久しぶりの全国学園闘争シリーズ。第9回目は、東京文京区の拓殖大学。
意外と歴史のある大学で、大学のホームページによると「明治33年(1900年) 台湾協会学校として東京に設立、明治40年 (1907年) 東洋協会専門学校と改称、大正7年(1918年) 拓殖大学と改称」とある。
初代総長は陸軍大臣桂太郎、そしてここに取上げる拓大闘争の時期には中曽根康弘氏が第12代総長となっていた。
今回も写真を撮りに行った(2011年)。最寄り駅は地下鉄「茗荷谷」駅。
大学は駅からはそれほど遠くない。10分もかからなかった。
周りは住宅地の高台で「なるほど文京区」という雰囲気である。跡見女子大が傍にあるのを初めて知った。古めかしい校舎があったので、写真をパチリ。(写真)


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拓大闘争が一躍注目を集めたのは1970年6月、新聞に載ったこの事件である。

【空手、死のしごき? 拓大】1970.6.16毎日新聞(引用)
『「退会したい」最後の練習
15日午後5時40分ごろ、東京文京区小日向3の4の14、拓殖大学(中曽根康弘総長)
の体育館で、同大政経学部1年、安生良作君(19)は、午後4時15分から約1時間20分の空手練習が終わって点呼のときに急に気分が悪くなって倒れ意識不明となった。
救急車で近くの病院に収容されたが、16日、午前1時40分、くも膜下出血で死亡した。
安生君は4月に入学してすぐ、同大の空手愛好会「拓忍会」に入会、毎週月、水、金の放課後に練習を行なっていた。
安生君は6月はじめから「練習がきついのでやめたい」と同会のリーダー、政経学部4年、斉藤憲治君に申出ており、15日は安生君の最後の練習日で30人の会員のうち、14人が参加していた。(中略)
大塚署では安生君の死因に不審を持ち、斉藤君ら練習参加者から事情を聞いているが、安生君の退会をあきらめさせようと、長時間にわたって安生君1人を集団でしごいた疑いが強いとして遺体を司法解剖するとともに警視庁捜査一課の応援で捜査を始めた。』

この事件をきっかけに一気に闘争が盛り上がりを見せる。
朝日ジャーナルの記事と、当時の新聞記事をから、その様子を見てみよう。

【“中曽根大学”ここに騒然】朝日ジャーナル1970.7.12号(引用)
『大学闘争が一つのサイクルを終え、大学が世間の耳目から遠のきつつある最中、空手愛好会メンバーのリンチ殺人事件が、これまで紛争と隔絶していた拓殖大学を、全国唯一の、ロクアウト大学におどり出させた。
自民党の“輝ける星”中曽根康弘防衛庁長官を総長にいただく拓大の学生たちは、リンチ事件が明るみに出て以来、学内で集会、デモを繰りひろげ、数日にして「拓大闘争によって、70年代大学闘争の転機をつくる」(6月25日、自治会臨時執行部の記者会見で)とまでに高まった。
20億円の使途不明金問題をバネとして起こった日大闘争の初期をほうふつさせる拓大生の高揚は、リンチ事件を「スポーツ団体の性格のゆがみ」「愛のムチの行過ぎ」とのみとらえた多くの論評が、いかに事柄を矮小化しているかを示した。
拓大生のさまざまなビラは「国家とともに歩んできたことを誇りとする、拓大70年の伝統と因習が、彼の死を招いた」と訴える。
リンチ事件をきっかけとした拓大生の立ち上がりもまた、日大、東大闘争と同じく、大学の腐敗、偽善の追及を通して、そのような大学をつくりあげた社会機構総体への告発にほかならない。(中略)』

【“拓忍会”徹底メス 逮捕の斉藤を追及】1970.6.19毎日新聞(引用)
『拓殖大学の空手愛好会「拓忍会」の“死のシゴキ事件”を捜査している警視庁捜査一課と大塚署は19日、朝、同会副会長斉藤憲治(同大政経学部4年)を傷害致死の疑いで逮捕した。(中略)
<民主化へ集会、デモ>
「安生君の死は拓大の封建的な体質が必然的にもたらしたものだ」「拓大に民主主義の根本、言論、集会の自由さえない」
安生君の死をきっかけに一般学生の間に“大学民主化”を要求する動きが表面化、19日午後1時すぎから構内のS館前に約500人が集まり集会を開いた。
S館の前の中庭やS館のベランダでは学生約500人が集会を見守っていた。
「学生自治会は体育会、学校側と結託し、学生の民主化要求をおさえてきた。安生君の死をムダにしないためにも、大学民主化をかちとろう」と、代表は携帯マイクであいさつするとドッと拍手がわき起こった。
これまで学内での集会の自由がなかったという学生たちは、つもりつもった不満を爆発させるかのように「大学民主化をかちとろう」「暴力反対」とシュプレヒコール。続いて大声で“インタ-ナショナル”を大合唱。これまで学生運動とはほとんど無縁だった同大は安生君の死をきっかけに民主化要求でゆれ動き始めた。
学生たち約200人は午後1時半すぎからS館前で「ワッショイワッショイ」とデモ行進。つめえりの学生服を着た体育会の学生が妨害しようとすると、まわりの学生から「帰れ帰れ、暴力反対」の大合唱が起こった。
午後2時すぎには、学生たち約300人が総長室や理事室のある本館1階廊下にすわり込んだ。』

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【拓大追悼集会 学生同士なぐり合う 一般学生自治会解散叫ぶ】1970.6.20毎日新聞(引用)
『空手愛好会「拓忍会」の“死のシゴキ事件”で2人の逮捕者を出した拓殖大学(中曽根康弘総長)では、20日午後零時半から学生自治会が学内の茗荷谷ホールで安生良作君の追悼集会を開いたが、前日に続いて全学行動委員会を中心にした一般学生も青空集会を開き、一部が“自治会集会”に乱入するなど、拓大キャンパスは避難と怒号がウズ巻いた。
自治会集会は前日の全学行動委員会を中心にした追悼集会とは違って、詰めえりの学生服を着た自治会学生がマイクで集会参加を呼びかけ、登校してくる学生に「オッス」とあいさつしながらビラを配った。
ビラには「この事件がわれわれに訴えている重要な点は拓大の一部に内在しているいろいろの非難さるべき因習である。一例がオッスの乱発による形式性と無言の圧力である」とあり、学生はあいさつとうらはらのビラにオヤッといった表情。
会場は約千人の学生でふくれあがった。
全学行動委員会系の学生もそのころから茗荷谷ホールのすぐそばで前日に引き続いて青空集会を開き、ホールの集会をボイコットして参加する学生もあり、このほうも千人以上にふくれあがった。
詰めえり学生服の体育会系学生が集会に割り込もうとすると「暴力団帰れ」と大合唱。わずか50メートルほどしか離れていないふたつの集会は、おたがいに相手を激しく非難、怒号とシュプレヒコールがキャンパスにこだました。
午後1時半すぎ、青空集会を開いていた学生のうち約300人はスクラムを組んでキャンパス内をデモ行進、ホールになだれ込んだ。
デモの学生たちは演壇にかけ上がろうとし、演壇の上と下で両派の学生約60人が入乱れてなぐり合いとなった。
会場から「暴力反対」のシュプレヒコール。約20分後、デモの学生が引揚げたため混乱は一応おさまった。その後、自治会側は追悼集会の解散を発表したが、約千人の学生は残ったまま小グループに分かれて討論をつづけ「暴力反対」「自治会解散」「安生君の死を政治闘争に利用するな」などと語り合っていた。(後略)』

(次週に続く)