野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2013年04月

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1960年代後半から70年頃の新聞記事を紹介するシリーズ。
今回は毎日新聞の「回転 安保‘60-’70」というシリーズの記事を紹介する。
(写真は69・4・28の写真「命燃ゆ青春 ザ・全共闘」より転載)

【ゲリラ参上 大衆をカクレミノに】1969.8.19毎日新聞(引用)

<隠す>
6月のアスパック闘争。中核派学生、横浜駅から素手で電車に乗る。平塚駅着。駅を飛び出した学生、近くの小路から日通のこん包紙に包まれた荷物をかつぎ出す。中はゲバ棒50本。次の列車まで15分間に完全武装し、伊東に向かった。
昨年の王子米軍野戦病院闘争。秋葉原駅で学生がどっと下車。そのうち数人が脱兎のごとく改札をすり抜けた。と、どこからか電気製品の商標つくダンボール箱をかかえこんできた。中にヘルメット。ゲバ棒。ホームで武装。王子へ・・・etc・。
「電車の中には大衆がいる。機動隊も手荒なことはすまい。大衆をカクレミノにしろ。」

<襲う>
4・28沖縄デー。新橋から霞が関と首相官邸を目ざしたデモ隊。一転して銀座、有楽町を襲う。国電を長時間止め、交番を破壊、商店街に投石被害。
警視総監、午後11時に記者会見。「ゲリラにやられた。都民に迷惑をかけ申し訳ない。対策を研究する。」

<散る>
昨年の4・28。「沖縄奪還」のシュプレヒコールで、中大での集会を終えた社学同系学生約500人。数人ずつ、タクシーで、徒歩で、電車で消える。2時間後、赤ヘルメットで身を固めた学生集団、地下鉄銀座駅の階段を上り、数寄屋橋に身をおどらす。銀座旋風デモ。あわててかけつけた機動隊に投石の雨。そして、あっという間に赤ヘルメットを捨ててデパート内などにドロン。「警察のウラをかけ。」

<まぎれる>
山本義隆東大全共闘代表、機動隊、私服刑事の厚いカベをすり抜け、東大に、日比谷公会堂に、6・15日比谷集会にと現れる。変装につぐ変装。群れの中へのまぎれ込み。ゲリラ的出没の心憎さ。

「赤軍結成!11月佐藤訪米を目ざして総反乱、世界度同時革命を一気に達成せよ。」
物騒なコトバが京、大阪の街をさまよっている。機関銃でも、バズーカ砲でも、なんでも使うんだ、という。言いだしっぺは京大社学同。
「いまや投石やゲバ棒ではガッチリ武装した機動隊のカベは破れない。強力な武器を、徹底したゲリラ戦を・・」(京大社学同赤軍派の主張)
7月初旬、社学同の全国大会を前に東京・杉並区の明大和泉校舎で開かれた全国代表者会議は、さすがに京大代表の主張をめぐって大荒れ。関東の社学同の主力は中大、明大。
それらの代表は「時期尚早、気違いザタだ」と反対。ついに、例によって内ゲバのあげく、石と棒の関東派が、機関銃とバズーカ砲の関西派を関東から「たたき出した」という。このゲリラ戦法をめぐる内ゲバで社学同大会はお流れ。
中核派も革マル派もゲリラをやる。しかし、ゲリラ戦法の元祖は社学同だ。昨年、防衛庁に飛び込んだのも赤ヘルメットの彼ら。彼ら社学同の上部団体はブント(共産主義者同盟)。

3年目の3月31日、羽田空港に遺骨が着いた。大ぜいの人に迎えられた霊は、東大大学院博士課程に在籍のままアメリカのペンシルバニア大学に留学中、不運の火災事故で死んだ生田浩二、恭子夫妻の霊であった。生田氏はアメリカで計量経済学を勉強していた。
空港で霊を出迎えた一人に、島成郎氏がいた。島氏はいま、東京小平市の広大な敷地の中にある国立武蔵療養所で、精神科の医師として働くかたわら、精神病の原因究明のため、電気顕微鏡で腦細胞をのぞき、精神病理学の研究に熱を入れている。
60年安保のとき、国会に突入し「赤いカミナリ族」といわれた全学連主流派のブント。生田氏は、そのブントの事務局長、島氏は書記長であった。ブントの国会突入の渦の中で、彼らの同志、樺美智子さんは死んだ。
デモ隊が機動隊に追われ、逃げ散ったとき、それまで人陣頭指揮をしていた生田氏は「これとともに逃げていく一人の市民でしかなかった」(生田夫妻追悼記念文集)。やがて生田氏は東大大学院の研究所に戻り、マルクス経済学から近代経済学へと向きを変える。
島氏も3年後に東大医学部に復学した。
ブントは60年安保後、散りぢりになり解体、また再建された。
国立武蔵療養所の静まった部屋で、島氏は澄んだ目を遠くに向けて言う。「あのとき敗北したけれど、ブントの主流は黙々と一人で思想的に孤軍奮闘している。また出てくるだろう。」「セクトは分裂する。そういう具合になっているんだ。だが、戦争になるとセクトは強い。ベ平連的なものがそのまわりですわり込むだろう。」
バーでブランデーを傾けながら島氏はいった。「動力車労組の反戦派が幹線輸送をマヒさせる。機関銃も出るだろう。70年はゲリラだ。」
評論なのか、期待なのか。島氏らは“消えた英雄”なのか、それとも・・・。

(終)

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(文書が長くブログの字数制限を越えるため、No286-1からNo286-3に分けて掲載します。)

3月3日(日)、明治大学リバティーホールで、経産省前テント広場やたんぽぽ舎などの主催で「福島原発災害に学ぶ 福島・首都圏の集い」が開催された
集会では11名のゲストスピーカーの方が発言したが、今回はNo284に続き、2名の方の発言を掲載する。
(録音が聞きとれない部分など、発言の一部を省略しています。)

郡司『後半の最初の方は佐久間久夫さん、お願いします。現在は二本松市で農業をなさっております。』

佐久間久夫(さくま ひさお)さん
【1950年生まれ。福島県立矢吹ケ原経営伝習農場卒。平成7年まで水稲と養蚕を主体とした農業に従事。平成8年養蚕を止め、雨よけハウスによるトマト栽培を始め現在に至る。現在、土壌のセシウムで悩んでいます。二本松市東和に在住する兼業農家。】

佐久間『皆さんこんにちは。私はこういうところで喋ったことがないんで、方言が入って分かりづらいと思いますが、聞いてください。
今から2年前、3月11日にドカーンとなって終りなんですが、我々はドカーンとなってから3日間停電があったので、津波はラジオで聞いていたんですけれども、(原発の爆発は)本当かなと思った。これが第一番。
翌日の土曜日が雨だったんです。たまたま仕事に来ていた人が、「雨に当たらない方がいいよ」と言う訳です。「そんなこと嘘だべ、本当に当たらない方がいいだべ?」と言ったら、「第一番目の雨は上から落ちてきて、それに混ざっているから当たんねえほうがいいよ。できるだけ当たらない」。そういうことを聞きまして「いやーこれはドカーンとなったら大変だな」と思っていたら、12日の4時頃には大型観光バスがすごかった。何で観光バスが来るのか分からなかった。「こんな地震で観光バスで旅行なんて馬鹿じゃないか」と思った。(笑)そうしたら、それが避難だった。後で運転手さんに聞いた話なんですが、「どこさ行くか分からないから、とにかく西さ逃げろ」と言われて来た、西、西って、だから会津の方。
二本松市には、現在、浪江町の人が仮役場と仮設住宅を作って入っているんですけど、浪江町の人は津島ってとこさ逃げちゃった。それは県が早く発表すれば、そこで止まって行かなかった。発表しなかったから、浪江の海の方から津島の山の中の、(放射能が)いっぱい溜まっているとこさ、ここが安心だべと行った。
それで二本松の方で体育館に避難して1ケ月いたんです。それから温泉に行ったり離れ離れになったんですけど、そういうことで2年が過ぎようとしていますが、私も今、第一原発から直線で約42辧川俣町の人も避難しているんですけれども、避難の仕方がおかしいんです。
上の方が川俣町で避難して、下の人は二本松市は奥にずっとあるんだけど、下の人は避難しなくていいんだもの。皆さんこれをどう思います。上から来る水を使って、みんな田んぼを作っている。現実はこういう状態。
事故があった年に学校の校庭の除染を第一にやった。その土をどこにやったと思いますか?校庭に穴を2m掘って、そこにシートを張って、山から土を持ってきて1m土をかけた。それはあくまでも仮置き場。いつか持っていくところがあるから仮置き場なんで、絶対持っていかないんだから。掘り返して持っていくところなんかない。東京ドーム何個分にもなる。それを福島県は仮置き場がどうのこうのと騒いでいるけど、それは危ない。
今、民家の除染をやっている。さっき除染は屋根を拭くだけと言ったけど、最初やったのは屋根を高圧洗浄で水で洗った。屋根は新しいのは漏らないからいいけど、古くなっていると トタン屋根がめくれちゃって雨が漏っちゃって、これはダメだと。それより雨どいの方が高いんです。「雨どいの古いやつは新しい雨どいを買って付けた方が早い」とみんな言っているけど、市のマニュアルには拭きなさいと書いてあるから拭いている。壁はやらない。
その、除染した布、雑巾はダメだ。、そのあとテレビで水も洗えばダメだ、川で長靴洗ったからダメだって。でも、俺思うに除染なんて不可能だもんね。(拍手)絶対不可能。できるはずない。
民間の除染もどこに埋めているかと言うと、他に持っていけないから、我が家の庭を掘ってそこに埋めている。それも仮置き場。それで、ホットスポットは全部違うからどこにあるか分からない。だけど風評被害は確実にある。だから、風評被害でトマトなんかも(放射能を)測ってやっているんですけど、1箱300円くらい。
県内で二番目に古い水力発電がある。100年間持っている。原発は高い金出して何年持ったの?だから自然とエネルギーを大事にして、作って止められないものはやらない方がいいと思うんだけど。(拍手)
そういうことで終わらせていただきます。どうも有難うございます。』

(No286-2に続く)

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(No286-1の続きです)

郡司『ありがとうございました。阿武隈川が新潟に注ぎ、仙台に注ぎ、そちらも非常に放射能が高くなっているという情報もあります。やはり福島県という境はないんですよね。皆さんも、ここ首都圏も同じであるという風に認識していただければと思います。
続きまして、「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」吉野裕之さん、お願いします。』

吉野裕之(よしのひろゆき)さん
【1966年福島市に生まれ育つ。震災までは会社員。その後、2011年8月から市民活動に専念。子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク保養班で活動。子どもたちの自然体験活動の機会を確保するため、福島県内外でご協力いただける皆さんとの間をお繋ぎしています。原発事故子ども被災者支援法市民会議では在住者支援班に所属】

吉野『こんにちは皆さん。私は「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」、長いので「子ども福島ネット」と約しているところにいます。よろしくお願いします。
私たちの活動は、保護者が中心になって作った団体と言うことになります。ネットワークですから、集まる一人一人が、自分ができることを探す、自分の責任でいろんなプランを作って自分で動いていく、それをみんなでサポートしましょう、というのが活動の趣旨です。
(スライドで説明)見ていただいて分かるのが、福島県内いろんなところを測っています。実はこれは最新型の機械です。とても反応がいい機械です。しかもGPSが内臓されていて記録が詳細に取れます。(筆者注:写真上段参照)見ていただきますと、これは福島市の真ん中なんですが、左手の上、赤く表示してあるところが小学校、4号線があって競馬場、競馬場の裏に住宅街があって、サイクリングロードがあります。赤く点々になっています。ここで大体1マイクロ以上のところが多いです。ここの周辺に下水処理場もあります。数十万ベクレルという汚泥が溜まっているところ。そして阿武隈川があって、旧型の焼却炉がある焼却場があります。という非常に象徴的なところです。
ここを見ていただきますと、おそらく学校の校庭は除染されていますから、0.2とか0.118とか、そういうような線量だと思いますが、子どもたちが通学している道路、生活環境、子どもたちが部活で走らされるサイクリングロードは、相変わらずこういう状況が続いているということです。
何故、このようなデータを取り始めたかというと、文部科学省が80キロ圏内の航空機モニタリング、ヘリコプターで測った地表の線量が40%低減していると、セシウム134の半減期
を考えると、非常に逓減率が高くて良かったね、と新聞に載っていましたが、私たちは航空機モニタリングの世界で生きていないです。地上で生きています。しかもこの機械はとてもハンディなもので、携帯用パソコンにUSBでつなぐだけで出来るんです。ということは、歩きながらモニタリングできる。
これで測りますと、道路の真中は0.3マイクロシーベルトですが、両端は0.6だったりします。
ということは、車載のモニタリングではダメだということです。道路の真中を走るし、高い所に測定器があります。あれは子どもの生活環境を反映していない。私たちはできれば50cmの子どもたちの歩く道路の端を測りたい、という趣旨で測っています。先ほどのデータは、他の地域と合わせるために1m下がっています。
先ほどモニタリングポストの話が出ましたが、モニタリングポストの数値は、点で測っています。点で測っているので、合わせるとだいたい合っているんですね。(スライドで説明)(筆者注:写真下段参照)今、モニタリングポストが0.227と出ていますが、すぐそばで測って0.201でしたから大体合っている。ただ、5m離れると0.412、10m離れると0.533、カラー舗装のところは透水性舗装なので沁みてしまって0.727です。0.727のところに立ってもモニタリングポストはすぐ見えるので、「0.227で良かったね。最近下がってきて」と言って遊んでいるところは0.7ということです。これなんですね。モニタリングポストそのものの数値がどうこうということよりも、モニタリングポストに象徴される地域の数値は点でしかないということです。
子どもたちが遊び生活している範囲は、このようなハンディな可搬型のモニタリングの機械で常時測る、これを、できれば地域の方々やPTAの方々が保護者の方々と一緒に測っていくことで、クールスポットがどこにあるのか確認する。闇雲にここが高いここが高いということを暴き出すということよりも、身のまわりにクールエリアがどれだけ広がっているかを確認していく。同じ通学路でも道路の右側と左側のどちらを歩いたらいいのか、ということを賢く測っていく、そのク-ルエリアを広げていくという意味で除染を促す、という形でこの機械を使っていきたいと思います。

(No286-3に続く)

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(No286-2の続きです)

このデータは地図のデータと一緒に「子ども福島ネット」のホームページの最初のページに載っています。メンバーが一生懸命歩きながら、福島市内、伊達市内、郡山、二本松、飯館という風に少しづつ範囲を広げています。
開発されたばかりの機械で、1号機なんですね。開発業者さんが1台持っていて、2台体制で測っている状況なんですが、この機械を増やしていくことで、子どもたちにとって安全な範囲を確認していきたい。これを、例えばこの間、規制庁がパブリックコメントやりましたが、あのような機会で提案していくと防災指針の中に盛り込まれて行く。そうすると避難することになる地域の人たちも、この機械を一緒に持って走れば、自分たちが向かっている先が線量が高いのかどうか、この避難所がいくつなのか、すぐ分かります。この機械は1秒で反応します。その位性能がいいです。
こういう風に、自分たちの範囲を安全に保っていくこと、そのためには住民が自ら参加しながらモニタリングしていくことが大事です。何故かと言うと、子どもたちが外で遊べていないからですね。今でも学校の体育の時間に外でやる時は、時間制限を設けている学校もあります。また、保護者の方も心配して「うちの子は休み時間であっても外で遊ばせたくない」ということも仰います。保育園では、2年近くになりますが、1回も散歩で外に出していない保育園があります。保育園で毎日散歩するのが、自分が成長する、育つ権利をきちんとキープしてもらっていることになると思うんですが、1回も散歩をしていないところがある。落ち葉やドングリをダンボールで他の県から送ってもらっています。それで子どもたちは室内で遊んでいるという状況です。
私たちが考えているのは、子どもたちに外で遊ぶ時間を少しでもプレゼントしたい、ということで保養プログラムをやっています。この会場にも、子どもたちを招いて下さって保養プログラムを組んで下さっている方もいらっしゃると思います。本当に有難うございます。頭が下がります。とっても大変なんです。お金も集めないといけない、準備もしないといけない、人も手配しないといけないということで、大変な思いをして招いていただいているんですが、こういったところで、子どもたちはようやっと笑顔で飛び回ります。
先ほどもありましたが、「ここの土、触っていの?」必ず聞きます。子どもたちは道路の真中を歩くクセが付いていますから、端が高いと分かっていますから、堂々と道路の端っこも歩きます。泥に触れて遊び、葉っぱをちぎったりして遊び、男の子たちは本当に自由に寝転がりながら遊んだりします。こういった状況が本来の子どもたちの姿であるべきなので、保養プログラムが充実していくように、私たちは地元でお繋ぎをするということです。
また、最近、伊達市が移動教室の取り組みを始めまして、非常に画期的だと思います。学校の通常のカリキュラムを外に持ち出して、安全なところで遊ばせながら、きちんと学習をする。民間の保養プログラムと教育委員会が関わる移動教室を足して、年間できるだけ長い日数、外に出してもらいたい。そうすることで、もしかすると被曝してしまっている体の中をきれいにしていく時間をかせぎたいと思っています。
これがもろもろ体のためと思ってやっているんですが、実はもっと大切だと思うのは、子どもたちの成長、発達の権利をきちんと確保すること。成長、発達というのは体だけではありません。心も成長、発達します。
最近になって、つくづく罪なことだなと思っていることは、「子どもたちは未来の存在です」と言われますよね。「私たちの未来は子どもなんです」と言われますが、子どもたちは今も生きているし、仮に30年後に30年前を思い出した子どもたちが、何を思い出すのか。「あの時の大人って実際何もしてくれなかったんだよね」という風になるのか、「出来る手は打ってくれた。がんばって疎開裁判もやってくれているし、保養プログラムも組んでくれているし、教育委員会も私たちの学校はちゃんと移動教室に出してくれたね」ということを記憶の中で持って欲しいなと思います。子どもたちの思い出とか記憶とかを、今、現在、奪っているということも確認しないといけないと思います。これは体の健康を考える上でも大事ですが、心の健康、これから子供たちが何を自分で思い出として持っていくことができるのかは、今、何を動かすのかによって決まってきます。
そのことを、これからも皆さんと一緒に考えていければと思います。
ありがとうございました。』(拍手)

※ 録音の書き起こしが終わったところから順次掲載して行きます。

(つづく)

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(文書が長くブログの字数制限を越えるため、No285-1とNo285-2に分けて掲載します。)

新聞で見る1969年シリーズの番外編。今回は「音」です。
当時、ソノシートと言われるビニール製の「レコード」が雑誌などに付録で付いていた。
音質はレコードよりは落ちるが、まだカセット・テープなども一般的ではなかった時代、安価で音が聞ける付録ということで70年代前半ころまでは普及していた。
「ソノシート」というのは「朝日ソノラマ」が商標登録した名前ということだが、今ではビニール製レコードの代名詞のようになている。
この「朝日ソノラマ」について、「朝日ジャーナル」の記事があるので紹介する。

「歴史の証言としての音 「朝日ソノラマ」と大学闘争」【朝日ジャーナル 1969.7.13】(引用)
『この1年間、大学問題は、大きく燃えひろがり、週刊誌、月刊誌を問わず、相次いで特集を組んでいるが、その中でも異色を放っているのが「朝日ソノラマ」7月号の「大学を告発する」である。(筆者注:写真上段)
同誌の特色は、音と活字の立体的編集だが、その「音」という「武器」を最大限に生かして、大学問題にメスを加えているのである、活字面では吉田光邦(京大人文科学研究所助教授)、師岡佑行(元立命館大講師)氏らの論文を並べ、これといった特徴はない。
だが、「音」になると、同誌の独壇場である。まず、導入部は、1・18、19の東大闘争のノイズで始まり、6・15反戦・反安保日比谷集会での山本義隆・東大全共闘代表の演説、佐藤首相の大学立法に対する「決意」、奥田京大総長の声と続く。
さらには金田一晴彦、天野貞祐、村松剛、末川博氏らの発言、これに反駁する山本代表の声という構成で、これにかぶせて5月29日に東京・文京公会堂で開かれた「大学を告発する・全国大学教職員報告集会」の録音、奈良本辰也氏の発言、東大教養部での三島由紀夫氏と全共闘との「対決」と続き、山本代表の録音で「総括」する。

<精神の腐敗をえぐる・・・>
なかでも潜行中、某所で録音したという山本代表の発言には迫力がある。「教育第一ということを前面に押出すべきだ」と主張する天野氏、全共闘の闘争を「集団ヒステリーの発散」ととらえる村松氏らの発言に対し、山本代表は「学生の問うことに真剣に答えろ。答えられなければ真剣に考えるべきだ」と、語気も激しく切返す。
また、最後の「総括」では、さらにきびしく、次のように告発する。
「問われている大学と教育者の問題というが、教育者以前の人間の倫理の問題をいわなければならない。東大の教授を目のあたりに見てきて、“倫理オンチ”というか、居直りが横行して、その上に立って教授会という無責任体制ができていると言わざるを得ない」
こうした前提に立ち、「教養の独占者」としての教授=教育者たちの、もたれあいによる相互無批判性、そこから生まれる精神の腐敗を鋭くえぐっている。
また、立命館大をやめた奈良本氏の「この紛争がなかったら、大学に対して尋ねることができなかったし、自分の学問も問いただすことができなかった。紛争によって、大学とは何か、学問とは何か、思想とは何か、と問いただすことができた」という発言とあいまって、「知性の反乱」としての大学闘争の本質、その広がりを認識することができるのである。

<70年問題との取組み>
ところで、この「朝日ソノラマ」も発刊以来、ことしで10年目を迎えるが、2年前あたりから、大幅な編集方針の転換が目立っている。「それ以前は、娯楽的要素が強かったが、音という機能を生かして、歴史の証拠としての録音ということに、積極的に取組みはじめた」(「朝日ソノラマ」編集部の話)そうである。
事実、ことしにはいっての特集内容をみても、1月号「われわれにとって70年安保とは何か!」、2月号「激動の東大」、3月号「70年への革新戦列」、4月号「70年への市民運動!」、5月号「沖縄」、6月号「毛沢東主席と九全大会」といったように、70年問題と真剣に取組み、歴史の足跡を的確に記録しているのである。(筆者注:写真下段)
音声だけのラジオ、音声と映像が結びついたテレビ。こうした放送に比して活字と音声が組み合わされた雑誌として誕生したのが「朝日ソノラマ」である。だが、テレビの場合、音と映像が完全に有機的に結合されているのに対し、ソノラマは、無機的な結合である。雑誌を買っても読者に聞く意志がなければ、ソノシートは「無用」の存在である。そこに、このメディアの弱点があるわけである。

<二元的機能の重要さ>
また、発刊当時の10年前に比べれば、オーディオ分野の「変革」はめざましいものがある。ステレオの普及、さらにはカセット・テープの出現と普及。音質からみれば、ソノシートは太刀打ちできない。したがって、ソノラマとしては、こうしたメディアとは「競合」しない分野を選ばなければならないわけである。

(No285-2に続く)

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