
(文書が長くブログの字数制限を越えるため、No327-1とNo327-2に分けて掲載します。)
先週の続きです。1970年5月の明大新聞で当時を振り返ります。
5月下旬、全国全共闘は「5・29カンボジア侵略反対全国学園ゼネスト」を提起した。その5・29ゼネストに先がけて、27・28日の両日、和泉でハンストが行われた。
【和泉でハンスト 有志6人正門前で48時間決行 明治大学新聞1970.5.28】
『“米帝、日帝反革命のアジア侵略粉砕、インドシナ解放闘争に連帯せよ”を掲げて、全国各地の大学の5・29ゼネストに先がけた27、28日の両日にわたり、本学和泉校舎正門内側で、文学部史学地理学科専攻生有志6人が48時間のハンガーストライキを決行した。
このハンストは「国内外、とりわけアジアで、米帝国主義がベトナムでの敗退過程から、カンボジア軍事侵略へと明確にアジア反革命戦争へと進展させ、日米共同声明で海外侵略の意図を打ち出し、アジアにおける米帝との協調政策を推進しようとする日本帝国主義に反対することと、大学内部における大学当局の権力と一体化した弾圧体制―ロックアウト・学長告示などに反対」して意思表示したものである。
6月安保粉砕闘争へ向けて各戦線が闘争を展開しているが、昨年のバリストで結成された本学地理学共闘会議は、以前から“日常を闘う日常―輝きと痛みのある空間創出へ”と叫んでおり、今回のハンスト闘争は安保粉砕闘争に臨むにあたり、“自立した大衆にみずからの主体形成を図る闘争”と位置付けている。
今回のハンスト闘争は戦術それ自体としては今日、それほど大きな意義を持たないようになったといえるだろう。しかし、昨年の11月決戦以来、治安警備弾圧体制の下に、戦闘的学生が少なくなったとマスコミが報道しているのに対しても、ロックアウト以降、“学長告示”という学生弾圧策を平然と行ってきた大学当局に対しても執拗に反逆する学生抵抗存在を示したといえる。大学当局はロックアウトから全共闘学生を一部暴力集団と呼び、その存在を厳しく非難し、放送・文章で流してきている。しかしながら、全共闘学生は一時期、後退を余儀なくされたが、新しい1年生が次々に闘争委員会を結成するなどして、大きく勢力を伸長し、4・28沖縄解放闘争デーに本学から約1500人の学生を参集させている。知らず知らずのうちに加害者の立場に追いやられる今日の情況を把握せず、単々と日常を過ごし“沈黙する多数派”という体制支持者である大学の各構成員を今回のハンストは鋭く告発している。』
5月下旬は、明大の「和泉祭」の時期である。この5・29ゼネストはちょうど「和泉祭」と重なった。5月29日、「和泉祭」とゼネストに呼応する全共闘系学生の集会とデモで和泉校舎は騒然となった。
【和泉祭初日に衝突 全共闘5・29ゼネストに呼応 明治大学新聞1970.6.4】(写真)
『”狙撃の季節“を統一テーマに、20回和泉祭は5月29日(金)から3日間にわたって和泉キャンパスで繰り広げられた。初日の前夜祭にあたる29日、全国全共闘の提起する「5・29カンボジア侵略反対全国学園ゼネスト」が日を同じくして予定されていたため、同日、早朝から和泉校舎正門前にこれに呼応しようとした全共闘系学生と、教職員が一部でこぜり合いを繰り返した。
また、大学当局の要請した機動隊と衝突するという一幕があり、これまでにない異例の和泉祭の幕開けとなった。
この日に先立って、大学当局は27日「全国一斉ストに呼応した大学の封鎖、暴力による授業業務の妨害行為は厳禁する」旨の告示を掲示し、授業および業務は平常通り行うとともに、午前中は学生証提示による“入構制限”を実施することを明言。この日のストは一切認めない態度を決めていた。大学当局はこの方針に従って午前7時半過ぎから“検問”を開始した。
(No327-2に続く)