野次馬雑記

1960年代後半から70年代前半の新聞や雑誌の記事などを基に、「あの時代」を振り返ります。また、「明大土曜会」の活動も紹介します。

2014年02月

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1960年代後半から70年頃の新聞記事を紹介するシリーズ。
今回は毎日新聞の「回転 安保‘60-’70」というシリーズの記事を紹介する。

【カムイ伝では戦えぬ 悩む60年代の旗手】毎日新聞 1969年8月24日(引用)
『東大紛争の主役だった今井澄君(医学部4年)の手紙。
「(月刊マンガ誌のガロを贈られて)ご好意で4ケ月分を一気に読むことができ久しぶりになつかしい画に接することができ、大変うれしかったですが、やはり手ばなすときは、寂しい気持ちになりました。」(東京拘置所にて)
このあきれるばかりのマンガへの愛着。
ガロの投書欄から・・・。
「4・28闘争から帰って“昭和ご詠歌”(マンガ)を読んだ。闘争の前に読んでおけば、もっと冷静に沈着に国家権力と対決できた」(21歳の学生)
「ぼくは言葉によるコミュニケーションを否定する。言葉で論理を謳歌することは無意味です」(20歳の学生)
評論家の尾崎秀樹さんは「文章で語るより、マンガで切捨てる方が現実とマッチする」と分析する。「白戸三平のマンガは知識人までつつみ込んだ」という。
どこにもマンガがある。ビラと演説と大学教授が引っ張った60年安保。それならマンガは70年のイデオローグなのか。
白戸三平は東京湾に面した千葉の漁村にひとりで暮らしていた。練馬に新築の住宅がある。「落着かない」と夫人と二人の子供を残し、漁師から借りたフスマの破れた二階の家に住んでいる。
筋肉でこそ劣るものの、日焼けしたハダとひげ面のステテコ姿は、まるで漁師。貝やサカナを料理する包丁さばきも一人前だ。
マスコミぎらい、居所も秘密。「忍者武芸帳」-「サスケ」-「カムイ伝」と一連の“唯物史観マンガ”ですっかり有名になったが、全てはマネージャーの実弟、岡本真さんが取り仕切る。
が、会えば無類の話好きだった。夜釣りから安保まで、独特の話術は何時間でもあきさせない。
血のメーデーをたたかった。何人も皇居前広場で傷つくのを見た。「絵に残したい」と執念で現場に戻った。紙芝居作者時代、上塗りのシンナーで失神しかけた。貸本マンガ時代、仕事に熱中して、家が流されるまで水害に気づかなかった。
本名・岡本登(64)。プロレタリア美術運動で知られる岡本唐貴画伯の長男。59年から62年まで「忍者武芸帳」を書きついだ。徹底した組織不信と、敗北のかなたに未来を求める新鮮な史観で60年安保闘争にザサツした世代の共感を得た。
いまは大変なマンガブーム。毎年四百点の新刊、重版。五百万部。マンガ雑誌は、半年で一億八千三百万冊。
それなのに三平さんは「マンガは行きまっている」という。60年のマンガは貸本用のアングラ特価本がほとんど。1年で新作千四百点。ドロドロしたエネルギーにあふれていた。
テレビ漫画に押されて、貸本屋も没落。いまは貸本の新作、月に2、30点。作者の質も落ち、売れない。地表に出たマンガが隆盛をきわめているとき、その源流は枯れかけている。
「カムイ伝」の発表の場として64年、友だちの長井勝一さんと「ガロ」を創刊。反日共系学生の愛読書にのしあがった。カムイは非人を抜けて、忍者になり、そこを脱出して“抜け忍”となった。だが「抜けても抜けても体制がある」というトーン。主人公のうち百姓、正助は「統一と団結」を説き、浪人、竜之進はゲバルト至上主義。その間で、三平の分身。カムイが悩んでいる。70年を前にした現実を、そのまま表現したようなマンガだ。
「60年の敗北は団結がなかったからだ」という。その教訓からか、カムイ伝には「統一と団結」があふれる。「忍者武芸帳」を残酷といって非難した共産党機関紙「赤旗」も「カムイ伝」は推薦する。ところが、反日共系の学生からは「日共的になった」と不満の投書が来る始末。ガロの部数も減った。
「70年もこのままだと、体制にしてやられ、それをはねかえせないのではないか」と三平さん。自分も含めて、カムイ的ではいけないのではないか、と迷いに迷っている。
学生はいまや「カムイ伝はつまらない。佐々木マキのマンガを胸に機動隊にとび込みたい」という。佐々木マキ、林静一。筋もなく、何度読んでもわからない。だが、学生たちは「よくわからないようでも、深いところで感性に触れる」<ガロへの投書から>と主張する。マンガの世界も、分裂を重ねる一方のようだ。
70年を前にしての学生と機動隊の攻防戦。成田闘争では、セクトごとに軍団編成でのアタック。柱にとりついてセクトの砦を死守する“英雄”。戦記もののマンガそっくりの情景が各所で繰広げられる。
三平さんはつぶやいた。
「カムイ伝は失敗作です。マンガも状況を先取りしなければいけない。それなのに、現実の方がすっかり先に行ってしまった。アメリカを舞台にインディアンを描けばよかった」
マンガも追いつかないほど、めまぐるしい70年前夜の回転である。』

(終)

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(文書が長くブログの字数制限を越えるため、No328-1からNo328-3に分けて掲載します。)
都知事選も終り、新聞などの世論調査どおり舛添氏が当選した。脱原発派は候補者の一本化ができず敗れた。
都知事選の関連記事で、2月3日の朝日新聞にこんな記事が載っていた。
【「2014知事選」すえい・あきら(元「写真時代」編集長)】(引用)
『知事選、昔は候補も変わった人が多かったですよね。僕の知り合いで言えば秋山祐徳太子さんなんか2回出ていた。パンストはいたおじさんみたいな人も街頭で演説していたし、内田裕也さん、東郷健さんもいた。』
ここに出てくる秋山祐徳太子は、1975年と1979年の都知事選に立候補している。「保革の谷間に咲く白百合」というキャッチフレーズのポスターを覚えている方もいるのではないだろうか。私も、当時、秋山祐徳太子に投票した。
その秋山祐徳太子の「大博覧会」なるものが先月、東京・銀座で開かれたので見に行ってきた。(写真)
会場はギャラリー58。有楽町駅から銀座方面に向かって10分くらいのところにある。普通の雑居ビルの出入り口に、小さなポスターが案内代わりに置いてある。ギャラリーは琉映ビルの4階。エレベーターはないので階段を歩いて登る。会場に入る。会場は2DKくらいの広さだろうか。平日の午後なので誰も居ないかと思いきや、年輩の女性3人組がペチャクチャ喋りながら作品を見ている。
「大博覧会」ということで、回顧展のような感じでもある。ブリキ作品から、都知事選の時のグッズや写真、ポスターなどが所狭しと並べられている。また、会場に置かれたTVからは当時のハプニングの映像が流れている。
作品の写真を撮り、TVの映像を観た後、会場を後にした。

秋山祐徳太子とはいかなる人間か?
1971年の朝日新聞に記事が載っているので見てみよう。
【「ハプニングこそ人生」朝日新聞1971.10.16】(引用)
『秋山祐徳太子の心意気
“通俗行動”で反逆 大衆の哀歓と怒り表現
ゲバラひげの似合う長身、おつむは少々薄くなったが、なかなかの男前、武蔵野美大卒、独身、「秋山祐徳太子」(36歳)、デザイナーが副業と思われるほどポップ・ハプニングに夢中。
この道10年のキャリアを誇り、元祖を自認する。
ごぞんじ、町なかで裸になってひっくり返る、あの“ハプニング”は、一時大もてで、時にはTV番組をつぶすことさえあったが、目まぐるしい世の流れは、アッという間に“ハプニング”と“日常茶飯事”とを同義語にしてしまった。
しかし、元祖、太子君のハプニングは消えなかった。それどころか「異常な現社会では、通俗こそが新鮮で、驚きなのだ。そこで僕は、ホップ・ハップという通俗落下さんを背負って、この世にカッコ良くダイビングを敢行する」と鼻をうごめかすのである。
彼のハプニングなるものは、いつも通俗が図々しく大見得を切っている。
一粒300メートルのおじさん。ランニングスタイルに赤丸かついで、両手を高く、ゴールインの姿は勇ましいが、コースは果てしもなく続いて終わらない。子どもたちに囲まれ、汗だくで団地の庭を、商店街を走る彼が、真面目であればあるほど、こっけいであり、悲しさもつのる・・・題して、ランニング・ハップ。
サラリーマン時代には、自宅から工場まで、ヘルメットにランニングパンツ、弁当をしっかりとかかえ込んで、タイムカードに突進。賃上げ闘争の同志労組員たちを爆笑させ、勇気づけた?こともある。これは、サラリーマン・ハップ・・・?
そもそも、ハプニングとは何でアルノカ。
祐徳太子にとって、最初、ハプニングは、美術家である彼の、美術界に対する反逆行為であった。「抑圧する力への反逆のかたちであり、解放地点を目ざす触発媒体でもあった。また、自己変革への期待も、その行動にこめていた」・・・そうである。
目下、今月末、東京・渋谷のスナックで行われるポップ・ハップ“祐徳太子軍歌を謳う”の準備に忙しい。軍艦旗を仕入れ、ポスターを描く。
「軍歌は、ポップのきわめ付きですよ。被抑圧者であった一般民衆から新兵さんまで、心の底にしみつけている歌。勇ましそうで本当は悲しい日本人の歌。今、大声で歌えば、若者は何を思うのか。自衛隊員は、サラリーマンは、老人は、母親は・・・。これこそ現社会での逆説的パワー」・・・。
おどけた表情で語る太子君ではあるが、それにしては目がすわっていた。』

秋山祐徳太子については、このブログでも1969年の「万博破壊共闘派」での活動などを紹介しているが、秋山氏の回顧録的著書「通俗的芸術論」(1985年7月発行 土曜美術社)には、秋山氏のハプニング活動の様子が掲載されているので見てみよう。

(No328-2に続く)

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(No328-1の続きです)

【教育ハプニング 二宮金次郎と「資本論」】(引用)
『学生運動をやっていたころ、勤務評定(勤評)闘争で文部省前に座り込んだことがある。今のように機動隊もそう強固なものではなく、圧倒的にこちらの数に押された感があった。人が集まれば商いも成立するのだろう。夜泣きソバやが沢山やってきては湯けむりをあげていた。
「武士は食わねど・・・」というのを知っていて中には「闘争勝利!」などとスローガンを貼りつけたチャッカリ組のソバ屋もいたが、といって別段学生割引がきくわけでもなかった。さすが商いである。(中略)
二宮金次郎(二宮尊徳、祐徳でないのがおしい)、文部省のお手本みたいな人である。昔はどこの小学校に行ってもあの銅像が設置されていた。中にはピカピカに黒光りしているのもある。神のように思って毎日だれかがさすりにくるのであろうか?薪木までピカピカというのはどうもハデすぎていけない。ところが戦争がたけなわになってくると物資欠乏のため軍に供出させられてしまった。(中略)
ともかく戦中派の人間なら誰にでも焼きついている二宮金次郎像。これを今、人間が演じたとしたらどうなるのか?銅像ではなく生身の人間である。発想がわいたらあまり難しく考えない方がよい。それはインテリの悪いところである。悪いところはさけねばならない。ただ黙して行為すること・・・。
その日、ぼくはあわただしい出勤時間をさけ、昼休みどきを狙ってこの通俗的行為を実践した。なるだけ相手に考えさせるヒマな時間だからである。
守衛さんもチンドン屋か何かなのだろうと別段気に止めないのは、怪しいということにはならないからだろう。いわば奇妙な人間が、ということになる。やはりニヤニヤ笑っているのである。
ぼくはさりげなく、文部省の曲がり角のところに立つことにした。とにかく、一心に本に目をくれていなくてはいけない。本の内容は「資本論」にした。金次郎は、当時、社会主義者だったのか?とは誰も思うまい。が、こういうものはシリアスの方がよろしい。
昼休みの官庁街はすごい人である。初めはサンドイッチマンかと思った人もいて、プラカードがないのに首をかしげる人もいたりして、とにかく人々の目は「何だろう?」という軽い問いかけから始まるのである。人々は何かに結びつけたがる。撮影でもしているのかとあたりを見廻すものもいる。本を見ながらときどき横目でさぐると、人々はある一定の距離を置いた形で見ている。見ている方も恥ずかしいのだろう。
この間、たぶん何千人もの人々が通ったことだろう。ぼく一人はこうして立っていればいい。人々は思索をこらすだろう。「文部省に対する皮肉か?」「勤務評定に対する抗議行動」「道徳教育推進」と、まあそれぞれの考えを持ち帰るだろう。自宅での一家だんらんにおいて「今日変な男を見たぞ」と息子や娘に話している人もいるだろう。
いわば、今日、文部省の脇に一つのエア・ポケットがあったのだ。ナンセンスとかブラック・ユーモアにも当てはまらない。当てはめようとする気を起こさせない、奇妙キテレツということすらも。(後略)』

もう一つ掲載する。
【奇妙な赤旗】(引用)
『60年安保から5、6年も時がたてば労働者の祭典であるメーデーも子供連れの家族的ムードになり、プラカードよりも風船の方がめだったりする。不思議とメーデーには青空がつきものである。
かってぼくが中小企業の電機メーカーにいて、「全国金属」の支部委員長のときは、はね上がり労組として共産党系の組織からマークされていた。むろん警視庁からもであるが・・・。
だから一家団欒的な祭典には背を向けて最後尾から行く全学連と合流するのである。その方がぼくの労組の連中は喜ぶのである。とくにジグザグ・デモに入るとすごく戦闘性を発揮する。我々がデモっていると、学生たちが「おお、労働者だ、労働者だ!」と言って、すごい連帯の眼で迎えてくれる。
「何々大学自治会」という赤旗の中にあって、我ら「労組」の旗はダイヤモンドのように輝いていた。あきらかに「祭典」ではなく「闘争」であった。ぼくにとっては輝けるメーデーだったわけである。
この日、ぼくは全ての労働者を敵に廻すことになるかもしれない。心の底には、チョッピリ良心の阿責みたいなものが動く・・・。だが芸術とはいつの時代にもすべてを超えた行為を実践することだとすれば、この通俗的行為もやむを得ない大いなる実験に違いない。
この日のために一本の旗を用意した。すでにゼロ次元やクロハタの人々がしたようにぼくも労働者の一人として参加するのである。旗は「女湯」と白く染めぬいた赤旗である。初めはピンクの旗にしようと思ったが、あくまで画一性の中に通俗的エア・ポケットを現出させようというのだから当たり前の方がいいのである。

(No328-3に続く)

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(No328-2の続きです)

ぼくはこの愛旗を会場入り口付近で掲げるがほとんどの労働者は赤一色のためその文字には気付かない。が、一人二人と気がつき始めると「なんだ女湯とは?あーあれは浴場組合の旗だ」と・・・。
なるほど、自分たちの組織に直結させようということなのである。
しかし、歩いているうちに、組織形態によって「バカヤロー、イヤガラセだ!」とか「ナンセンス!」とか罵声が飛んでくる。まさに「ナンセンス」の一言をやっているのだから一人ホクソ笑むのだが・・。
中にはドット笑う労組もある。組織の人間は当然、敵か味方かを識別しなくてはならない。が、これは敵か味方かと判断にまよう。赤旗という味方の色に「女湯」という文字の解釈をどうするかである。
先ほど「浴場組合の旗」と言った労組はトンチがきく。しかし深く考えれば浴場組合は「労組」ではない。経営者の連合である。しかしメーデーが「闘争」から「祭典」へと変貌していく以上、この一本の奇妙な赤旗がパロディにもなり得ないで同化していく方が恐ろしい。
「女湯」の文字は別にわいせつな意味にはとられないだろう。銭湯に行く人にとってはごく日常的な文字である。しかし、一つのイデオロギーによる集団において、この日常的文字の「表現」は何を意味できるだろうか。ひとつの「表現の自由」が「統一と団結」を乱す行為ととられるのか、多様化した表現の一つとして受け入れられるのか、銭湯の「男湯」につかりながら、しばし考えこむのである。』

秋山祐徳太子は1960年代の前衛芸術運動の渦中にいた方である。60年代の前衛芸術運動の「すさまじさ」を伝える文章も掲載されているので見てみよう。

【ビタミン・アート ウンチング・ハプニング 「魔弾の射手」】(引用)
『上野の本牧亭といえば、講談、落語など芸人さんにとっては神聖な場所、いわば聖域である。ここで大儀式大会をやるという。ゼロ次元、告陰、ビタミン・アートなどが会場で行うというものである。ぼくはワクワクしながら見にいった。このころはまだぼくもこのグループとの交流はなかった。
儀式はまさに狂喜乱舞である。ゼロ次元の加藤好弘氏などは自分の幼い男の子を背負い、チンドン屋の伴奏よろしく猛り狂っている。もちろん全裸である。モヒカン刈りをした幼い男の子が上下に激しくゆれる。泣き出すかと思ったら、むしろ一緒に調子を合わせるように動いている。さすがに親子である。加藤氏のオ○○チンの真黒な陰毛と幼な子のモヒカン刈りとの調和がすごくエロチックに見える。このままでいけば親子の断絶はありえないだろう。
「ビタミン・アート」は別に製薬会社の美術愛好会ではない。小山哲生氏が考えた芸術行為である。(中略)この小山氏、少しでもビタミンがみとめられるものならばなんでも食べてしまう。TVなどで、犬の首輪を自分の首に巻いて地にはいずりながらニンジンとかキャベツとかをパクパク食べてしまったり、女性の股の間からたれ下がるウインナー・ソーセージをかじったりしてみせるのだが、あまりグロテスクなので抗議の電話が殺到したというからものすごい。
その小山哲生氏、例のとおりバケツにリンゴを持って登場したので、リンゴでもかじるのだろうと思っていたら、突然お尻をまくるとバケツの中にウンチをし始めた。その臭いとともに、黄色い端整な物体はこの日のために蓄積されていたらしく見事に排泄されていく。
野糞をするのさえあたりを気にするあまり、なかなか脱糞できないときもあるくらいなのに、人前でこれだけ出せるというのは並たいていの神経ではない。場内はア然としている。
ひょっとすると彼は我々にビタミン(肥やし)を与えていたのかもしれない。臭いはすみずみまで行きわたって、女の子などは鼻にハンカチを当てている。それでも外に逃げ出すものはいない。儀式に対して儀礼ということだろう。しかし、視覚から臭覚まで刺激するとは大したのもである。と・・、次の瞬間、手にしたリンゴにそのウンチをなすりつけると場内に投げこんだ。一気に張りつめた静寂をうち破り、場内は大混乱、リンゴが次から次へと魔弾なく放りこまれると、観客は脱兎のごとく逃げ惑う。魔弾の射手は勝ちほこったように冷静に行為を進行させていく。(後略)』

この「通俗的芸術論」(写真)には、この他にもいろいろなエピソードがちりばめられている。「面白い!」の一言に尽きる本である。ネットの古本サイトでも手に入るので、興味のある方はお買い求めいただきたい。

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(文書が長くブログの字数制限を越えるため、No327-1とNo327-2に分けて掲載します。)

先週の続きです。1970年5月の明大新聞で当時を振り返ります。
5月下旬、全国全共闘は「5・29カンボジア侵略反対全国学園ゼネスト」を提起した。その5・29ゼネストに先がけて、27・28日の両日、和泉でハンストが行われた。

【和泉でハンスト 有志6人正門前で48時間決行 明治大学新聞1970.5.28】
『“米帝、日帝反革命のアジア侵略粉砕、インドシナ解放闘争に連帯せよ”を掲げて、全国各地の大学の5・29ゼネストに先がけた27、28日の両日にわたり、本学和泉校舎正門内側で、文学部史学地理学科専攻生有志6人が48時間のハンガーストライキを決行した。
このハンストは「国内外、とりわけアジアで、米帝国主義がベトナムでの敗退過程から、カンボジア軍事侵略へと明確にアジア反革命戦争へと進展させ、日米共同声明で海外侵略の意図を打ち出し、アジアにおける米帝との協調政策を推進しようとする日本帝国主義に反対することと、大学内部における大学当局の権力と一体化した弾圧体制―ロックアウト・学長告示などに反対」して意思表示したものである。
6月安保粉砕闘争へ向けて各戦線が闘争を展開しているが、昨年のバリストで結成された本学地理学共闘会議は、以前から“日常を闘う日常―輝きと痛みのある空間創出へ”と叫んでおり、今回のハンスト闘争は安保粉砕闘争に臨むにあたり、“自立した大衆にみずからの主体形成を図る闘争”と位置付けている。
今回のハンスト闘争は戦術それ自体としては今日、それほど大きな意義を持たないようになったといえるだろう。しかし、昨年の11月決戦以来、治安警備弾圧体制の下に、戦闘的学生が少なくなったとマスコミが報道しているのに対しても、ロックアウト以降、“学長告示”という学生弾圧策を平然と行ってきた大学当局に対しても執拗に反逆する学生抵抗存在を示したといえる。大学当局はロックアウトから全共闘学生を一部暴力集団と呼び、その存在を厳しく非難し、放送・文章で流してきている。しかしながら、全共闘学生は一時期、後退を余儀なくされたが、新しい1年生が次々に闘争委員会を結成するなどして、大きく勢力を伸長し、4・28沖縄解放闘争デーに本学から約1500人の学生を参集させている。知らず知らずのうちに加害者の立場に追いやられる今日の情況を把握せず、単々と日常を過ごし“沈黙する多数派”という体制支持者である大学の各構成員を今回のハンストは鋭く告発している。』

5月下旬は、明大の「和泉祭」の時期である。この5・29ゼネストはちょうど「和泉祭」と重なった。5月29日、「和泉祭」とゼネストに呼応する全共闘系学生の集会とデモで和泉校舎は騒然となった。

【和泉祭初日に衝突 全共闘5・29ゼネストに呼応 明治大学新聞1970.6.4】(写真)
『”狙撃の季節“を統一テーマに、20回和泉祭は5月29日(金)から3日間にわたって和泉キャンパスで繰り広げられた。初日の前夜祭にあたる29日、全国全共闘の提起する「5・29カンボジア侵略反対全国学園ゼネスト」が日を同じくして予定されていたため、同日、早朝から和泉校舎正門前にこれに呼応しようとした全共闘系学生と、教職員が一部でこぜり合いを繰り返した。
また、大学当局の要請した機動隊と衝突するという一幕があり、これまでにない異例の和泉祭の幕開けとなった。
この日に先立って、大学当局は27日「全国一斉ストに呼応した大学の封鎖、暴力による授業業務の妨害行為は厳禁する」旨の告示を掲示し、授業および業務は平常通り行うとともに、午前中は学生証提示による“入構制限”を実施することを明言。この日のストは一切認めない態度を決めていた。大学当局はこの方針に従って午前7時半過ぎから“検問”を開始した。

(No327-2に続く)

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