野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2013年11月

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先週に引き続き、11月3日(日)に御茶ノ水の連合会館で開かれた「言っておきたいことがある 大学闘争45周年記念フォーラム」の基調報告を掲載する。
前回は第1章「45周年の意味合いと45年後の現状況」を掲載したが、今回は第2章「大学闘争の再究明のために考える」を掲載する。
(文章が長くブログの字数制限を超えるため、No318-1 からNo318-4に分けて掲載します)

【基調報告「大学闘争の再究明と45年後の全共闘世代」】
大学闘争45周年記念フォーラム実行委員会

『教育大 M氏
第2章 大学闘争の再究明のために考える

(1)大学闘争の回顧と歴史的位置

俗に「68、69年大学(学園)闘争」という言い方があるが、これもよく考える必要かあると思っています。
この規定を緻密化すれば、始めと終わりということですけれども、恐らく次のようになると思います。
●始まりは1968年1月の中大学費闘争、年頭にありました。これは完全勝利し、いったんは終息しております。その後少し時間が開きます。それは王子とか三里塚とか、政治闘争が間に入っていたんですけれども、その後、5月から火を噴きます。
●終わりは1969年9月の全国全共闘連合の結成と、それの指導による旧教育大を始めとする各大学の奪還闘争というものが行われました。それが終わりだと一般的には思われていると思います。
というのは、1969年の10月以降は、一方では70年安保闘争が始勤し始めまして、そちらの方向に動いていたからであります。他方、諸大学ではいろいろな正常化攻勢というものが繰り広げられて、学生が入構せざるを得ない状況が広がってきました。
しかし、この始まりと終わりの規定は狭義の線引きであって、歴史的に見るためには、より広く見る必要があると思います。例えば、各私大の学費闘争はその前から連続的にありました。その高揚の嚆矢(こうし)、記念すべきさきがけとなったのは、その3年前の慶大の大学費闘争でありました(1965年1月)。敗北はしたが、ここで初めてバリ・ストが打たれという記念すべき出来事でありました。
この波は、66年早大(敗北)、67年明大(崩壊)、そして68年中大(完全勝利)という形で一連のつながりを持っていました。
中大の完全勝利の後、5月に記念すべき日大の「200m」デモというものがありまして、不正経理追及の闘争が始まりました。ほぼ同時期に、東大(駒場)と旧教育大(文)で自治会執行部が日共民青より奪還されたという事態がありました。これが一つの大きな契機であったと思います。東大の処分問題、旧教育大の移転問題の闘争がこれによって一気に本格化しました。 6月には九大が火を吹き(ファントム機墜落)、7月には再び慶大が米軍資金問題で起ち上がりました。以降、69年にかけて京大、関学大など関西の大学を含めて、全国学園闘争と称される大学闘争(沖縄も含めて)が巻き起こったということは忘れがたいことだと思います。延べの客観的な数字としては、デモ回数1476回、学生参加数22万6400名、披逮捕者5041名、全国大学の8割、165校が闘争に突入した(高校生参加数1万1000名、披逮捕者119名)といわれております。
広義の大学闘争の終わりも、69年9月とするのは早いという考え方もあります。なかなか記録されていないものが多いんですが、各大学で後退戦が取り組まれています。世代的にいえば1968年に入学した世代が大学を去る1971、2年までは続いたと見るべきであろうと思います。
とすれば、1965年から1971、2年に至る比較的長い時期を見出すことができると思います。世に言う「68、69年大学(学園)闘争」とは、その裏に戦後目本の高揚した学生運動というものが68、69年に至って突如変質、擾乱(じょうらん)して終焉してしまった、という見方が孕まれているように思ってしまいます。
60年安保が私たちの前にあって、それは非常に国民的な背景をもった大闘争でした。労働者階級を始めとして、多くの人々が取り組んだ戦いで、その中で全学連が大変大きな役割を果たした訳です。ですからそういうものの記憶というものが非常に強く残っております。その故に、私たちの60年代終盤から70年代初頭の学生運動の時期、後期の学生運動というものが軽く扱われるのは仕方がないところであると思います。
しかし、1965年-1971、2年の戦後後期の学生運動を肯定し、直視することが必要なのではないかと考えます。

(No318-2に続く)

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(No318-1の続きです)
(写真は「毎日グラフ1969.2.15」より転載:68慶応大闘争)

後期の学生運動に関していろいろ述べたいと思いますけれども、とても述べきれませんので、4点の指摘にとどめておきたいと思います。
∥膤愨臀芦修凌聞圓涼罎如大学そのもののもつ矛盾へと運動の眼がゆかざるをえなかったということがあると思います。旧来の大学統治、教授会の自治等への批判というものが明らかに含まれております。
■僑闇安保の後、政治的課題への関心は低下、ノンポリ化したが、ベトナム戦争をはじめとする世界の激動というものはそれを許さないということがありました。学生層の一部には反権力志向をもって、世界の激動に関わる部分がなお存在したということをはっきりと見ておかなければいけないと思います。
自治合一全学連運動はノンポリ化の中で衰退していたが、それを補うものとして各党派の青年同盟・学生同盟組織は活発化したと思います。そして、これが運動を支えるものになっていったことも、良かれ悪しかれはっきりと見ておかなくてはいけないことだと思います。
い靴し、その結果、党派間の矛盾が激化し、自治会一全学連運動が“変態化”したこと、常なる状態でなくなっていること、とくに日共がその「民青化」を進め、運動の発展を阻害したことも、この時期の特徴の一つに挙げられると思います。

(2)大学闘争のめざしたもの、それは何を問うたか

第1章で、「要求は大したものではないのに、それをかちとる戦術は過激である」との声を紹介したが、ここではそれに答える意味でも、こうした大学闘争で学生たちは何を問うたのかを究明しておく必要かある。もちろん、大学闘争といってもその発端となる「要求」は各大学の闘争ごとに異なっている。それが、並べてバリスト・占拠闘争とならざるを得なかったのは、その時代の大学と学生の直面していたそれなりの共通の問題性があったということである。
それは、抽象的に言えば、戦前のエリートによる大学から、一定の大学大衆化への過渡期での学生の「大学批判」であった。発端の要求は、学費や寮費値上げ反対・処分反対・学生自治の制限反対等であった。その意味では、「要求は大したものではなかった」かもしれない。しかし、それすら認められない、初期の闘争はすべて敗北。そのようなことによって、戦術がバリストー封鎖・占拠へと高まるなかで、教授会等大学当局の権威主義的な対応もあって、闘争は価値観的な大学批判、教授会批判、既成学問批判、近代科学批判等となっていったのである。その象徴的表現が「大学解体」であった。しかし、この価値観は戦後民主主義的な既成秩序と真っ向から対立せざるをえない。日共との全面的対決、丸山貞男との対立が必然化したわけである、

しかし、そもそもバリストや封鎖・占拠という闘争戦術自体が戦後民主主義的秩序と対立するものであった故に、大学のあり方を問う議論の発展以前に、問答無用とばかりバリストや占拠自体が機動隊の力によって圧殺されざるをえなかった。こうして、大学闘争で学生たちが突き出した大学批判の質は、大学闘争の敗退とともに戦後史のかなたに消えていったのである。
以上を最大公約数的な把握として、さらに大学闘争そのもののエッセンスともいうべきものを把み出しておきたい。
それに当たって、本フォーラムのプレフォーラム(昨秋11月18目)では、「三つのレペルの考察を要する」として、

(i)運動・組織論的レペル……………………活動家一犬衆、党派一大衆団体など
(ⅱ)闘争・技術論的レペル……………………ストライキ、バリケード、占拠 など
(ⅲ)戦略・戦述論的レベル……………………政治闘争と経済闘争、政府問題 などを示した。それに関する考察の内容はこの場で細かく述べることは省略して、結論二点を挙げていきたいと思います。

(No318-3に続く)

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(No318-2の続きです)
(写真は「週刊読売1969.11.13」より転載:69.10.10明治公園)

(ⅰ)全共闘的組織について ー 「ポツダム自治会」の否定による闘う者の直接的な結合とされるが、それは一面的な言い方であり、60年安保敗北以来の旧来の学生自治会運動の
低迷、退行を突破するものとして、あるいは従来の大学当局のあやつる擬制的自治会活動を突破するものとして、学生大会など学生の直接民主主義的意志結集によって成立した。それは自ら決定し自ら執行する闘う民主主義の組織であり、活動家と大衆の分離を克服し、学生運動を再高揚させたと見るべきではないかということです。

(ⅱ)バリストー占拠について
これは1965年の慶大学費闘争で出現し、その後緻密化された、強硬化されていったと言った方がいいかもしれません。これはパリ大学ナンテール校の占拠(68年5月)に先んずるものとしてありました。旧来の学生ストライキの常態であった受講放棄、授業を放棄する、ピケット・ストそういうものを突破してつきつめたものといえると思います。
その発想は、おそらく衰滅しかけていた国際労働運動の理想的、理念的な形態、工場占拠などを追想した、想いを託したものであったと思いますが、それによって創られた空間の中で、学生は生き生きと生活し思考したということです。
このことに関しては、日大の闘争の中で様々な形で表白されていると思います。
以上、大きな二つの結論というものを掲げて、一つのエッセンスとしたいと思います。

この全共闘とバリストの結びついた時間と空間は、まさに学生にとって、「自由‐自治一自衛」を自己創造するルツボとなったといえると思います。これはかってないことでした。60年安保にもなかったと思います。学生主体にとってそれはまさに、抽象的な言い方ですけれども“良き体験”であったと思います。もちろん、闘いのうちには多くの辛酸もあったということもあります。しかし、それら総体を含めて得がたいものとして、“良き体験”というものが我々の脳裏に浄化されていく、そういう類のものであるということを、固くここで確認していきたいと思います。

(3)大学闘争の敗退

バリストー占拠自体が大学の管理権一所有権と正面から衝突するものであり、権力の介入によるロックアウトを必然化させるものでありました。権力の側の学生運動鎮圧の意志は堅く(自民党文教族など)、政治的解決の途は閉ざされていました。既成左翼、労働運動を合めて協調しうる勢力はほとんどなかったと思います。
残された道は、同時並行的に高揚していた反戦・反帝・反安保闘争と結合して、政治危機的な様相をかもし出すことにしかなくなっていたと思います。大学治安立法はその方向を加連させました。
1969年4月28目の「中央権力闘争」から9月5日の全国全共闘連合の結成までの時期は、このようなコースがめざされたと思います。しかし、反戦・反帝・反安保闘争を推進した勢力、冒頭ふれた五派共闘は八派共闘へ拡大していましたが、八派共闘は状況突破の力を持てず、反戦青年委運動など青年労働者の決起、さまざまなマッセンストの呼号みたいなものが行われていましたが、それが不発に終わりました。あと、自衛隊引き出しを考える以上の戦略はなくて、両闘争つまり反戦・反帝・反安保闘争と大学闘争の反権力闘争的な結合は、敗北的回路に入らざるをえなかったと思います。
その後、1970年に入ると、その敗北的回路の中で、八派共闘の方向転換が生起しました。華僑青年闘争委員会が日本の運動を告発しまして、それを機にしたいわゆる反差別論的な方向へ舵が取られるということがありました。その中で大学闘争主体は行きまどう形となったと思います。一部に軍事闘争的方向が出たということも主体を惑乱させました。 結局70年代型の新左翼運動というものが出てくる訳ですけれども、そういうものの出発と多くの大学闘争主体との間には主体的断層が走ったといえるかと思います。
結局、戦後大学の矛盾が山積し大きな曲がり角を迎える中で、学生主体の層的な決起があったが、その層自体の薄さは否めず、体制の弾圧と吸収を可能とするものとなった。こうして、再興した学生運動はその後衰滅していった。

(No318-4に続く)

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(No318-3の続きです)
(写真は「朝日新聞報道写真集1970」より転載:69.10大阪市立大)

*補・その後の大学状況
ただ、大学闘争の敗退が、即学生運動の衰滅となるというのは短絡だと思います。拡大する一方の学生層の矛盾というものはますます増大します。それに依拠した運動はありうるし、学生自治が禁止されている訳でもありません。
しかし、学生をめぐる変化は大学闘争後にむしろ激しく、90年代、そして今世紀と続いております。学生運動主体は容易に生成されない状況となっています。この状況全体を分析して40年をまき戻す作業が必要であると思います
しかし、その大状況の移り変わりをどう評価するかというについては、なかなか評価が定まりません。実行委員会での討論も、その問題があるということは確認しながらも、評価が定まらないまま、その内容にまで踏み込めなかったので、そのことを記しておきます。

(4)世界的一同時代的な反乱と日本の運動

世に「1968年革命」説というものがあります。ベトナムーインドシナの革命戦争に触発されながら、かつての体制間対抗の鬱屈に反撃した米国の反戦的ヒッピー運動、フランスの1968年「5月革命」を波頭としたイタリア、西ドイツその他西欧の学生・青年の決起、「プラハの春」と言われたチェコ民衆など東欧の運動、中国文革と紅衛兵運動などがその中に数えられよう。
直接的な影響は、べ平連運動を介してアメリカからあり、中国からのものも様々なレベルであったといえます。政治的なものというより、文化的なものが大きく、映画、写真、音楽、演劇など芸術的領域はもとより、ファッションに至るまで、反体制的色彩をかもし出す文化的営為が台頭、支持された。主体的にもこの文化的契機によって運動に合流した者が多くいたといえます。
そのことも含めて、1968年を頂点とした世界的な青年反乱の一角に、日本の大学闘争、さらに高校生闘争、青年労働者運動が位置していたことは確かだろうと思います。しかし、その反乱が「1968年革命」といえるものであったかについては、昨今では醒めた見方がされているように思います。68年革命の代表的論者であったI・ウォラーステイン(アメリカの歴史学者)の議論も今は聞こえてきません。1968年以降45年が経ち、その間、世界に様々な反乱の波が起きました。しかし、それが実を結ばないという事実というものもあるということが大きく影響していると思います。例えば、昨今の「アラブの春」の事態というものを見なくてはならないとも思います。
しかし、私たちは、挫折したとはいえ、1968年世界青年反乱の意義を捉えたいし、それが革命と受け止められたことの意味を考えたいと今でも思っています。実際、そのような反乱の積み重ねがなければ、何ものも変らないと思います。その積み重ねに学ぶことこそ必要で、日本の反乱はかなり独自の様相をもっていますけれども、なお顧みるべきものをもっていると思います。』

(次週に続く)

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1968年11月22日、東大安田講堂前は1万人を超える全共闘系学生で埋め尽くされた。「東大・日大闘争勝利 全学封鎖貫徹 全国総決起集会」が開かれたのである。歴史的な11・22集会である。それから45年目の本年11月3日(日)、御茶ノ水の連合会館で「言っておきたいことがある 大学闘争45周年記念フォーラム」が開かれた。
このフオーラムは教育大、中大、慶大、日大の元4大学の有志により構成された「実行委員会」が企画、開催したものである。
午前11時半に開始、午後6時25分に閉会するという長丁場である。集会は3つのセッションに分かれ、第一セッションは基調報告と実行員会を構成する4大学からの報告、第二と第三セッションは第一セッションの基調報告に対する質疑などがが行われた。
私は第二セッション終了後に退席したが、今回は、第一セッションの基調報告の内容を掲載する。基調報告は長いので、今回から3回に分けて掲載する。
(文章が長くブログの字数制限を超えるため、No317-1 からNo317-3に分けて掲載します)

【基調報告「大学闘争の再究明と45年後の全共闘世代」】
大学闘争45周年記念フォーラム実行委員会

『(まえおき一開会挨拶をかねてー)
教育大 M氏
本日は早い時間帯からありがとうございました。遠くから駆け付けていただいた方もいらっしゃいます。本当に感謝しております。
基調報告は文章責任が私でありますので、私がしゃべっているだけでございます。僭越なことだと思っていますが、実行委員会の討論のいろいろなご指摘を受けてまとめた次第です。

<基調報告>( 配布資料を読み上げる )
「言っておきたい/ことがある」という七五調の惹句で、このフォーラムは呼びかけられました。1960年代終盤の大学闘争から45年も経って、なお「言っておきたい」ことがあるというのは、世の大方の人にはなかなか受け入れてもらえないことだろうと思います。先の大戦の記憶ぐらいはさすがに聞いてもらえるけれども、その余の政治的出来事というものは、この国ではバックナンバーとしても記憶されない。個々人の頭の中にたまたま残ったとしても、なかなか記録されず、共通の記憶となることはない。学校の教科書にも、もちろん出てこない。
しかし、本フォーラムに集った私たちは、いかなることを「言っておく」かはともかく、
60年代終盤の大学闘争が記憶さるべき意義を持つことを肯定する者であろうと思います。
若い血のたぎりとともに闘いに立ち上がったあの時に、この間の45年を加えてみますと、優に60歳代後半となります。記憶の鮮やかさも齢とともに衰えてくる。先頭に立って闘った者ほど早死にしていくようにも思える。50周年を座して待ってはならないと思います。いささかでも余力を残して、斜陽も黄昏に近づく中での自らの足どりを確かなものとするために、努めようと思っております。

さて、本フォーラムの実行委員会は、書き物(チラシ:写真)に記したごとく中大・旧教育大・慶大・日大の四大学の有志を軸に構成されております。残念ながら東大よりの合流は得られておりません。
それだけではなく、関西をはじめとして全国各地の大学の旧学友にも手を差し延べられて
おりません。高校生闘争等についても同様でございます。
これについては、1970年代前半での大学闘争の敗退過程というものがございまして、ここにはいろいろな力が作用した徹底的な敗退の過程があったと思います。
その中で主体の紐帯というものは本当に寸断されました。上記四大学の今回の連係というものも、この数年の市民社会での微地形を辿った再度の結び付きによって、かろうじて初めて成った、という風に思います。その意味で、非常に稀少なイニシアチブでもありますし、非常に弱体なイニシアチブでもあるということです。多くの不十分性を持っていることをお断りして始めて行きたいと思います。
この辺が開会のご挨拶でございます。
全体は3章構成になております。

(No317-2に続く)

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