野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2014年02月07日

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(文書が長くブログの字数制限を越えるため、No327-1とNo327-2に分けて掲載します。)

先週の続きです。1970年5月の明大新聞で当時を振り返ります。
5月下旬、全国全共闘は「5・29カンボジア侵略反対全国学園ゼネスト」を提起した。その5・29ゼネストに先がけて、27・28日の両日、和泉でハンストが行われた。

【和泉でハンスト 有志6人正門前で48時間決行 明治大学新聞1970.5.28】
『“米帝、日帝反革命のアジア侵略粉砕、インドシナ解放闘争に連帯せよ”を掲げて、全国各地の大学の5・29ゼネストに先がけた27、28日の両日にわたり、本学和泉校舎正門内側で、文学部史学地理学科専攻生有志6人が48時間のハンガーストライキを決行した。
このハンストは「国内外、とりわけアジアで、米帝国主義がベトナムでの敗退過程から、カンボジア軍事侵略へと明確にアジア反革命戦争へと進展させ、日米共同声明で海外侵略の意図を打ち出し、アジアにおける米帝との協調政策を推進しようとする日本帝国主義に反対することと、大学内部における大学当局の権力と一体化した弾圧体制―ロックアウト・学長告示などに反対」して意思表示したものである。
6月安保粉砕闘争へ向けて各戦線が闘争を展開しているが、昨年のバリストで結成された本学地理学共闘会議は、以前から“日常を闘う日常―輝きと痛みのある空間創出へ”と叫んでおり、今回のハンスト闘争は安保粉砕闘争に臨むにあたり、“自立した大衆にみずからの主体形成を図る闘争”と位置付けている。
今回のハンスト闘争は戦術それ自体としては今日、それほど大きな意義を持たないようになったといえるだろう。しかし、昨年の11月決戦以来、治安警備弾圧体制の下に、戦闘的学生が少なくなったとマスコミが報道しているのに対しても、ロックアウト以降、“学長告示”という学生弾圧策を平然と行ってきた大学当局に対しても執拗に反逆する学生抵抗存在を示したといえる。大学当局はロックアウトから全共闘学生を一部暴力集団と呼び、その存在を厳しく非難し、放送・文章で流してきている。しかしながら、全共闘学生は一時期、後退を余儀なくされたが、新しい1年生が次々に闘争委員会を結成するなどして、大きく勢力を伸長し、4・28沖縄解放闘争デーに本学から約1500人の学生を参集させている。知らず知らずのうちに加害者の立場に追いやられる今日の情況を把握せず、単々と日常を過ごし“沈黙する多数派”という体制支持者である大学の各構成員を今回のハンストは鋭く告発している。』

5月下旬は、明大の「和泉祭」の時期である。この5・29ゼネストはちょうど「和泉祭」と重なった。5月29日、「和泉祭」とゼネストに呼応する全共闘系学生の集会とデモで和泉校舎は騒然となった。

【和泉祭初日に衝突 全共闘5・29ゼネストに呼応 明治大学新聞1970.6.4】(写真)
『”狙撃の季節“を統一テーマに、20回和泉祭は5月29日(金)から3日間にわたって和泉キャンパスで繰り広げられた。初日の前夜祭にあたる29日、全国全共闘の提起する「5・29カンボジア侵略反対全国学園ゼネスト」が日を同じくして予定されていたため、同日、早朝から和泉校舎正門前にこれに呼応しようとした全共闘系学生と、教職員が一部でこぜり合いを繰り返した。
また、大学当局の要請した機動隊と衝突するという一幕があり、これまでにない異例の和泉祭の幕開けとなった。
この日に先立って、大学当局は27日「全国一斉ストに呼応した大学の封鎖、暴力による授業業務の妨害行為は厳禁する」旨の告示を掲示し、授業および業務は平常通り行うとともに、午前中は学生証提示による“入構制限”を実施することを明言。この日のストは一切認めない態度を決めていた。大学当局はこの方針に従って午前7時半過ぎから“検問”を開始した。

(No327-2に続く)

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(No327-1の続きです)

一方、全共闘系学生は8時近くになって徐々にその数を増し、約20名ほどが、学生証の提示を拒否して入構しようとしたため、これを阻止する職員10名ほどと小ぜり合いを繰り返した。職員に入構を阻止された全共闘系学生は正門前で抗議集会を行い、強く大学当局のロック・アウト態勢を非難した。集会はこの後しばらくしてすわり込み集会となり、実質的にピケ状態となった。
また、この頃になると、登校する学生が増え始め、大学側がスピーカーで「学生証を提示さえすれば入構できます」と何度も繰り返すにもかかわらず、入構する学生は少なく、正門前付近一帯は、集会を見守る500名ほどの学生でうずまった。
また、この間全共闘系学生80名ほどは検問突破を図ろうとし、再々入口付近で職員ともみ合ったが、いずれも押し返され失敗に終わった。
10時頃、事態を重視した大学側の要請で機動隊100名ほどがかけつけ、ピケを排除し、制圧にかかった。全共闘系学生と一緒になって一般学生も「カエレカエレ」と叫ぶなか、機動隊が制圧にかかる混乱に乗じて全共闘系学生らは検問を突破し、校内に流れこんだ。
その後、学生らは警官、職員らと押し問答をくり返し、警備にあたっていた職員が学生に
つめ寄られる光景も見られた。
この後、全共闘系学生は正門付近で集会を開き、キャンパスをデモ行進した後、第一校舎におもむき校舎内を同じくデモし、授業阻止行動を行い、11時頃解散した。
この日は、正午から「和泉祭」の前夜祭が予定され、一方で全国全共闘の主催による「5・29全国学園ゼネスト」もこの日とカチ合ったことによって、和泉祭実行委員会内部でも、戦術面で苦渋の色が見え、星野貞司委員長は「今は何も言いたくない」と、この日に先立つ会見では言明を避けていた。』

【一万三千人が結集 5・29関東総決起集会開く 明治大学新聞1970.6.4】(写真)
『全国全共闘が呼びかけた「5・29全国学園ゼネスト」に呼応した形で、本学全共闘は和泉で抗議集会を開いたが、部隊はそのまま午後4時から明治公園で行われる「全国全共闘総決起集会」に向かった。
本学全共闘および東大全共闘は、最近とみにゲバルト関係にある中核、ML派の中に割って入り、中央に座を占めた。
その集会はその後、全国反戦、全国全共闘共催の「カンボジア侵略反対全関東労学総決起集会」に切り替わり、労働者、学生1万3千人(主催者側発表)が結集した。
午後6時すぎに始まった労学総決起集会は、神奈川県反戦、群馬県反戦の司会で続けられ、各セクトの代表が壇上に上がった。
内ゲバはなかったものの、中核派とML派は、それぞれの決意表明の中でののしりあった。中核派は「六月安保決戦を通し、社共に代わって日帝のアジア侵略を内乱へ転化する、つくりださねばならない」とし、「日帝のアジア侵略阻止の闘いに敵対し、排外主義に転落するML派」を攻撃。これに対し、ML派も「この重大な六月決戦から逃亡している」と中核派、ブントを非難した。
集会は「6・14労学市民大統一行動へのアピール」を拍手で採択し、その後日比谷公園までデモ行進を展開した。』

1970年5月は、この5・29集会で終わり、いよいよ6月闘争に突入していく。

(続く)

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