野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2013年10月

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1960年代後半から70年頃の新聞記事を紹介するシリーズ。
今回は毎日新聞の「回転 安保‘60-’70」というシリーズの記事を紹介する。

【樺美智子さんからゲバルト・ローザへ】毎日新聞1969.8.23(引用)
<自己否定して突っ走る “学問もデモも”の時じゃない>
『この反日共系各派の学生大会で目立ったもの、女性。
東京の豊島公会堂と明大和泉校舎で3日間にわたって開かれた中核派の大会場。中核派といえば、ゲバルトで鳴る派。ムンムンとする若者熱気であふれる会場内は、ざっと三分の一の女性で占められていた。
一方、中核派とは水と油の革マル派の大会では、三人の女学生が中央執行委員入りした。中執はきわめて重要な役員である。
それに先立つ東大紛争では、大学院生の柏崎千枝子さんが「ゲバルト・ローザ」「けんかローザ」「ゲバ子」と、さまざまな異名を献上されながら、キャンパス内のいたるところに登場した。男顔負けの激しい討論、投石、丸太をかかえてのドア破り。(医学部本館)
安田講堂落城のあと、東大法文二号館で、闘争を支持する造反教官と反日共系学生の討論集会が開かれた。だが、双方の見解は「暴力」の点だけで分かれた。教官はあくまで「言葉」でたたかうことを主張。「この際の暴力」の正当性、不当性をめぐって、かってない深い対話が生まれようとしていた。そこで立ち上がったのが柏崎さん。
「きれいごとをいうんじゃないよ。お前ら(と教官をさして)教授会でどれだけ抵抗したんだい。いってみろ、いえないだろう。見せかけの同情や支持はごめんだよ。本気で闘う気があるんなら、バリケードのこちら側にはいってきたらどうなんだよ。」
言葉での闘いをいい張っていた折原浩助教授も頭を抱えた。マンガ本で机をたたき、「そのとおり」のヤジも出る。座はしらけた。

60年6月15日、東大生、樺美智子さん、国会前デモで死亡。白のブラウス、クリーム色のカーディガン、紺色のスラックス、白っぽいビニールの運動ぐつ。手には水玉模様のフロ敷き包み。

樺さんー所美都子さん(60年安保闘争に参加したお茶の水女子大生で、のちに東大新聞研究所に入り、60年安保後の左翼運動沈滞期にベトナム反戦運動で活躍、昨年1月死亡)-柏崎さん。
この3人の女性活動家は、60年から70年への時代の映像を映し出す。
みんな、勉強熱心のよい学生だ。しかし・・・
樺さんはデモと学問を両立させ得ると信じていた。当時の多くの学生がそうであったように、普通の通学服のまま、デモに出て行った。大学を拠点にして出て行った。「予定調和的だったのではないか。」と東大農学部助手の岡本雅美さんは考える。学生、研究者、科学者は「よいもの」であり、自己を肯定するためにも「安保反対」を唱えた、といえる。大部分の学生は権力を目の前にしても、どちらかといえば理性的に対応していた。
それが所さんなると、学生善玉論がややくずれはじめる。「体制が学生らを善たらしめない」。
ゲバルト・ローザ柏崎さんは70年の子。東大という城の中で研究者でいることは恥ずかしい。あんなくだらない教授たち・・・。城をぶちこわせ・・・。自己否定の論理が全共闘学生の頭を行きかう。感覚的に突っ走る。樺さんになくて柏崎さんにあるものは「自己否定」であり、激しいゲバルトだという。予定調和はくずれたのだ、という。
60年安保闘争の波がずっと静まってから、樺さんの追悼集が出た。周囲に人が、樺さんを追悼し、出した本だ。
柏崎さんは、闘争のさ中に表紙がピカピカの本を自分で出した。(写真)その本は書店ばかりか、機動隊に追われる前の新宿西口広場のフォーク・ゲリラ集会でも、地面に積まれて売られた。闘争する人間の個人の手記、心情告白の本がつぎつぎと出ている。東販の調べでは、ことし1月から6月までの半年で、闘争ものが39冊も出た、という。
東大全共闘の原稿料収入は七百万とも一千万円ともいわれる。
「棒で殴らず、書きなぐる」というわけか。それでも、原稿料収入は、うなぎ登りの保釈金支払いや闘争費用には焼け石に水。「さらに書け」となる。
反体制運動はカネもかかるが、カネになるという皮肉な時代。そこに柏崎さんは立っている。

女子学生がどんどん“闘争”の全面に出てきた。しかも、ヘルメット、ゲバ棒で“武装”し、投石の石を割り、運び、平気で投げる。「量、質ともに60年とはケタ違いだ。」と警視庁。革マル派などのデモでは女子は三分の一から五分の二。
ことしになってから警視庁につかまった女子学生は三百三十一人。60年には考えられもしなかったことだ。
東大ノンセクト・ラジカルの女子学生が言った。「男がだらしないからよ。」それだけだろうか。』

※ ホームページの全国学園闘争「図書館」の中の「東大闘争獄中書簡集」(第12号)に、柏崎千枝子さんの獄中書簡が掲載されています。

(終)

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(文書が長くブログの字数制限を越えるため、No312-1とNo312-2に分けて掲載します。)

10月13日に「NO NUKES DAY 原発セロ・統一行動 -福島を忘れるな・再稼働を許すなー」の集会とデモが国会議事堂周辺で行われた。
これは首都圏反原発連合が主催、さようなら原発1000万人アクションと原発をなくす全国連絡会の共催により実施されたものである。
4大学共闘(明大、日大、芝工大、専修大の全共闘派)は、この集会とデモに参加したので、当日の様子を報告する。

10月に入ってからも暑い日が続き、この日も気温が25度を超えるという予報だった。集会は日比谷公会堂で13時から開かれる。4大学は13時までに公会堂内に集合という案内を出していたが、早めに行くつもりで12時過ぎには日比谷公園に着いた。
日比谷公園に入ると「入場整理券はこちらでーす」と言う声が聞こえる。日比谷公会堂の前には行列が・・。集会場の日比谷公会堂に入るには入場整理券が必要なんだ!
仕方なく「最後尾」という看板に従って並ぶことにした。並んでいると、いろいろな団体がビラを配っている。日大のH氏が東電株主代表訴訟のビラを配っている。「ゴミにならないようにビラを読む人だけ受け取ってください。」と言ってビラを取る人だけに渡している。私は受け取った。第9回口頭弁論期日の案内ビラである。
整理券を受け取る順番が来て整理券を受け取る。1408番である。定員二千名だから、あと600名。これでは13時に日比谷公会堂内集合は無理である。
日比谷公園の花壇寄りに芝工大と明大の幟旗が見えたので、そちらに向かう。日大のY氏はいるが日大の幟旗は見当たらない。ちょと時間が早いからかな。
13時前に参加協力費500円を払い会場の日比谷公会堂に入る。番号順に入場させているので、公会堂の中は既に満員状態である。私は1階の一番後ろの通路に立っていることにした。この通路には腕章をしたマスコミ関係の人が大勢立っている。
13時になって集会が始まった。集会は主催者あいさつの後、和田央子さん(福島からの報告)、肥田舜太郎さん(「医師」からの報告)、大江健三郎さん(「作家」からの報告)の順番で発言が続いた。
その中から主催者あいさつを掲載する。

ミサオ・レッドウルフさん(首都圏反原発連合)
『みなさんこんにちは。私は本日主催の首都圏反原発連合のミサオ・レッドウルフと申します。本日は会場いっぱいの皆さんにお越しいただき、本当にご苦労様です。
本日の「NO NUKES DAY 原発セロ・統一行動、福島を忘れるな・再稼働を許すな」の統一行動に関しまして、少し経緯をご紹介したいと思います。NO NUKES DAY というのは、この前の6月にも第1回目がありました。首都圏反原発連合、そして、さようなら原発1000万人アクション、それから原発をなくす全国連絡会、この主に都心で事務局を置く大きな団体やグループが共同で-何か大きな行動をしようということで、まず6月にやりました。この時はそれぞれが別のところでデモをやって国会周辺で合流するという同日の共同行動ということだったんですけれども、本日はその形から更に一歩踏み出しまして、このような形で合同で日比谷公会堂で集会、その後にデモを開催することになりました。
これは私たち市民、グループそして組合まで様々な人たちが、今、原発をゼロにするための政策に転換させるために、ゆるやかな繋がりで連帯して、私たちの意志、意見を政府に対して可視化して行く、マスコミに対して国民に対して可視化していく、それがすごく大事なことだということを、それぞれのグループの皆さんが同じように思っていて、それが結実したことで、このような大きな枠組みで共同で開催する運びになりました。(拍手)
皆さんもご存知の通り、9月15日に大飯原発の4号基が止まっております。そして今、日本では原発での発電はゼロになっています。この事実は、こうやってデモにいらっしゃるような方々は当然のごとく認識していますけれども、多くの国民の中には、まだこれをちゃんと分かっていない、理解していないという方々もたくさんいます。
そのために、この10月に開催する一つの目的としては、原発が今ゼロであるということを広くアピールしていくこと、それから、これから先、再稼働させない、動かさせない、それを強く訴える、このような趣旨で企画を進めて参りました。
安倍首相がオリンピックのプレゼンテーションで発言しました「福島の原発の汚染水はコントロールされている」という、このようなウソがまかり通るような、このような世の中がまだまだ私たちの目には強く印象付いていますし、本当に腹立たしいことではあるんですけれども、汚染水は実際はコントロールされている訳もないし、誰もどうすれば一番いいのか分かっていない状況な訳で、そのような中で原発を再稼働させる、そのようなことは本当に許せないことです。

(No312-2に続く)

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(No312-1の続きです)

今、まだ福島の原発の被害にあった方、そのような方々の保障もされない、ちゃんとした住まいもないような方々が本当にたくさんいらっしゃいます。そんな中で国は大飯原発が止まってゼロになった段階でも、必死になって再稼働に向けて進めている。このような状態を阻止するためには、私たち一人一人が力を合わせて声を上げて行く、そして私たちの意志を、こうやって集まることによって可視化して行く。これからどんどんこのようなことが大事になっていくと思います。
3・11以降、首都圏だけでなく全国の原発の反対運動が実際に再稼働を遅めてきています。この運動がなければ、もっと稼働していると思います。まだ目に見えて政策転換までは追い詰められていませんけれど、私たちのこの市民運動は確実に政府を押してきております。今日も、今後再稼働は一切させない、そのような強い気持ちを皆さんと一緒にこの後のデモでも可視化してアピールして、今後の行動の大きな礎になる日になればと思っております。本日はお集まりいただいてありがとうございました』

デモは14時過ぎに出発ということで、記録班としては早めに会場を出て、出発地点である日比谷公園霞門の信号の先で待つことにした。一番目の撮影ポイントである。
このあたりは人が大勢待っているが、半分くらいは警視庁関係者と思われる人である。
デモは14時20分出発ということだった。デモは首都圏反原発連合のドラム隊を先頭に、ファミリーブロック、サウンドカー、さようなら原発1000万人アクション、原発をなくす全国連絡会の順に出て行く。
4大学共闘のデモはいつも早い時間に出発する。この日も「デモはすぐ終わってしまうので、17時からの国会前集会までの時間をどうするか」などと心配をしていた。
ところが、デモ隊とデモ隊の間が長い。信号が変わってもなかなかデモ隊を出発させない。待ちきれないデモ参加者が「早く出せ!何やっているんだ!」と警備の警察官に怒鳴る場面もあった。4大学共闘のデモ隊が出発したのは、デモが出発してから1時間後である。
たんぽぽ舎、経産省前テント広場、再稼働阻止全国ネット、プロジェクト猪などとともにデモに出発した。デモに合流できなかった人もいるようで、4大学の人数としては少な目である。
次のデモ隊には釜ヶ崎日雇労働組合の「釜ヶ崎解放」の旗が見える。その後には「ジグザグデモの会」の大きな横断幕が見える。「旗旗」の草加さんなどが新しく起ち上げたグループだ。「釜ヶ崎解放」の旗が出発すると、デモ隊はそこで切られてしまった。「一緒に行かせろ!」という声が上がる中、反原発ジグザグ会は警察官に囲まれ足止めを食らっている。
ピッピッーという笛の音とともに「原発社会を解体せよ!」という横断幕を先頭に反原発ジグザグ会のデモは出発していく。ヘルメットにタオル、軍手を付けてやる気満々だが、、「警視庁」の腕章を付けた数名の私服がピッタリと脇を歩いている。これでは戦闘的デモンストレーションは難しい。

次の撮影ポイントである日比谷公会堂の交差点に移動する。移動途中で、日大のH氏と出会う。H氏は携帯片手にデモ隊と連絡を取っているようだ。デモ隊の様子を知らせ、「まだ来ないよ」と言って別れる。
交差点にも日大のT氏がいる。デモ隊に合流しようとして待っているようだ。今回はデモの途中で合流する人が多い。
日比谷公会堂の交差点にデモ隊が入ってきた。ここでも写真を撮って、デモ隊と一緒に東電本社前に向かう。東電本社前では「汚染水を流すな!」のシュプレヒコールを叫んで抗議。次の撮影ポイントである外堀通りの横断歩道橋に急ぐ。何とか間に合って、横断歩道橋の上から撮影。その後、最終撮影ポイントである日比谷公園西幸門付近でデモ隊の到着を待つ。
通りを東電に向かって、原発をなくす全国連絡会のデモ隊が続いている。まだ日比谷公園を出発していないデモ隊がいるのだろうか。
夕方5時近くになって、やっと4大学共闘のデモ隊は日比谷公園に到着した。芝工大のY氏の主導により、公園内の広場で恒例のインターナショナルの斉唱。そしてシュプレヒコール。「原発を今すぐ廃炉にしろ!」「再稼働反対!」「東電を解体するぞ!」「4大学共闘は闘うぞ!」「大学共闘は闘うぞ!(4大学以外の方もいるので)」
Y氏からの「元気がある人は国会前の抗議行動に参加してください」との発言でデモは終了した。公園には薄闇が広がってきたが、まだ到着するデモの隊列は続いている。


(終)

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(文書が長くブログの字数制限を越えるため、No311-1とNo311-2に分けて掲載します。)

9月上旬、「日大930の会」から2013年の会合の案内が届いた。
案内によると、『「銀ヘル」よ永遠に2013』+『日大930の会・同窓会』のご案内とある。
今年は第一部と第二部の構成で、一部は「銀ヘル」(日大全共闘文理学部闘争委員会)同窓会)で二部が通常の活動報告と懇親会となっている。
参加はするけれども、日大ではなく明大生なので、第一部への参加は遠慮する旨、JUNさんにメールした。JUNさんからは『面白い話が聞けるので、時間があれば是非第一部から参加することをお勧めします。』との返信があった。
第一部から参加すると午後1時から午後7時まで6時間近くの長丁場になるが、面白い話が聞けるのならばと思い、第一部から参加することにした。

当日、会場の受付で会費を払いロビーを見渡すと、文理学部の皆さんがいる。O氏から「第二部からでよかったのに」と言われたので、「面白い話が聞けるということだったので・・・」と答えて会場の中に入る。
第一部の『「銀ヘル」よ永遠に2013』が始まった。司会は、さきほどのO氏。文理学部の皆さんが20名ほど、ロの字型のテーブルを囲んで座っている。
この文闘委同窓会開催の趣旨が「忘れざる日々Vo4」に掲載されている。
『この間、学科・サークル単位での「同窓会」は開催されておりますが、ふしぎなことに、なぜか文闘委全体の集いはありませんでした。
この数年、急速に進展している68/69日大闘争の検証を続けるにあたって、系統的に資料が揃い、かつ「気の遠くなるような多様性」と評される日大全共闘にあって、そのことをもっとも典型的に体現したのが文闘委だったという認識が生まれています。
そこで、結成45周年目を機に出席された学友たちが語るオーラル・ヒストリーを記録にとどめ、さらに今日まで語られることのなかった秘話なども公開し、あらためて闘争の中で文闘委が果たした意義と役割と再認識するとともに、かって隊列を組んだ学友らと過ぎ去った日々を語り合う場として文闘委の「同窓会」を設定いたしました。』
O氏から出席している文理学部の皆さんのエピソードが順番に語られていく。「ゲバルトが強かった」などなど。ここには書けないような「面白い話」もあった。(次号の「忘れざる日々VL5」の中で明らかにされるとのこと。お楽しみに。)
ここに書ける「面白い話」としては、文理学部のヘルメットが何故銀色だったのかということ。出席者の「証言」によると「ヘルメットを塗る塗料を買いに行った時、銀色と金色の塗料しかなかったので銀色になった」ということだった。
確かに金色は避けたいということがあっただろうから、銀色になるのは自然の流れだったのだろう。それまでの、赤白のヘリメットから一斉に銀ヘルになったことについて、出席者からは「銀ヘルになってよかった」という肯定的な声と「何故銀ヘルに代わってしまったのか」という否定的な声が出た。O氏が「日大全共闘といえば銀ヘルだ」と発言していた。
ちなみに銀ヘルは他大学全共闘では被っているところはなかったけれど、反戦では大阪市職労の部隊が銀ヘルを被っていたように記憶している。
文理学部の出席者の中にT氏がいた。以前、知り合いの文理学部のN氏とともに、新宿の喫茶店Dで話を聞いた方である。(その時聞いた話の内容はブログNo198に掲載している。)
T氏は「叛逆のバリエード」の巻頭の「生きている 生きている、バリケードの中で生きている・・・」という詩を書いた方である。
T氏の紹介の時に、O氏から「私に代わってT氏から誌の話を聞きだしてくれたのは明大のYさんです」といきなり紹介された。恐縮です。
さらに第一部が終わった時に、O氏から「Yさん、こんな話でよろしいでしょうか」と再度ふられた。面白い話を聞けました。ありがとうございます。

第二部は、法学部M氏の司会で始まった。
冒頭、先日亡くなられた田賀秀一弁護士に黙とうを捧げた。田賀弁護士は日大全共闘弁護団の主任弁護士を務められていた方である。
『「田賀秀一」という名前は、日大闘争を闘った者にとって「五九一一三〇一」(ゴクイリイミオオイ)という電話番号とともに、命綱のように大切な記号として刻印していました。
いつなんどき右翼体育会系学生に襲撃され、国家権力に逮捕されても連絡が取れるようにと、この名前と電話番号はジャンパーの袖や下着のシャツにマジックで書き込んで、ヘルメットやタオルや歯磨きセットを身に着け、バリケードの防衛や抗議デモや、そのほか様ざまな抗議集会に臨んでいたのです。』(忘れざる日々Vol.4より)

(No311-2に続く)

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(No311-1の続きです)

最初に司会者から「忘れざる日々」の次回の企画を「救対」にしたいという提案があった。ただし「救対から支援を受けた話はあるが、実際に救対に関わった人の話が集まらない。救対関係者を知っている人がいれば教えてもらいたい。」とのことだった。
これに関連して、副議長のY氏から「日大闘争で捕まった時と、政治闘争で捕まった時では意識が違う。日大闘争で捕まった時は救対の励ましで力が出る。精神的支えとして大きなものがあった。救対活動の事実をハッキリさせて残しておく必要がある。」との発言があった。
司会者からまとめで「逮捕されたもののケアをどうしていたのか、忘れざる日々の中で紹介したい。」という発言があった。
次に日大全共闘資料集について、芸術学部のM氏から報告があった。
日大全共闘資料集は『機嵜景絞麁擦妨る日大闘争」供崢日ジャーナル」が見た日大闘争」掘孱僑検Γ僑抗慇姑人陲汎鋿臚争」』が発行されており、その発行者がM氏である。)
会場のパワーポイントには次の文字が書かれていた。
「日大闘争は誰によって報じられ、語られ、論じられたか。
マスコミや文化人は日大闘争の何に注目し、なぜ支持し、どこを評価したのか。」
M氏からは「68年12月に逮捕され、69年3月に出てきたら日大全共闘が変わっていた。他大学と同じ全共闘になってしまった。全共闘会議もなくなり、党派会議になっていた。日大闘争は他大学と違う何かがあったと思う。どこが違うのかを見つけ出すためにこの作業をやった。」との発言があった。
司会者から『「忘れざる日々」は、この冊子の新聞取材で「10号まで出す」と「公約」したため、10号まで出す予定だが、今回の4号で切り札を全部切ってしまった。「情報」の問題も切り札であり、今後の企画編集で本としてのレベルを上げる必要がある。』との発言があった。
これに関連して、参加者から「日大闘争を計画して仕組んだ人たちがいる。実際に計画を作った人たちがこの本の企画に参加していない。また語っていないので満足したものになっていない。そこまで踏み込んでいかないと10号まで続かないのではないか。」という意見も出た。反対に「雑文だけでも十分」という意見もあった。
司会者からは「日大闘争は他とは違う、すごかったと言われるが、何が違うのか、何がすごかったのか、来年以降も議論して行きたい。」と発言があった。
最後に11月3日に御茶ノ水の連合会館で開催される「大学闘争45周年記念フーラム」について、実行委員会の教育大M氏から参加の要請があった。(※参照)

懇親会ではフォーラム実行委員会の教育大M氏と中大O氏と一緒のテーブルに着いた。そこに日大全共闘ライトウイングの芸術学部Y氏、経済学部I氏、T氏が来てワイワイガヤガヤ・・・。
懇親会の途中でJUNさんから南相馬市放射線モニタリング調査測定活動報告、そしてO氏から「オリンピック候補地の放射能を測る会」の運動の報告があった。

私はこの日大930の会に参加して5年目になる。最初に参加したのは日大全共闘結成40周年の時だった。あの時は知っている人が誰もおらず(農獣医のS氏は除く)心細かった。「全共闘だった時代」主宰のyamamoto氏から明大の人がいるということで紹介されたのが、aagh@文ゼミ氏だった。
その後、明大の集まり(土曜会)に参加し、aagh氏は亡くなり、3・11以降は4大学共闘として、昔と同じように日大全共闘の皆さんと集会やデモに参加している。
今回の「日大930会」に参加して、この5年間の出来事が思い出された。

時は容赦なく過ぎて行く。「記憶を記録する」作業は時間との闘いである。日大930会の方々の今後の活動に期待したい。(私も微力ながら支援します。)

※ 「言っておきたいことがあるー大学闘争45周年記念フォーラム」のお知らせ
日時:2013年11月3日(日)
   午前11時~午後6時25分
会場:連合会館(旧総評会館)201会議室
   (東京メトロ千代田線「新御茶ノ水」駅B3出口スグ)
内容:午前11時    開場
   午前11時30分 開会
   午後 1時30分 第一セッション終了(昼食休憩)
   午後 2時15分 第二セッション開始
   午後 4時15分 第二セッション終了
   午後 4時25分 第三セッション開始
   午後 6時25分 閉会
会費:1,000円
主催:大学闘争45周年記念フォーラム実行委員会


(終)

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