ。4号基も危ない。そして黒い煙も出ています。これは東電は「ディーゼルエンジンを吹かすから出る」と言っています。今のディーゼルエンジンはあんな黒い煙は出ません。白い霧で覆われている時もあります。
そして野田総理が冷温停止収束宣言をしたので、国はこれ見よがしに自分たちを村に帰そうとしている。行政で一番悪いのは飯館です。これは断トツに悪いです。3分割するにも住民に何の説明もない。経済産業省の方に話をしたことがあります。「200万福島県民は日本人ですか。日本人じゃないでしょ、人間でもないでしょ、自分たちは国、行政、県にも研究材料にされたんですよ」そういう話をしたら経済産業省の人も下を向いて、一言も返事が出来ませんでした。
まだまだ話すことはあるんですが、時間なので、後で聞いていただければと思います。どうもありがとうございました。』(拍手)

郡司『ありがとうございました。人権の問題が出されましたが、昨年の7月に福島市で中央官僚との話し合いをした時に、あるお母さんが「福島県人には他の県のように人権があるんですか」と聞いたら、官僚が「あるかどうか分かりません」と言った、こういう話も聞きました。本当に官僚というのはどうなっているんだろうと思います。
では次です。伊藤延由さん、よろしくお願いします。』

伊藤延由(いとう のぶよし)さん
【1943年生まれ。2010年3月、農業研修所「いいたてふぁーむ」管理人。水田2.2ha、畑1.0ha耕作、2011年3月水田6.0haに拡大を計画、震災発生。2011年4月、農業作付制限を受け休止。2011年6月に福島市内に避難。2011年11月、飯舘村新天地を求める会を組織し、事務局を担当。2012年5月、村民アンケートを実施(政経東北と共催)、2012年12月、飯舘村成人アンケート(日大 糸長研究室)に協力。避難所から通勤し施設管理。】

伊藤『ただいまご紹介をいただきました伊藤です。よろしくお願いいたします。私は実は、縁あって2010年に飯舘村に入植しまして、会社の農業研修所の管理人をやりながら、2.2町歩の水田と、約1町歩の畑を、全くの素人だったんですが、やって、すごい楽しい1年を過ごさせていただいたんです。ある程度成果が出て、2年目は6町歩やろうとしていたら、あの3・11で全てダメになった。私は福島市の雇用促進住宅に避難させていただいて、間もなく2年になりますが、その内500日は飯舘村に通て施設の管理などをやっています。そんなことで、飯舘村以外の情報はあまり持っていません。

(No280-3に続く)

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(No280-2の続きです)

(パワーポイントで説明)これは東京の方はなじみがないと思いますが、放射線モニタリングポストです。これは私が住んでいる小宮というところにあるモニタリングポストなんですが、上の掲示盤は1.936マイクロシーベルト/hです。実は下に見えるのがALOKAの線量計で、結構精度の高いものなんですが、3いくつになっています。こちらの方(モニタリングポスト)が公式に発表されている数字なんです。ところが、我々が測るとALOKAの線量になるんです。
例えば20ミリシーベルト以下になったら帰すと言っているんですが、これ(モニタリングポスト)を基準に判定しているんですよ。ですから、私は3・11以降ですね、国と行政はいかに住民を騙して、とにかく帰村させることにまい進しているかという話をさせていただきます。
今、飯舘村がどういう風になっているかという話を具体的に申し上げます。(パワーポイントで説明)これは3月16日の朝、私の家の前です。この3月15日から16日にかけての降雪が、飯舘村に放射性物質の大半を降り落としました。(パワーポイントで説明)これは3月22日の地方紙ですが、何と3月21日は飯舘村の簡易水道からヨウ素131が946ベルレル検出された日です。その日に、かの山下(俊一)先生はですね、健康上心配ないと言っていたんですよ。
実は我々は勝手にアンケート調査をしました。昨年の5月でした。村民1,500世帯くらいに向けて(調査して)、回収は576通だったと思いますが、「あなたの健康はどうですか」とお聞きしたら、「何となく悪い」とか「著しく悪い」というのが85%ですよ。仮設のストレスです。その結果、人が大勢死んだんです。飯舘村は除染によって復興はしません、と断言しています。実際に行われている除染は、住民が戻るための除染ではありません。それははっきり断言できます。除染業者のための除染です。何故ならば、飯舘村村民帰村の条件が何ミリシーベルトになったら帰すというものではありません。今、言われているのは、20ミリシーベルト以下はタバコの害よりも安全だから帰りなさい、仮設のストレスよりも安全だからということです。
(パワーポイントで説明)これは昨年7月の除染の風景です。このクソ暑い中、防護服を着て屋根の上に上がって瓦を雑巾で1枚1枚拭いているんですよ。これでは除染にはなりません。これでは仕事というか、動いているだけ、働いていないんですね。
(パワーポイントで説明)これは水田の除染です。1haから約1,000トンの、廃土が出ます。飯舘村は2,300haと言ってますから、230万トン、10トントラックで23万台(廃土が)出ます。どこへ置きます?今、仮置き場が問題になっています。
(パワーポイントで説明)除染しても元に戻るということですが、除染する前は4マイクロシーベルトくらいありましたから、除染すると劇的に下がります。でも10日もしないうちに線量が若干戻ってきます。2月16日に測っていますけれども、これは雪が遮蔽したせいです。結果的には、除染しても数か月経つと、除染前の数値まではいきませんが戻っていきます。国と自治体は、放射能の年間被爆線量1ミリシーベルトを達成出来ないと分かって、5ミリシーベルトにしました。でも、それも達成できないことが分かりました。最近言われているのは、年間20ミリシーベルト以下はタバコの害よりも低い、仮設のストレスよりも低いと言って、20ミリ以下になったところから帰村の話が出ている訳です。
(パワーポイントで説明)それを具体的に示す例がこれです(福島民友の記事)。伊達と川内の特定勧奨避難地域ですが、昨年の12月末で20ミリシーベルト以下になったから帰りなさい、3月には賠償を打ち切ります、ということです。こういうことが、一般的に福島では行われている。ところが、こういう話が東京だとかそういうところで、全く情報が流れていない。まさしくマスコミの情報操作というか、福島は過去のものということ。
ついこの間、仮設入居を1年延長しました。4年になります。
甲状腺がんの話をしたいんですが、もうすでに3人、疑いが7人ということで増えていますが、山下先生は福島第一原発由来ではないと断言しています。
最後に「原発は現在の人知では制御不能なプラントです。」ということで終わらせていただきます。』(拍手)

郡司『ありがとうございました。郡山に住んでいる義理の兄も時々メールが来るんですが、「今度、除染するので庭の土を5cm剥ぐ」と。「その土はどうするの」と聞いたら、行政から「どこか隅に置いてください」という指示が出た。除染じゃないと怒っていましたが、一番知っているのは福島に住んでいる人じゃないかと思います。』

※ 録音の書き起こしが終わったところから順次掲載して行きます。

(つづく)

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(文書が長くブログの字数制限を越えるため、No279-1とNo279-2に分けて掲載します。)

前回の「明大全共闘クロニクル」では、1月の東大闘争1周年集会の様子などを掲載した。
今回は2月から3月にかけての学内での民青との衝突、全共闘政治集会などの様子を掲載する。

【明治大学新聞 1970.2.12】
『和泉地区でトラブル
1月31日、和泉地区で全共闘系学生と民青系学生がトラブルを起こしたが、教職員が間に入ったためもあって、大規模な衝突には至らなかった。
31日の正午ごろ、第三校舎前で集会を開いていた民青系学生約30人と、一部ヘルメットを着用した全共闘系学生約80人はそれぞれ中庭でデモ行進した後、民青系学生は再び第三校舎に集結した。一方全共闘系は第一校舎と第三校舎を往復してデモをかけた後、第一校舎の玄関で集会を開いた。
この後、民青系学生が礫川公園に向かうため、正面方向に進んだが、全共闘系学生の傍を通過寸前に双方入り乱れての乱闘となった。教職員2、30人がこの中に入って止めたため、乱闘は数分で終わり、大したケガ人も出なかった。
このトラブルに対し、学長は「警告」を発した。要旨は次の通り。

さる1月31日正午すぎ、和泉校舎中庭および正門前において、二つの学生デモ集団のあいだに衝突さわぎがあった。トラブルは教職員や一般の学生諸君の多数の力によって大事に至らなかったが、学園内のこのような暴力事件を再び起こさないよううに厳重に警告する。
大学は現在全力をあげて紛争によるマイナスを取り返すべく努力を続けており、このような無法な事態が引きつづき起こることを許容することは絶対にできない。
学生諸君は大学が現在おかれているきびしい現実を認識し、一切の暴力を学園からしめ出し、一日も早く学園の平和が再建できるよう努力されることを切に要望する。』

『生田でも学生が負傷
2月9日、生田地区でも学生同士のもみ合いがあり、一人が負傷し救急車で近くの病院に運ばれた。
民青系の学生1人が農学部校舎付近で、「法政大学内ゲバ事件」に関するビラを配布していたが、午後3時ごろこの学生を全共闘系学生が学生会館前で討論を始めた。
ところが、4時半ごろ突然この民青系学生が逃げ出したが、工学部事務室付近で全共闘系学生にとり囲まれ、追及を受けた。その後、部屋の中に入り、「自己批判書」を書かされる
などしていたが、そこへ約20人の民青系学生が現れ“救出”し、部屋を出て行こうとした。ところが、民青系学生の一番最後にいた学生を、全共闘系学生がスタンド式灰皿で、頭や肩などを数回殴打した。殴られて一瞬気を失って倒れた学生を全共闘系は再び部屋に入れた。これに対し、約30人の民青系学生も角材を持ち、再度救出した。
午後7時ごろ負傷した学生は救急車で病院に運ばれたが、頭部4ハリ縫う裂傷、なお、骨には異常はなかった。』

和泉地区と生田地区では、民青系との緊張関係が異なっていたようだ。私がいた和泉地区では、民青系はキャンパスの中でも少し離れた第三校舎、全共闘系は学生会館・生協会館と棲み分けがあって、生田地区のような派手な衝突はなかったと思う。
民青系はあまり表だって登場してこなかったように記憶している。

【明治大学新聞 1970.2.12】
『明治公園で全軍労支援集会
全国反戦青年委主催の「全軍労闘争連帯集会」が2月4日午後6時半から、明治公園で開かれた。
集会には各大学全共闘、労働者、市民など4,500人(警視庁調べ)が集まった。大学からもブント、ML、反帝学評、中核など200人ほどが参加、これを代表して本間晟豪、横谷優一君が登壇し、連帯のあいさつを述べた。』

2月の学外集会に引き続き、2月10日には全共闘政治集会が開かれた。

【明治大学新聞 1970.2.12】
『和泉で政治集会開く 全共闘800人が結集(写真)
今年はじめての全共闘主催の「政治集会」が、2月10日午後2時から和泉地区第二校舎6番教室で開催された。
この集会は”霑?凌靴靴ぜ舛砲茲詭逝臍感ζ運動の再編強化討論会、自主講座を設定し、結集の場を保障することF?鄙忙漾∋偉つ容争、4・28闘争、6月安保闘争をいかなる質でもって闘うか、などの視点で開かれたもので、会場には各闘争委、および一般学生も巻き込み、最盛時には約800人の学生が結集した。
学生会中執両川敏雄委員長の挨拶に引き続き、全共闘の横谷優一君が「さらなる70年代の階級闘争を」と基調報告を行った。その後、二部共闘、生田地区全共闘、獄中からのアッピール、商闘委、法闘委、統一救対、10・9被告の順でそれぞれ連帯の挨拶を表明した。
最後に関口成一全明全共闘議長が「今日の集会は圧倒的に勝ち取られた。この成果を踏まえ、4・28沖縄闘争を闘い抜こう」としめくくった。そして「改革案全面撤回」「全共闘の階級的飛躍」「2・20入試粉砕闘争に決起せよ」などのスローガンを採択し、インターを斉唱、いったん中庭に出て、約300人がデモ行進を行った。

(No279-2に続く)


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