野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2013年08月

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(文書が長くブログの字数制限を越えるため、No304-1からNo304-4に分けて掲載します。)

8月17日(土)、 下北沢の小劇場楽園で行われた福島県立大沼高等学校演劇部の東京公演「シュレーディンガーの猫~OUR LAST QUESTION」を観に行ってきた。
この作品は 「東日本大震災の原発事故により避難生活を強いられた高校生が転校先の生徒と紆余曲折を経て友情を深めていく姿を描く」作品である。
この作品は、福島県高校演劇コンクール最優秀賞・創作脚本賞を受賞したが、東北地区高校演劇発表会では「内容が重い」など厳しい評価を受け、優良賞にとどまった。
今年の3月にいわき市で行われた「全国高校演劇研究大会」での公演を、NPO法人「大震災義援ウシトラ旅団」の理事長か観たことがきっかけで、ウシトラ旅団の支援による下北沢での公演が企画された。
 この演劇は福島県高校演劇コンクール最優秀賞・創作脚本賞を受賞したとはいえ、東京では知られていない。また、8月15日から18日までの4日間で合計7公演を行うということで、5~600人分のチケットを販売する必要がある。かなりハードルが高い。
当初、チケット販売は出足が悪く、7月上旬のウシトラ旅団メールマガジンでは「チケット販売はまことに淋しい限りです。どうぞひとはだも、ふたはだも脱いで積極的なご参加をお願いしたいと切にお願い申し上げます。ホント、やばいっす!!という体であります。たとえば8月17日の18:00の回は現在2枚!2枚ですよ・・・事務局としても黙って無策でいるわけではありません。様々あの手この手とやっているつもりではありますが、力不足は否めません。あと1カ月と少し。どうしても会員の皆様ひとり一人のお力が必要です。」という緊急のお願いも回ってきた。
その後、ウシトラ旅団は「福島県立大沼高校演劇部東京公演を成功させる会」を起ち上げ、7月下旬には東京新聞にも紹介記事が掲載された。また、8月3日(土)には、4大学共闘として、下北沢駅と御茶ノ水駅で街頭情宣活動を行ったこともあり、8月上旬にはチケットが完売となった。
 
当日、下北沢の小劇場楽園の入り口でY・R氏と一緒になり、劇場内に入った。席が70席ほどの小さな劇場である。観客と演じる者との距離が近いということでもある。開園前に席は満席となった。開園前に高校生たちが売っていたシュレーディンガーの猫の宣伝が入ったTシャツを買った。(写真)
パンフレットを見ると、演劇部の顧問のS教諭の言葉が載っている。
「福島県の会津地方には被災した転校生がたくさんやってきました。彼ら、彼女らは異郷の地で健気に生きており、前向きなその姿に、平穏無事な毎日を過ごす私たちの方が励まされることがあります。でも、本当は、被災者は誰もが等しく心に傷を負い、先の見えない不安や希望を持つことが出来ない憤りに耐えています。時折垣間見るそうした深い悲しみに触れた時、この物語は誕生しました。悲劇は続いています。それを忘れたくない、忘れないでほしい、それがこの物語の願いです。」
S教諭は明大文学部卒とのこと。公演前にウシトラのN氏が紹介してくれた。

劇は、被災して高校に転校してきた「絵里」が再び転校していくお別れ会から始まる。お別れ会でのクイズの練習の場面から劇は進んでいく。
高校生たちのストレートな演技がとてもよかった。気持ちが伝わる公演だった。
ラストあたりでは涙を抑えることが出来ず・・・。
この日は、公演終了後、演劇部の高校生たちとのトークイベントがあったので、その様子を紹介する。演劇部の高校生たちの気持ちが良く分かる内容である。

<アフタートーク>(要約)
司会はNPO法人「大震災義援ウシトラ旅団」理事長

司会『私が生徒さんからの聞き出し役、聞き役をやりたいと思います。3人の2年生に出ていただきます。みなさんどうぞ。』
(拍手)
司会『東京で演劇のメッカと言われるところで公演をやることについて感想を。』
Mさん『お腹が痛くなるくらいドキドキして、毎回毎回キューとなるくらい痛くて、だけどすごくうれしくて楽しませていただいています。』
Sさん『Mさんに言いたいことを言われてしまいましたが、下北沢ということころでできて、本当にうれしいです。お客さんが近いじゃないですか。大会だとそれなりに距離があるんですが、直で伝えられる、真っ直ぐ伝えられる。』
司会『すぐ目の前で泣いているしね。』(笑)
Sさん『つられてこっちも・・(泣いちゃう)。』(拍手)
S君『最初は緊張しました。でも3日間やって緊張より楽しさの方が上回ったんです。いやー、この楽園でやって本当にうれしいと思っています。』(拍手)

(No304-2に続く)

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(No304-1の続きです)

司会『東京のお客さんはどこか温かいと思ったと言っていたけど・・』
『結局、伝わったんです。お客さんの方も受け止めてくれたというのがすっごく分かって、それで。』
(演劇部部長登場)
司会『福島の美里町のラーメン屋で話を聞いた時に、東北大会の時の反応がすごくつらいものがあって、そのことがあったので、うちから声をかけて、東京で公演をやるということが大変うれしかったという話をしていましたね。ウシトラのよいしょも含めて、その辺の気持ちを。』
『東北大会では、今日の劇よりももっとストレートな内容だったんですね。言い回しももっとストレートだったんです。ドスンとくる感じだったので、東北で受け入れてもらえなかったんですよ。分かる人は分かってくれた人がちゃんといたんですけど、講評で「重い」「つらい」というのがすっごく書かれていて、それを見て全員で本当にショックで沈んでいたんですけど、そこでウシトラさんが・・・』
司会『そういうのが欲しかった。』(笑)
『震災のことを分かっている優しい方々が、傷つけられた私たちを励ますというか、俺たちがいるから大丈夫だよ、みたいな。(公演が)終わってから搬出の時にさーと来てくれて、うれしかった。(声が詰まる)』
司会『下北沢でやろうね。待ているからと言ったんだよね。』
『そこからボロ泣きです。こんなにも分かっている人がちゃんといるんだな・・・』
司会『おじさんも捨てたもんじゃないなと・・・』(笑)

司会『ここにいる高校2年生ですが、みなさんがご存知の高校2年生の顔とちょっと違うと思うんです。今、話してまた思うんですけど、大人ともきちんと話ができて、しっかりものを考えて、これは「シュレーディンガーの猫」という演劇を通して、S先生が厳しい指導をしているんですが、それを彼ら、彼女らはきちんと受け止めて負けずにやるんですが、それが1年生の顔と2年生の顔とは全然違うんです。それは演劇で過ごした時間でそういう風になってきたのかなと思います。
この演劇が育っていく過程で、いくつかエポック・メイキングな事があったんですけれども、モデルになった富岡町から原発事故で避難して大沼高校に入ったSさん、先輩になるのかな、それがきっかけになってこの演劇が生まれたんですけれども、1年半くらい、彼女は全然自分の体験を話さなかった。練習を始めてから「それじゃ伝わらないよ」と言われたんだよね。』
『言われました。』
司会『その時、どういう風に受け止めたのかな。』
『話を聞くときに、私はまだキャストではなかったんですよ。演出する立場で聞いていて、キャストにとっても、その話はすごく心に刺さるというか、響くような話でしたし、演出の立場からもすごく、ちゃんと本当のことをみんなに伝えなくちゃという気持ちがあって、泣きながら、彼(S君)が一番ボロ泣きでした、他の人たちもボロ泣きでした。その話をちゃんと伝えられるように、これからどうしようかということを決めて、この話を決めました。』
司会『どうして泣いたのかな。』
S君『話がリアルすぎて想像力しちゃって、こうやって人が流されたり家が壊されたのかな、それを思っただけで涙がボロボロで、吐き気もして、ヤバかったです。その話を聞いて、このシューレディンガーを完成させて、東京人に見てもらいたいと感じました。』
(Sさん登場)
司会『この演劇が急激に良くなったのは、稽古に入ってから、Sさんが「貴方たちのやり方では被災者の気持ちは通じないんだよ」ということを、自分の体験を話して、そこで演劇が良くなったという話をしていたんですが、その時、Sさんはどういう話をされていたんですか。』
Sさん『3・11の時から自分がどこに居て、その時間何をしていて、それから何処に避難して、今どんな状況にあるのかということを全部話しました。』
司会『貴方はたぶん泣きながら話したんだと思うけど、目の前にいる部員の人たちも号泣する人もいて、相手方もまた泣いている訳で、それを見て、この芝居は変わっていくような予感はあったんでしょうか。』
Sさん『その話をしてから、部員の人たちが一人ひとり震災のことついて気持ちが作られていくのが分かったんですね。震災に対する思いが強まっていって、「この子たちなら任せられる」と思って、伝えてくれると思った。』

(No304-3に続く)

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(No304-2の続きです)

司会『いい話だよな。おじさんすぐ泣いちゃうよ(笑)。いくつか、そういうエポック・メーキングな事があって、東北大会の悔しさを回復できるような形で、ある種、演劇としては一般の人に見られないままコンテストが終わってしまうというところから、もう1回いろんな人たちに見てもらえる、そういう意味では復活していくみたいな過程を通って、3月に私がいわきで見た時よりも、はるかに素晴らしいものに演劇としては成長してきている。みなさんも成長してきたという感じです。
一つ聞きたいと思ったのは、会津に浜通りから避難してきている人たちの仮設住宅で演じましたよね。その時みなさんどんな気持ちだったのかな。』
(写真:仮設住宅での公演の新聞記事)
Mさん『仮設住宅の公演は2回あったんですよ。一つは楢葉から会津に来たところと、大熊から会津に来たところで、2回やらせていただいて、私は会津で生まれて、震災の時もそんなにひどいということではなくて、本当の震災を経験していないから、目の前でやるのがどうしようか悩んでいたことがあったけど、だけど自分たちでこういう劇をやって、もっと前を向いて欲しくて、まだ希望というか、そういう光があるんだよというのを伝えたくて、同じ福島でも一緒に頑張っていこう、という風に本番でできるように練習も頑張って、本番でたぶん伝わったと思うんで、それをバックにしてこれから進んで行って欲しいなと思いました。』
Sさん『東北大会でボロクソに言われて、成長もしましたけれど、やっぱ、さすがにみんな被災者という特殊な空間じゃないですか。そこで演じるのは何となく怖い感じがありました。(震災の)経験者なんで、やって、その時(東北大会)と同じように言われたら、次は絶対に起ち上がれないと思ったんですけれども、いやーちゃんと伝わりましたね。うれしかったです。その2つの公演があって「すごく良かったよ」と言ってもらえて、その結果、ここで自信を持ってみんな演じられている。いい経験でした。』
S君『大熊町の人と、楢葉町の人と、どちらも被災者ということで、シュレーディンガーを見てもらって、最初は「これを見て何か罵倒でもされるんじゃないかな」と思ったんです。でも、大熊町の人と、楢葉町の人も最後は拍手喝采で見届けてくれたんです。それで最後にお見送りする時に、この劇の気持ちが伝わって嬉しかったんです(涙)。
その時に受け入れてもらったから東京でできると思っています。』

司会『いくつか反応を聞いたんだけど、なかなか言葉に出来ない自分たちの心の内をこの劇が表現してくれた、という言い方される被災者の人たちがいました。たぶん、そうなんだと思うんですね。すごくつらくて絶望的な状況があるんだけれども、そこのところを抜きにして絆だとか手を繋ごうとかいうのはあり得ない話で、ちゃんとそれを受け止めるような、こういう子たちが育つということが重要なことで、今、私たちはその過程を見ているという感じがします。外から見ています。
部長さん、キャストではないけれど、そういう状況を見られているのをどう思いますか。』
部長『正直、楢葉公演の方が先だったんですけど、その時、正直こちらはすごくビビッていたんですよ。本当に大丈夫なのかなとか、やってもいいのかなとか、東北大会のことがあって、落ち込んでいて、その中での楢葉公演だったので、正直精神的にもきていたんですけれども、楢葉公演を乗り越えてから、またどんどん成長して行って、メッセンジャーとして・・ここに来ることができたんで・・本当につらかったですけど・・・(涙声に)
(ガンバレーという声)楽園に来て本当良かったな・・と思います。』(拍手)

司会『この劇団が育っていく過程自体がそうだと思うんですけれども、彼ら、彼女らがある種の使命感みたいなものを自然に持っている。これをやることの意味をちゃんと分かって、ここに来て演じている。それも高校生としてはすごいなと思うんです。
それでラスト・クエスチョン。新しいキャストになっていきますよね。その辺の決意を、こういう風に自分はやりたいんだと思っていることがあったら話を聞かせてもらいたい。
昨日3年生に聞いたら、私たちよりいいものは出来ない(笑)、そんなことあり得ないと言っていましたから、そこを乗り越えるという決意を一言ずつもらえるかな?』
Mさん『新キャストで、私は被災者役をやることになって、今演じている役と真反対の役で、出来るのかなというのと、今までの積み重なってきたものが、私で壊すんじゃないかなとか、そういうことがあって、与えられた役はすごくうれしいんですが、ちゃんと伝えられるかどうか不安で、だけど伝えなきゃいけないから、頑張って先輩以上のものをやりたい。』(拍手)

(No304-4に続く)

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(No304-3の続きです)

Sさん『次は「絵里」役なんです。立場的にこっちは受け入れ側で、こっちは被災者で、しかもこっちはやりたいけど、向こうは同情するならやらないで、というある種の対立の役。
今の絵里さんを抜かすのは、正直ちょっとヤバいという感じ。できるかなと思うんです。抜かせる気はそんなにしないんですけど、どっちかというと、抜かすよりもキャストが決まった時に、先生に「抜かすより新しい道、お前としての絵里を待っているぞ」みたいなことを言われたんですね。とりあえず、もう1回、一から震災の被災者の方々のこととかを全部もう1回考え直して、避難を演じることを活かせるものを作っていきたいなと思います。』(拍手)
S君『次も同じ役です。気持ちの問題で表現力を相手に見せるように頑張っていきたいと思います。』(拍手)
司会『部長も今度舞台に立つんだよね。』
部長『新キャストで陽佳(はるか)をやるんですが、1年間、この演劇をまとめる側にいて、正直不安だらけです。ここにいるメンバーより、舞台に立った数は少ないですし、経験ないんで、これからもっともっと頑張って3年生から盗めるものは全部盗んで、今の陽佳とはまた違う陽佳を作って行けたらいいなと思うので、がんばりたいと思います。』(拍手)

司会『最後にまとめなんだけど、この後輩たちを見ていて、何かエールでも送ってあげて欲しいと思うんですけど、どうでしょうか。』
Sさん『後輩はいつまでたっても可愛いです(笑)。日々成長して、卒業以来全然帰っていなくて、観ていなくて、こんなにうまくなっているとは思いませんでした。本当によくやってくれるなと思います。
エールとしては、先輩を抜かすことを目標とすることはすごくいいことなんですけれど、そうじゃなくと、先輩のいいところを吸収して、それを見習って、もっと自分を伸ばしてくれたらと思います。』

司会『この人たちは、日々、シュレーディンガーの猫という演劇によって育っていって、今自分たちがやらなければならないものを、ずーっと考えて演じています。
皆さんの心に通じるような大事なものを伝えていくということを、丁寧にやるような演劇の興行の仕方をやって欲しいと思います。
もし私たちが(興行を)やるとしても、そういう形でお手伝いできればと思っております。
これからもシュレーディンガーの猫という名前を聞くかもしれませんが、是非応援してあげてください。よろしくお願いします。』(拍手)

「絶対に忘れない」「どんなことがあっても負けない」「それでも他人は優しくしたい」、公演のラストではこんな言葉が観客の胸を打つ。
この演劇は、アフタートークにもあるように、大沼高校演劇部で後輩に引き継がれながら上演されていく。そして震災と原発事故の記憶もしっかりと引き継がれていく。
文化というものはこういうものなんだ、としみじみ思う。もう政治に期待することはない。

写真は公演終了後、観客を見送る演劇部の高校生たち。カメラを向けると笑顔でピースのポーズ。
彼ら、彼女らの笑顔は未来への希望である!

(注:「シュレーディンガーの猫」)
物理学者エルヴィン・シュレディンガーが提唱した量子力学上の思考実験。箱に入れられ、放射能の放出に生死を握られたネコを想定し、その生死を考える。劇中では「生きている状態と、死んでいる状態が50%の確率で同時存在している猫」と説明されている。

(終)

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広島は、今年の8月6日で68回目の原爆忌を迎える。
この原爆忌を前に1冊の本が出版された。
本のタイトルは「ぼくは満員電車で原爆を浴びた」。
語りは米澤鐡志さん、それを文章にしたのは由井りょう子さん。

米澤さんは1945年8月6日、広島の爆心750メートルの八丁堀で、電車内被爆を経験。一緒にいた母は死亡。米澤さんも全頭髪が抜け、40度以上の高熱が続き、死地を彷徨うも奇跡的に回復。
1975年頃から小学校、大学、病院、各種集会などで被爆体験講話を年7,8回平均で行っており、以降、35年以上、各地で体験講話をしている。
また、電車内被爆者として広島の被爆電車内での講演も行っている。
その米澤さんの体験が本になった。
米澤さんは、本の「あとがき」に、出版に至るまでのことを、こう書いている。
『ぼくは、すでに本文で述べたように原爆被曝を受けながら、奇跡的に生き残り、50年以上にわたって被爆体験の「語り部」を続けてきました。
この間、ぼくの話を聞いてくれた多くの人々から、この体験を本にすることをすすめられてきました。でも、簡単な講演記録をのぞいては、出版を断ってきました。(中略)
なぜなら、少年時代のぼくの記憶に間違いがないとは言いきれませんし、ぼくは歴史家でもないので、もしや正確ではないものを記録に残すことに責任がとれるのか、と考えたとき、本にして残すことにとても大きなためらいがあったからです。
また、これまでにも原爆をテーマにした絵画、詩、小説、エッセイ、まんがなどすぐれた作家のすぐれた作品がたくさん世に出ています。いまさら、ぼくが書かなくてもいいのではないかという思いもありました。
けれど、2011年3月11日の東日本大震災、それにともなう東京電力福島第一原子力発電所の事故により、ふるさとを追われた福島の人々を見て、考えが変わってきました。
(中略)このまま黙っていたのでは、いつの日か、何もなかったことにされて、歴史の中にうもれていってしまうような気が強くします。だから、ぼくは本にして残すことに決心しました。(中略)
聞き書きの由井りょう子さんには、一昨年、ぼくが東京で初めて被爆体験を語ったささやかな講演会にかかわっていただきました。そのとき、ぼくの話が終わると同時に、本にまとめることをすすめられ、より詳しい取材が始まりました。本にする気はないと言っていたぼくが、説得に負けてしまったのです。おかげでこのような立派な本ができました。あとはひとりでも多くの人々に、読んでいただきたいと願うばかりです。』

この初めての東京での講演会が、2012年7月16日の「明大土曜会」である。
当日、代々木公園で「さようなら原発10万人集会」が開かれ、4大学共闘は集会とデモに参加したが、米澤さんも4大学共闘の集会であいさつをし、一緒にデモに参加した後、講演に臨んだ。
当日の講演が、この本が出版されるきっかけとなった。

※ 米澤さんの集会でのあいさつ
『私は広島で1945年に小学校5年の時に被爆しまして、その後、60年以降、現在まで50年間、核と人類は共存できないということを旗印にして運動を続けてきたんですけど、残念なことに福島の事態を起こしてしまいました。
そういう意味では、今のような広い運動ができなかったことについて慚愧に耐えない。私は大飯の闘争には3回ほど行きまして、30日、1日とバリケードを作って座り込みをした時は、膝がガクガクして、78歳ですから大変だったんですけど、それでも死ぬまで反戦・反核のために闘っていきたいと思っています。
皆さんと先が短いと言いましたけれど、私はあと10年以上は最低がんばるつもりでいます。共に頑張りましょう。』

本の「はじめに」には、小出裕章氏(京都大学原子炉実験所助教)がこんな文章を寄せている。
『(前略)二度と原爆など使ってはいけませんし、戦争だってしてはいけません。
どんなにつらい記憶でも、知らないよりは知ったほうがいいと私は思います。
本書は読むのも苦しい内容ですが、きっと未来のための知恵を与えてくれるでしょう。』

アマゾンの「編集担当からのおすすめ情報」(引用)
『この本は、これまで米澤さんの「語り」を聞いたことのある人にとっては、「やっと本になった」という待ちに待った本、はじめて接する人にとっては「こんなすさまじい体験を小学校5年生がしたのか」と驚きとともに知るヒロシマの現実、という本でしょう。
米澤さんは、被爆一世の語り部として、最年少です。
小学校4年生以上で習う漢字にはふりがなをふりました。
すべての方にとって、原爆被爆の実際を知るために、おすすめです。』

本の出版を引き受けてくれる出版社が見つからず、苦労されたようだが、7月11日に出版された。この夏、原爆について親子で考えるときに最適の1冊。

※「ぼくは満員電車で原爆を浴びた」(小学校中学年以上~一般)
 米澤鐡志(語り)+由井りょう子(文)  発行:小学館  950円+税

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