野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2013年10月04日

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(文書が長くブログの字数制限を越えるため、No310-1からNo310-3に分けて掲載します。)

連載を続けてきた明大全共闘クロニクルも終盤に入る。(No279の続きです。)
いよいよ昭和45年(1970年)の新学期になった。これから6月に向けて明大全共闘内部の主導権を巡って党派間の内ゲバが顕在化していく。
明大全共闘として各党派が一緒に行動していたのは、実質的に3月までであった。

4月8日、新入生の入学式が武道館で行われた。翌日の4月9日、和泉校舎では、オリエンテーション。立看板が立ち並び、バリスト前のような雰囲気であった。
4・28沖縄闘争を前に、集会が続く。
4月13日、文京区の礫川公園で「中村君虐殺弾劾、日大アウシュビッツ体制粉砕労学総決起集会」が開かれた(写真)。明大からも参加ということで、和泉の部隊も集会に向かった。
和泉校舎からデモで出発する時は、甲州街道の歩道橋を使わず、そのまま甲州街道を突っ切っていたのだが、この日は警備の機動隊の規制により、ML派のI君が逮捕された。
公務執行妨害と道路交通法違反である。それまでは、甲州街道を突っ切っても逮捕まではされることはなかったのだが、警備当局の姿勢が強硬になったと感じた出来事であった。

【日大全共闘など集会 朝日新聞1970年4月14日】(引用)
『全国全共闘、日大全共闘、全国反戦共催の「中村君虐殺弾劾・日大アウシュビッツ粉砕労学市民統一集会」は13日午後5時すぎから東京・文京区の礫川公園に約二千五百人を集めて開かれた。集会には新入生もかなり参加。参加数は申請を五百人上回った。集会のあとのデモでは、国電水道橋駅付近で激しいジグザグ行進をしたが、機動隊に規制され、同8時半ごろ神田・淡路公園で解散した。』

【4・13日大闘争に三千余名は結集 戦旗1970 年4月 17日】
『(前略)鈴木東大全共闘議長代理の発言をもってはじめられた集会は、日大三学部共闘会議(文理・商・芸)の決意表明を受け、秋田日大全共闘議長の「日大10万学友の力を結集して、日大アウシュビット体制を粉砕し古田を打倒しよう!」との呼び掛けに熱狂的に応え、農獣医学部を退職させられた、小林講師の「第二、第三の小林を作り出そう!」という連帯のあいさつを受け、白山通りをうめつくして、淡路公演までの戦闘的デモン首都レーションを展開した。(後略)』

続いて、4月19日には明治公園で集会が開かれた。その時の様子が明大新聞に掲載されているので見てみよう。

【内ゲバで十数人逮捕 赤軍も参加、4・19集会 明治大学新聞1970年4月23日】
『全国全共闘、全国県反戦代表者会議共催の「4・19全軍労闘争支援・安保粉砕・労学総決起集会」が19日午後1時から、明治公園で開かれた。小降りだった雨も集会開始時には止み、学生・労働者約3,000人が結集した。
また、会場にはハイジャック事件で耳目を集めた共産同赤軍派二十数人も参加、公園の片隅で集会を開いていた。反戦派労働者・学生の“雑然”として集会に比べ、「キヲツケ」「ヤスメ」の号令が飛ぶ“キ然”とした光景が対照的であった。
総決起集会の途中、内ゲバ騒ぎが起こり、そこへ会場外で監視していた機動隊が乱入、十数人が逮捕された。
集会の後、デモ行進に移り、同公園から赤坂見附、銀座を通り、東京駅八重洲口まで、機動隊の目を盗んではジグザグ、フランスデモを繰り返した。
本学からはブンド、ML、反帝、中核、新寮闘委など約150人が参加した。東京駅構内で総括集会を開き、6時ごろ解散した。』
私はこの集会に参加した。記事の中の赤軍派の様子については記憶にある。集会を遠巻きにして眺めていた。

この集会から3日後、日比谷公園で全国全共闘連合主催の新入生歓迎集会が開かれた。この日はレーニン生誕100周年という日であったが、集会では明大全共闘の主導権を巡り、ブントとML派が内ゲバで衝突した。
明大全共闘内の亀裂が決定的となった日である。

【ブンド、MLが内ゲバ 日比谷の新入生歓迎集会 明治大学新聞1970年4月23日】
『全国全共闘連合主催による新入生歓迎大集会が4月22日午後3時より日比谷野外大音楽堂で開かれ、約2,000名の学生の参加をみた。本学からも、神田、和泉、生田の三地区から約50名の学生(反帝戦線、学生解放戦線、反帝学評、中核、ノンセクト)が会場に結集した。
集会は三里塚芝山連合空港反対同盟戸村一作委員長の挨拶ではじまり、自衛隊内部で反軍闘争を起こした小西誠前自衛隊員のメッセージが続いた。

(No310-2に続く)

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(No310-1の続きです)

つぎに各大学全共闘の連帯挨拶に移り、最初に本学全共闘を代表して、学生解放戦線の関口成一君が登壇し、演説したことから、一部学生会のヘゲモニーを握る反帝戦線(ブンド)の学生が反発し、両者で激しい内ゲバを演じた。会場は騒然となったが、インターの合唱で静かになり、集会が続行された。
他大学生共闘、反戦青年委員会の4・28沖縄闘争へ向けての闘争宣言が発せられた。そのあと、今度は、本学全共闘を代表して横谷優一君が演説したことにより、学生解放戦線の学生が反発し、再び内ゲバを演じた。両者の間に中核、反帝学評の学生が緩衝地帯を作り、ようやく集会を終了することができた。集会には新入生の姿もちらほら数えることができた。
(解説)
これは昨年の本学のバリスト以降、明大全共闘(代表反帝戦線福田直人君)、二部共闘(議長学生解放戦線本間晟豪君)、全明全共闘(学生解放戦線と中核派の共闘であり、ブンドは不参加、議長は関口成一君)が結成され、明大全共闘の代表を巡って、反帝戦線と学生解放戦線の間で争いがあり、今回それが表面化したものである。
なお、翌4月23日には、学生解放戦線の学生約50名が本学和泉校舎校内に集まり、当日予定されていたブンドの新入生歓迎集会に介入しようと、竹竿で武装したが、反帝戦線(ブンド)の学生が姿を現さなかったことにより、衝突が回避されるという事態が起こっている。両者の対立は今後の本学の闘争組織と運動に少なからぬ影響を及ぼすものとみられる。』

【ML派の無政府主義を粉砕! 戦旗1970 年5 月1日】
『(前略)わが赤ヘルとML両派が明大全共闘を代表して発言するということが、全共闘書記局で確認されていながらも(2・14明治公園での集会の前例を踏まえ)この政党間協定を打ち破り、わが同盟ならびに全国全共闘連合に敵対する行為の数々を積み重ねたのである。列挙すればおよそ5点である。
〆能蕕烹唯滅百惴?発言に立った時、赤ヘル部隊に襲いかかったこと。¬逝臍感ζを代表して横谷君が発言しようとした時、マイクを切断し司会者の東大全共闘鈴木君に殴りかかったこと。赤ヘルが演壇を固めている時にML派は出入り口にて、書く大学全共闘の赤ヘルに暴行を働いたこと。ぅ妊發暴个觧?惴紊ら襲撃したこと。ゲ鮖驚賄世療豕?悗如機動隊の目前で又もや襲撃を繰り返し官憲の介入を招かせ、同志を官憲に売り渡したこと以上である。(後略)』

翌23日、大学当局は4・28に向けて告示を出した。
【告示 1970年4月23日】
『最近、一部活動家学生集団の行動が学内外で見かけられ、4月28日の「沖縄反戦デー」のストライキ宣言など、さまざまな行動への呼びかけ立看板やアジビラによって見うけられる。大学はそうした政治的目的による一部学生の過激な行動のために、教育・研究という大学本来の使命を犠牲にされてはならないと考える。あるセクトが公言しているような「明大再占拠」などの行為は断じてこれを許すことはできない。
学生諸君は、この厳しい事態を認識し、学園の平和と自由が如何にわれわれの日常の生活に必須の条件であるかを熟慮し、理性をもって冷静に対処されるよう切に要望する。』

告示が出された日、ML派は和泉校舎を武装制圧した。
【ブンド、ML、中大代々木寮でまた衝突 明治大学新聞1970年4月30日】
『22日の全国全共闘主催の新入生歓迎集会(日比谷野外音楽堂)でのブンドとMLの内ゲバは既報のとおりであるが、翌23日にも両派の抗争が起こった。
23日、和泉校舎では反帝戦線(ブンド)の政治集会が予定されていた。
しかし、午前10時ごろ、学生解放戦線(ML)約20人が竹ザオを持って、中庭で集会を開いたため、反帝戦線の政治集会は流会となった。解放戦線は1時間ほどして引き上げた。その後、午後5時ごろ中大代々木寮近くで、ML派の高校生の集会がもたれた。そこへ約40人の反帝戦線の学生が、材木屋から持ち出した角材で向かい、乱闘。25人が窃盗、凶器準備集合罪などの現行犯で逮捕された。(後略)』
この4月23日は、私の記憶ではML派は和泉キャンパスを全都動員90名の武装部隊で制圧した。
当日、ML派の部隊は、和泉の新学館2階の中執の部屋に向けて、中庭から竹ザオで武装してやってきた。私は学館運営委員として、ML派の部隊の指揮をやっていた○○君に「どうするつもりだ!」と問いかけたが、「お前は関係ないからどいていろ!」ということで、ML派の部隊は学館に入って行った。学館内にはブントはおらず、ML派は引き上げて行った。
(写真は4・28のデモの様子)

(No310-3に続く)

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(No310-2の続きです)

翌、4月24日、明大全共闘の総決起集会が中庭で開かれる予定であったが、ブントが学内に入ろうとして逮捕された。

【竹ザオ学生23人逮捕 明大和泉校舎 朝日新聞1970年4月24日】(引用)
『24日、朝6時頃、東京都杉並区永福1の9明治大学和泉校舎に、ヘルメットをかぶり、竹ザオを持った学生約30人が押しかけ通用門を乗り越えようとした。このため、大学側の要請で高井戸署、第五機動隊から150人が出動し、23人を凶器準備集合、建造物侵入の現行犯で逮捕した。
高井戸署の調べでは、逮捕された学生は明大を中心に中央、専修の反代々木系社学同の学生らしく、全員が黙秘しているが、同署は、正午から同校舎で開かれる明大全共闘の集会にからむ主導権争いから、と見ている。』

和泉校舎内でブントとML派が直接ゲバルトを行う事態にはならなかった。

4・28沖縄闘争を前に、大学当局は4月27日から4月28日まで、全学ロックアウトの措置を取った。
【安保闘争の幕開け 迫る“4・28沖縄デー” 明治大学新聞1970年4月23日】
『今年「4・28沖縄デー」は反日共系各派の機関紙をみると、「機動隊突破、首相官邸を撃て」(ML)「街頭制圧」(反帝学評)「首相官邸―防衛庁攻撃」(ブント)など、その闘争方針、呼びかけは激しい。しかしながら、昨秋の首相訪米阻止闘争における打撃により、昨年の4・28当時と比べてかなり動員力は低下していると見るのが支配的である。このようなところもあって、全国全共闘、全国反戦、ベ平連を中心とした「六月行動委」の三者共催で午後5時、明治公園で集会を開き統一行動が繰り広げられる。
なお、24日大学当局は27、28日の両日を休校にすることを告示した。(後略)』
休校になったので大学に入れないため、27日、私は高校時代の友人がいる法政大学に行った。法政大学の六角校舎にあったC研というサークル室である。法政大学は明大本校に近いこともあり、明大がロックアウトされた69年後半からたびたび出入りしていた。

4・28は明治公園で集会が行われた(写真)。集会には行ったが、デモの様子など記憶にない。
【予想上回る5万人結集 着実に“勢力を伸張 4・28散発的に機動隊と衝突 明治大学新聞1970年4月30日】
『72年沖縄復帰を決めた、昨年秋の日米共同声明後、初めての「4・28沖縄デー」は、全国各地45都道府県449か所で集会が開かれ、約20万人の労働者、市民、学生が参加した。
「ゲバぬき、大量動員」をうたって、明治公園に結集した新左翼の労働者・学生は予定を上回る5万人(警視庁調べ1万5千人)を数えた。昨年の10・21以来「冬の季節」といわれてきた学生運動にも“春”が胎動し始めたことは事実である。集会後、学生たちはデモ行進で小ぜり合いを起こしたが、大規模な機動隊との衝突には至らなかった。
全国全共闘連合、全国県反戦、六月行動委員会(ベ平連)など左翼陣の主催する「沖縄闘争勝利・安保粉砕4・28大統一集会」は神宮外苑の明治公園で開かれた。
全国から上京した労働者、学生らは、昼過ぎから同公園に集結し始めた。新入生を巻き込んだ全共闘、着実に勢力を伸張させた反戦青年委など、公園を所せましとデモ行進を行った。午後3時半すぎ。集会開始直前に演壇付近で中核派と反帝学評が内ゲバを演じたがまもなくおさまった。また、集会参加を申し入れた革マル派は清水谷公園から、同公園に向かったが、全共闘、反戦青年委に拒否され、公園入口で竹ザオの“歓迎”を受け、別に集会を持った。
午後7時前、集会終了後、全国全共闘をトップに、外苑通り、青山、日比谷公園に向けてデモ行進に移った。デモ途中、赤坂見附付近で反戦青年委、反帝学評、ML派学生など約400人がジグザグデモ、首相官邸を目指し、機動隊のタテと激しく衝突し、投石もあったが15分後にはばまれ、規制を受けた。
同じころ、港区の地下鉄日比谷線広尾駅に、青ヘル学生約30人が現れ、改札口からホームを抜け、停車していた電車の運転席のガラスをたたき割った。デモ終点地の日比谷公園に到着したML派学生約200人は、国会に向かおうとしたため、これを阻止する機動隊と同公園入口で小競合いを起こした。学生は近くにあったゴミ箱に火を付けたが、39人が公務執行妨害罪などで逮捕された。(後略)』

70年4月は終わった。5月は明大全共闘内部のセクト間の争いが先鋭化してくる。


※ 4大学共闘(明大・日大・芝工大・専修大の全共闘派)共同行動のお知らせ
10.13 No Nukes Day 原発ゼロ☆統一行動
―福島を忘れるな・再稼働を許すなー
日時:10月13日(日) 開場12:00 開会13:00
場所:日比谷公会堂(地下鉄「霞ヶ関駅」「日比谷駅」3分)
内容:13:00~14:00集会
14:20~デモ
■開会の午後1時までに日比谷公会堂内に集合
公会堂に入れなかった場合は、デモ開始時に4大学の旗の下に集合

(つづく)

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