野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2014年01月24日

イメージ 1
(文書が長くブログの字数制限を越えるため、No325-1とNo325-2に分けて掲載します。)

連載を続けてきた明大全共闘クロニクルも大詰めに入る。(No310の続きです。)
1970年5月、翌月の6月闘争に向けて、明大全共闘内部でも党派間の内ゲバが公然化し、
明大全共闘は実質的に解体していく。

5月1日、ブントが2~30名で和泉を制圧。4月から続くブントとMLの内ゲバの続きである。
5月13日、ML派系の「新入生闘委」の結成大会が和泉で開かれた。

【「新入生闘委」が結成 13日和泉で1年生討論集会 明治大学新聞1970.5.4】
『5月13日正午すぎから和泉校舎306教室で「1年生クラス闘争委員会準備会連絡会議」主催による「1年生討論集会」が開催された。この討論会は50名を越える新入生が参集し“新闘委”と書かれたヘルメット数個が最前列に配置されていた。
安達文幸君(法一年)の討論会趣旨説明から始まり、全明全共闘議長関口成一君(商四)から明大闘争の経過報告が行われた。その後、討論に移った。
この討論会は「大学そのものが社会から鋭く問い返されている現在、自らの思想性と能動性によって真の社会をみつめ社会に働きかけねばならない。その初歩的、かつ根本的な討論を全学に起こし、自ら実践の中で階級形成してゆく」ものとして設定された。
何故、大学に入学したのか、大学とは何か、といった自らの存在に対する問いかけを行う中から、自らの闘争主体を確立しようという問題等が提起され、長時間に渡って熱心に討論が続けられた。そして、午後5時すぎ、「新入生闘争委員会」を14、5人で結成したが、この闘争委員会はアンチ・セクトではないことを確認した。』

5月15日、和泉・商学部自治会(中核派)では、15日の愛知外相の訪ジャカルタに抗議して、1日ストライキを実施した。
(写真は5月14日の商学部臨時学生大会。私も写っています。)
【和泉・商スト決議 愛知外相訪ジャカルタに抗議して 明治大学新聞1970.5.4】
『「アメリカ帝国主義のカンボジア侵攻阻止」「5・15愛知外相訪ジャカルタ阻止」などを叫ぶ和泉・商学部自治会(井花清委員長代行=商二)は、14日、午後2時30分から和泉・第二校舎一番教室にて、商学部臨時学生大会を開き、5・15商学部スト権確立に向けての討議を行った。その結果、4時過ぎに行われた投票で、出席代議員42名(委任状を含む)のうち、賛成26票、反対11票、棄権・白紙5票と「スト」賛成が過半数に達したため、5月15日の和泉地区商学部1日ストライキの実施が確定した。
予定より30分ほど遅れて始まったこの商学部臨時学生大会には、昨年6月17日以来の久々の学生大会とあって、各クラスからの代議員を含め約300名ほどの学生が会場につめかけた。
大会は、まず議長に岡本君(商二)を確認した後、全学連中央書記局(中核派)の松尾書記次長が挨拶に立ち、「日米帝国主義の打倒に向けて、今こそ決起を」と訴えた。その中で松尾氏は「委員長不在の学生大会は無効と、日共=民青がわれわれのカンボジア侵攻阻止行動に対して敵対を図っている。」と強く日共系を非難した。続いて、昨年の10・21以来現在もなお東京拘置所に拘留され続けている、互井賢二商学部自治会委員長の獄中からのメッセージが披露された。
この後、井花委員長代行が「米帝のカンボジア侵攻を是認する、日帝を突破するカギは商学部学生にある」として「5・15商学部スト」を提起し全体討論に入った。
討論では2年10組をはじめとする約10クラス代議員が、クラス決議をもとに決意表明を行った後、4時過ぎ議場を閉鎖し「スト権確立」に関する投票が行われた。委任状を含めた出席代議員42名のうち、「スト賛成」が過半数の21票を上回ったため、スト権が確立し、翌15日に商学部ストライキが決行されることになった。
大会はこの後、インターを斉唱し、4時半ごろ終了し、20名ほどが中庭をデモ行進した。
翌15日には、午前10時ごろ和泉校舎正門前に約50人が結集し、中庭で行われていた明大総決起集会に合流した。
また、午後1時すぎ、商学部自治会系の約50人は和泉校舎付近をデモ行進した。正門付近には50名を越える機動隊が配置されていた。商学部ストライキに対する一般学生の関心は薄く、授業妨害もあったが、さしたる混乱も生じなかった。

(No325-2に続く)

イメージ 1
(No325-1の続きです)

このストライキに対し、当局は18日学長、商学部長名で次のような掲示を出した。
<商学部学生諸君へ>
去る15日、前日の商学部学生大会においてスト権が確立されたと称して、一部の者が大学側の制止にもかかわらず大学の器物を持ち出し、また授業妨害の行為に出たことは極めて遺憾である。
学生委員の選出も学部全クラスについてはまだ終わっていない状況で開かれ、また学部学生会規約に照らしても不備な点のあるこの学生大会が果たして正当性をもつかについては大きな疑義が持たれることであり、もともと大学はこのような大会決定には拘束されるべきものでもないので、平常通り授業を行う方針で臨んだ。
しかるに前記のような行動が強行され、他学部の授業にまで迷惑を及ぼしたことは、許しがたい行為であり、このような行動に出た人たちの責任は重大である。猛省を促したい。
また他の多くの学生諸君には。このような不祥事が今後繰り返されることのないよう、それぞれ言動に慎重を期されることを切に要望する。
5月18日
学長 商学部長』

5月15日、私も商学部の学生として1日スト決議を受けて学内集会と授業阻止行動に参加した。1号館の入り口で大学職員と衝突。1号館前で集会を行い、授業粉砕闘争。その後、中庭での集会に合流し150名で学内デモを行い、再度の中庭集会の後、日比谷野音の「愛知訪ジャカルタ抗議集会」へ150から200名の部隊で向かった。

【全共闘が抗議集会 18日外相、ジャカルタで出発 明治大学新聞1970.5.21】
『愛知外務大臣はインドネシアの首都ジャカルタで開催される「アジア会議」に出席するため15日、日本を発った。
この会議は事実上、アジアの反共国家の集まりであるため、日本がこれに参加することに対して、内外から激しい反対運動が盛り上がっていた。
特に、外相が出発する15日は、全国全共闘、革マル派などがそれぞれ抗議集会を開いて気勢を上げた。
全国全共闘は午前6時過ぎから多摩川緑公園に約2,000名を集めて集会を開き、大田区民広場前―六郷橋―萩中公園の順でデモ行進した。デモ途中の大田区民広場前では、全共闘学生と革マル派の衝突が一部で起こったが、大きな衝突には至らなかった。さらに解散まぎわ、全共闘学生が機動隊に投石したため、19名が検挙された。
また、夕方の5時からは、全国反戦、全国全共闘主催の「米帝のカンボジア侵略反対、愛知訪ジャカルタ抗議集会」が日比谷野外音楽堂で開催され、労働者、学生、市民約5,000人の結集をみた。全国反戦、全国全共闘のアッピールが述べられた後、在日米人行動委員会からタドタドしい日本語を使って、米帝への力強い闘争宣言が発せられ、会場から盛んな拍手を浴びた。
激しい内ゲバなどもあり、会場はたびたび混乱したが、8時過ぎから機動隊の片側規制の中を、霞が関―虎の門―新橋―八重洲口の順でデモ行進し、そのまま解散した。』

5月20日、全国学生解放戦線臨時大会が和泉で開かれた。ML派は全国動員で150名が参加した。
翌21日も全国全共闘の集会が行われ、各派の内ゲバが続いた。
(写真は5月21日の集会:「戦旗」より転載)
【六月に向け決起集会 全国全共闘日比谷で開く 明治大学新聞1970.5.21】
『「米帝のカンボジア軍事介入反対」「日帝のアジア進出の道を阻止せよ」と叫ぶ全国全共闘連合は中央総決起集会を21日午後5時頃より、日比谷野外音楽堂で開き約5,000人の結集をみた。会場では各セクトごとに席を陣取り、内ゲバに備えて本学全共闘学生が緩衝地帯をつくっているのが目についた。
集会はまず八派から六月決戦へ向けての決意表明がなされ、続いて各大学全共闘代表の“5・29全国ゼネスト”へ向けての決意が表明された。また、久しぶりに全国全共闘連合副議長の秋田明大日大全共闘議長の決意表明のもなされた。各大学全共闘の挨拶の途中、闘争方針で対立している中核派と反中核連合である学生解放戦線・反帝学評・フロントなど計500人がが会場内で旗竿をふりかざして内ゲバを演じた。
集会は収拾のつかないまま閉会、7時半すぎよりデモに移った。大蔵省上・虎の門・西新橋・数寄屋橋・東京駅八重洲口の順でデモ行進したが、商業紙への取材妨害暴行事件に対する配慮からか、この日は機動隊の規制もゆるやかで、珍しく検挙者を出さなかった。』

(次週に続く)

↑このページのトップヘ