野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2013年09月

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(文書が長くブログの字数制限を越えるため、No308-1とNo308-2に分けて掲載します。)

2013年9月11日、経産省前に脱原発テントが設置されてから満2年となった。
当日は「テントひろば3年目 怒りのヒューマンチェーン!」が経産省前で行われた。
15時から経産省前座り込み抗議・1分間スピーチ、18時から経産省申し入れ・経産省前抗議、19時30分から経産省包囲・怒りのヒューマンチェーンという内容であった。
今回は、この中から、18時から行われた経産省前抗議集会での渕上代表の挨拶を掲載する。

<経産省前抗議集会 渕上代表挨拶>
渕上『経産省前テント広場の代表ということになっている渕上でございます。本日はお集まりいただきまして、誠にありがとうございます。
本日のこの抗議集会は、さまざまな私どもの客観的な情勢の中で、私たち自身としては改めて3年目を迎えるこの記念すべき日に、これから7時半ないしは8時頃に、この経産省、この経産省は単なる経産省ではなくて、正に我が国の原発を推進する中心的な省庁である訳ですが、この経産省を私たちの怒りで取り囲んで、抗議の声を上げたいという催しをやるということであります。
さて、みなさん、ご存知のように東京でオリンピックが開かれることになりました。恐らくここに参集の方は、かなりの方が「そんなの今頃やることなの?そんな金があるのならば福島の避難者につぎ込むべきではないのか。」そいういことを率直にお考えだと思います。
どうやら政府は、このオリンピックを2011年の東日本大災害からの復興オリンピックなどと名付けようとしています。ご存知のように、復興という言葉はそれ自身が間違っている訳ではありません。けれども、そんな時なのか。
今、私たちは、良く分かっていることがいくつかあります。福島を中心とする放射能の問題について何も解決していないことです。そしてまた、そのために避難をしている15万を超えるみなさんの生活や健康や命についても何も問題は解決していない。そしてまた、放射能に汚染された水、これは毎日毎日、4つの壊れた原発に上から流し込んでいるその水ですけれども、それがどんどん溜まりにたまって、今、私自身は正確なことは分かりませんけれども、あの一帯で34万トンの水が、単なる水ではありません、飲めない水です、放射能をたくさん含んだ水でありますけれども、これがあそこに34万トンほど溜まっておって、それがジワジワと海に流れている。オリンピックを開催するに当たって、世界の人々はこの問題に大きな関心を寄せた訳です。「危なくないのか?日本の国民はこの放射能の中で大丈夫なのか?私たちが東京に来ても大丈夫なのか?」そんなことを当然気にされた訳でありまして、何回も記者団からの質問があった訳です。
そして最後に、安倍総理が「この放射能問題は、あの港湾の中に閉じ込められている」そしてまた「完全にそれがブロックされている」そのように語った訳です。一国の総理がそう言う訳ですから、国際的には「ああそうか、よかったね」という話になって、投票が東京に集まるという、そういう仕掛けだった訳です。
しかし、誰がどう見ても明確なウソです。我が国の一国の総理として、そのようなウソは絶対についてはならないことです。たかがオリンピックのためにとはいえ、そういうことは御法度のはずなんです。でも彼は堂々とそれを言ってのけ、そしてこの放射能問題、汚染水問題については「自分自身は自信があったからそのように述べた」と言っております。
「自信が本当にあるんですか?」ということを安倍総理に私は聞きたい。内心は全く無いんだろうと私は思います。この点について、我が国の1億2千万の人々の中で、あの汚染水問題を解決できると自信がある方は誰もいないんです。もしここに一人でもいらっしゃれば、ここに上がってご説明いただきたいと思うけれども、そんな人はいないはずです。
私たちは、こういうウソを平気でつく総理を頂いている非常に情けない状況ではありますけれども、これはこれで議会の選挙の結果として多少止むを得ないのかな、事実ですからどうのこうの言っている場合ではありませんけれども、気に入らないけど置いておく。
しょうがないから置いておく訳だけれども、その総理が明確なウソ、国際的なウソをついたということについては、絶対に許すべきではありません。
私たちはこの2年間、ここにテントを張って脱原発や経産省に対する抗議行動を継続してきました。何故私たちはそんなことをやらなければいけなかったのか。冬は寒いです。夏は暑いです。そんなことは当たり前ですけど、2年間にわたって私たちはここで頑張ってきましたけれども、大きな理由が二つあります。

(No308-2に続く)

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(No308-1の続きです)

一つは2011年の3月に、あの想像だに出来なかった深刻な原発事故が起きてしまい、そしてそのことによって、たくさんの人が深刻な被害を受けた。ご存知のように関連死という方が3,400人くらいでしょうか、今既にいらっしゃいます。この関連死が、この事故にともなう死であるのかないのか、放射能で直接やられたかどうか、いろいろあるにしても、関係者は「この事故で直接死んだ人間はいない」などと言い始めている。違います。現に東電の社員が2名、事故が起きた当日に亡くなっていて、放射能が危険なものだから救い出しにも行けずに1週間以上にわたって放置されていた訳です。最初の犠牲者はこの方です。しかし、前後して放射能は福島を中心に降り注ぐ、そういう状況の下であっちに逃げ、こっちに逃げ、病院からも保養所からも老人施設からもそうせざるを得ないような状況があった訳ですけれども、そういう過程の中で亡くなっていく、無念の死を迎えざるを得ない。この関連死は福島県の方が一番多いんです。これは大変なことだと私は思います。にもかかわらず「死んだ人はいない」などと言われたら、本当にこの国はまともな政治があるんだろうか、そういう風に考えざるを得ない。
この経産省がその政治をやっている一部です。しかも先ほど申し上げたように原発を推進している一部です。ついでに言いますと、昔はここに原子力を規制する安全保安院というのがありましたけれども、今はない。規制庁というのが別に独立して出来てしまった。
ということはどういうことでしょうか。この経産省は大手を振って規制のことは何も考えずに原発を推進できる、そういう立場になったんですよ。彼らとしてはスッキリしたかもしれないけれども、よっしゃー経産省はやっぱい悪いじゃないかということを我々は言わざるを得ない。
最後に一言だけ申し上げたいことがあります。実は今日、泊原発、伊方、若狭、川内原発、この四つの原発立地からおいでになって、この経産省に対する重大なる申し入れ、抗議の文章をここに持参をしていただいた訳ですけれども、経産省はそこのちょっとした空地で、とにかく紙だけは受け取るみたいなこういう失礼な話をしている。私は、私個人の抗議文ならば、まあそれでもいいかと諦めるかもしれないけれども、今回の場合はそうはいかない。わざわざ飛行機に乗って、時間をかけて、この再稼働問題を中心とする意見を請願として出そうとしているのに、守衛だか職員だか分からない連中がここに来て、紙だけ受け取るということは許されることではない。国民に開かれた経産省、あるいは国民がこの人たちに言いたいことが言える請願権を彼らは認めていない。「1週間前に連絡があればよかった」などと腑抜けたことを言っていますけれども、安倍総理が演説したのは9月7日ですよ。今日は11日ですよ。たった4日。そういう状態の下で、そういう抗議文を、あるいは申し入れ書を受け取らないということについて、逆に私どもも、そんな状態で渡せるかということで、逆こちらも本日渡すということを拒否いたしました。この点についてはいろんなご意見があるかもしれませんけれども、止むを得ざることとして、そうせざるを得ませんでした。9月19日に改めて場所を設けることに一応なっていますけれども、本日については、やらないということを決めさせていただきました。
テントとしてはこの経産省に何を言いたかったのか。言いたいことはたくさんあるんですけれども、たった一つだけです。安倍が先ほどウソをついたと申し上げましたけれど、このウソについて一番良く分かっているのは経産省なんです。茂木経産大臣が少なくとも、東電の次くらいには良く分かっている。何が分かっているかと言うと、汚染水が外洋に漏れているということです。これについては十分承知なはずです。記者会見でもそういう風に認めています。ということは、その上に頂く安倍総理が「ブロックされている。閉じ込められている」と言ったけれども、「これはウソなんです」と茂木さんが訂正をしなければいけない。
そういう訂正を全世界に発信しろという私たちからの要請でありましたけれども、これも今回は出さないで、19日に出します。
これから先、もし原発をやらないということであればいいのですけれども、やるんだということである限り、テントは撤去しないし、みなさんも闘いの意志と闘いそのものを止めないだろうということを私は確信してご挨拶に代えたいと思います。
ありがとうございました。』

安倍総理の国際オリンピック委員会総会での発言はウソだ!
街宣車のスピーカーから、渕上代表の怒りの声が霞が関に響き渡っていた。

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今年の8月22日、藤圭子が新宿のマンションから転落死した。
享年62歳。
合掌。

藤圭子は1969年9月「新宿の女」でデビュー。1970年に「圭子の夢は夜開く」がヒットし、彼女の歌声が夜の街角に流れていた。

赤く咲くのは けしの花
白く咲くのは 百合の花
どう咲きゃいいのさ この私
夢は夜ひらく

十五 十六 十七 と
私の人生暗かった
過去はどんなに暗くとも
夢は夜ひらく

(中略)

前を見るよな 柄じゃない
うしろ向くよな 柄じゃない
よそ見してたら 泣きを見た
夢は夜ひらく

一から十まで 馬鹿でした
馬鹿にゃ未練はないけれど
忘れられない 奴ばかり
夢は夜ひらく 夢は夜ひらく

藤圭子については、このブログのNo20で「新宿アルバイト生活」と言うタイトルで以下のような文章を掲載している。
『1970年といえば、思い浮かぶのは「藤圭子」。
彼女の歌には新宿の匂いがする。
1969年のデビュー曲が「新宿の女」なので当然かもしれないが、「圭子の夢は夜ひらく」など他の彼女の歌を聴いても夜の新宿の街の様子が目に浮かぶ。
あのちょっとかすれたハスキーボイスとルックス、暗さや怨念を感じさせる歌いっぷり・・・。
私は部屋に藤圭子の顔のドアップで、片目から涙を流している大きなポスターを貼っていた。某自動車メーカーが宣伝用に作成したキャンペーンポスターであるが、アルバイト先のキャンペーン下請け会社で手に入れた。夜、寝る時、丁度このポスターが見えるような位置に貼って眺めていた。』

キャンペーンポスターは今はもう私の手元にはない。
数年前、私のブログを見てくれた友人のK君の自宅で、ポスターの写真を撮らせてもらうことができた。(写真)
当時、K君も同じアルバイト先で一緒に働いていたので、彼も自宅にこのポスターを保管していたのである。
アルバイト先での作業は、ガソリンスタンド向けの新車キャンペーンで、このポスターの何倍もある布製(?)のキャンペーン掲示物(ポスターと同じデザイン)のキットを、ガソリンスタンドに配送するための梱包作業だったように記憶している。
ポスターは、このキャンペーン・キットに入れるものだった。

藤圭子の訃報を聞いて、真っ先に思い出したのはこのポスターである。某掲示板には、8月22日にこのポスターの写真を掲載した。
このポスターの写真を撮ったのは立木三朗氏。立木義浩氏の弟である。ポスターのデザインも凝っていて、ポスターのタイトルが右端に付いているが、「藤圭子 怨歌」。左端には「涙暦」と書いてあり、ポスターの縁には、拾月から拾弐月までの暦(1970年)が書き込まれている。そして、暦の日付のところに「壱・・・から」「拾・・・まで馬鹿でした」と、歌の歌詞がちりばめられている。
ポスターの左下には、「命あずけます」の歌詞が書かれている。

流れ流れて 東京は
夜の新宿 花園で
やっと開いた 花ひとつ
こんな女で よかったら
命あずけます

私にとって藤圭子は、このポスターである。

ブログNo20には「藤圭子の歌には新宿の匂いがする」とも書いた。
1969年と70年、私のアルバイト先は新宿であった。伊勢丹裏の中華料理店のウエイター、新宿警察署の前にあった「秀新」(日大経闘委K氏の店)での皿洗い、そして歌舞伎町でのチラシ配り・・・。私が目にした新宿の街の風景は、藤圭子の歌の世界であった。

ポスターを持っているK氏は、1971年当時、歌舞伎町の「新宿アートビレッジ」というアングラ劇場で照明を仕事をしていた。
私に代わってK氏に当時の新宿の街の風景について語ってもらおう。
K『71年か72年だと思うんだけど、あのころは新宿自体が面白かった。全体が異常な世界だった。70年が終わっても新宿自体が妖しい世界だった。危険なところもあって、コマの裏の交番の前で、見物人がいっぱいいて、ヤクザがボコボコ蹴っていて、血まみれのサラリーマンが土下座して謝っているのに、交番のお巡りが「あんた、もっと誤った方がいいよ」と言っているだけ。変な世界だったよ。
夕方、ホストみたいな洒落たハンサムな結構でかい奴が、背の低いヤクザの幹部みたいな角刈りのおっさんにボコボコニ殴られてひたすら謝っている、というような情景が当たり前にあった。
全裸で山高帽を被って、ステッキを持って、カバンを持ったおっさんがアベック喫茶に入って行ったり・・。本当に新宿ってハチャメチャだったよね。街全体が無礼講みたいな。』

カルチャー(文化)と政治が一緒になって動いていた時代、『ごった煮』みたいな時代、新宿の街の風景はまさにそれだった。
こんな風景も、70年代前半からカルチャーが次第に体制に取り込まれいった状況に合わせるかのように変わってしまった。
新宿の街の「風景」は変わったが、私の「記憶」は変わらない。
藤圭子は亡くなったが、彼女の歌は新宿の街の「記憶」とともに私の中で生き続けて行く。

(終)


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