野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2014年01月17日

イメージ 1
今年は1969年1月の東大安田講堂攻防戦から45年目となる。神田カルチェラタンからも45年。この時期になるとブログに「東大安田講堂攻防戦外伝」を掲載しているが、今回は「サンデー毎日」に掲載された野坂昭如氏(作家)の記事を掲載する。
(文書が長くブログの字数制限を越えるため、No324-1とNo324-2に分けて掲載します。)
(写真は「サンデー毎日」1969.2.20号より転載)

【1・19と私 野坂昭如】(サンデー毎日1969.2.20号)(引用)
『1月19日午前六時半、近くに住む週刊記者A氏が迎えにきた。この日、東大構内へ入るには、報道の腕章が必要で、それを貸してもらうべく、また、ぼくは警察機動隊のそばへ近づいたことがこれまでなく、A氏は安保改定以来、羽田、新宿とたびたび経験しているから、今日の先達とたのむ気持ちもある。(中略)
赤門前の、隊員の列を分けて、構内に入る。職員と腕章を付けた老人が一人いるだけ。道を横切って、ふくらみきった太いホースが五本延びている。歩くにつれ催涙ガスが眼にしみるが、そのよどみ方はきまぐれで、涙が出たりひっこんだりする。映画の撮影現場の如く、安田講堂の周辺だけが、放水投石怒号でごったがえし、ほんの二百メートルはなれると、大学構内日曜の朝にふさわしく、深閑としずまっていて、なにやら現実感がうすい。
(中略)NHKの腕章がやたら目立ち、トランシーバーで連絡をとりあっている。後詰めの隊員が、アルバムに貼られた、学生活動家の写真をながめている。放水は水圧の関係か、二、三分勢いいいが、すぐに老人の小水の如く、しぼんでしまう。(中略)大型ヘリコプターがドラム缶のようなものを吊り下げ、飛来して、催涙液を散布する。こちらまでしぶきがとんで、眼が痛い。
「ああ、ヘリコプターよりの催涙液は、さして効果なく、かえって地上に被害ある故、中止されたし、どうぞ」「了解、なおこの交信は傍聴されているおそれあり、気をつけるように、どうぞ」「わかりました、どうぞ」隊員の一人が、大型トランシーバーで連絡をとる。
ヘリコプターは二度、三度まわって、今度は、乗員の一人が、ねらいさだめて、催涙弾を投下する。(中略)
お茶の水に向かう。本郷三丁目を中心に、おびただしい機動隊がいて、通行人も歩道いっぱいにあふれている。立ち止まることは許されず、中にはあからさまに文句を言う男がいる。お茶の水駅の近くで喫茶店に入る。明治大学の通りは、商店すべて店を閉めているが、横丁は、シャッター半ば降ろしながらも、営業し、A氏に注意されて、みると駅前の交番が、打ちこわされ、中からおびただしい水が流れ出ている。コーヒーいっぱい飲んで、中央大学へ向かい、ここも、ここも門をバリケードで固め、人一人ようやく通れる入口からのぞくと、ヘルメット姿の学生が、いわゆる集会中で、十人、二十人と少数ながら、旗押したてた連中が、つぎつぎと吸い込まれ、入ろうとしたら、「闘う意志のない者は、駄目」と、さえぎられる。フランス人記者があらわれ、やはりフランス語で断りをくう。(中略)
また東大へもどる。(中略)目にみえる、屋上の投石者たちはまだいい、くらがりの中で、絶対に勝ち目のない闘いいどもうとする若者は、なにを心の支えとしているのか、ぼくは、よほど、安田講堂に籠城しようかと、考えた、機動隊の側からばかり見ていては片手落ちで、全共闘と共にいる、たとえば報道関係者がいてもいいはず、いや、当然必要であろう。籠城側がゆるさなかったのかもしれないが、このおびただしい腕章の群れを見ると、不思議な気がする。(中略)指揮者が、マイクで放水の目標を指示する。左側の屋上に、男が仁王立ちとなり、なにかしゃべっているが、ききとれぬ「かえりたまえ、すぐ、立ち去れ」とだけわかり、自分にいわれているようで、まともに男を見られない。なんのために、ぼくはここにいるのか、いやしくも全共闘支持を、たとえ心情的共感にしろ、ゆるぎないはずなのに、「頑張れ」と、声ひとつかけられない、機動隊が怖いのだ。(中略)
ふいに、時計台右側の窓から、スピーカーがあらわれ、男の声でしゃべりはじめる、よくききとれない。放水車がスピーカーを狙うがとどかぬ。スピーカーは赤い布団でおおわれている。「お茶の水で、バリケード構築中の学生が一人死んだ」報道の一人がいう。「しばらくこのままですね。もう一度お茶の水へ行きましょうか」A氏が提案し、腹が減ったからにぎり飯をほばりつつ、本郷三丁目を過ぎて、ふと前方を見ると、道いっぱいに群衆がいて、十字路になった角の、ガソリンスタンドを中心に、二方向で楯をかまえる機動隊と、対峙している。

(No324-2に続く)

イメージ 1
(No324-1の続きです)
(写真は「毎日グラフ」1969.2.15号より転載)

たまに石が投げられ、とても届かなくて、両軍の中間におちる。「直ちに退去しなさい、石を投げてはいけない、こら」切り口上につい感情がまじって、指揮車の、金網の中でマイクがさけぶ、「各人投石者を確認の上、逮捕せよ」しごく無表情な声がひびいたかと思うと、突如、隊員の列は、我がちにときの声をあげ、催涙弾を発射しつつ、駈け出して、口々に「この野郎」「ぶち殺すぞ」「ふざけやがって」示威なのか、恐ろしいつぶやきをもらし、もとより群衆、あっという間に、横丁に逃げこみ、退き、すると、「中隊現在位置にもどれ」また命令があって、いとあっさり引きかえす。私服が背の高い男を両脇から固めて連行し、男は重病人のように頬あおざめていた。
報道の腕章にものをいわせて、機動隊の列戦を突破し、群衆側にうつると、そのすぐ後にバリケードがあって、全学連各派の旗が、ならんでいる。バリケードの内側では、闘士たち、敷石をはいで打ちつけ、投石の準備に大わらわ。両側の塀に見物人が鈴なり。あちらこちらに、派ごとの小集会があって、気勢をあげ、お茶の水駅を中心にして、あらゆる道がバリケードで封鎖されているのだ。とんまな車が近づくと、まず二人ばかり、すごい剣幕で怒鳴り立て、それを一人がなだめて、運転者に丁寧に説明する。これはどうも、やくざの手口に似ていて、計算の上のことだろう。さきほどの喫茶店も表を閉め、交番に、解放区の札がかかる。
さまざまなデモの隊列と、色とりどりの旗が錯綜して、それとまるで、水と油の感じ、着かざった娘や、子供連れの父親、恋人が、楽しそうにながめている。なにやら、お祭りめいていて、たとえばここに機動隊が押し寄せたら、大混乱となるだろうに、毛ほども心配していない様子。ぼくは、歩きながら、常に逃げ道を考えているのだが、よほど、臆病にできているとみえる。(中略)(再び東大へ向かい、落城後、お茶の水へ向かう)
学生の数を、ラジオでは千五百人とといっていたが、とてもそれではきかぬ。加えて何万かの弥次馬、まともにぶつかれば、大混乱となるだろうし、どうせ危ないとみれば、いち早く逃げ出すにしろ、この目で見ておきたい。さっきまでやりあっていたガソリンスタンド近辺、すっかり平穏になって、激しく車が行きかい、さらに医科歯科大横のバリケードもなくなっている。弥次馬だけが右往左往していて、機動隊もどこにひそむのか姿がみえぬ。
戦線がのびすぎたと、バリケードをお茶の水駅近くに移し、それだけに内側は、ごったがえす騒ぎで、おどろいたことに、まだ子供連れの男、老人がうろうろしている。「私服の野郎けとばしてやった」「いやあ、さっきは、俺のこの肩のところにまで、機動隊の手がとどいてよ、びっくりしたのなんの、聖橋まで走って、足ががくがくよ」先のとがった靴、野暮ったい身なりの若者が、楽しそうにいう。ぼくは駿河台下のバリケードまで歩いて、いざとなれば山の上ホテルへ逃げ込むA氏との約束、ホテルのバアへ立ち寄り、ウイスキー二はい飲んで、さすがに人気のないロビー、今、見てきた東大の、TVニュースをながめ、さてと、もう一度表に出たら、なんと、学生はすべて消えていて、一般群衆ばかり、明治大学近くに群がり、バリケードはあっさり突破されたらしくて、お茶の水駅に、ジュラルミンの楯がならんでいる。声も出さず、石も投げず、ただ、機動隊とにらめあうだけで、二度、三度、隊員が突っこんでくるが、いったんは逃げても、すぐに元通り、道いっぱいにたちはだかり、異様な静けさのままいる。これは機動隊にとってもかなり気味のわるいものではないか。午後11時をまわった頃、群衆は、ふいにやめたという風に、遊びにあきたといった態で、ぞろりぞろり帰りはじめ、その後は、投光器に照らし出された路上、無数の石ころが、それぞれ影を抱いて美しい模様をえがき出していた。中央大学のバリケードは固く閉ざされ、日大は窓から食糧を運んでいた。山の上ホテルで飲み直すつもり、坂を中途まで登ったら、二十人ばかりの隊員が駈足で追いすがり、思わずたちすくんだら、かまわず追い抜いて、ホテル横のバリケード撤去にかかり、ものの三分とかからず、道をあけ、たちまちまた、黒いつむじ風のように坂を駆けおりる。
機動隊は、たしかに、市民対し、無敵の強さを持つ、あれは強すぎるのではないか。「デモといっても近頃は、すぐサンドイッチにされて、護送されてるみたいなものですからねぇ」A氏がつぶやいた。サンドイッチのハムほどの、自由、戦前のパンばかりよりはましだけれども。』

(終)

↑このページのトップヘ